戦争とジャーナリズム
top

戦争と立場

 戦場は恐ろしい。  1984年4月3日、私は激しく戦闘が行われているレバノンのベイルートにいた。その年の2月6日、イスラム反政府勢力は一斉蜂起をし、ベイルートに総攻撃をした。政府軍も反撃をし、6日間の市街戦で一般市民257人が死亡、900人が負傷した。ベイルートで市街戦が行われた2日間だけで、157人の一般市民が死亡、負傷は600人である。政府軍は死者22人、負傷者197人と公表しているが、反政府軍からの発表はない。その時、ベイルートには外国大使館も、外国報道機関も一切なかったのだ。
 当時の資料を引っぱりだして私は数字を引き写しているのだが、数字は数字であって、あの戦争の光や影やにおいなどはまったく写していないことに気づく。いつも、最も多く死ぬのは、武装していない一般市民だ。
 私がレバノンにいったのは、テレビ番組の特番をつくるためであった。戦場の日常をレポートするという、平和にまどろむ好奇心から発想された番組は、お茶の間の家族団欒(だんらん)の中に届けられることになる。そして、若い私自身も、未知への好奇心にみなぎっていたのだった。
 広河隆一「戦争とフォト・ジャーナリズム」には、ベトナム戦争の従軍記者の言葉が引用されている。
「ベトナム戦争にはどうしようもないほどの魔力があった。サイゴンで仕事をした経験のある記者は、誰でもこういう」
「ベトナム戦争を取材していたものにとって、戦場ほど面白いものは他にないんだ」
 こうして沢田教一も一之瀬泰造も、ベトナムやカンボジアの前線にカメラを持ってでかけていったのである。同時に彼らは、我が身を危険にさらすことによって、写真で「一発当てる」という山っ気があったことも、否定できないであろう。
 家族団欒の茶の間に届ける番組の制作であっても、前線に行けば頭を撃ち抜かれる危険がある。それでも喜びも悲しみも極限まで表現され、つまり人間が露わになった戦場は、結果的にまことに魅力的であった。
 私たちのレバノン撮影の先導役をつとめてくれたのは、広河隆一であった。その2年前の82年9月18日、広河はベイルートのパレスチナ難民キャンプの、サブラ・シャティーラ・キャンプにはいった。そこで広河か見たものは、イスラエル軍に包囲された中で、右派民兵組識によって行われたパレスチナ市民への虐殺だった。虐殺は継続中で、血はまだ乾いていなかった。広河は夢中でシャッターを切りつづけた。自分の命が危険なのも忘れて・・・・。
 そうして発表された写真は、世界中に探刻な大反響を巻き起こした。「それで世界は変わったか?」これが広河の今日でも抱きつづけている心の叫びだと思う。パレスチナ人は今も、失われた土地を求めて絶望的な闘いをつづけているではないか。カラシニコフでも戦闘機でも簡単に世界を変えることはできないが、あの衝撃的な写真は多くの人の魂を震撼(しんかん)させ、ゆるやかに世界を変えていく方向に向かわせたことを私は知っている。

一人の人間の意思を超えて

 たった1か月のレバノン取材でも、私は命の危険を感じたことが二度あった。ベイルートは西と東に分断され、グリーンラインと呼ばれる境界線は廃墟となった市街地である。廃墟の物陰に身を潜め、狙撃兵(スナイパー)は何時間でも敵が銃口の前に現れるのを待つ。兵士は壁の穴などを結ぶ兵士道(コマンドロード)をつくり、身を隠し狙撃をしつつ移動する。兵士が壁の小さな穴にカラシニコフの銃口をいれて乱射すると、間髪をいれずヒュンヒュンと返礼がある。熾烈な殺し合いの現場は、よそからは見えないものだ。
 そんな最前線で、お互いに会話をするように迫撃砲を撃ちあう。適当に撃つのだから、弾は何処に落ちるかわからない。私たちは毎日そこに通い、撮影を無事に終了させてその場所を離れた。山のほうの戦場にいって戻ってきて、通行証をもらうため、民兵の事務所にいった。そこで見せられたのは、爆弾によって壊れたテレビカメラだった。私たちがグリーンラインを去って数日後、国際的な通信社の現地クルーがやってきた。迫撃砲弾が落ちたのでそこを撮影にいくと、もう一発飛んできた。直撃弾となり、全員が死亡したとのことだ。スイッチを入れると、カメラはことことと音を立てて動いた。彼らの最後の映像がどんなものだったかは、確認できなかった。
 もう一度は、山の前線にいった時のことだ。その丘はくりかえし爆弾を受けたとみえ、高い木はなくて草も疎(まば)らだった。丘の頂の陣地に向かっていると、前方の兵士たちが伏せろ伏せろという。アルミのコーヒーカップを持って笑いながらいっているので、なんとなく安心であった。頂上に着こうとするところで、すぐ頭上で空気の裂ける鋭い音がして、視界の端に白い微かな線がよぎった。間髪をいれず丘の下のほうで爆発音があり、膝に地響きが伝わった。兵士たちは銃を取って土嚢(どのう)の陰に身構え、私は丸太で屋根までこしらえてある塹壕(ざんごう)に飛び込んだ。飛んできたのはミラン・ミサイル(注)で、あと3メートル低ければ命中するところだったと、兵士たちにいわれた。土嚢の隙間から覗くと、百メートル程先の対面の丘の頂に敵方の陣地が構築してあった。複雑に入り組んだ陣地と陣地の間の谷は、奈落だった。死ぬなよ、と私はそこにいる年若い兵士たちを見て思った。戦場に慣れない私たちは一瞬敵方に身をさらしてしまい、そこを狙われたのだ。
「頭が吹きとばされる最後の瞬間を撮ってやろうと思って、フォーカスをあわせていたんだがな」
 その場にいた広河は、ファインダーを覗いていたカメラを胸に戻していった。広河は私の不用意さをたしなめたのだ。もう少しのところで、私は生涯で最後の写真を残しそこなった。
 戦場でまわりの状況を冷静に判断するのは、よほどの経験がいる。最前線の兵士たちは、まるでたこ壷の中に身を屈(かが)めるようにして孤立している。戦況の全体などはわからず、とにかく銃口の前に現れた敵を撃つ。まして戦争の全体などは掌握できないのではないか。そんな孤絶したところに裸の命をさらしているのだ。

最前線に傍観者の立場はない

 ひとつの戦争はもちろん最前線だけではなく、銃後にも、もっと周辺にも、さらに国境を越えたところにも、限りなく離れたところまで広がりつづいている。そのどこに立つかで、当然ながら戦争を見る視点は変わってくる。
 戦争というのは、価値観と価値観の激しいぶつかりである。その点からいえば、少なくとも最前線では、どちらの側に立つかで世界の見え方はまったく変わる。レバノンでは私たちは左派イスラム教徒側にしかいなかったが、それで私たちの立場ははっきりとしたのだ。同じ番組の別のクルーは、右派キリスト教徒側にはいった。いかにもテレビ的な発想なのではあるが、私たちのクルーだけでは、レバノン戦争を一方側からしか語ることはできないのである。
 広河隆一はジャーナリズムの現場でのいわば歴戦の勇士である。「地雷を踏んだらサヨウナラ」といって、功名心を胸にカンボジアの最前線にいったきり帰ってこない若い一之瀬泰造とは違う。生き残って、一つ一つ学んできたからである。一之瀬にしても、最前線に、しかも可能ならば左派の側にいきたかったのだ。最前線では傍観者の立場はない。たとえジャーナリストの腕章をしているのだとしても、客観中立的な立場などないと私は思う。兵士たちがそれを許さない。

前航空幕僚長論文の底流

 戦争はたとえ正義の衣をまとっていようと、人間のする最大の犯罪である。それはあらゆるところに影響をおよぼす。遠く離れたところに位置しているようであっても、底流は必ずつながっているものだ。
 一つの例をのべれば、先の大戦について自衛隊の前航空幕僚長が書いた論文は、政府見解と異なるから免職に値いするというだけではない。戦争を賛美する意見が底流となって脈々と流れていて、その論文が回路を通して見せたように自衛隊は結局旧日本軍とつながっていることを明らかにしたということが、危険思想と見なされたのである。
「日本だけが侵略国家といわれる筋合いはない」
「日本は穏健な植民地統治をした」
 このような論は、前航空幕僚長がどのような人格の持ち主であるかにかかわらず、底流があるかぎりいずれ噴出してくる。またその底流を支える人たちが、政治家を含めて、またジャーナリストを含めて、必ず存在するということである。何故ならば、戦争は結局のところどちらかはっきりした立場に立つことを要求するからだ。
 最前線の兵士は、いつも敵の殺傷を狙っているし敵から狙われている。心の中にどんな善良な思いを抱いているかなど、究極的には関係ない。その善良な思いをすり減らしていかなければ、戦場で優秀な兵士にはなれない。それと同じように、戦争への一方の思いを、たとえそれが本心であっても、消さなければ、文民統制の自衛隊航空幕僚長にはなれないのだ。そして、前航空幕僚長は、自分に率直に一方の立場に立ったということを鮮明にしただけのことである。
 ジャーナリストも結局のところどちらかの立場に立たなければならないのだと、私は思う。心の中にある思いを抱いて現実のその場その場を生き抜くこともあるはずだが、それでも微妙に特定の立場にいるのである。
 旗色の濃淡はいろいろあるだろう。そうではあっても、色はどちらかに分けられるのだ。それが立場というものだろう。
 ベイルートのグリーンラインで迫撃弾を受けて爆死しても、レバノンの山地でミラン・ミサイルの攻撃を受け、また頭を撃ち抜かれて死んでも、私はその立場に立っているので仕方がなかったのだ。
 それが一人の人間の意思を超えた立場というものだろう。複雑な力学がはたらき、その力に翻弄されるジャーナリズムの現場でも、立場に立たなければならないということは同じだ。

ひろかわ・りゆういち 1943年生まれ。フォト.ジヤーナリスト。本誌編集長。67年から3年間イスラエルに滞在。帰国後、中東、核の取材を続ける。IOC国際報道写真大賞、土門拳賞など受賞。著書は「戦争とフォト・ジャーナリズム」ほか多数。

ディズジャパン2009年1月

歌舞伎の愉しみ方
top
 歌舞伎というと決まり事が多く、初心者にはとっつき難いような感じがするかもしれない。たとえば黒衣を着た黒子はまったく存在しない立場だという決まり事だから、舞台上でどんなに目についてもそこにいないということになる。また舞台の穴から昇ってきたり引っ込んだりするせり出しは、場所によってはこの世に存在しない幽霊だという決まりがあるが、地方によってはせり出しのない舞台もあり、その通りにはいかない場合もある。だから気にすることはないのである。
 歌舞伎をわかり難くしている一つの原因として、長い芝居の見せ場だけを上演することがあげられる。何幕、何場といわれても、全体を知らなければストーリーはわからない。昔の人は同じ芝居をくり返し見たから理解がすぐにおよぶのだが、現代ではそうはいかない。それも全体を知らなければいけないというものでもないので、その場その場を楽しめばよいのである。
 古典歌舞伎では、クライマックスで役者が見得を切り、そこで幕となることが多い。目玉を剥き出し、口を歪め、手足は定型通りに決める。すべてが一瞬にして凍りついて終るのである。観客がこの先どうなるか理解しているから成立する。つまり歌舞伎はストーリーを楽しむのではなく、役者の所作や音楽などを楽しむものだ。物語もくり返しくり返し上演されるので、みんな知っている。それでも歌舞伎は大観客を集める。世界でも稀有な演劇なのである。
 歌舞伎というとなんだか難しそうで、腰を引いてしまう人も多いかもしれない。だが歌舞伎と一言でいっても、古典から現代の新作まで、荒事と呼ばれる扮装と演技が象徴的に誇張された豪快な英雄豪傑もの、世話物と呼ばれる庶民の人情劇など日常生活を切り取ったもの、舞踊劇など幅が広い。歌舞伎の中にはなんでもあるのだ。
 たとえば時折歌舞伎座で上演される 『伊勢音頭恋寝刃(せおんどこいのねたば)』という芝居がある。歌舞伎のうち典型的な縁切り狂言である。本心は別にあるのに、他の目的のため、表面上愛想尽かしをいう。そのように舞台は進行しながら、隠している本心は観客全員が理解しているから、役者と観客との不思議な共生感が生まれ、そこに深い味わいができる。
 この芝居の下地には、油屋騒動という、寛政八(一七九六)年五月五日端午の節句の夜に現実にあった事件がある。遊郭油屋で馴染みの遊女に袖にされ遊郭にも粗末に扱われた客が、無差別殺人をおかすだけのことである。だが芝居は江戸庶民が好みそうなお家騒動と、忠義と、色恋沙汰が巧みにちりばめられる。この芝居が全国で上演されると、伊勢音頭が全国に流れるようになり、伊勢への憧れをかもしだし、人々をさらに伊勢へと誘(いざな)った。
 一世を風靡した伊勢音頭だが、今日この曲を聞きたいと思ったならば、歌舞伎座にいくのが一番である。『伊勢音頭恋寝刃』は解説が必要なはど難解な芝居ではない。当時の台本で上演されているのだが、登場人物たちの話し言葉は全部理解できる。この狂言を見ていると、芝居というのは人々の精神や風俗の記憶装置であるといういい方ができるなと思う。
 油屋事件を起こしたのは、将来有望であった青年医師で、二人を斬殺し、他に多数に斬り傷を負わせた。伊勢の古市(ふるいち)の遊郭で本当に起こった事件は大変なスキャンダルとして世に伝わり、真っ先に反応したのが歌舞伎であった。事件の十日後には芝居小屋で奈河篤助という名の作者により『伊勢土(いせみ)産菖蒲刀(やげしょうぶがたな)』が上演され、同時期に京都では『いせみやげ川崎踊拍子』がかかっている。また五十二日目には、大坂の道頓堀角の芝居小屋で立作者近松徳三により『伊勢音頭恋寝刃』が上演されている。この芝居は今日も上演されているのだ。
 台本を執筆し、舞台をつくり、囃(はや)しを作曲して、役者が稽古をし、舞台にのせることを考えれば、大変なスピードである。今日でいえば、週刊誌と月刊誌の速度と同じようなものだ。今では古典となっている歌舞伎の演目の多くは、そもそもがスキャンダル・ジャーナリズムとして誕生したのだ。古典歌舞伎中で最も人気のある『東海道四谷怪談』は、全篇を通して上演すれば一日あっても足りないほどの大長篇なのであるが、これは当時起こったスキャンダルを幾つか集めて、鶴屋南北が創作したのである。
 さて私もたった一作だが歌舞伎の台本を書き、東京歌舞伎座、京都南座、名古屋御園座で上演したことがある。『道元の月』という狂言で、鎌倉の禅僧道元を主人公とした物語である。
 執筆の依頼を受けた時、自分の中にドラマツルギーはあるのだが、さてそれをどのように表現したらよいのだろうと考えると、大いに悩んでしまった。厳密にいえば、鎌倉時代にどんな話し言葉を使っていたのかもわからないのだ。  悩みぬいた末、やりたいようにやるしかないのだと胆を決めた。つまり、私は現代の言葉しか使えないのである。道元がその弟子のためを思って破門した弟子との別れの最終場面である。弟子は師の姿を見て、頭鉢の中に涙をこぼす。
 道元 玄明よ、その鉢(はつ)の中を見なさい。
 玄明 あっ、涙が……
 道元 お前の心を洗った涙じゃ。
 玄明 その涙に月が映っております。
 道元 その月こそお前の仏なのじゃ。
 玄明 黄金の色に輝く美しい仏でございます。
 道元 まことの涙の中に仏がおる。その仏とともに、
よい修行をしてくるのじゃぞ。
 鎌倉時代の登場人物なのに、現代語を話している。歌舞伎とは大きな頭陀袋のようなもので、なんでも呑み込み、消化してしまうのである。
「魚沼へ」2008年冬号

生活に心理得る道元の教え
top

 立命館大で行われている今年度のリレー講義「日本文化の源流を求めて」(読売新聞大阪本社後援)。
第23回の講師として登壇した作家の立松和平さん(61)は、自らが10年近くかけ評伝小説を書き上げた鎌倉時代の僧で曹洞宗の開祖、道元禅師への思いを温かく素朴に語った。


 彼の生涯を追った『道元禅師』(東京書籍)は、400字詰め原稿用紙で2000枚あります。執筆の動機は実は、永平寺のお坊さんに頼まれたからなんです。
 道元の本格的な小説は少ない。唱えたのが「只管打座(しかんたざ)」。
「只だ黙って坐りなさい」ということだし、浄土真宗の開祖、親鸞と違い色っぽいエピソードもない。だが、禅師の著作『正法眼蔵』を読み、参禅会に参加し、彼が中国で修行した天童寺も訪ねました。やがて、引き込まれていった。教えが深いんですね。
 道元は幼名を、文殊丸といいます。8歳で母を亡くして、比叡山に登るのですが、やがて人間が本来悟った存在なら、なぜこれほど厳しい修行を積む必要があるのか疑問を抱きます。
 本当の師を求め、建仁寺に移って禅を学び、1223年、中国の宋へ渡海した。現在の上海近くの寧波に渡ります。この際、日本の干しシイタケを船に買いつけに来た中国の老僧との間に有名な逸話が残っています。
 道元はむさぼるように仏教の話をしました。しかし、突然、夕方にこの僧が言い出します。
「わしは帰る。修行僧に供養する料理を作らなくては」
「料理なんて若い者や雇った人に任せればいい。もっと仏の話をしましょう」。
そう言った道元に、この僧は答えました。
「あなたは修行ということが何も分かっていない。そのことを知りたければ、いつでもお寺においでなさい」
 名前も残ってない僧の言葉です。しかし、この話には道元の禅の重要な鍵が隠されています。
 後にかの僧は訪ねてきて道元にいいます。「遍界、すべて蔵(かく)さず」「すべての世界(遍界)は、何も隠れていない」という意味です。私たちの生きる場所は真理に満ちているのに、そのことに気づいていない、と。料理する。皿を洗う。畑を耕す。人間の行うことすべてに良く生きる秘密が隠されている。仏道修行は、座禅堂だけでなく、立って、寝て、起きるどこだってできる。生活すべてが修行です。
 小説家は俗人です。元手は紙と鉛筆しかいらない。女性を美しく感じ、うまい物を食べたいと思う心は人並みにある。今しばらく俗塵(ぞくじん)にまみれて生きていきます。もちろん、信仰はある。日々の生活を大切にし、真理を見つめようとする教えに強くひかれます。
 最後に『正法眼蔵』から、最も好きな言葉を紹介します。それは「光 万象を呑む」です。この光とは月の光です。太陽光と違い月光は存在を主張するでもなく、一見どんなはたらきをしているか分からない。だけど確かにあり、私たちすべてを柔らかく包んでいる。
 いつか私は月光をつかまえようとしたことがありました。しかし手をのばすと光は指の間をすり抜けます。
 だが、確かに存在する。
夕刊読売新聞 2009年1月13日(火)
top

どこまでも同じ街並だ
top
 アメリカ発の金融危機で今年は暮れてゆく。明けても、危機はまだつづいていくのだろう。株投資など行っていないほとんどの人々は、自分がいったい何をしたのだという思いが強いだろう。
 株といい、証券といい、価値もないものをアメリカからたくさん売りつけられたものだ。見たことも聞いたこともないアメリカの証券会社が潰れたからといって、仕事もなくし世間の巷にほうり出され、あくせく貯めた金が目減りしていく。経済グローバル・スタンダードの本当の姿が、今回のアメリカ発の一連の出来事でわかったような気がする。いい薬だったということになればよいのである。
 あっちに揺れて、こっちに傾き、旅ばかりして日を送っている私は、世界が急速に均質化していると感じる。要するにどこにいっても同じで、旅をしても感動が薄い。魂が揺さぶられるような感動というものは、私が多くのものを見過ぎたということも原因として数えられるのだろうが、ほとんどなくなった。
 国内を旅して、車の助手席にでも乗せてもらい、ふわっと眠ったとする。目が覚めて、さて今はどこにいるのだったかと考えても、わからなくなる。全国いたるところにあるチェーンのビジネスホテルに泊まり、朝ベッドから起きて窓を開け、景色を見る。さて今日はなんという街にいるのだったかと、すぐには思い出せないことがある。
 私が呆けてきたということもあるが、要するにどの街も同じ表情になっているのである。日本国中、よくこれだけ同じ街並をつくったものだと、妙なところに感心したくなる。
 どうしてこうなったのか。その根本原因は、世界均質の経済グローバリズムのおかげであると思う。経済グローバル・スタンダードのそのスタンダードは、アメリカ製であるとみんなが知っている。アメリカン・スタンダードで、みんなが等しく幸せになるのか。アメリカはなるといい、そうしなければならないと自信を持って強く主張し、日本も懸命に真似をしてきたのだ。
 みんなが幸せになるためには、安い商品を大量に消費することだという。食べる人の健康を考え、殺虫剤や除草剤を極力使わず、化学肥料もいれず、牛糞や藁や落葉を集めて堆肥をつくる。そうやって手間をかけて栽培した野菜は、当然価格が高くなる。そんな計量できない価値よりも、目先の安いもののほうが価値があるというのである。
 生産費が一番安いのは、工場で大量生産された製品だ。たくさんできれば、当然一個一個の単価は安くなる。大量生産されるから、どこにでもあるということになる。そのような製品によって価格競争がなされ、どこにいってもそれらのものを見かけるということになる。
 スーパーマーケットやコンビニの棚にならんでいるものだ。たとえば那覇にいっても、知床にいっても、コンビニにはいれば迷うことはない。ほとんど同じ場所に同じ製品がならんでいる。どこにでもあるということが、大量生産の条件なのである。
 同じ場所に商品を配列するということは、建物も同じ規格でなければならない。かくして工場で大量生産されたプレハブの建物が全国にならぷことになる。全国展開のチェーン店ならば、店の名も同じで、当然看板や店舗のデザインも同じになる。
 価格競争をしていたら、いつの間にかみんな同じような顔になっていた。地域性などという個性は邪魔なだけで、まったくいらない。経営者も店員も苛酷なノルマを課せられ、それを果たすのに全力を尽くしている。ノルマを達成しなければ、競争の中から排除されるだけである。
 かくして、合理性を追求したあげくの街並が、全国のすみずみにできた。それはまったく同じ顔をしている。ことに郊外につくられた新開の街は、駐車場も完備されてまことに合理的であり、そここそが合理化の激烈なる戦場なのである。寸部の無駄も許されるものではない。
 まことに息詰まるような社会が出来上がったものである。おかげで、どこにいっても同じ街並になった。古い街並は個性というコストがかかるので、安いものに慣らされた消費者の足は遠ざかっていく。シャッター通りとなり、みるみる腐ちていき、淋しいことこの上ない。
 旅をしていると、個性が地域からどんどん失われていくのがわかる。何かうまいものでも食べようとしても、表通りにはどこかで名前を聞いたことのある全国居酒屋チェーンばかりだ。小さな古い店、しかしその土地のにおいをむんむんさせ、カウンターの中には方言を話すおかみがいる。そんな店にはなかなか行き当たらない。経済グローバル・スタンダードは、旅をつまらなくした。
 経済グローバル・スタンダードからはずれた個性的な風景とはどんなものだろう。それはほんの少し古いことを思い出せばわかる。たとえば私が子供の頃、みな貧しくて、大地を嘗めるように耕していたものだ。
 農村では、家のまわりに家庭で消費するための小さな菜園をつくっていた。大根や菜っ葉やナスやキュウリやエンドウマメなど、季節の野菜を次々に収穫できるようにしたのである。
 この経済に直接結びつかない家庭用の畑は、その家の生産主体ではなく、老人たちが担っていた。家をまかされた息子夫婦は田んぼをこしらえていた。それは直接収入になり、家計を支えた。しかし、農村の豊かさは、直接の収入ということではむしろないところに存在していた。
 老人たちが耕す家庭用の菜園は家の周囲につくられ、家のまわりをひとまわりすれば、その日必要な新鮮な野菜が簡単に手にはいった。その家だけでは消費できず、遠くの町に住んでいる次男や三男や娘たちの家にも送られた。老人たちが丹精する畑は、大変な手間をかける。つまり、惜し気もなくコストをかけるから、除草剤などを安易にかけるのではなく、雑草を一本一本引きぬく。葉を表側から見て、裏側からも確認し、虫を一匹ずつひねり潰す。有毒な殺虫剤など使わない。裏山から落葉さらいをしてつくった堆肥をふんだんに使う。結局有機栽培をしていることになり、食べる人も健康になる。
 昔はよく農家は自分の食べる野菜には農薬をかけないといわれたものだが、こうして老人たちが手間をかけたから出来たのだ。菜園をひとまわりすれば、その日の食材は手にはいる。
 菜園の有機肥料にはミミズもたくさんいた。ミミズは土をつくる。また鶏を放し飼いにしておくと、ミミズが餌になり、よい卵がとれる。老人は毎朝菜園を見回ったから、鶏がどこに卵を生みつけようと、すぐに見つけた。子供たちには庭は遊び場だったから、卵が生みっ放しになって腐るなどということはまずなかった。鶏は葉にたかる害虫などもよく食べた。
 大切なお客さんがきたり、家族の中で祝い事があると、鶏を潰した。その仕事は大体その家の主人か老人の仕事で、子供たちはその手さばきをじっくりと見て、生命の成り立ちについて学んだものだ。先程まで土の上を走りまわっていた鶏が肉になり、鍋などにはいって食料となる。子供にとってはショックなことだが、これも世の中の成り立ちなのである。鶏の最期の悲鳴などが耳に残ったが、教育的な効果も充分にあった。
 また庭の片隅には山から水が引かれて生簀がつくられ、鯉が飼われていた。山のほうの村では水が冷たいので、鯉のかわりにイワナが飼われた。これは観賞用であったが、同時に食用でもあった。魚屋が庭にあったと同じことである。
 本当に庭にはなんでもあったのだ。八百屋、肉屋、魚屋があると同じで、ほしい時にいつでも手にはいり、しかもとびきり新鮮である。これが農家の豊かなところで、老人たちの手によってこれらがていねいにつくられていたから、風景も美しかった。一軒一軒の農家が、雑草の一本も生えていたら恥ずかしいとの思いがあり、実に美しい田園風景をこしらえていたのである。
 もう一つ忘れてはならないのは、南向きの日当たりのよい庭には花壇がつくられ、家の中から目を楽しませてくれた。つくられているのは主に菊の花で、仏壇の花にもなった。この花も自給自足に供せられたのだ。仏壇に花が絶えないとは、祖先への供養がよくされているということだ。
 こうして外からの眺めもまことによくなったのである。裏山には杉林があり、家が壊れたら修理材になった。家を建て替える時には造材から準備がはじまり、結果自前で材を供給することができたのである。また家のまわりには田んぼがあり、自家用にも使われたが、経済の主体になった。
 家をひとまわりするだけで、家の普請などはともかく、ほとんど貨幣は必要なかった。自給自足が当たり前であった。これが農家の本当の豊かさである。  家のまわりになんでもあり、必要な時に必要なだけとることができる。こんな使い勝手のよいことはない。そして、何より風景の美しさを形づくっていた。耕作放棄地もなく、農村は美しかった。今はこんな風景はまったくない。
 だがこうして手間をかけるより、経済グローバル・スタンダードの考えでは、大根はスーパーで買ったほうが安いということになる。農業は効率を求めて機械と薬とを使うことになり、老人たちには手出しができなくなる。老人たちは農村風景をつくるのではなく、ゲートボールでもしているよりほかにやることはなくなったのだ。
地方議会人 2009年1月号
top

働く姿を見せる
top
 母の言葉が耳に残っている。
「寝るのが、極楽、極楽。」
 こう言って母は床についた。昼間は精いっぱいに働き、子どもの世話などもして疲れ果て、夜就寝するため床につくと、ほっとするというのだ。
 わたしはいつもこんな言葉を聞いて育ったのである。父も母も一生懸命に働く姿を、子どもたちに見せていた。
 父も母も典型的な、つまり平凡な日本の庶民である。そのことをわたしは誇りに思うのである。
 父は苦学して東京の夜間大学を卒業し、満州の会社に就職した。嫁をめとるために相手を探しておいてくれるよう兄に頼んで、一時宇都宮に帰ってきた。そこで待っていた母と祝言をあげた。もちろんお互いそのときに初めて顔を合わせたのである。戦時中で、米軍の空襲がしょっちゅうあるため燈火管制があり、窓を黒い布で覆った蔵の中での祝言であった。兄が清酒を一升用意してくれ、それがなによりの御馳走だったと父は言っている。
 それから父は新妻である母を連れ、朝鮮を経由して中国の済南に行った。そこで新婚生活をした。そこまでの旅が、新婚旅行であった。
 父は現地で関東軍に徴兵され、日本軍兵士となって満州のあちこちを転戦する。母は一人で満州にいてもしかたないので一人故郷に帰り、空襲で燃え盛る宇都宮の街を逃げ回ることになる。
 敗戦を父は新京(現在の長春)で確認し、ソ連軍に武装解除されてどこかわからないところに行進させられる。馬上のコサック兵がこっくりこっくり眠ったところで、父は戦友三人と脱走する。暗闇の森の中に逃げ込み、行列が通過するまで樹間でじっとしていたのだ。
 難民の中にまじり、復員船て佐世保港に帰ってきた。それからも列車での長い旅路をし、帰った故郷は焼け野原であった。だがそこには元気な若い妻の姿があったのだ。
 こうして父と母とは懸命に働き始めたのである。戦争などに行かなくてもいいし、働いたら働いた分だけ全部自分のものになるという時代を迎えたのだ。そうして生まれたのがわたしだ。
 父の仕事は、空襲で焼けたモーターを再生することだった。コイルを巻き直してギユーンと鋭い音を立て回転するモーターを、わたしは覚えている。その後父と母は宇都宮の街はずれに小さな家を建て、父は電気工事会社に勤め、母は食料品店を始めた。スーパーマーケットなどない時代で、近所にも店は少なかったのて、母の店は繁盛していた。
 両親はよく働く姿を子どもに見せていた。特別の教育をするなどできない時代で、わたしは塾になど行った覚えは小さいときにはないが、懸命に働くその姿が、子どもたちにはなによりの教育であったのだ。
『子とともに ゆう&ゆう』2009年2月号
top

こっれでは息が詰まる
top
 野良犬の姿を見なくなって、何年たつだろうか。現在の東京では、野良犬が生存できる空間は全くなくなってしまった。野良猫、つまり飼い主がいずに外で暮らす猫も、私が暮らす渋谷区では激減したという印象である。
 私の家のすぐ前にはかつてサナトリウムがあった。長期療養する患者たちが自らの心の慰みのために餌を与えるので、野良猫の姿がいつも見られた。猫は多くの人の心を癒やす。人に媚びるでもなく自由に生きる姿が、見る人に多くの示唆と余裕を与えるのだ。猫は人の暮らしに必要だ。
 もちろんこれは主観的なことであり、誰も同じように感じることではない。猫を見て嫌悪感を持つ人も、食べるものもない猫を哀れんで餌を与えなければ気がすまない人もいるだろう。猫は生きているからふん尿もするし、時々は焼こうと皿の上に置いた魚を盗んだりもする。笑ってすませる人もいるし、猫の姿を見ただけで我慢ができなくなる人もあるだろう。人にいろんな思いをさせるのが、猫にことに顕著な特徴である。つまり、猫はその人の人間性を見せてしまうのだ。
 荒川区の条例についての資料を読んでいて、こんな文章に行き当たった。  「大量の給餌行為により、多くの動物の異常ともいえる集散を措き、環境を不良状態にする…」
 人と人との関係にも、人と人以外の生物との関係にも、一番大切なのはバランスである。増えすぎて山林や農作物を食い荒らし、住宅地に出没して、人を困らせるシカやサルやイノシシのなす行為が獣害と呼ばれるのも、関係のバランスが崩れたからだ。
 大量に餌をまき、猫やカラスやハトの個体を増やすこともバランスの崩壊を招いて、彼らを苦しめるだけだ。都会から人間以外の生き物がいなくなったのでは淋しい。猫は飼い主がいることが当然望ましいが、都市にも野良猫が生息できるような、人も身を潜めることができるような余分な空間がなければ息が詰まる。組織されることを喜ぶ人間ばかりがいるわけではないのだ。
 我が家には猫が3匹と犬が1匹いるが、家族と思っている。猫は3匹とも捨てられていた子猫を拾ってきたもので、犬も飼いきれず困っているのをもらってきた。猫と犬が側(そば)にいる暮らしは、人間とは違う視点や考え方が入るので心豊かになる。
 生活の中から、自分以外の異質なものを排除しようとする動きが広がっているように思う。同じ空間に人間も猫も犬も鳥も虫も、種類の違ういろんなものがごちゃごちゃと生きているほうが楽しいのにと、私は思うのだ。地球はそのようにできているではないか。
 荒川区の条例は全国初の罰則付きである。立ち入り調査を拒むと10万円、命令に違反すると5万円ということだが、自治体がここまで厳しくするのは、権力で管理しようとの意志が見えて恐ろしくもある。ほんの片隅にいる猫のことではないか。
毎日新聞2009年2月27日(金)
top

死忌む固定観念との闘い
top
 米アカデミー賞外国語映画賞を受賞した「おくりびと」を観て、青木新門「納棺夫日記」思い出したが、うかつなことに私は主演の本木雅弘がその本を読んで感銘を受け長年企画を温めていたと、後に知ったのだ。納棺夫という体験から死を凝視した「納棺夫日記」は、十年以上前に読んだ私にも消え難い印象を刻んでいた。
 死を正面から見据えた、感覚的であり宗教的にも深遠な文章をよく映画にしたものだと、私は感心した。物語の筋立てらしきものもなぞってはいるが、青木新門の造語である「納棺夫」の精神の到達点を深く描いていることが貴い。小山薫堂(くんどう)の脚本が、映画の根底を底光りして支えていると感じた。思想を形成するに至る体験を物語化するという困難な仕事を見事にこなしているのだ。
 「納棺夫日記」にはこんな文章がある。
 「死をタブー視する社会通念を云々していながら、自分自身その社会通念の延長線上にいることに気づいていなかった。
 社会通念を変えたければ、自分の心を変えればいいのだ。
 心が変われば、行動が変わる」
 内省を忘れず、絶えず自己変革してきた人の言葉である。ここには唯心論としての仏教の影響も強く感じられる。
 「おくりびと」の主人公も、所属していた楽団がいとも簡単に解散になって、新聞の求人欄を見て高収入にひかれ安易に納棺夫になる。死は究極の「ケガレ」であり、最も忌むべきものだという固定観念が、日本人の心性の底にある。主人公の青年は、まず自己と闘わねばならない。彼の職業を「穢(けが)らわしい」という友人知人や妻とも闘わねばならず、死を悪とする社会の絶望的な矛盾に突き当たる。死を決定的に忌み、生にしか価値を置かない今日の社会で、主人公は苦悩する。しかし、主人公は生死(しょうし)の真実を見てしまっているために、根底では内面がたじろぐということはない。
 本木雅弘の演技は、人間関係にダメージを受けても内心では真実を見たことを確信している主人公を、強靭にまた繊細に見せている。社会通念の檻から出られない人間を見る悲しそうな表情がよい。
 納棺という仕事を様式化し、茶道や華道や、しいては禅の所作につながる美しさにつなげたことが、滝田洋二監督の演出のさえというものだろう。肌を見せずに全身をアルコール綿でふき、死装束を威儀とともに着せ、死化粧をていねいにほどこす。精いっぱい美しく装ってこの世から送り出してやるというやさしさが、死者への尊厳に満ちている。  腐乱死体から逃げて部屋を動き回っている蛆(うじ)も、生命だと思うと光って見えたというくだりが「納棺夫日記」にはある。「おくりびと」も、生も死も分け隔てしない全肯定の世界なのである。
 映画を観ている間、私には道元の「正法眼蔵」の言葉が響いていた。一人一人の中に無限の真理が内在しているのだから、そこには生も死もある、という意味だ。
 「しるべし、自己に無量の法あるなかに、生あり、死あるなり」
信濃毎日新聞2009年3月3日(火)
top

子供の庭
top
 一番大切なのは、日常的な感覚である。自然を子供に見せるにしても、頑張ってわざわざ遠くに行くよりも、身近なものが尊い。知床や白神山地や屋久島にいかなくても、充分に自然は見える。
 私は庭にいるのが好きな子供であった。宇都宮の住宅街に家はあったのだが、両親は二人とも働いていたので、庭の手入れなどまったくされていなかった。父は勤めていて、母は表通りに食料品店を出していた。母の店は結構繁昌していて、私は店の裏にある庭で一人遊びをしていることが多かった。
 雑草が生い茂った庭は、建物もあわせてわずか六十坪しかなかったのだが、小さな私にはジャングルのように魅力にあふれていた。人が通ると、そこに道ができる。露出した土の上には、蟻が歩いていた。私は地面にしゃがみ、歩きまわる蟻を上から見ている。蟻からは、自分はきっと天の神様のように見えるだろうなと想像した。一匹の蟻に狙いを定めると、その蟻を可能な限りどこまでもどこまでも追っていった。蟻にすれば、私が天の上から見ているなど想像もしない。いつものとおり、蟻は自然に歩きまわる。それをしゃがんだまま追いかけていくのだ。
 蟻にすれば、冬の貯えになる食糧をさがして歩きまわっているだけだ。死んだ虫などを見つけて、せっせと歩きまわりつつ、まわりの掃除をしている。赤蟻、黒蟻、大きいもの、小さいものと、幾つもの種類がある。別の種類の蟻は、すべて競争相手だ。だが不用意に出会ってしまうと争いになると心得ていて、どんな感覚器官があるのかわからないが、お互いにぶつかりあわないように手前でうまくよけていく。そこに感心した。
 私が追いかけている蟻が虫の死骸を見つけたら、私も大喜びだ。私がどこかで虫の死骸を見つけてきて、上から落としてやることもした。だがその蟻の進行方向にうまく落ちず、誰も気づかなかったりする。もう一度掴んで落としてやるが、また同じことのくり返しだ。
 黄金虫などの死骸に蟻の群がたかって、分解し、それぞれのパーツを運んでいく。まだ生きているカマキリなどに、数をたのみとして蟻が争いを挑んでいる光景に出合ったりもした。追いかけている蟻を見失ったりしたのだが、蟻はいくらでもいて、退屈することはなかった。
 その地面から、科学が生まれてくるかもしれない。詩や音楽や絵画が生まれてくるかもしれない。私にとって雑草ばかり生えた小さなその庭が、その後の人生の原点なのである。そこにも季節が流れていき、秋になれば秋の虫が鳴き、冬になれば霜柱が立った。
 子供の想像力は無限である。子供が何を見て何を考えているのかわかりにくいものだが、大人の見識ですべてを押しっけてはいけないと思う。私の両親のありがたかったことは、忙しいので子供を自由にさせてくれたことだ。
「ないおん」 2009年4月号
top

「生と死」がある場所です
top
 牧場というと、都会の人は、広々とした牧草の中に牛がいて、すごくさわやかなところをイメージしますよね。でも行ってみると、実は臭いし、ウンコもたくさん転がっていて踏んでしまう。
 あちこちの小さな牧場を訪ね、牧場が舞台の作品も書きました。牧場には「生と死」があります。
 例えば、「酪農家族」シリーズの最初の舞台は、娘(画家・山中桃子)が、1週間滞在した根室の手前の浜中町の牧場です。早朝からのエサやり、クソ出し、搾乳・・・。真冬に私も働き、牛と一緒に暮らす人々の大変さと、その情愛にほだされました。
 みんなで一生懸命足を引いて、逆子の子牛を産ませる。でも子牛のために出した乳を、人間が横取りするのが酪農です。5年もすると、今度は牛は処分され肉にされる。その肉を人間がいただく。
 まさに「生と死」です。一昨年に出した「牧場のいのち」という絵本にも書きましたが、牧場は私たちが生きる「いのちのもと」を作っていると思いますね。
 牧場の中には、教育に力を入れているところもたくさんあります。私も、小学校に牛を連れて行き、触らせ、いのちの話をするプロジェクトに参加しています。牧場に行ったら、牛乳を飲むだけじゃなく、ぜひ「いのち」を感じ、親子で語ってほしいですね。
毎日新聞(夕刊)2009年4月28日(火)
top

首里城古事の森
top
 日本の神社仏閣の多くは木で建てられている。木造文化の源である森林が荒廃し、ヒノキなど直径1メートルを超える大径木が希少になってきた。これでは補修もできないではないかと危機感を持ったのは、私が毎年参加している正月の金堂修正会を法要中の、法隆寺金堂においてであった。
 私は補修材をとるための森を、国有林に作ろうと林野庁に呼びかけ、京都、奈良、高野山、裏木曽、斑鳩などに古事の森と名付けた植林を行ってきた。  9カ所目は沖縄の首里城古事の森である。沖縄の心ともいうべき首里城は、15世紀初めころに創建されたと推定されている。その後4度焼失し、そのたび再建されてきた。最後の焼失は1945年で、第二次世界大戦の沖縄戦によってである。
 現在の首里城正殿が復元されたのは、92(平成4)年11月3日である。サンゴ礁石灰岩の島である沖縄は、石材と木造の文化の両方があるといわれる。首里城の資材となった木材は、ヒノキとイヌマキが主に使われる。イヌマキは沖縄ではチャーギといわれ、節のない質感のよい美しい材である。
 この重要な2種の材は、首里城建設の際、台湾から輸入され、また鹿児島や九州から運ばれた。このイヌマキを数百年後に地元で供給するための、今回の森づくりだ。
 首里城古事の森づくりの植樹は、ヤンバルといわれる国頭村安波国有林で、地元安田小学校の児童14人とともに行われた。植えた苗木は200本である。
毎日新聞(夕刊)2009年5月7日(木)
top

愚が山を緑にする
top
 足尾銅山は私の母方の故郷である。そもそもが明治中頃に、私の曽祖父が兵庫県の生野銀山から移ってきた。一攫千金を求めて再開発された銅山に渡ってきたのだろう。関西の片隅から関東の田舎にきた事情の詳細はわからないながら、私は二十数年間生野に通って菩提寺なども探しあて、周辺の資料を集めて、曽祖父の時代の鉱山開発の様子を小説にした。『恩寵の谷』という作品である。
 足尾は子供の頃からよく知っている土地だ。母の妹と、その従兄だった人が結婚して足尾に住んでいて、血縁の近い親戚として私は祖母に連れられよく足尾にいった。今は第二セクターわたらせ渓谷鉄道となったかつての国鉄足尾線で、谷の間を縫って走る列車に揺られながらゆっくりと足尾にいったのだった。
 叔父と叔母の家があった通洞というところは、その名のとおり坑口があって、足尾の中心というべき場所であった。そこは銅山の手で山からきれいな水が引かれ、鉄管とコンクリート枡を使って上の家から下の家へと水が流された。夏でも手をいれると痺れるほどに冷たい最高の水であった。使った水は溝に捨て、きれいな水には手を触れないよう大切にして下の家に流した。私にとって足尾は、いつも清流の流れる澄んだ音が聞こえるところであった。
 谷の真ん中を渡良瀬川が流れ、少し上流に行くと精錬所があり、そのまわりの山々には草木がほとんどない。赤茶化した山肌をさらしているのである。風景がまったく変わり、恐ろしい感じがしたものだ。
 足尾にはその後数限りなく通い、足尾鉱毒事件のことを勉強もするうち、多くの友人ができた。足尾に住む人も、鉱毒事件の被害地となった渡良瀬川流域に住む人も、それ以外の人もいた。
 誰がいいだしたのかわからないが、ハゲ山に桜の木を植えて、その下で花見をしようということになった。実際に桜を植えたのだが、すぐに枯れてしまった。これは木を植えるなら本気にならねばならないと思い直し、「足尾に緑を育てる会」を結成したのが平成八年のことだ。はじめの年には地元の人を中心に百六十人が集まり、岩がむき出しになった斜面に百本の苗木を植えた。
 何もない状態ではじめたので、土を持ってきてください、苗を持ってきてくださいと呼びかけたのだ。土と苗とスコップを担いで山の斜面を登る。ガレ場に穴を掘り、土をいれて苗を植えてくる。実際に植えながらも、本当に根がつくのか半信半疑であった。実際にある林学者から、そんなやり方では足尾に緑は戻ってこないと批判されたこともあった。このやり方をとれば間違いないと、ずいぶん経費のかかる方法を売り込まれたこともあった。みんなボランティアで資金などまったくないと、その会社にはお引き取り願った。
 植林とは一本一本植えていくより他に方法がないのだとわかってはいるのだが、実際に作業をしながら、愚行というのはこういうことをいうのかもしれないと思ったこともあった。山が緑になるのは、私たちの想念の中だけのことかもしれないとも思えた。
 あれから十三年たち、約二・五ヘクタールの地域に、参加者延べ九千九百十人が約四万四百本の苗木を植えた。何月何日ここに集まってくださいと呼びかけるだけなのに、参加者が千人を超え、十年目からは植樹デーは二日間行うようになった。
 少人数の仲間がほとんど個人的にはじめた愚ともいえる行為だったが、人が人を呼んできて、ハゲ山が緑に染まるようになったのだ。十一年目の時、足尾在住の友人が、植木した森が紅葉をしていると連絡してきて、私は半信半疑ながら植林地にいってみた。すると最初に植林したところの樹木が十メートル以上に育ち、確かにモミジは赤に、ブナは黄色に紅葉していた。苗を買う資金がないので庭の木を引き抜いて持ってきてくださいと呼びかけたこともあり、多様の樹が植えられ、その中には紅葉する樹種もある。
 四万本の植林をしたところで、足尾の山全体から見れば、まだまだほんのわずかである。この山を自然の状態に戻すのに、まだまだ愚が足りないと私は思っている。
浄土宗新聞 平成12年6月1日
top

お盆という行事
top
「孟蘭盆経」により、目連が母を救うため餓鬼道にいったという物語が、盆という習俗の根拠となっている。盆とは、祖霊の死後の苦しみを救う行事である。祖霊、新仏、無縁仏(餓鬼仏)にさまざまな供物を供え、成仏を願う。墓参をして、霊を家に連れてきて仏壇前で霊祭りを行い、僧が棚経にまわる。陰暦七月十三日から十五日の間、死後の世界にあった霊がこの世にやってくるということである。農事のつごうから、八月に行う地方が多い。いつしか正月に次ぐ大行事になった。以上が盆についてのあらましである。
 長いことつづいてきた行事だから、地方によって様々な変化をとげてきた。私が子どもの頃、盆近くになると、近所の八百屋の店先に真白い麻殻がならんだ。私が暮らしていた栃木は麻の産地で、繊維を抜いた麻殻はいわば廃棄物であった。普段見慣れない麻殻を見て、盆が近いことを知った。これはキュウリやナスにさして馬や牛をつくるためのものであった。短く折った四本の麻殻をさせば、それだけで牛馬ができた。霊はあの世という遠い世界からこの牛馬に乗ってやってくる。
 三日間家にいた霊をまたあの世に帰す時、麻殻の簾を舟に見たて、野菜の牛馬とともに川に流した。これが送り盆であった。同時にろうそくを立てた流し灯籠を川に流した。戦争で死んだ霊の鎮魂の意味もあったことであろう。この行事にまつわるものとして、盆踊りがあった。死者が群衆にまじって踊るとも考えられた。
 遠い遠いあの世から死者の霊か家に帰ってくるのが盆であるが、帰ってくるのはそればかりではない。都会に出ていった息子や娘たちがその女房や子どもたちを連れて一斉に故郷に帰るので、鉄道は満員になり、高速道路は渋滞し、国民大移動の趣きになる。宗教行事が生活となっている。これが盆のよいところである。
top

楽しい愚行2万キロ
top
 こんなことを考え、実際に実現してしまう人がいるのだなと驚いたのが、『時刻表2万キロ』を読んだ時の私の卒直な感想であった。旅の空の下にいることの多い私は、自分でも鉄道に乗る時間が多いと思うのだが、JR全線完乗など考えたことはない。それを実現したとして、一体それがなんになるのかという思いが、どうしても先に立ってしまう。旅はもっとゆっくりとして、まわりの景色を楽しみ、うまいものを食べて、土地の飲み屋のおばちゃんなどと楽しく語らってくる。それが楽しみなのに、国鉄全線完乗という意味もない目的のために、休日をことごとく漬し、ただただあわただしく列車に乗ってくる。
 何のためなのだと、私は本書を読みながら何度も考えた。自分なら絶対にこんなことを企まないだろうと確信する。そう思ったそばから、この妄想的な壮挙こそ、宮脇俊三という人の人生なのだと感じてきた。実際の私たちの人生は、何故生きるのだなどといちいち考えもせず、ただ遮二無二毎日毎日を送っているものだ。たとえ目的らしきことを設定したとしても、それ以外のことに費す時間のほうが圧倒的に多い。それなのにこの人は、鉄道への愛をあからさまに語ってはばからない。そこにかけがえのない人生の時間があるばかりである。この『時刻表2万キロ』は、鉄道への無償の愛を語ってやまない人の告白と感じた。
 同じ駅で同じ瞬間に発着する二本の列車を乗り継いだり、鈍行列車で先をいく急行を追い抜いたり、列車が停車している間にもう一本の路線を往復したり、時刻表を読み込んでそんなことを楽しむ。その行為に意味を求めたら、楽しいどころではなくて、まったく無意味な愚行になってしまう。だが無意味が充満しているからこそ、感動することができる。
 無意味を充足しつづけて生きるということは、難しいものだ。よほど人物が大きくなくてはできないことだ。人はすぐに意味や効率の綱に絡めとられて、世間をつまらなくしてしまう。事実、鉄道がそうなってしまっているではないか。効率一辺倒の新幹線は、知らない者同士が旅の過程で出会う場ではなくなり、私にとっては読まなければならない本や資料を読んだり、校正をする書斎になっている。みんな黙りこくって眠っている。新幹線の中で睡眠をとらなければ、次の仕事に向かっての体力がもたないようなスケジュールの中では、列車の意味がまったく変わってしまった。無意味はもう許されることではない。今日の新幹線では、電源があるので携帯電話の充電ができ、パソコンでネットワークに接続ができる。遊んでいることはできない。『時刻表2万キロ』の壮大な無意味は、切ないほどのノスタルジーである。
「国鉄全線完乗二〇八〇〇キロ」を実現した後に、宮脇さんはしみじみと書く。
「なにしろ私は四〇年余にわたって時刻表を愛読してきた。昼間気に障ることがあつても、夜、時刻表を開けば気が晴れさえしたのである。それが、なまじ国鉄全線完乗などという愚かな行為に及んだがために、かえって大切な元手を失ったのかもしれない。」
 鉄道が国鉄と呼ばれていた時代からくらべると、私たちは多くのものを失ってきた。その失われていくものを、宮脇さんは身を挺して記録してきたのだという気がしてきた。そう思うと、宮脇さんが「愚かな行為に及んだ」頃の鉄道は、人の愚かさを受け入れる大きな大きな度量があったのだ。いい時代だった。
エッセイ この一冊で、旅に出た
top

道元の料理
top
 道元の「典座教訓」(てんぞきょうくん)は何度読み返しても味わい深い。
「一茎草(いちきょうそう)を拈(と)りて宝王刹(ほうおうさつ)を建(た)て、一微塵(いちみじん)に入りて大法輪(だいほうりん)を転(てん)ぜよ」
 一本の草のようになんら価値のない材料を使う料理であっても、それによって七宝で荘厳(しょうごん)した大伽藍(だいがらん)を建て、これ以上は分割できないような小さなものの中にはいり、偉大な仏の教えを説きつづけよ。
 これは料理をするものの心得である。典座とは、禅の修行道顔で食事をつかさどる役僧のことだ。修行僧を供養する必要があるから、典座の職がある。典座の職とは、さとりを求める深い心をおこした人だけに割りあてられる職で、純粋で雑念のない仏道修行そのものである。自らも仏道を究めようという心がなかったら、つらいことに心を煩(わずら)わせるだけで、何も得るところもなく、無駄な仕事ということになってしまう。
 料理の材料であるたった一本の草でも、そこに仏道を実現することができるのだ。粗末な材料だからといいかげんに扱ってはならない。また頭乳羹(ずにゅうこう)のような高級な材料を使って料理をつくる時でも、喜躍歓悦(きゃくかんえつ)の心をおこしてはならない。つまり、それに引きずられて喜んだり、浮かれたりしてはいけないということだ。
 頭乳羹とは、禅寺にとっては最高級の食材である。頭乳は牛乳で、これを精製すると五味が得られる。乳(にゅう)・酪(らく)・生酥(しょうそ)・熟酥(じゅくそ)・醍醐(だいご)が五味である。この中でも最高級の醍醐はすべての病に効く妙薬であり、仏教における最高の段階である涅槃(ねはん)に通じている。
 道元はすべての執着する心をなくしたからには、よい材料だからといって態度を改め卑屈になったり、粗末な材料だからといって怠けることがあってはならないとする。手にいれた材料で最高の料理をつくろうと心掛けなければならない。
 これは生き方そのもののことである。材料の良し悪しに引きずられて自分の態度を変えることは、対する相手によって人格を変えるようなことであり、自分を失うことだ。これは修行に励んでいるものの行いではない。修行僧に食事を供養する典座ならば、どんな材料からでも最高の料理をつくるようにと、心を砕くべきなのだ。その心掛けが、結局典座自身の修行となる。
 その心をもってするなら、一本の草によって大伽藍を建てることもできるし、一微塵の中にはいっても広大無辺な仏の教えを説きつづけることができるのである。
 考えてみるなら、一枚の粗末な菜っ葉であっても、これが自分の手元に届くまでには数々の縁をへてこなければならない。もしある農民が、この菜っ葉は自分がつくったと主張するなら、もちろんそのとおりであるだろう。だが要因はそれだけではない。その人が蒔いた種を土が受けとめ、水と太陽の恵みを受けて発芽し、育っていく。自然がその菜を包み、成長させていくのだ。そこには大変な縁がはたらいている。種を蒔いた人が収穫したとして、寺院の台所である庫裏(くり)に届けられるまでも、幾人もの手をへなければならないのである。農民がその菜っ葉は自分がつくったというのは、正確ではない。一枚の菜っ葉の背景には、森羅万象という真理がついている。菜っ葉が安価で粗末だという外見を持っているのだとしても、真理を粗末に扱うことはできない。料理人はそれを材料として、可能なかぎり最もよい料理をつくろうと努力をすべきなのである。
 道元の思想は、一本の草で七宝の大伽藍を建て、埃(ほこり)のような一微塵の中にはいって大法輪を転ずるように、自由自在である。微小な原子から大宇宙に、大宇宙から一分子たる人間に、数量や見かけの大小にとらわれず、思うがままに行き来をしてみせる。一本の草からも人の生き方を説いてみせるのである。
東京新聞2009年7月4日(土)
top

生き方の応援
top
 芭蕉が奥の細道の旅に発足したのは元禄二(1689)年、四十六歳の時である。
 芭蕉にとっては晩年の自覚を込め、捨身行脚の旅であった。つまり、旅の中に身を捨て、そこから得られる言葉によって、俳諧師として蕉風の完成を試みたのである。
 全国にいくつあるかわからない芭蕉の銅像であるが、ほとんどは痩躯を墨染めの衣に包み、そして老体である。しかしながら、芭蕉はたった四十六歳だ。現代から見ればまことに若く、晩年の自覚ということもないだろうが、当時とすれば晩年に違いない。実際、芭蕉はその五年後に五十一歳で大阪御堂前の門人邸で亡くなっている。
 人生は五十年だったのだから、四十六歳で晩年の自覚を持つことは、しごくまっとうな精神であるということができる。
 芭蕉は残りの自分の人生を五年と思い、一番やりたいことをしたのだ。最後の人生設計といってもよい。
 ひるがえって私たちの時代を見れば、人生は八十年である。芭蕉の時代から、寿命はゆうに三十年はのびている。この三十年をどう生きるのかは、私たち一人一人の深刻な問題といえる。
 長命の時代は、生き方が難しい。まだ先があると油断して生きていると、精神も肉体も錆びついてしまい、気がついた時には精神はたるみ、肉体もいうことをきいてくれない。短命の時代は一分一秒が惜しいというように時間を濃密に生きたのである。
 そうではあるにせよ、短命の時代のほうがよかったというのでは絶対にない。長命の時代のほうがいいに決まっている。問題は長く生きる時間にふさわしい生き方を、どう見つけるかということである。
 多くの企業では六十歳停年になったのだが、五十五歳停年という制度がないわけではない。六十歳で停年になり、もしくは五十五歳で停年になって、自分の人生はここまでだなどと、あきらめることができるだろうか。まだまだやれるのだし、その能力をこれから生かすことができれば、社会のためにもなるのである。長年積み重ねてきたノウハウは、かえがたいものがあるはずだ。
 都会では若者たちがたくさんいるのだが、思うように仕事を見つけることはできない。一方、過疎地と呼ばれる地方では、人口がどんどん減ってきて、人材が足りず、やりたいこともできないことがある。故郷に帰りたいと思う人がいて、故郷では人を求めている。故郷とは、すべての人にとっての故郷ということで、地方という意味である。求めあう者どうしの橋渡しをすることができないかと、私たちは考えたのである。
 ふるさと回帰支援センターは、新しい生き方をつくろうとする人たちを支援することを目的とする。一生懸命生きようとする人を応援する組織なのである。ただ応援するのではなく、どこで何をすることが可能かという具体的な情報を提供するのだ。
「100万人のふるさと」2004年秋創刊号
top

ある転職
top
 北海道の根室半島の付け根のあたりに位置する別海町は、いわば日本の一番端である。農業と漁業でしか成り立ちようのない町であるが、日照時間が少なくて、低温である。田畑でつくれる作物というのは、牧草ぐらいでしかない。農業は畜産をするしかなく、酪農家が大部分だ。一軒で百ヘクタールもの土地を持ち、牧草やテンドコーンなど自家飼料をつくり、別海は日本一の酪農地帯である。
 その別海町には酪農研修牧場があり、酪農の実践的な技術指導をし、新規に酪農をはじめようとする人を応援している。給料を支払い、夫婦なら2LDKの住宅を格安で貸す。過疎地帯で離農する人が多く、その後に新規就農をするよう便宜をはかる。
 私は家の光協会が発行する月刊誌「家の光」の取材で、別海町を訪れた。その詳しい報告は「家の光」にゆずるとして、その時の取材メモから、二年間の研修中の夫婦の言葉を再構成してみる。
 神奈川県出身の高校の同級生の夫婦で、保育園に通う二歳の女の子がいる。夫は東京都の小学校教員であった。新宿と八丈島に赴任し、十年間教員生活をしていたが、二年前に二人で話し合って別海町酪農研修牧場に夫婦ではいった。もちろん学校の先生はやめてきた。教員とはまったく違う酪農家として生きる道を求め、別海の大草原にやってきた。
 私の取材メモから起こした夫の言葉である。  
「田舎暮らしに、あこがれはずっと持っていました。そういう思いがあって、八丈島で五年間教員生活をしていました。花づくりをしていた農家に住み込んで、手伝いをしました。八丈島で素朴な人たちとの触れ合いの中で、生活観ががらっと変わったんです。自分の人生は一回だけですから。先生もいい仕事で、できればもっとやってみたいなという気持ちもありましたけど、転機だなあという思いが強かったですね。島にいる時に、子供が生まれました。その子と貴重な時間を共有したい。成長する場面を見とどけたい。転勤するとそうはいきません。家族で仕事ができて、そこに子供が加われば、こんな喜びはないんじゃないでしょうか」
 こう話しはじめた夫に、妻が言葉を加える。二人とも深いインテリジェンスのある、静かな人である。  
「決めるまで大変でした。そろそろ八丈島を去らなければならない時機でした。都内に戻ると、夫の仕事は忙しくなって、家族も離れる時間が多くなるでしょう。それで農業を選びました。悩んだあげく、家族でともに時間を過ごせるほうを選びました」  
「実は関東近県でできないか探したんです。問い合わせても、いい返事はいただけませんでした。北海道のある窓口の人は、くるならこいよという感じでした。別海には、休みを利用して、冬にきて、秋にもきました。実際にやってみると、思ったよりも楽しいですね」
 夫がいうと、妻がすぐにつづける。  
「暮らしも変わるし、近所づきあいも不安でした。でも八丈島の暮らしが、後押ししてくれました。牛が好きになれるか不安でしたが、二年たってみたら、牛が好きになっていました。一頭一頭違いますからね」  
「外仕事で、吹雪いているとつらいですけど、生きもの預かっているから、自分を奮い立たせていきます。日常の仕事については、やっていけるかなと思っています。突発的なこと、病気とか難産になったら、仲間もいるし、農業指導員もいるから、なんとかなるでしょう。この道はいろんな可能性があります。先生は枠があって、そこから出てはいけないんです。酪農家は自由ですから」  その時、私の取材を傍らで黙って聞いていた熱意の人研修牧場の牧場長が、感きわまったようにしていったのだった。  
「酪農家は酪農家を知らない。私は都会から見た酪農が一番知りたいんです。そして、新しいことを取り入れたいんです」
「100万人のふるさと」2005年 夏
top

与那国島の変化
top
 沖縄県与那国島に援農隊がはいって、今年で三十年である。そこで今年の砂糖キビ刈りが終わったばかりの二〇〇五年三月二十六日、与那国島離島松倉センターで「援農隊受け入れ三十周年式典祝賀会」がおこなわれた。
 私は一九八〇年頃に援農隊に参加し、農家に住み込んで、およそ三ヵ月間砂糖キビ畑で泥をかぶって働いた。そんな縁があるので、今回与那国島にいってきたしだいである。
 歌と踊りで大歓迎の祝賀会がすんだ翌日、私は旧知の大嵩長重(おおたかのぶしげ)さんの案内で与那国島を巡った。三年前に郵便局を早期に退職した大嵩長重さんは、長男とともに和牛と砂糖キビの生産に打ち込み、JAおきなわ与那国営業所で和牛生産部会の部会長をしている。
 そもそも郵便局に勤務しながら農業をしていた大嵩さんであるが、人生を懸けて改めて農業に打ち込む姿に、私は感動した。
 「和牛と砂糖キビで島起こしをしなければなりません。それと観光が、ますます盛んになるでしょう」
 与那国島の展望については、大嵩さんのこの見解と皆がほぼ一致している。つまり、農業が確実に主体となっていかなければならないのである。与那国町は中学生が参加した住民投票で、隣りの竹富町や石垣市と合併せず、独自の道を歩むと決めた。
 人口およそ千八百人であり、たいして減らないのだが増えもしない。高校がないため、子供が高校に上がる年齢になると仕送りが大変なために一家中が島を出る場合が多いのが、悩みの種だ。住民投票に中学生が参加したのは、高校生がいないという事情もある。
「せめて人口が三千名おればね、何つくっても暮らしていけるんだけどね」  大嵩さんはしみじみという。息子と二人で和牛四十五頭、砂糖キビ百トンを生産する大嵩さんは篤農家である。
 私が砂糖キビ畑で働いていた時には、キピを一本ずつ斧で倒し、それをまた一本ずつ葉を落とし、皮むきをして、三十キロの束にし、担いで畑の外に出した。やり方はすっかり変った。斧で倒すのは同じながら、葉を落として皮むきもせず、そのまま機械にいれて三百キロの束をつくり、トラクターで搬出する。
 砂糖キビ畑の仕事の変化は聞いていたが、牧場にいってなお驚いた。完全に機械化され、大型重機がならんでいる様子は、まるで北海道の牧場である。
 与那国島は離島なのでどうしても輸送費のハンディがあり、餌代も高い。そのために肥育ではなく、子牛の生産を主にやる。穀物飼料は買わねばならないが、意外なことに、牧草は自給できるどころではなく余る。気候が暖かいために牧草は年に五回とれ、しかも土地が余っているのだ。大嵩さんも二十五ヘクタールほども使っていて、なお使える土地はいくらでもある。
 島は狭いというのは、思い込みに過ぎない。高齢化していて耕作放棄地がどんどん増えていく現状の中で、土地は使い放題といってもよい。必要なのは人間である。
「土地も豊富で、やりたいという意識があればなんでもできるんです。与那国の農家の若者は嫁に不足はしてません。援農隊との交流が大きいですね」
 大嵩さんはこのように語り、私になんでも見せてくれたのであった。
100万人のふるさと 2005年 春
top

サルの襲撃
top
 冬の陽だまりの田園地帯を車で走り、人影をめったに見かけないことが多いことに気がつく。里山の間に美しく整えられた田んぼは、広い面積がとれず、機械がはいらない。見た目には美しいのだが、人に難儀を強いる。人の力が必要とされるのである。
 先日、私は茨城県の最高峰の八溝(やみぞ)山に登るため、東北新幹線の那須塩原駅に降りた。レンタカーを借りて黒羽にいったのだが、黒羽町はいつの間にか合併して大田原市になっていた。黒羽は松尾芭蕉が「奥の細道」の旅で、最も長逗留したところである。俳諧仲間の桃雪(とうせつ)は、黒羽藩城代家老の浄法寺高勝で、五百石取りという高禄であった。弟の桃翠(とうすい)は鹿子(かのこ)畑(ばた)豊明といい、四百八十石取りで、江戸蕉門と交流があった。芭蕉は彼らの歓待を受け、居心地がよくて、つい長逗留してしまったのである。
 大田原市となった黒羽郊外の雲厳寺をお参りしてから、私たちは中山間地の村を通り、茨城県大子(だいご)町の八溝山に向かった。山と耕地の間を縫ってのぴる道で、古い農村地帯である。
 季節が冬だったせいなのか、ほとんど人影を見かけない。子どもの姿などまったくない。集落にはいっても人がいないというのは、異様な光景である。動くものといえば、車ばかりである。
 時々人を見かけることがあった。自動車道路を歩いている老人で、リハビリの最中なのか道路の真ん中を杖をついてゆっくり足を運んでいる。車がめったに通らないから、安心して堂々と道の真ん中にいるらしい。しかし、道路は曲がりくねっていて見通しもきかないので、危険なことはなはだしい。
 車を運転している私は、途中から速度を落とし、前方に細心の注意を払うことにした。当たり前といえば当たり前なのだが、何もかも様子が変わってしまったような雰囲気である。冬とはいえ、晴れわたったよい日で、畑で働いている人をついぞ見かけないのは、淋しい限りである。ビニールハウスもほとんど目にしないのだから、若い人は都市部に働きにいき、村には老人が残されたのが明らかだ。
 私は地方にいくたび異変といってもよいことを感じる。大阪から東海道本線を草津で乗り換え、草津線の寺庄で降りる。そのそばの甲賀市隠岐の集落を訪ねたのは、サルが畑を荒らして猿害がはなはだしいと聞いたからだ。
 このあたりの山は里山で、ずっと先には鈴鹿山脈につながっているにせよ、森は道路や集落に寸断されて小さい。ことに近くに第二名神高速道路が建設中で、山が分断されている。この中山間地の集落では、サルが群をなして出没し、畑に馬鈴薯や豆や大根を植えても、食べられてしまう。カボチャも棒でたたくかして、サルには熟したものがわかり、人が明日収穫しようと畑にいくと、前日は何事もなかったのにごっそりとやられている。耕す人は泣くに泣けないのである。
 田園のあっちこっちには休耕田があり、集落には老人ばかりが残されているので、人の影は薄く、サルの群は人の目から隠れるため休耕田の草地を通って山からやってくる。また、人が柿なども食べなくなって樹に放置されているので、食べるものはいくらでもある。
 イノシシやシカが畑に出てきて困っているところもあるが、隠岐はひとまずサルだけである。サルが出ると、人はとにかく花火を鳴らすことにしている。サルのほうでもそんなことでは驚かない。花火が鳴ったら人は家の外に出る決まりである。まるで村が野武士に襲撃される戦国時代のようだ。
 私が集落にいるときも花火が鳴り、白昼なのに大根畑が一瞬にしてやられた。太陽に当たって甘味のある上の部分だけをかじって、森の中に逃げ込んでいく。
 村には人がいなくなり、いても老人ばかりだ。そんな過疎の隙をサルはついてくるのである。人がいれば獣たちは森から出てこない。
100万人のふるさと 2007年 春
top

栃木定住への誘いの会
top
 先日、東京都港区にあるパストラルで、栃木県と県内市町による栃木への定住を誘う「とちぎ暮らしセミナー」があった。栃木県宇都宮で生まれ育った私は、栃木のよさを話すようにと招かれた。もちろんすべての地方によさがあり、誰でも知っているような観光地のPRならともかく、定住を誘う話というのは難しい。
 栃木県の人は、自分の暮らしている土地のよさを語れといわれたら、はたと困ってしまうのが常だ。栃木県は海なし県であるから、その制約は大きい。道路を整備して隣の茨城県や福島県にいけばいいことであるが、県単位で片付く問題ではない。要は自治体の境界の問題ではなく、その土地がいかに暮らしやすいかということだ。
 栃木は関東の北のはずれで、その北は東北地方の福島だ。県の南北を縦貫して東北道が通り、道路にしろ鉄道にしろ、通り過ぎていく土地柄なのである。独自の文化はどん詰まりのところに生まれる。東京も、考え方によってはすべての道の終着点、つまりどん詰まりなのである。
 それでは独自の文化がなければ、暮らし難いだろうか。もちろんそんなことはない。個性ある文化と、暮らしやすさとは、まったく無関係だ。
 栃木にはこれといった名物は少ないし、ここにしかできないという特産品も、あえて探せばカンピョウという名があがるくらいである。独自の文化というなら、日光東照宮や益子焼とあげられるが、生活との関係はあるようなないようなである。ちょっと観光にいくのはよいが、それはあくまで旅人的な感覚である。
 栃木の特徴として私が声を大にしてあげたいのは、米でも野菜でも肉でも水でも、この大地が生み出してくれるものはなんでも質がよいということである。米と水がよければ、当然酒もうまい。長いこと関東の雑酒(ざっさけ)などとおとしめられてきたこともないわけではないが、人を得て、なかなかよい酒ができるようになった。それも私の自慢である。
 突出しているわけではないが、生活に必要なものはなんでも質がよくてうまいということは、生活人にとってはまことに価値がある。名物一つだけがよくて、あとはだめだというなら、暮らし難いではないか。旅人の視点と生活人の視点は当然違う。
 つまり、栃木は暮らすにはよいところである。何よりも人がよい。そのことには自信がある。
 その日、栃木県産の食材を使った昼食がふるまわれ、私も楽しんだ。テーブルの隣に座った人から、家の物件で悩んでいると写真を見せられた。古家なのだが、庭に岩が配され、間取りも多く、立派なのだった。敷地を聞き、値段を聞いて、私は驚いてしまった。すっかり東京の感覚になっていたので、ずいぶんと安く感じられた。しかも、東北新幹線那須塩原駅からさほど遠くないという。これは絶対にいい物件だと私は思い、その通りにいった。
「そうですか。あなたがそんなにいうなら、決めました」
 その人があっさりそういったので、むしろ私はあわてたくらいであった。
100万人のふるさと 2008年 春
top

牛乳大使になった
top
 一年中いろんな日があるのだが、六月一日は「世界牛乳の日」というのだそうだ。これは国際連合食糧農業機関(FAO)が決めた。その日、私は(社)日本酪農乳業協会から牛乳功労賞を贈られ、牛乳大使に任命された。思いもかけないことであった。
 私は日本の農業は守らなければならないとずっと考えていて、米についで生産量の多い牛乳を産み出す酪農も、もちろん守らなければならないと思っている。だが都市の住民にとっては、毎日牛乳を消費しているのに、牧場についてよくわからない人が多いのだ。牧場にいけば牛がいて、水道の蛇口をひねるように牛の乳房からは簡単に牛乳がでてくると思っている人さえいるようだ。
 哺乳類の牛は人間と同じで、お母さんのおっぱいは赤ちゃんを育てるためのものだ。だから妊娠をしなければ乳は出ず、しかも赤ちゃんを育てる期間しかでない。牛乳を生産するためには、計画的な人工授精が必要なのである。また草は人間の胃では消化できない。人間には食糧とならない草を食べて、牛は生きていく。生きて雌は子を産み、乳を出し、やがて乳の出が悪くなると廃牛として肉にされる。牧場では生と死との形が目の前に見える。つまり、牧場には命の循環があり、その循環の中には死もあるということだ。
 私は子供たちに牧場の仕事を理解してもらいたくて、童話「酪農家族(全四冊)」、絵本「牧場のいのち」などを書いてきた。そのおかげで、このほど牛乳功労賞が贈られ、牛乳大使に任命されたのである。
 命に満ちている牧場は、教育にはとてもよい。子供を牧場に連れていき、牛を学校に連れていく命の教育が、「わくわくモーモースクール」である。もちろんこれは酪農家の協力がなければならないし、受け入れる教師たちの協力がなければならない。
 トラックの荷台にのせて牛を連れていっても、最近の都会の学校の校庭はタータントラックで、ひづめがすべってよく歩けない。牧草を敷いて、牛が歩けるようにすることからはじめる。牛は三百五十キロもあって、身体が大きく、最初子供たちはびっくりして遠ざかってしまう。しかし、しだいに近寄ってきて、ちょっとおなかのあたりを触ったりもし、最後には乳搾りまでするようになる。環境さえ整えてやれば、子供の受容力は素晴らしい。
 学校と牧場と連携したこのプロジェクトを「酪農教育ファーム」という。私はなかなか参加できないのが実情であるが、このプロジェクトのメンバーでもある。メンバーの先生たちと討議をし、私がストーリーをつくって仕上げた絵本が「牧場のいのち」だ。
 この酪農の置かれた現状は、なかなか厳しい。私は農業地帯の中心には、畜産がなければならないと思っている。牧場の生産物は牛乳と牛肉と、牛糞堆肥である。この牛糞堆肥は、農業には絶対に欠かせない。化学肥料を使わない有機農業には、必需品といってよいものだろう。私は自分の人生としても、酪農を見守ってきたつもりである。
 三年ほど前までは、生乳は生産過剰で、一部捨てていたほどだった。またそれを機に酪農家を廃業する人もいた。ところが今はバターが極端に品不足になり、スーパーにいっても品物がなく、ケーキづくりに困っていると聞く。極端から極端に振れるのは、これはどうしたわけだろう。
 生産調整をするということは、牛を処分することである。だが次の世代の牛を育て、牛乳を生産するためには、三年かかる。だから急に生産を増やすのは不可能なのである。
 農業は気候に左右される産業で、生産過剰ならば、生乳はパターかチーズに加工して在庫にする。ところが冷蔵設備が必要で、半年しかもたない。そんなにコストをかけるより、外国から輸入したほうが早いし安いという安易な道を長年たどってきた付けがまわってきたのである。そこに穀物の相場の高騰が襲いかかった。結局のところ、国産の飼料を少しでも増やすということしか道はないのだと思う。
100万人のふるさと 2008年 夏
top

花づくりに追われて
top
 定年帰農してからどんな作物をつくればよいだろう。ハクサイや大根などの重量作物は腰に負担がくる。米つくりは簡単だが、機械などの負担がかかる上、収入を考えるとそれ一本というわけにはいかない。
 技術が難しくてもいけないし、あれやこれやと考えたあげく、結局花卉(かき)などが無難ではないかと思える。なるべく経費をかけないようにしなければならないが、ビニールハウスぐらいは仕方ないだろう。暖房設備をいれるとなると、石油の負担もかかり、経営条件は厳しくなる。ビニールハウスで暖房まではたかずに花をつくるというのが最も無難ではないかと、個人的に私は思う。
 私は月刊誌「家の光」に現代農村の探訪記事を書いているが、最近はふるさと回帰するのにどんな農業がいいだろうかという、秘かな視点を持って旅するようになった。その上で花づくりなどいいなと思ったしだいである。
 先日、和歌山県に有田みかんの取材にいった。かつてみかんは冬の茶の間の炬燵の上にいつもあり、食べたい時に食べたものである。みかんのない冬など考えられなかった。
 最近みかんの消費量は減っている。若い世代はみかんを剥いて食べるより、ジュースにして飲む傾向がある。食べるのにも面倒ではないからだ。また、おしゃれの付け爪などをしていては、みかんは剥けない。剥いたら、プラスチックの付け爪は黄色く染まる。
 有田は温州(うんしゅう)みかんの有名産地である。最近は愛媛や九州のみかんの生産量が伸び、どうも押され気味だ。全体でもみかんは生産過剰で、みかんの樹を伐って生産調整をしながら生産をつづけている。減反政策がはじまったのは昭和五十四年で、その時和歌山県庁に勤める友人がいった言葉を、私ははっきりと覚えている。
「それまでみかんの増産の政策で、農政担当者は農家にみかんの樹を植えろといってきた。同じその口で、今度は伐れといわなならん。こんな苦しいことあるか」
 あの頃、国家の政策に従わねばならない農家は、みかんの樹を伐った後に出稼ぎに出たものである。苦しい歳月を生きてきたのだ。
 今は出稼ぎに出かけるかわりに、転作をしている。転作の作物は様々であるが、今回私が訪ねた農家はカーネーションをつくっていた。冬はビニールハウスで石油を焚いて栽培するのだが、資材が高騰して先が読み切れない。だが人間の側にどんな事情があっても、花は育っていって咲く。みかんの出荷時機とハウスの防寒のナイロンを張る時期が重なり、忙しさに追いまくられる時もある。
 その家のお母さんがぽつりといった言葉が、私には印象的であった。
「花が好きやで、昔は花が咲いたら家に生けとったけど、今は追いかけられるばかりや」
 それからそのお母さんは、私が「家の光」にそのほぼ一年前に書いた記事に大変共感したといってくれた。その記事とは、長崎県諫早(いさはや)市の火山噴火の火砕流によって形成された台地で、同じょうにカーネーション栽培をする農家の探訪記だ。
 二十数年前、一人の若き農業者によって花づくりがはじめられた。「野菜は食べもので、花は心の食べものだ」という信念のもとにである。三十二歳だった人が五十四歳になり、農業法人の代表取締役になっている。三千二百坪の広いハウスで、六人の社員と八人のパートとともにカーネーションとガーベラをつくり、ほぼ毎日出荷している。どんどん収穫しなければ、たちまち育ち過ぎてしまう。利益追求しなければならない経営にふと疲れを感じ、淋しい思いになるという。
「一週間のうち半分以上は、夕飯食べてから懐中電灯持って花見にいって、ほっとしてます。花見るとほっとするんです」
 その人は内面を明かして、私に向かいこんなふうにいったのてあった。
100万人のふるさと 2008年 秋
top

農民詩人
top
 木村迪夫さんは、山形県上山(かみのやま)で農業をしなから詩を書いている。昔からのものいわぬ農民てはなく、ものいう農民詩人である。教師たちが子供に作文指導を積極的にはじめ、大いなる成果を上げたつづり方教室の影響を受けている。
 農民の精神をよく表現した骨太な詩が私は好きだ。二十年も昔のことになるが、当時私が編集委員をしていた「早稲田文学」に、小説を書いてもらったことがある。「減反騒動記」というのだった。「続減反騒動記」も書いてもらったかと思う。
 その木村さんと対談することになった。最後にいつあったのか記憶もないのだが、二十年近くぶりだなとまず木村さんはいった。
「立松さん、若いな。変わんねえな」
 木村さんは私を見るなりいってくれた。木村さんは農民らしいがっちりした体躯と、鋭い目つきは相変わらずであるが、髪が真白くなっていた。私ももちろん変わらないはずはない。お互いに同じ歳月が降りかかったのである。
「俺も七十過ぎてな、この頃悲しくてしょうがねえんだ。これでよかったのかどうかと思うのさ。ここまで一生懸命働いてきてな」
 こういってから、木村さんは話しはじめたのだった。木村さんの家は小さな農家だったから、農業をして自立して生きていくために、一生懸命働いてきた。出稼ぎにいって金を貯め、農地を買い足してきたのだ。米を中心の経営にし、減反になるとその部分を転作にしてなんでもつくってきた。
 だが村の人口は減るばかりだ。みんなそれぞれ経営をしてきたので、これといった特産物も生まれず、したがって農協の中に生産部会もできなかった。娘が二人いるのだが、二人とも農業とは違う職につき、村を出ていってしまった。村でも後継者のいる人はほとんどいず、自分と妻とが頑張れるうちはなんとか農業はつづけるが、それ以上はもう無理だというのである。
 私の感覚的な印象でも、田植機に乗ったりコンバインに乗ったりして田んぼに出ている人は、七十歳代である。まさに木村さんの世代が頑張っているのだ。十年前は六十代で、二十年前は五十代である。しかし、十年後は八十代ということになる。その時、日本の農業はどうにもならない危機を迎えるのではないだろうか。
「村でな、息子が他の仕事について、親父もう充分食べられるんだからお願いだから農業やめてくれっていわれて、泣く泣く丹誠込めてきたリンゴの樹とサクランボの樹を伐った人もある。サクランボは高いところで仕事するから、年取ると危なっかしいんだな。米つくっただけでは、安くて食べられないし。俺もいつまでできるかな」
 こういう木村さんに、私はいうのだ。
「血を分けた息子や娘に農業を継がせなければならないという考えを改めたらどうだろう。本当にやる気のある人にやってもらうといいんじゃないかな。契約条件をよく考えてさ」
「それはいい考えかもしれないな」
 木村さんがこんな言葉を使ったかどうか私は忘れたが、ニュアンスとして同意してくれた。後継者がこのままいなければ、日本の農業は滅びるしかない。そのことは誰でもわかっているのだ。後継者の内容を問う時代にきていると、私は思う。
「この頃、詩が書けなくてな。悲しくなってくるのは、そのこともあるのさ」
 木村さんはいきなりこういった。悲しみの深さが、私などが想像するよりも深いのかもしれない。
「詩は特別のものだろうけど、詩が書けなくなったら、木村さんではなくなってしまうよ。詩は書かなくちゃ」
 私はこう返したのだが、二十年ぶりの再会はなんだか悲しかった。
100万人のふるさと 2009年 夏
top

今、植村直己さんがいたら
top
 冬のアラスカでマッキンリーを眺めながら、植村直己さんのことを考えたことがある。麓でさえ零下二十度とか三十度になるのに、あの氷の山に単独行で登ろうというのは、私などには憧れにすぎない。冬のマッキンリーは、これから先も永遠に植村直己さんの墓標でありつづけるであろう。そう思った。
 植村さんは人の行けないところに、どうしてあんなに一生懸命に行こうとしたのだろう。ゴジュンバ・カン初登頂、エベレストの日本人初登頂、五大陸最高峰世界初登頂、北極圏一万二千キロの旅、世界初の北極点犬ゾリ単独行、グリーンランド犬ゾリ単独縦断と、どれもこれもがすさまじい旅であったろう。最後の旅として南極大陸犬ゾリ単独横断をしようとしたが、アルゼンチンのフォークランドで戦争があったためその前にマッキンリーに登山して消息を絶ったのだ。どうしてこんなにも苛酷な人生を歩もうとしたのかと、たいしたことないアウトドア生活しかしていない私は、不思議にも憧れにも思うのである。もっとも植村さんにくらべれば、すべての人がたいしたことはないともいえる。

蝕まれた自然を回復する新たな冒険へ
 南極大陸犬ゾリ単独横断をしてしまったら、地球上でもう行くところはなくなったと思われる。そのあとは子供たちのための野外学校を設立したいとの夢を持っていたらしいのだが、そこに身を置いて植村さんは心を落ち着けることができただろうか。野外学校で野山や川や海を歩くと、目をおおいたくなるような自然破壊が次から次と前に現われてくる。そんな場所を植村さんは黙って通り過ぎでいくことはできないのではないだろうか。
 次の世代の冒険心を育てるためには 技術を教えることも大切だが、肝心の自然がそれに耐えられなければならないっ今の日本に冒険心を育てる自然がどれだけ残っているかと考えると 私などは心寒くなってしまうのである。
 一人で冒険をしていればよいという孤高の時代は過ぎて、植村さんはその冒険を支えてくれた自然の回復へと向かったのではないかというのが、私の心楽しい想像である。野外学校の子供たちをひきつれての、植村さんの活躍があちらこちらで聞かれたのではないだろうか。
 私はカヌーイストの野田知佑さんが校長先生をしている「川の学校−川ガキ養成講座」に、年に一回だが参加している。カヌーの野田さんだから川の学校となるのだが、登山家の植村さんなら山の学校になるのだろう。野田さんは川でさんざん楽しませてもらったのだから、その楽しさを後の世代に伝えようと考えている。川で遊ぶ子供たちを「川ガキ」と愛情を込めていうのだが、川ガキが絶滅危惧種というべき存在になってしまった。学校教育によって川で遊ぶことが禁じられ、川で泳ぎも釣りもカヌーもできない子供たちばかりになった。川遊びをなんにも知らない子供たちに教えるのは大変根気のいる仕事なのだが、それを本気でやろうとしている野田さんに、私やほかの仲間たちは協力を惜しまないのである。
 植村さんが生きていたら、一つ前の世代の子供なら誰でも持っていた山に対する感覚が失われていることに、危機感を持ったのではないだろうか。現在の登山は、多くが中高年者で占められているり子供たちの姿を見ることは、ごく稀である。そこで植村さんが構想した野外学校が必要になる。世界の川を漕いできた野田さんが最高の先生であるように、五大陸最高峰を世界初登頂し、命ぎりぎりで世界の極地を冒険してきた植村さんには、その体験をじかに次の世代に伝えてほしかった。

植村さんとともに足尾の山に木を植えたかった
 もし植村さんが生きていたら、私は山の植林に誘いたい。五大陸の最高峰を私は知らないが、身近な日本の山が荒廃していることなら知っている。その荒廃した山での植林活動は、大人にも子供にも最高の野外教室なのである。
 私は植村さんに足尾での植林活動に誘いたかった。足尾の山々は植村さんが登るようなところではないかもしれないが、奈良時代から修験者たちが駈けて修行してきた山である。その深いはずの山が、明治時代になってからの鉱山開発によって、草木一本なくなってしまったばかりか、表土さえも流出してしまったのだ。ここまで破壊された山は、自然の治癒力だけではとても回復しないのである。
 その山に苗と土と唐鉾(とうぐわ)とをかついで登り、木を植える活動を、私は九年ばかりやっている。荒地に木を植えることは、自分の心にも木を植えることだと、活動すればみんなが知るところである。岩ばかりになってしまった山に緑を回復する活動は、いつ終了するとも知れない行為なのだが、これは未来に向かっての冒険といえないだろうか。
 もし私が今日のこの時代で植村直己さんと知り合うことができたとしたら、足尾のハゲ山に苗や土をかついでいっしょに登りながら、野外学校の子供たちを引きっれて木を植えたかったと思うのである。

THE CHALLENGERS
top


巨樹に力をもらう
top
 巨樹に力をもらう  巨樹というのは まず人間の生命を越えた遠大なる生命力を感じさせてくれる 一本で森のような巨樹もあれば、天に向かってすっくと立っている巨大な樹木もある。いずれも生命力をもらったような気分になり、そばにいるだけで力が湧き上ってくる。
 天に最も近い巨樹は、人間界から最も遠いということになる。カミはまず巨樹の突端に降り、そこから人間界に降臨することになる。天もしくはカミに最も近いところはハナであり、神聖なところだ。ハナとは点であって一般にいう花はまた別のものである。
 古代からつづく祭祀に、サカキやシキミの樹木が用いられるのは、神仏に最も近いハナだからである。
 巨樹とは神仏の宿るところであって、神木となって境内地で崇められてきたのである。こうして神社や仏閣によって保護されてきたから、日本には意外に巨樹が多くあるのた。
 もちろんそれらの巨樹は、伐採して材にするものではなく。ひたすら崇めるものである、樹木に対してこれほど尊敬の令を露わにする日本人は、森の国に生きてきたからではないかと私は思う。
 名のある巨樹にひかれていくと、その前には鳥居が立ち、巨樹は礼拝の対象である。そもそもが神仏習合の伝統のある日本では、こと巨樹に関するかきり神と仏の区別がないつまり、巨樹は神でもあり仏でもあるのだ。
 私は巨樹を求めてずいぶん遠いところまで旅をしてきたが、最近では思いがけない近くて巨樹を楽しんでいる。私がよくいくのは、林試の森公園である。都心にこんなに巨樹が立ちならぶ森があるとは考えてもいず、いってみて驚いたしだいである。
 品川区と目黒区にまたかる林試の森公園にいくのは、妻の母、私にとっては義母が近くの老人施設にはいっているからである。見舞いにいくたび車椅子で散歩に連れ出している。最初は近所の街に車椅子を押していったのたが、近くに素晴らしい森かあると教えてくれる人があり、いってみるとそこが林試の森公園であった。
 旧林野庁林業試験場の跡地であったため原産地を問わない様々な木か繁っている。ケヤキ、クスノキなどがいっしょに繁っていることも珍しいのだが。外国産のプラタナスはもつと詳細に分ければススカケノキ、モミジバスズカケノキ、アメリカスズカケノキの三種がここにあるとの案内板があり、いずれも見上げるばかりの巨樹である。
 ユーカリ.グロブルスはいわずと知れたオーストラリア産だが、昭和二十七年に植え、今では十メートル以上になっているという成長の早さである。カナダ産のベニカエデやミツデカエデは、秋になれば葉は見事に紅熟する。
「森のにおいがいいね」
「....」
「葉を透過してくる光がきれいだね」
「....」
「子供が元気に遊んでいるね。うちの子もあんな時があったよね」
「....」
 妻と私とは老いた母になるべく話しかけるようにしているのだが、返事はほとんどない、だが顔は笑っていて穏やかである。これが森の力というものだろう。
 林試の森は、どの木も本当に立派なのだ。人は森の中でボール遊びに興じ、語らい、体操をやり、散策し、寝転がり、森から生きる力をもらっている。
 もうひとつ私がよくいく森に、白金の自然教育園がある。この森は都心にありながら、全国でも有数の原生林といってもよいかと思う。巨樹でいうなら、シイノキの大木が鬱勃とこれだけ繁っている森を、私は他に見たことがない。大蛇の松と呼ばれる巨樹は、高松藩下屋敷の時代から記録に残っているという。巨樹ということでいえば、東京は最高の場所なのである。
「緑と水のひろば」 2009年 秋号(57号)
top

深い人間愛を抱く
top
特攻に散った穴沢少尉の恋
 秋の知覧特攻平和会館にいった福島泰樹は、沖縄特攻て散華した一〇三六人の写真、遺書、遺品を見ているうち、穴沢利夫という人物の日記を掲載した黄はんた雑誌の切り抜きの前に釘付けになる。それが本書をめぐる七年もの旅のはじまりであった。
「夕べ、大平、寺沢と月見亭に会す。
 憶良の『酒を讃へる歌』を思ひ出すなり。たまにはよきものなり。.....」  穴沢少尉が十二名の隊員とともに亀山の北伊勢飛行場より特攻基地知覧飛行場に到着し、出撃命令を受ける。だが悪天候のために出撃できず、その晩月見亭で最後の宴会をしたのである。この宴席に出たのは、将校九人と下士官三人である。宴は九時過ぎに終了し、日記に出てくる寺沢軍曹等三人の下士官は、月明かりの中を連れ立ち、軍歌を歌いなから三角兵舎に帰っていく。九人の将校は町内の旅館に一泊したのである。
 ここで福島はおさえ切れない怒りの心情を表わす。
「長谷川隊長以下、激しい死の訓練に邁進してきた十二名が、愈々出撃の時を迎えるに際し、その前夜を全員一処で時を同じくしていない、というとろが気になる。将校と下士官の間には、超えられぬ一線が最後の最後まで引かれてあったのか。」
 激しい情念の底に深い人間愛を抱いた福島は、特攻を志願して確実な死を前に様々な葛藤を乗り超えてきた若者たちは全員賞賛に値いするという思いが強いから、こんな組織の理不尽が許せない。肉親から離れ、恋人からの手紙を焼き、至純な一個の魂となって散華していく若者を極とするなら、現世のすべてが許せないのだ。現在の日本人のていたらくも許せない。
 本書は文武精進をして死地に赴った二十三歳の穴沢利夫の面影を追い求め、その恋人伊達智恵子と会い、彼らの恋闕(れんけつ)な精神を知るたび、たった六十年ほど前の日本人の気高い精神に出会っていく。それとともに昔も今も変わらぬ組織の愚劣さと、現代の日本人の精神性の低さに、福島は苛立ちを禁じ得ずに次から次と怒りをぶつけていく。
 穴沢少尉について知りたいと思った福島は、人を介して靖国神社に問い合わせると、プライバシー尊重を理由に出身地すら教えてもらえない。
 連載雑誌「正論」編集部の尽力でわかった穴沢少尉の生家を、吹雪の会津に訪ねる。ここで奥州列藩同盟の旗のもとに官軍と最期まで闘った壮烈な会津藩を思い、福島の生まれた東京下谷の幕臣の彰義隊を思う。穴沢少尉の生家では、璧に大切に掛けられている額の「穴沢利夫命御遺品」の靖国神社の受け取りが、黒インクで印刷されている書類に青インクで書き付けていることに、怒りをこみ上げさせる。国事に殉じた御霊の軍服を受納した証ならば、墨書をもって清書すべきで、せめては黒インキで記述すべきではないか。遺族が大切に保管していた軍服を、福島は溢れる熱いものとともに抱きしめていう。
「これで穴沢さんに、お会いすることができました」
 二十歳をほんの少しばかり過ぎた若者が、人を愛し、残された者も生涯彼を抱きしめている。穴沢少尉の恋人の智恵子に見せられた大切な遺品は、二本の煙草の吸いさしなのである。
「こともなげに別るゝ君とおもひしに町角にしてかへりみにけり」
 穴沢少尉が日記に書き残した智恵子の歌が、なんともゆかしく思えるのである。
福島泰樹著/「祖国よ!?特攻に散った穴沢少尉の恋」(幻戯書房)
 ★ふくしま やすき氏は歌人。早稲田大学卒。歌集「バリケート・一九六六年二月」でデビュー。肉声の回復を求めて「短歌絶叫コンサート」を創出。著書に「福島泰樹全歌集」など。一九四三(昭和18)年生。
HP http://apia-net.com/fukushima/index.html
週刊読書人 2009年9月25日(金)
top

私を支えたくれたこの言葉
top
 たくほどは風がもてくる落葉かな
 良寛の俳句である。
 人々の間に伝わる口伝によれば、ある時良寛が自分の暮らす国上山の中の五合庵に帰ろうとすると、村人がたくさん集まって山道の掃除をしている。道端の草むしりをしたり、頭上にかかる枝などを払っているのだ。
 庭の草もきれいに抜かれている。その様子を見て、良寛は溜息とともにいった。
「ゆうべはたくさんの虫がいい声で鳴いていて、それは楽しませてもらったのじゃ。こんなに草を抜かれては、あの虫たちは逃げてしまい、今夜から鳴いてはくれまい」
 村人は良寛の嘆きを理解しなかった。一間きりない五合庵も、村人たちが寄ってたかって塵ひとつ落ちていないよう、ていねいに掃除がすんでいた。
 こんなにも一生懸命に掃除する理由がわからず良寛が尋ねると、長岡藩主牧野忠精公が、何事にとらわれず自由自在な良寛の生き方を慕い、藩内を巡視の最中に国上山まで寄り道して、良寛に会いにくるというお達しがあったのだという。村人とすれば、藩主がくるという一大事のために、全員が出てあわてて掃除をしているのであった。
 藩主ともなれば、何も用事がなくてくるわけはない。藩主の用件とは、長岡城下にある名刹の住職に良寛になってもらいたいということだ。自分の村に住む良寛にそんな名誉なことがあるとは、自分たちにとっても名誉なことだと、村人は張り切って掃除をしていたのであった。
 やがて藩主は大勢のお供を引き連れてやってきた。良寛は五合庵で坐禅でもして迎えたのであろうか。藩主は良寛の耳に声が届くところまで近寄り、和尚を城下の立派な寺の住職に迎えたいと礼儀を失わずにいった。藩主も良寛を尊敬していたのだ。良寛は僧としての階位にはまったくこだわらず、住職になる資格でもある印可を備中玉島の円通寺で師より受けていたのだが、もとより寺にさえはいっていない。借りた小さな庵で、一衣一鉢の乞食僧の暮らしをしていたのだ。それが良寛の生き方であった。世俗の出世や富などに、良寛は興味を持っていなかった。禅僧としてのそんな生き方に、名君といわれた牧野忠精も感じるものがあったのだろう。
 良寛がせっかく訪ねてきた藩主を無視するような態度をとったので、その場に緊張が走った。藩主もその沈黙の時間に耐えていた。やがて良寛は黙って筆をとり、紙に書いた字を藩主に示した。
 たくほどは風がもてくる落葉かな
 そんなに自分の分を越えたほど求めなくても、焚き火にするのに必要な落葉は風がひとりでに吹き寄せてくるというのだ。自分はこの暮らしの中に真実があると思っていて、この貧しい庵の暮らしに満足している。今さら世間の功利功名などを得たところで、それがなにになるのでしょうか。良寛は俳句でこう語ったのであった。
 聡明な君主は良寛の深い心を理解し、良寛の身を厚くいたわって、その場を去っていったという。良寛はもちろん立派だが、藩主牧野忠精も立派であったと思う。他人の立場を理解し、尊重することは大切だ。
 自分の中に欲のようなものを感じた時、私はいつしか良寛のこの言葉を心に思い浮かべるようになった。だが欲を消してしまうことは難しい。私にとっても良寛は遠い憧れである。
PHPほんとうの時代 2010年1月号
top

植林活動
top
 僕は、特にエコ活動をしているわけではないけど、約15年、栃木県の足尾に木を植えています。母方が足尾の出という縁もあって、足尾での活動は長いのですが、完全破壊されて表土さえなくなった山を回復する取り組みをやっているわけです。これは個人の活動というより、みんなで始めたことで「足尾に緑を育てる会」というNPO法人を作って顧問をしています。最終的には100万本植えようという計画で、今まで約9万本植えてきました。あくまで民間のボランティアだから最初はお金がなくてね。「心に木を植えましょう」って呼びかけをして、苗や土や弁当、スコップ、長靴、なんでも持ってきてください。来た人全員から1000円頂きますと。そうした取り組みをして、だんだん人も増えて、今は盛んな植林活動になってます。実際山か緑になってきて、みごとな森になってきました。
 もう一つ「古事の森」という植林活動もやっています。日本の文化は木造文化ですよね。毎年法隆寺に行くのですが 法隆寺は全部檜で、樹齢1000年くらいの木が使われています。ところが今、日本にはこれを修復する補修材がない。それでは神社仏閣、木造文化という看板が泣くなあ、その森を何とか作らなくてはという気持ちがあって、林野庁に提唱して始めたんです。  少なくとも樹齢300〜400年、直径1m以上の木を作りたい。京都の鞍馬山、高野山、裏木曾、北海道の檜山、岩手の平泉、沖縄.....。毎年一回やって、10ヵ所植えてきました。檜が多いけれど、北の方はヒバとか、その地域最高の建築材。古寺の森は信仰というか、自然を大切にしょうという日本人の精神性にも結びっいていると思います。
 両方の活動とも、木が成長する過程で二酸化炭素を吸収する、そういう効果もあると思いますが、いちばん大事な働きは人の心に向かっているような気もします。植林活動をしているとみんな楽しそうで、ニコニコして帰っていきますから。
毎日が発見 2010年1月号
top