あとがき
 身のまわりから人が一人去り二人去っていく。私もそのような年齢になったのである。去った人がどこにいったのかはわからないが、残された人には間違いなく愛惜の感情が残る。死とは永遠の別離である。
「無常迅速 生死事大」。こう言ったのは道元である。時はたちまち過ぎていくから、生き死にとはなんたるかを究めることこそが、人生の大事であるということだ。もちろんそのとおりではあるにせよ、生死を究めるなど簡単にできるとも思えない。迷いに迷っているうち、ふと気づくと、死にとらえられ逃げられなくなっている。それが多くの人の現実であろう。
 私のまわりの人たちの生と死とを、死のほうに傾きつつ描いた作品集である。たくさんの時間を費(ついや)して生きてきて、また多くの小説を書いてきて、いつしか死が私には身近なテーマになっている。よりよく死ぬということほ、よりよく生きることにほかならない。死とは、生の果てにしかないのである。つまらない生を送ってきて、死だけが高貴だということなどありえない。生と死とは連結しているからこそ、生死事大なのである。
 その人の生涯最後の到達点であるから、死の瞬間に人生が見える。志の高い行いも、愚行も、秘密の行いも、死の瞬間にはすべてが露わになる。できることなら生きている間の行いが輝いて見えるようにありたいものだ。死の瞬間に照準を合わせて短篇を書くという行いは、小説家の必然ではないかとも感じている。
 こうして一人一人の生と出合い、死と向き合って、やがて私の番がくる。さてお前はどう死ぬのかと、生きているこの今もたえず問われている。この作品集は、私自身の死の準備のために書いてきたのだと思えてきた。
 もちろん蛇足であるが、表題「下の公園で寝ています」は、宮澤賢治が住居にもしていた花巻の羅
須地人協会の玄関の黒板に、「下ノ畑ニ居リマス」と書いて畑仕事にでかけたところからとった。畑
にいるのも、公園にいるのも、書斎で原稿を書いているのも、この世ならざるところにいるのも、ここにいないということでは変わりはない。
二〇〇二年十一月 晴れ渡った初冬の東京にて
立松和平

初版発行:2002年12月25日
発行所:東京書籍株式会社
http://www.tokyo-shoseki.co.jp/
価格:本体1600円+税

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初版第1刷:2002年12月1日

発行所:株式会社ウェイツ

価格:本体750円+税

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あとがき
 その時にはそのへんに満ちている空気を吸っているかのように自然で、ありふれていて、対象化して意識をすることもないのであるが、失ってから気づき、取り返しのつかない喪失感を味わうことがある。時の流れとはそのようなものである。現われては消えていく現象というのは、この身の上にとどめておくことができないからこそ、人生は悲傷に満ちているのだ。
 ただ当たり前に生きたいだけなのに、当たり前とはどういうことなのかもよくわからず、人生というものはなかなかうまくいかないものである。人生などとまともにいってみて、古風な響きになんだか照れるのだが、照れようが照れまいが人生の時間はどんどん飛び去っていく。通り過ぎていったまま取り返すことのできない時間の多さに、しばし茫然とする。私もそのような年齢に達したということであろう。
 まだはじまらない時間が膨大に前方にひろがっている青年期なら、さほど意識しないですむことも多い。年齢を重ねるにつれ、喜びの体験も連ねてくるにせよ、人生の苦しさも厳然として意識しないわけにはいかない。人生は矛盾に満ちている。
「会うが別れのはじめなら」という。会うと別れはまったく反対のことであるにもかかわらず、一人の時間の流れの中に同居している。もっというなら、生と死とは両極のことであるのに、生きるとは死に向かっての一歩一歩であり、一方がなければ一方も存在せず、両者は深い関係にある。矛盾したことが一人の時間の中に流れているからこそ、人生は苦しいのだといえる。
 この矛盾を背負った人生を自分自身も生きるように書くというのが、私の小説家としての一つの流儀である。誰でも不幸になろうとして生きているのではない。いつも幸福になろうとして、無数の選択を幸福に向かってしているのである。ところがなかなかうまくいかないのが、人生というものなのだ。
 自分は今、幸福なのかもしれないし、不幸なのかもしれない。これでは足らない、もっと欲しいと思えば不幸なのだし、これで充分なのだと得心すれば、幸福になれる。少欲知足の言葉どおり、欲を少なくして足るを知る心構えさえあれば、この今から幸福になることができる。わかっているのだが、そのとおりにできないのがまた人間なのだ。本当に人間とはやっかいな存在ではないか。一組の夫婦とその間に生まれた一人の娘に寄り添い、一日一回として四百四回にわたって、私は人生を生きてきたのである。新聞の連載小説は、一回分がほぼ千百字だ。作者個人の実人生にどのような時間が流れようと、私は毎日毎日千百字分の人生を生きてきたのである。その時間を自宅の書斎で穏やかに迎えることもあれば、旅先で迎えてしまって締切りに死にもの狂いで立ち向かうこともあった。長期の連載小説を書くとは、登場人物の上に流れる時間と作者の上に流れる時間とが、重なり、反発しあい、結局のところ織りなされていくということなのである。私自身の人生がうまく進行しているかどうかわからないと同様に、登場人物たちもうまく生きられているとはいえないのである。もっとよりよく生きろよと作者としては思うことが多いのだが、原因や条件のためそのようにしかできないのだから、その人物の人生に寄り添っていくよりほかに方法はない。
 作者としては、その人物とともに生きるのは、幸福であった。批判しっつ、生き方を肯定しなければ、寄り添ってはいけない。原稿を書きつづけるのは苦しいことであるが、何人もの人生を生きることができるのだから、物語作者の仕事は楽しい。
 長い物語を書き上げて思うのは、うまくいかない場合が多いのだとしても、人生は楽しいということだ。どんな人生も必然の結果、そこにそうしてあるということである。

  二〇〇二年十月、秋晴れの気持ちのよい日に

初版印刷:2002年10月20日
初版発行:2002年10月30日

発行所:株式会社河出書房新社

価格
猫月夜(上)本体2200円+税
猫月夜(下)本体2200円+税

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「古事の森」樹齢四百年の巨木を育てる
 日本の文化は木によって支えられているというのは、誰でも異存がないところであろう。木造文化の根本は森なのだが、その森が荒廃してしまっていれば、当然のところ文化も荒廃しないわけにはいかない。それはつまり、人の心が荒れるということでもあるのだ。
 言葉でいってしまえばそんなところなのであるが、日本の伝統文化である神社仏閣や橋や城郭などを守るためには、どうしたって大径木が繁る森がなければならない。大径木とは、おおまかにいうなら、直径一メートルを超える木のことである。かつては山にはいれば檜の大木などいくらでもあり、寺社をつくる時には好きな木を伐ることができたのであろうが、今はもちろんそんなわけにはいかない。そもそも大径木がほとんどないのが現状なのである。
 木がないのなら、植えればよいのである。そんな思いが形になり、二〇〇二年四月二十一日に京都の鞍馬山、貴船神社の向かいの森に、古事の森つくりのボランティア活動ははじまったのだ。春といってもようやく桜が散った寒い季節で、しかも雨が降っていた。その山に合羽を着たたくさんの人が集まったのである。
 呼びかけたら、予想を越えるたくさんの人が即座に反応してくれ、実際に身体を運んで汗を流してくれたのである。古い枠組みが壊れ、新しい価値基準がいまだ見つからずに混迷するこの国で、四百年も先を見据えた無償の行為に参加してくれる人がこんなにも大勢いる。これが時代に対して、この国の人々に対して、信頼が失われない理由だ。この国はまだまだ捨てたものではないと、なんだかありがたい気持ちになったしだいである。
 京都ではじまった古事の森は、とりあえずこれから全国で十箇所はつくられる予定である。もちろん私はそのすべてに可能なかぎり参加するつもりである。その森で、できるだけ多くの人と会いたいものだ。
二〇〇二年盛夏 ヒートアイランドの東京にて

第一刷発行:2002年11月19日

著者:立松和平
作画:横松桃子
発行者:境健一郎

発行所:株式会社かんき出版

価格:本体1000円+税

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「はじめて読む法華経」白い蓮はいかに咲くか
はじめに
 仏教経典の中の最勝の経典が法華経であるといい、仏教の歴史にも多くの影響をもたらしたという。少なくとも法華経をなくして、大乗仏教を語ることはできないし、日本の仏教を理解することなど不可能であるともいう。それでは法華経とはなんであるのか。
 多くの人が同じことを思っているであろう。法華経の断片や一部を読誦(どくじゆ)したことはあっても、全篇を読んだという人は稀である。私もそうだった。私も法華経を読みたいのである。読むからには、一字一句心読(しんどく)したい。つまり、人生をかけて読みたいのである。そのためには辛抱強い地道な努力が必要である。それをやってみようと、ある日決意した。そうなるためには、『ナーム』編集部からのすすめがあった。
 一つの言葉に幾つもの意味があり、巧みで美しい譬喩が深遠な教えになっていて、一見易しそうではあるのだが、法華経の言葉は難解である。だからこそ、現代に私たちが使っている言葉に移しかえる必要がある。言葉は生きていて、現代の言葉が、現代の私たちの生活感覚や思想感性の器であるべきなのだ。そう信じて、毎月毎月、法華経の森への深索の旅がはじまった。
 できるかぎり「私」を殺し、私自身が読んで学ぶために、言葉を置き換えていく。するとそこに現われたのは、壮大で華麗で緻密で深奥で繊細で身につまされる物語世界であった。森というよりは峨峨(がが)たる山脈なのだが、もちろん美しい森をたくさん持っている。
 しかも、この世界に触れると、心のすみずみまでが澄んでくるから、不思議である。一字一字ぽつりぽつりと書いていくペンの先から、私の手が、全身が、心の中が澄み渡ってくるのである。この感覚を、できるだけ多くの人と共有したい。
 睡蓮の花は泥の中にしか根を張ることはできないのだが、泥に染まらず、美しい花を咲かせる。それが菩薩行ということで、私たちも蓮の花のような生き方をしなければならない。これが法華という意味なのだということを、私は心の底から理解することができたのであった。

初版発行:2002年10月13日

発行所:株式会社水書坊

価 格:本体1800円+税

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「島へ」奄美/立松和平のふるさと紀行
砂糖車(さたくるま)は回る−あとがきにかえて
 奄美大島にはうまい焼酎がある。奄美群島の五つの島でしか製造が認められていない、黒糖焼酎だ。農の心を生かすのが酒づくりであると、私は信じている。うまい酒があるということは、豊かに農がいとなまれているということだ。黒糖焼酎は、黒砂
糖を米麹と酵母で発酵させてつくる。それならば、黒糖焼酎の特徴である黒糖の製造現場を、まず訪ねてみなければなるまい。
「さたやどり」とは、黒糖製造小屋のことである。龍郷町秋名の「さたやどり」にいくと、黒糖の甘く濃密な香りが漂っていた。底の平らな四角形の大きな鍋で、砂糖きびの絞り汁が煮られていた。石灰をいれては煮詰め、灰汁(あく)を丹念に除く。棒で攪拌しながら、隈元範久さんは鍋の中に真剣な視線をそそぐ。親戚の人たちがあらまし十人も手伝いにきている。この「さたやどり」では作業をするのは土曜日、日曜日だけである。隈元さんの本職は、大島紬のデザインだ。頃合を見て煮えた絞り汁を幾つかの鍋に移し、攪拌する。黒糖の出来にかかわる作業なので、手を休めることはできない。
固まってくるにつれ、黒糖はしだいに重くなってくる。できた砂糖は、昔のように野いちごの葉の上に盛りつけ、バラ糖にし、一気に攪拌し空気を送って粉糖にする。
 昔の黒糖を再現しょうと、一途な思いに駆られたのは、隈元範久さんのお父さんの久義さんだ。砂糖キビも大茎種という昔の品種を栽培し、昔のままの砂糖車を馬を動力にして回転させる。そのために馬を飼う。そこまでこだわって、やっと昔の味が復活できる。これは大変なことだ。しかし、お父さんは実現を見ずに、五年前に亡くなつてしまった。
「家庭をかえりみずに、一人で取り組んでいたんですよ。最初えらいことしてくれたなあと思ったけど、今になると本当にいいもの残してくれました」
 父親のあとをそっくり受け継いだのが、範久さんである。馬の世話を毎日し、砂糖キビを栽培し、刈り取り、冬も終ろうとする季節に黒糖づくりをしている。できたばかりの砂糖は温かく、柔らかで、ほろほろと甘かった。一片の黒糖に、人の労苦と夢が詰まっている。
「尊いという字には 『酒』 がはいっています。酒にかかわる人は尊い人だと思いながら、酵母が発酵するのに一番いい環境をつくつています。酒は生きものだから、そのつど違うという人もいますが、管理できれば生きものだからそのとおりになります」
 酒づくりとは、みんなが喜ぶのだから、尊い仕事である。あくまで控え目なのだが、芯に強い自信を秘めて語ってくれるのは、黒糖焼酎「里の曙」を製造する町田酒造の研究開発室長椎木敏さんだ。鹿児島大学で農芸化学を専攻した農学博士の椎木さんたちが、かつてどちらかというと勘に頼りがちだった酒造技術を、杜氏(とうじ)の勘の意味まで徹底的に解析し、品質の一定した最高の酒をつくることに成功した。結局のところ、焼酎とは最終的に人が楽しみのために飲むものなのである。
「いい材料を使って、いい酒をつくれば、消費者は認めてくれます」
 つまり自分なりに誠実にやるより方法はないのだと語るのは、社長の町田實孝さんである。「里の曙」の原料は国産米と黒糖で、日本でつくる酒で最も高価な材料を使っている。黒糖焼酎というとまだまだ馴染みの薄い向きもあろうが、黒糖の甘い香りが豊潤で、糖分はゼロである。奄美の風土をずしりと感じさせてくれ、喉ごしも爽やかだ。元禄時代からつくられている歴史のせいか、円満に完成されていて、これといった欠点は見つからない。これから島以外でも大いに飲まれるだろうという予感が、私にはある。
 この円満な熟成ぶりの一つの秘密は、最低でも三年間は貯蔵してから出荷するということであろう。三年貯蔵すれば、沖縄の泡盛は古酒(クース)と呼ばれる。古酒に交われば古酒になるといい、三年以上の貯蔵がなされている酒が五十パーセント以上はいっていれば、酒税法上は古酒といってさしつかえない。「里の曙」は何もいっていないが、別にいうまでもなく自然と古酒のつくりになっている。すべて三年以上の歳月に磨かれているのだ。
「人間はいろんなものに変えますなあ。人間とは不思議なもんですなあ」
 もろみの発酵タンクを覗きながら、町田さんがしみじみといった。生きてここに在るという喜びのためなのか、酵母の泡はさあっと水面を走るように傾き、呼吸して騒ぎ立てる。微生物の発酵によって生成される酒は、すべて生きている。この世に酒があって本当によかった。酒のない人生など、私には考えられない。
 奄美大島にはこんなに酒があるのだから、名瀬の街にさっそくくり出さなければなるまい。名瀬にきて必ずといってよいほど私が顔を出すのは、小料理屋「かずみ」である。島魚(しまざかな)が豊富で、女将西和美さんは奄美を代表する唄者(うたしや)なのである。最近売り出しの若手中(あたり)孝介君が相方としてきてくれた。島唄と三味線と島魚と黒糖焼酎と、それ以上に何を望むというのか。顔見知りもどんどん集まってきて、私は今宵ここでの
ひと盛(さか)りである。
 この何年間、私は奄美のよきものを求めて、島から島へ、集落から集落へと歩きまわってきた。本書はその成果である。よきものとは、もちろん美酒であり、澄み切った風景であり、森羅万象の香りであり、人の精神の気高さである。そしておそらく、奄美の森や海には貴き精霊がいる。私は奄美のよきものとたくさん出会ってきた。
 奄美のよきものとの出会いの見聞記を皆さんに捧げたい。
二〇〇二年 盛夏、自宅にて黒糖酎を飲みつつ

初版印刷:2002年8月20日
初版発行:2002年8月30日

発行所:株式会社河出書房新社
http://www.kawade.co.jp/

価格:本体2500円+税


「美しいものしか見ない」
あとがき
 旅をして生きてきた。
「月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行きかう年もまた旅人なり。」
 芭蕉はこう語り、旅とは空間の移動ばかりではなく、時間もまた旅人であるといった。そうであるなら、つねに変転して一瞬といえどとどまることのないこの世を旅している私たちは、果てのない時間の旅人であるということになる。
 そうではあるのだが、私は空間の中も旅をしてきた。若い頃には身体を動かしていき、とどまらないことに意義を見つけたこともあった。吹きくる風に誘われ、やむにやまれぬ気持ちになると、リュックを担いで席が暖まっているわけでもない部屋を出ていったものだ。日が暮れたところがその日の宿で、シーサイドホテルや、ハーパーライトホテルや、ステーションホテルと勝手に呼んでいたが、すべて野宿である。身体は元気で、いつも精神が飢えていたから、見るもの聴くものすべて楽しいのであった。
 若いとはいえなくなつてきた最近は、私に残されている時間もそうあるわけではないという自覚から、なんでもよいという感覚はなくなつた。美しいものしか見まいという気持ちになっている。美しいものという基準はそう単純ではないが、その時その場で精神が満たされ、心が躍るものの前に立ちたいのである。だがよく考えれば、どんなものにも好奇心を持った若い頃の心のあり方と、さほど変わっているとも思えない。
 美しいと感じる時、それは美しい。そのことは当然年齢と深い関係がある。今美しいと思えるものの前で、私は率直になりたい。そのためにこそ、旅をつづけていきたいのである。
 美しいと感じた時、ひとりでにペンが動きだす。そのようにして書き続けてきた文章が一冊にまとまった。本来、この世は美しいはずなのだ。それを何故、人が汚すのであろうか。美しい風景を心の中に宿す人は美しいと思い、私は今日も旅の空の下にある。身のまわりのものすべてが美しいと感じつつ、一瞬一瞬を生きたいと願っている。
二〇〇二年盛夏、猛暑の東京にて

第一刷発行:2002年9月20日

発行所:恒文社21
発売所:株式会社恒文社

価格:本体1600円+税

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「道元」
後記                                
 道元「正法眼蔵」(しょうぼうげんぞう)は宝石のような言葉の大海である。言葉がきらめきつつ千変万化し、万物を語り、自分という存在を明らかにしてくれる。その言葉は宝石といったのではいい足りず、森羅万象(しんらばんしょう)そのものであると表現したほうがより近いであろう。
「仏教といふは、万象森羅(ばんぞうしんら)なり。」(【仏教】の巻)
「山河をみるは仏性(ぶっしょう)をみるなり。」 (「仏性」の巷)
 花の咲くのを追ってきて、水の流れをたどってきて、自然のうちにいつしか導かれている。森羅万象の中に分け入り、そこに流れる真理を知ることこそが、仏教への信を持つということである。道元の言葉をたどっていくと、花を追い水をたどっているうちに遠くまでやってきた自分を感じることができる。その認識が嬉しい。
「しるべし、自己に無量の法あるなかに、生あり、死あるなり。」(【全機】の巷)
 全機(ぜんき)とは人の六根全身の精極的なはたらきのことであり、全機現(ぜんきげん)とはすべての器官が全力ではたらくということである。生は六根全身のはたらきの現われであり、死も六根全身のはたらきの現われである。私という一箇半箇(いっこはんこ)の中には無限の現象が内在されており、すべての真理が流れ、その中に生があり、死がある。
 こんな音葉のうちで、私が最も深遠に感じるのは、次の言葉である.
「光は万象を呑む。」(「都機」の巷)
 都機(つき)とは、すべてのはたらきという意味である。都機とは私たちの上にまんべんなく流れる真理であり、月の光を満身に浴びている私たちの認識とすれば、降りそそぐ月の光にたとえられる。月光は私たちが立っているこの地上に向かって余すところなく降っているのであり、真理は何も隠されてはいないということだ。目の前に隠れようもなく投げ出きれている真理を感じることができないのだとしたら、まことにあわれむべき存在ではないか。
 私は小説作品「道元」を書きつづけてきて、あまりにも多くのことを学んだ。しかもなお、私はこれからもこの身が倒れ、脳の活きが停止するその時まで、学びつづけていくのである。この作品は、「月___小説道元禅師」として、大本山永平寺の機関誌「傘松」(さんしょう)に、はほ四年間連載されてきた。
毎月原稿用紙二十枚ずつ四十四回、最終的には推敲により大部削って、このような作品になった。
書くことが、私にとっての修行であった。書くこと、自己を見詰めることを、道元禅師の歩みとともに、この四年間私は自分の修行と思い定めてきた。
 私の歩みはあまりにも遅くて、四十四回も修行の機会を与えられたにもかかわらず、二十六歳の道元禅師が師如浄禅師のもとで身心脱落するところまでしか描けていない。このまま書きつづけ、道元禅師五十四歳の遷化まで書き切ろうと、今五十四歳になった私は誓願を持っている.書き切るまでは、どんなことがあっても生きていなけれはなるまい。
 艱難辛苦ではあるが尊い機会を与えてくださった、水平寺の宮崎奕保禅師(みやざきえきほ)、南澤道人監院老師(みなみさわどうじん)、「傘松」編集長熊谷忠興老師(くまがいちょうこう)をはじめ、諸老師、編集部の雲水さんには、深い感謝の念を棒げるとともに、今後いっそうの御指導御鞭撻をお願いいたす所存である。また昌林寺東堂郡司博道老師(しょうりんじとうどうぐんじはくどう)、小学館横内武彦氏には、連載開始以前から一貫した熱意と現実的支援をいただいた。最初の出版からこれまで、私にとって大切な出版物にはたぴたび装幀をしてもらってきた菊池信義氏には、またしても魂の籠った装幀をいただいた。多くの人の想いとともに、この一巻はある。

第一版第一刷発行:2002年8月1日
発行所:株式会社小学館

価格:本体2000円+税

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かしの木おばばの魔法の木
「魚になった3兄弟」
第1刷発行:2002年7月20日
発行所:日本放送出版協会
著者:立松和平
絵 :横松桃子
価格:本体1500円+税
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人間ドキュメント
「立松和平伝説」
初版印刷:2002年6月20日
初版発行:2002年6月30日
発行所:株式会社河出書房新社
著者:黒古一夫
価格:本体2200円(税別)
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名水巡りは心の巡礼である−あとがきにかえて
 人間の身体の大部分は水でできているから、人は水を呼ぶものなのだ。水に呼ばれるといってもよい。
 私は何度も経験していることがある。苦しい山歩きをしていて、木立ちの間から湖面が見えたとする。空の色を映した水を見た瞬間、疲れた細胞の一個一個に生命が甦ってきて、身体に力がみなぎつてくる。水を見ただけで元気になるものだ。実際に水を飲んだわけではないのに、身体が回復してくる。水は精神的な効用をもたらすということだ。
 都市は元来、よい水のあるところに開けた。一寸法師の話のとおり、お椀の舟に乗ってどんぶらこどんぶらこと川を下っていくと、京の都という都市に至る。東京は利根川水系、荒川水系、多摩川水系の三つの川によって支えられている。大阪は淀川水系だ。水系には 「見える川」と 「見えない川」とがある。見える川は地上を流れ、見えない川は地下水となっている。川は人目に触れるよりも流量は多く、私たちの足の下の地中には毛細血管のように水路がある。その水が時として地上に噴出するのだ。
 この水が都市を形成している。水のないところに都市は築きようもないのだから、都市こそ水が最もいいところということができるだろう。都市の血液ともいうべき地下水脈は、開発にともなう工事や水の汲み上げによって、ずいぶん流れが変わってきている。地下水の過剰な汲み上げにより、地盤沈下を起こしたところもある。
 自然は強くて大きいのだが、結局は微妙なバランスによって成立している。どれほど大量の水であっても、はじまりは天から落ちてくる雨粒の一滴なのだ。山に降った雨が草や木に蓄えられ、ほとばしって清冽な流れとなり、あるいは土砂に濾過されつつ暗黒の地中を流れくだる。私たちの前でコップにおさまっている一杯の水が、実は壮大なメカニズムの果てにここにあるということだ。
 石油燃料が大量に燃やされて砂漠化しつつある大都会で、水のメカニズムはまだどうやら作動しつづけている。その証拠に、都会でも水があっちこっちで湧出している。この「水」にあるいは手で触れ、あるいは口に含んで、私たちは東京も大阪もまだ死んでいないことを確認するのだ。私たちもこの都会で生活ができる。
 水がなければ、私たちは一日だって生きられない。水をめぐる散歩をすることは、私たちがこれからも生きていけるということを確認する旅でもあるのだ。
 この国を旅していると、美しくておいしい水にいたるところで出会う。その泉はまるで宝石であり、あとからあとからあふれてくる永遠の富である。その水のおかげで、人々はどんなに幸福になることであろう。
 しかしながら、水源地が荒廃したところもあり、この宝石の未来は必ずしも明るくはないのである。泉そのものは小さくても、その背景には水をつくり出す大きなメカニズムがあり、それは自然そのものといってもよい。つまるところ、その水でできた宝石は、自然の精髄といってもよい。この泉が涸れた時に、私たちの生存も終るのではないだろうか。
 名水に心が魅かれるのは、そこに私たちの精神が映るからだ。こんなにも美しくておいしい水があるのだから、私たちの精神もまことに潤いに富んでいて、私たちはまことに豊潤な生き方をしているのだと、心の奥底で確認したいからである。
 名水巡りとは、心の巡礼である。この水の聖地は、この国にまだまだたくさんあつて、巡っても巡ってもつきることはない。つまり、旅はまだまだいくらでもできるということである。
 本書は週刊現代に、「日本水紀行」として連載されたものである。山下喜一郎氏
が一回一回に心ある美しい写真を撮ってくれ、またたくさんの写真を新たに加えてくれた。週刊現代編集部の諸氏に深く感謝をする。編集にあたっては、河出書房新社の長田洋一氏と、フリー編集者古市雅則氏に、またしてもお世話になった。
 この水の宝石が、私たちの精神とともにたえず新鮮な生命の素を湧出させつづけてくれるようにと、私は祈る。
二〇〇二年 桜の便りが届く自宅にて
立松和平

「名水」

初版印刷:2002年5月10日
初版発行:2002年5月20日

発行所:株式会社河出書房新社

価 格:2500円+税

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「川のいのち」
                       横松 桃子

 現在の自分を考えたとき、子どもでもなく大人ともいえない私ですが、大人という生き物は、あまのじゃくで身勝手だなあと冷ややかに思う今日この頃です。遊んでばかりの子には勉強しなさいと口やかましく、勉強ばかりになると、ふと自分の少年少女時代などを突然思い出し、発作的に遊び方を教えるスクールに入れさせたりします。
 川であそぶ子どもたち〈川ガキ)が絶滅危機と聞きますが、街でも最近では外で遊ぶ子どもすら見かけません。子どもはどこに生息しているのでしょうか?
 川ガキの絶滅危機を救おうと、元川ガキの焦った大人たちが川ガキを養成する講座まで開設したようです。わざわざ面倒なことをして回り道をしている変な世の中ですね。
 子ども時代の時間は、とても特別な時間だと思います。夏休み明けにしばらくぶりで会う友達の成長ぶりに驚かされたことも思い出します。
 年をとると時間の経つのが早くなるとよくいいますが、実際に子どもと大人とでは違う時間を過ごしているのかなと思います。
 この絵本では、子どもが過ごしているそんな特別な時間が描ければと思いました。

初版第一刷発行:2002年4月21日
発行所:株式会社くもん出版
価 格:1200円+税

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聖徳太子──この国の原郷(まほろば)
〜はじめに〜
 聖徳太子ほど名前が知れわたり、聖徳太子ほど謎に包まれた人物はいないのではないだろうか。そしてまた、日本の歴史において、聖徳太子ほど後世に影響をおよぼした人物もいないのである。日本歴史に現れた不思議といわざるを得ない。
 私は毎年正月になると、法隆寺にいって修行をしている。金堂修正会に承仕と呼ばれる小坊主として、つまり修行僧のアシスタントとして行(おこな)いに参加し、自分の修行もさせてもらっているのだ。
 早朝の金堂の濃い闇に端座し、千二百三十数回もつづいている声明に包まれている時、また飛鳥時代の撥刺(はつらつ)とした気概が今でもいたるところに残っている大伽藍(がらん)を歩いている時、私は確かに聖徳太子の精神を感じることができる。法隆寺では当然聖徳太子への思慕が強く、聖徳太子を祀った聖霊院(しょうりょういん)の前を通る時には、必ず立ち止まって一礼する。庭のところには木の札が立っているし、歩道にはうまいことにマンホールの鉄の蓋があって暗黙の標(しるし)となっているのだが、たまにしか法隆寺にいない私はつい忘れがちになってしまう。必ず礼拝するという習慣は、法隆寺ではごく普通に行なわれていることなのだ。
 聖徳太子の精神は、有形無形で確かにいたるところに残っている。暗くて寒い金堂で行いをしていると、時には我を超えて無心になることもあるのだが、また時にはいろいろな思いが奔馬のように駆けめぐることもある。小説家の私はそんな乱れた思いの中に生きているといえるのだ。小説の構想が浮かんでくることもあり、また聖徳太子のことを折に触れ考えることもある。その精神の活動は、現われてはたちまち消滅してしまう。時が過ぎていけば、思索の跡も完全に消滅してしまうであろう。もちろん釈迦の説いた無常という真理に、あらがうことはできないのである。
 そうではあるのだが、聖徳太子や法隆寺への思いを一冊にまとめてみないかという話を、後藤多聞さんにいただいた。後藤多聞さんはNHKの名ディレクター、名プロデューサーとして長年法隆寺や中国を取材し、人が数千年伝えてきた思索や文化に深く関わってきた人である。私は機会をいただき、NHKラジオ第二放送のカルチャーアワー「立松和平が語る聖徳太子」で一時間ずつ四回話した。その話を核にして大幅な加筆訂正をし、これまで折にふれ書きためてきた聖徳太子や法隆寺への文章を、これも大幅に加筆訂正して一冊にまとめた。可能な限り単行本未収録の作品を集めたが、一冊としてのテーマを集約するため、『仏に会う』 『百年の花咲く』 『歓びの知床』などの単行本からやむなくとった文章もある。これは読者にあらかじめお断りしておかねばならないことである。
 ともあれこうして私の聖徳太子と法隆寺への思いが一冊にまとまったのである。法隆寺管長大野玄妙師(かんちょうおおのげんみよう)、執事長古谷正覚師(ふるやしょうかく)はじめ法隆寺の法燈を守りつづけておられる諸師にまず感謝を捧げてから、本文にはいりたい。

聖徳太子──この国の原郷(まほろば)

発 刷:2002年4月25日
発行所:日本放送出版協会
価 格:1600円+税


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アジア偏愛日記
ジャカルタの食を訪ね、チェンマイの市場を巡り、川を渡ってビルマへ入る。
罪の街マニラに遊び、北京、ハルピン、シルクロードと中国幻視行きへ。
インド・・・・アジアを愛してやまない作家がアジア十七カ国を遍歴し、そこで見たものは何か?
混沌とし、迷走し、熱発するアジア、過激で豊饒なるアジア。そのアジアの実相を明かす一味違ったアジア案内。
アジア偏愛日記
発 刷:2002年4月15日
発行所:株式会社徳間書店
価 格:590円+税
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酪農家族3
波打つ青い穂
青い稲を食べた牛さんはお米の香りがする
おいしいチーズを作っている・・・。
今度の旅は東北の小さな牧場。
友達はできるかな?
好評/酪農シリーズ
「酪農家族」・「酪農家族2 牧場の猫」

酪農家族3
波打つ青い穂

初版印刷:2002年3月20日
初版発行:2002年3月30日

発行所:河出書房新社

価 格:950円+税

イラスト:横松桃子

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対話ということ
 人と対話をするということは、楽しくもあり、緊張もする。ことに初対面の人とは、気が合わないのではないか、心が通わないのではないかと、その場にいくまで緊張しているものだ。雑誌の誌面づくりのために会うので、気が合わないからといって帰ってしまうわけにはいかない。おのずからできてくる場も含めて、そのすべてが表現なのであるから、対談を引き受けた以上、語り切らなければならない。
 もちろん同じことが相手にもいえる。一瞬出合い、一時的なり二時間の時間を与えられて、一人ではできない共同の場所というものをつくらなければならないのである。一瞬の出合いは真剣勝負だ。もちろん勝ち負けを決めるわけではなく、そのまま共同作業にはいる。お互いの力がうまく働いて、思いもかけない世界が出来上がってくることがある。そんな時の対話は楽しい。
 本書は長い時間をかけ、いろんな人と会って語り合った記録である。実生活の中ではいつも誰かと話していて、慈しみの心があふれてくる場合もあるし、闘争しているような場合もあり、通り過ぎてなんの痕跡も残さない場合もある。それらは記録されないことであって、記憶の中にしか残らない人生の一コマというものである。
 ところが本書に集められた対話は、最初から記録されることを前提に語られたものだ。あまりに私的なことや、他人のh誹謗中傷のようなことは排除されているのは当然のことである。記録されるための対話であるからこそ、お互いにそれぞれの世界を持ち寄り、そのことで相手がどのような反応をするか見て、材料を出したり引っ込めたり、こっちの世界をふくらませたりという駆け引きがある。そのため話は思い掛けないほうに引っぱられていき、予想できなかった世界が生成し、目が開かれたり、豊かな知識を得たりする。相手のことも話してみなければわからないのだから、話の展開は予想することはできず、それがおもしろいことなのである。
 対談の場に臨むと、誰もが一生懸命になる。相手がいることだから、適当にやると突っ込まれ、いなせば軽ろんじられる。二人とも一生懸命に話すので、二人が別個に持ち寄ったという以上の世界が出来てくるものだ。
 時を置いて対談を読むと、相手の息遣いや表情、こちらの思いなどがまざまざとよみがえつてくる。息苦しいようなこともあるし、楽しい記憶にひたることもある。そして、一貫していえることは、その時その場で私自身が何を考え、何を模索し、どう行動していたかが、掌に取るようにわかるのである。一篇の対談ならわからないものが、たくさん集まると、こんなに時間がたっているのに息苦しいようにわかってしまうのだ。
 対談も私には文学行為なのだ。しかも、小説やエッセイとは違い、生身(なまみ)の私をさらしている。私も一生懸命に生きてきたのだと、集められた対談を改めて読んで思う。仇や疎(あだやおろそ)かで諸氏と言葉を交わしてきたのではないのだ。
 随想舎の石川栄介氏は古い友人である。本書をまとめるというやっかいな仕事を、よくやりとげてくれた。感謝。感謝である。

二〇〇二年二月吉日
      知床、斜里館の客間にて
立松和平

[立松和平対談集]
現代の饗宴

初版第1刷発行:平成14年3月15日

発 行:有限会社随想舎
http://www.zuisousha.co.jp
zui@zuizousha.co.jp

価 格:2000円+税

<対校者>
阿川佐和子・川本三郎・長嶋茂雄
網野善彦・荒川じんぺい・安東次男
家田荘子・五木寛之・今井通子
今森光彦・大谷直子・奥田瑛二
岸 ユキ・北方謙三・椎名 誠
C.W.ニコル・篠塚建次郎・宗次郎
俵 万智・筑紫哲也・友川かずき
西丸震哉・野坂昭如・野田知佑
灰谷健次郎・福島泰樹・麿 赤兒
三田誠広・都 はるみ・毛利 衛

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道元の歌舞伎とは
 歌舞伎で道元を演じるとはどういうことであろうか。
 道元は大宋国での修行で心身脱落(しんじんだつらく)、すべてのとらわれをはなれて心身が自由自在の境地になり、大悟徹底(たいごてつてい)した。
 その後日本に帰り、京の山城深草(やましろふかくさ)に興聖寺(こうしょうじ)を建て、禅風をひろめていた。しかし、比叡山僧の迫害を受け、庵を破却され、洛中を追放になった。こうして越前に逃れて永平寺を建て、坐禅修行一途の弁道(べんどう)の生活をした。
 その教えは只管打坐(しかんだざ)、ただひらすらに坐禅をせよとのことで、道元自身も生涯を修行についやした。女性など近づけず、権力にも寄らず、山中でただただ学道をし
たのである。
 道元の主著である「正法服蔵」(しょうほうげんぞう) にあるとおり、その教えはまことに深遠で、同時に難解であり、そびえ立つ山脈のように峨峨たる山容を呈している。余人がたやすく踏み込むことのできる世界ではない。
 この謹厳なる聖僧を、大衆演劇である歌舞伎でどのような舞台が可能なのか。
 歴史の隠された真実とか暴露的な手法があるはずもなく、派手な暴力シーンがあるわけでもない。ただただ静謐(せいひつ)で、ただただ深い。
 現在私は永平寺の機関誌「傘松」(さんしょう)に「月---小説道元禅師」を連載中であるが、なんでも呑み込んでいく貪欲な小説世界であっても、道元を主人公とした作品は思い浮かばない。
 つまり、道元は小説にならない人物とされ、古今の小説家も峨峨たる道元山脈を登らないできたのである。
 私は道元の小説を書くと志し、こつこつと調べ、毎月四百字詰め原稿用紙二十枚を書いている。
 これは私にとって修行のようなものだ。書きはじめてすでに四年にもなるのだが、このように魅力的な人物もいないと感じはじめている。
 しかしながら、小説を書くということと、歌舞伎の上演台本を書くということは、まったく関係はないのである。
「道元禅師七百五十回大遠忌(だいおんき)」として歌舞伎座で興行される舞台である。紆余曲折(うよきょくせつ)はあったにせよ台本の執筆を指名された私は、まず考えたことがある。
 大遠忌であるから、坐禅三昧の修行をされている老師方もこられるであろうし、我が高祖様としたってくる曹洞宗(そうとうしゅう)の檀家のおじちゃんおばちゃんたちも顔を出すし、坂東三津五郎を見ようとするいつもの歌舞伎ファンも駆けつけるであろう。
 しかし、この三者すべてを満足させる台本を書くことは、本当に可能であろうか。
「ひどい本を書いてしまったら、一ヵ月は地獄ですよ」
 歌舞伎座の人は長い経験からであろう、私にこういう。
 曹洞宗の人にしかわからない道元では仕方ないのだし、目の肥えた歌舞伎ファンにも納得してもらわなければならない。
 台本執筆を志したのは三年前だが、そのうちの二年間は歌舞伎座にかかるすべての演目を観た。「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」 の通し狂言を観るためなどに、新橋演舞場にも通った。芝居の呼吸というものがあることを知った。また芝居独特のひそみがあり、表面上は語られてはいないのではあるが、主人公と観客が共有する明らかな世界があることも知った。
 だが知ったということと、書けるということとは、まったく別である。
 道元だけでも登ることもできない高い山なのに、歌舞伎世界も同様であって、私は自分の非才を嘆くばかりであった。
 しかし、嘆いていてもものは生まれない。書いては破壊し、破壊してはまた書いて、本稿はすでに十塙目である。ほぼ三十年も小説を書きつづけてきて、職人的に修練は積んだつもりであるが、歌舞伎の台本はそのこととまったく違うのだから、努力をするよりほかに道はない。
 書いているうちに、私は自分が何をしたいのか、少しずつわかってきた。
 舞台では道元の鎌倉下向を扱っているが、それは道元の生涯で唯一権力者に接近した時であるからだ。接近を願ったのは鎌倉幕府執権北条時頼(しつけんほうじょうときより)であるが、形としては道元が鎌倉にいったのである。時頼は苦に満ちた俗世間の中で生きるしかない私たちの代表選手であり、道元は純粋な道の人である。
 その道の人が住み、修行道場としている永平寺は、したたるほどの鮮やかな緑におおわれ、また純白の深い雪に包まれた大自然そのものなのである。
 何も隠されていない真理そのものである森羅万象(しんらばんしょう)の自然を、私は歌舞伎座の大舞台に持ち込もうとしているのである。
 これができれば誰もが納得しようし、歌舞伎四百年の歴史においても、画期的ではないだろうか。
「仏教といふは、万像森羅(ばんぞうしんら)なり」
 道元の「正法眼蔵」のうちの「仏教」の巻の言葉である。私の仕事は、この万像森羅を歌舞伎座の舞台に蘇らせることである。
まえがきより

「道元の月」

初版第1刷発行:平成14年3月15日

発行所:祥伝社
http://www.shodensha.co.jp/

価格:1429円+税

祥伝社から
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「木喰」
初版第1刷発行:2002年3月10日
発行所:株式会社小学館
価格:1700円
みな人の心も丸くまん丸くどこもかしこも丸くまん丸丸々と丸め
丸めよ我心まん丸丸く
丸くまん丸
引きずられ、ぶつかっては、角がとれてまん丸になってくる。観音様とお上人は歌うたびにまん丸になってくる。こうやって苦しみに苦しみをぶつけあっていけば、角ばった苦しみも消えていく。

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「旅する人」
〜後書きにかえて〜
旅をして生きてきた。
 自分の記憶にあるうちで、はじめて旅らしい旅をしたのは、小学校にはいった年のことであつた。
母の妹、私には叔母にあたる人が、長い結核療養のすえに全快し、その夫とともに一夏を茨城県の大洗海岸で過ごしたのだ。叔父と叔母とは銅山のある足尾の山の中に住んでいて、私より五歳ほど歳下の娘がいた。
私には従妹にあたるまだよちよち歩きの娘と、六歳の甥の私は、叔父と叔母とともに海に面した旅館に泊まったのである。
 どのようにしていったのかも、どんな部屋だったのかも、はっきりと覚えている。二階の廊下の窓辺に立つと、目の前に光り輝く海があった。栃木県の宇都宮で生まれ育った私にとっては、はじめて見る海であった。
汽車に乗って旅行するなどということも、はじめての体験であつた。
 海はなんと大きく感じられたことであろう。空と触れ合うほどに雄大で広く、片時も動きをやめずに生きて動いていた。朝も昼も夜も、刻一刻と変わる海を前にして、私は飽きることがなかった。
 幼い私は、もちろんその時にはただ圧倒されているばかりであったろうが、その後にいつかその海を越えていこうと思ったことがあったはずである。海を越えるとは、外国にいくということだ。小さな島国で生まれ、しかもその小国は戦争に破れて深い傷を負っていた。その片田舎の子供の私が海外にいくなど、夢のまた夢のもうひとつ先の夢であったのだ。
 それが、どうだ。時代は変わるものである。あれからでは長い年月がたってはいるのだが、すっかり旅慣れてしまった私は、鞄ひとつ持って地球の果てまでもいってしまうのである。地球は丸いのだから果てというものはないにせよ、まるで家の中にいるように自由自在にというのは大袈裟だが、思い立ったらかなり好きなところにでかけていく。
 旅をはじめて間もない頃は、日本の片田舎で生まれ育った自分との違いばかりが目につき、その違いに旅の実感を得ていたものである。はじめていった外国は韓国だが、その暮らしぶりの違いに面くらい、食べ物があわずに下痢までして、身体は苦しみながらも好奇心はみなぎつて精神は高揚していた。
中国にいけば、道端の草や石ころにも歴史を感じ、そのことで尽きせぬ感動を味わうことができた。
ニューヨークの場末では、とっくに見破られているのにニューヨーカーのふりをして、マクドナルドにはいった。ハンバーガーを食べながら、遥々きつるかなと旅情を味わったりもしたのだった。
 旅を重ね、旅に棲むような暮らしをつづけ、マクドナルドのハンバーガーはニューヨークで食べようと栃木で食べようと、同じだと気づいた。草も石ころも、西安と宇都宮とではどこが違うというのだろう。
 いつしか私は旅人として、異質なものよりも、同質なものをより鋭く感じるようになり、その違いのなさに共感を覚えるようになっていた。
人間なんてたいして変わらないという、実感から得た認識だ。
それと同時に、気候風土も違うその土地で土を排し、海に網をいれている人の生き方が、気になつてきた。
地球のたいていどこにいっても、農民は悠揚たる農民の顔をしているし、漁師は精悍な漁師の顔をしている。
そう思ってその土地の人の顔を見ると、同じ地球に生きているもの同士の共感を覚える。
「よお、兄弟」
 そんな風に声をかけたくなる時がある。ほとんど言葉が通じない時のほうが多いのだが、お互いに中身はたいして変わっていないのだから、心の底のことは大体わかるのである。言葉は通じないはずなのに、気がつくと宴会の中にまじつていたりすることもある。肩を組んで、酔ったあげくの出鱈目の歌を歌っていたりする。
同じ時代に生きて在るという共生感を感じる。そんな時こそ、よい旅ができたということなのである。
 地球は自分の家といっしょだなどというと、大言壮語のたぐいなのだが、共生感とともに旅をすると、落ち着いたよい旅をすることができる。もちろん旅人としては自分の身は自分で守るという用心を忘れてはいけないのだが、その上に限りない安楽がある。旅先のその場所が、魂の休み場所になるのだ。
 つまるところ私は、魂の休み場所を求めて、見知らぬ土地をあっちこっち旅しているということになるのだろう。
 旅から旅の暮らしをしている私は、こここそ魂の休み場所と感じると、必ずといってよいほど文章を残してきた。それはまた、小説家の業というものかも知れない。何もしないでいたほうが、休み場所にはなるはずなのだが……。ともあれ私の勤勉のたまもので、本書があるのだ。
文芸社の他の本と同様、今回も編集は本間千枝子さんのお世話になつた。そのほかにもたくさんの人の手をへて、本書がある。
 読者にいたるすべての人に感謝する。
二〇〇二年一月 家にいる吉日に
立松和平

初版第1刷発行:2001・2・15

発行所:株式会社文芸社

価格:1800円


「日高」
初版発行:2002年1月30日
発行所:株式会社新潮社
価格:1500円
北海道・日高山脈の最高峰、幌尻岳。悪天をついて山頂を目指した6人の学生パーティーが、記録的雪崩で遭難・全員死亡した。奇跡的に、即死を免れた若者は、凍死するまでの間に、何を考え、何を見たのか______.。
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