魂の置き場所

後記
 北海道を中心にした文章を編んだ。思えば北海道にはじめていったのは大学一年生の時で、青函連絡船の船中から眺めた島影に、遥ばるときたものだと感動したものだ。それから北海道にいったのはもちろん数知れずで、今も一年に七度や八度は必ずいく。
 こうしてあちこちに書いた文章を集めてみて、私の人生にとって北海道と出会ったことが大きいと改めて気づいたのである。ことに知床の大地と海と出会い、そこに暮らす人々と邂逅といってもよい付き合いをはじめたのは、私にとって人生の宝を得たようなものである。そのような意味を込めて、本書のタイトルを「魂の置き場所」とさせていただいた。心の安息地というような平穏な感じではなく、この場所が絶対に必要だという積極的な意味を込めたつもりである。
 これからも北海道と私の関係はなんら変わることなくつづいていくはずである。こう書いていて、私は北海道の大地に立つ一人一人の顔を思い浮かべる。
 人生の最良のことは、よき人とのめぐり逢いである。
二〇〇七年 秋色にそまる東京にて
初版発行:2007年11月30日
発行所:株式会社柏艪舎

発売所:株式会社星雲社
価 格:1,700円+税
HP:http://www.hakurosya.com

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南極で考えたこと

☆はじめに − 南極の旅へ
 私が子供の頃、自然科学は人類をバラ色の未来に連れていってくれるものであった。子供たちの描く未来画は、超高層ビルの間を高速道路が行き交い、自動車が空を飛び、人々は太陽の光を浴びて快適に暮らしているというものであったのだ。
 あれから半世紀がたち、ある部分は実現し、ある部分は予想がはずれた。予想のはずれた部分というのは、人々が不安もなく快適に暮らしているという最も肝心なことだ。
 最近の子供が絵を描くと、超高層ビルや高速道路はすでに現実のことであり、未来の風景として、海は汚染されて魚の死骸が浮かび、酸性雨のために森は白骨林になっていたりする。
 科学技術は人類をバラ色の未来に連れていってくれるというだけのものではなくて、時に深刻な不安をもたらす。夢だったものが、いつしか悪夢となっているのである。
 さて、子供の私が胸を踊らせた南極観測隊である。第一次南極観測隊が灯台補給船「宗谷」(四八六〇トン、四八〇〇馬力)に乗って東京晴海埠頭を出港したのは昭和三一(一九五六)年十一月八日のことであった。
 敗戦国である日本は、飢餓の恐怖からはおおむね立ち直ったものの、戦後一〇年以上たっても深い傷が癒えないでいた。国際社会で日本は孤児であり、人々は自信を持てないでいたのだ。そんな時、日本が国際舞台に復帰し、日本人に自信を持たせるべく試みられたのが南極観測なのであった。
 人々は夢を南極観測隊に托した。千を超える企業が協力し、全国的に募金活動が展開された。国民的な歓呼の声の中を送り出された希望に満ちた南極観測隊であった。
 小学生の私は、南極観測隊の記録映画を、授業の一環として見にいった。砕氷能力の低い「宗谷」は、なんとか前人未踏のリュツォ・ホルム湾にはいり、オングル島への上陸を果たした。 国際舞台に復帰したといっても、観測基地として日本に割り当てられたエンダビーランドは気候が厳しく、かつてアメリカが七度上陸を試みて失敗し、接岸不能とまでいわれた難所であったのだ。国際社会の日本に向ける目は、それほどに厳しかったのである。
 唯一、上陸可能な東オングル島に昭和基地を建設したのは、昭和三二(一九五七)年一月二九日で、それから五〇年たった。最初の昭和基地は壁パネルを組み合わせて建てる日本初のプレハブが四棟で、日本建築学会の工夫である。
 いま、その当時の建物が一棟だけ記念館の意味を込めて残されている。大自然の中ではあまりに心細い小さなその建物の中にはいると、こんな狭い場所で越冬することに決めた二人の決死の激しい意気が感じられ、涙ぐましいような思いにとらわれる。その建物は現在六〇棟近い建物のできた昭和基地の中で、この場所に永久に残すべきであろう。
 帰路、砕氷船でもない灯台補給船「宗谷」は氷海に閉じ込められて身動きがつかなくなる。荒々しい南極の自然の前では、悲しいほどに非力な船である。氷海を脱出できないまま冬を迎えれば、全滅の死も想定しなければならず、絶望である。
 だが冷戦下の旧ソ連の砕氷船「オビ号」が救援に駆けつけてくれ、「宗谷」は無事に脱出することができた。そんな感動のシーンを私が鮮明に覚えているのは、学校で授業の一環として映画館に連れていかれて観た記録映画のおかげである。当時小学生より上だった世代は、誰でも知っている話である。
 子供の頃から心に焼きつけられているような昭和基地に、私は思いがけず行く機会を得た。現在南極で行われているのはあくまで観測であり、探検ではない。五〇年間営々と観測データが積み重ねられ、今や南極は不安な未来への覗き窓になっている。
 この間、たゆみない毎日のオゾン層の観測の結果、オゾンホールを発見した。宇宙からの有害な紫外線を遮断し、地球に生命の生存を許しているオゾン層に、春になると南極上空に南極大陸よりも大きな穴ができる。このことを突きとめたのが、日本の南極観測隊なのだ。この穴から生物の生存にとって害毒となる紫外線が降りそそいでくる。  自然界にない人工物であるフロンが、成層圏では紫外線によって分解されて塩素を放出し、この塩素がオゾン層を破壊する。さっそくフロンガスの製造は世界的に中止された。この観測は人類にとってまさに救世の予言者の仕事であったのだ。
 なお南極観測隊は、平成十八(二〇〇六)年度が第四七次観測隊、平成十九(二〇〇七)年度が第四八次観測隊である。それぞれ夏だけで帰る夏隊と一年間滞在する越冬隊がある。私たちが出会う面々は、四七次・四八次観測隊のつわものである。引き継ぎのために、南極の短い夏に両隊が合同になる時期があるのだ。その時に私たちも合流した。
 この得難い旅の同行者は、宇宙飛行士の毛利衛さんと、登山家の今井通子さんである。
初版発行:2007年11月30日
発行所:株式会社春秋社

価 格:1,600円+税
HP:http://www.shunjusha.co.jp

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伝統工芸、女性の匠たち

織る、染める、焼く・…‥至宝12人の「技」と「生き方」

◎まえがき
十二の対話
 みんな穏やかに微笑んではいるのだが、その技術を習得するためには長い長い時間が必要で、その間の苦労には耐えてきた。そして、いつしか高い境地に至ったのである。
 夫との死別に直面し、やむなくその世界にはいった人もある。子どもの頃からものづくりの環境にあって、咲く花とともに歩み、流れる水を追っていくうちに、この世界にたどりついた人もある。結婚した相手が職人で、舅や
姑に手ほどきを受けているうちに興味を覚え、いつしかこの世界にはいった人もある。
 女性は女性なりの道を歩むのが当然で、しかしやってきた世界は女や男を超えた普遍性を持っている。ものづくりの世界はあくまで手がつくるのであり、手の動きは感覚に支配される。つまり、それまでの人生が投影されてい
るのだ。そのことが、私にはゆかしくも楽しく感じられたことであった。
初版発行:2007年10月30日
発行所:祥伝社

価 格:1,600円+税

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二荒

 

 
初版発行:2007年9月25日
発行所:株式会社新潮社

価 格:2,000円+税

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道元禅師
(上)大宋国の空          
道元禅師
(下)永平寺への道          

一 清盛入道
二 木曾冠者義仲
三 伊子さま
四 重瞳の子
五 花山院
六 別離
七 出立の日
八 叡山
九 公胤と栄西
十 建仁寺
十一入宋
十二天童寺
十三正師
十四如浄和尚
十五日本へ

十六  大宰府
十七  孤雲懐弉
十八  深草安養院
十九  安嘉門院邦子内親王
二十  典聖寺
二十一 弁道生活
二十二 正法眼蔵
二十三 日本達磨宗
二十四 あらたなる出立
二十五 越前志比庄
二十六 永平寺
二十七 鎌倉へ
二十八 最後の旅

初版発行:平成19年7月25日
発行所:東京書籍株式会社
価 格:2,100+税(上)
大宋国の空
HP:http://www.tokyo-shoseki.co.jp/
初版発行:平成19年7月25日
発行所:東京書籍株式会社
価 格:2,200+税(下)
永平寺への道
HP:http://www.tokyo-shoseki.co.jp/
あとがき - 道元禅師の御生涯を書く
「傘松」前編集長熊谷忠興老師の依頼を受け、道元禅師の全御生涯を見据えた小説を書きはじめて、たちまち不安を感じないわけにはいかなかった。
 たとえば父母のことである。母は摂政関白家の松殿藤原基房の女(むすめ)伊子とされ、多少の異論はあるものの可能性は高い。しかし、父に至っては、久我源氏の源通親、もしくはその子の通具とされ、双方には強力な論拠がある。どちらか一方に決めてもらえば、物語作者としてはそのとおりに話の道筋を運んでいけばいいのであるが、どちらともいえないということなのだ。父と子とどちらかで書いたとして、人間関係の綾が最後までもつれずにつながらないと困る。最初にボタンをかけちがえれば、小さな矛盾が修復できない大きな矛盾に育ち、やがて決定的につじっまがあわなくなってしまうことはないだろうか。父と母のことが象徴的なのだが、微妙にわからないことがたくさんある。その理由は、道元禅師が御自身のことをほとんど語ってこられなかったからだ。道元禅師の御生涯を書くということは、それら難問をひとつひとつクリアしていかなければならないのである。
 道元禅師というたぐい稀な、不世出の人物の全生涯にわたる物語を書こうというのだから、父や母についてこの説があるあの説があるという書き方はできない。書こうとしているのほ一貫した物語で、エッセイとは違う。どこかで強い確信を持たなければ、一歩も書き進めていくことはできないのだ。
 毎月二十枚の原稿を書く。今月は調子が悪かったから休みというわけにはいかない。多少経験を積んできた小説家とすれば、二十枚を書くことはそれほど苦しいというわけではないのだが、はじめの頃は一歩一歩頑なに閉じられた世界をこじ開けていくような力術(わざ)が必要で、楽しいということからはほど遠かった。一字一行が私にとっては未知の世界で、苦しいことこの上なかった。それでも時は進んで締め切りは必ずやってくる。私は自分の状態をうんぬんする立場にはない。前に向かってただひたすらに書き進めていくよりないのである。そして、やがて気づいたのだ。これは私の修行なのだから、苦しいのは当たり前ではないか。むしろ苦しいほうが修行にはよい。その認識にどれほど救われたかしれない。

「典座教訓」のあまりにも有名な逸話である。道元禅師が大宋国の慶元府の港に着き、船中に留め置かれた時、一人の老典座が倭植(わじん)(日本産の椎茸もしくは桑の実)を買いにきた。その老典座が後に天童寺に掛錫していた道元禅師のもとを訪ねてきた。道元禅師は前に会った時に生じて答えが得られなかった疑問、すなわち弁道とは一体何であるかを問う。老典座の答えは明解であった。
(へんかいかつ)て蔵(かく)さず」
 すべての世界はまったく隠れていないということである。迷えるものにきっぱりといい放った言葉に出会い、私も目が開かれた。今自宅の机に向かっている私の前には、現在も過去も未来もあるのであり、すべての真理が流れている。それは寸毫(すんごう)も隠れているわけではない。すべては明らかにされているのに、それに気づかないだけである。私は海や山にいくことが多いのだが、自然という真理は知床や屋久島にいかなければないなどということではなく、私の机の上にも遍在しているのだし、禅寺の禅堂にもあり、家庭の台所にもあって、いたるところ真理の流れていないところはない。この認識は私にとってこれまでの世界観をまったく変えるほどに強く衝撃的なのであった。このことにおいて、道元禅師に教えをいただき、限りない沃野のほんの一部かもしれないのだが世界観を共有したといえる。
 また道元禅師の初めての著書『普勧坐禅儀(ふかんぎぜんぎ)』の大意は、真理は本来何不足なくそなわり、あらゆるところに通達しているということだ。必ずしも修行によって実証をしなければならないというものではない。真理は自在であり、なにも修行に苦労して努力するものでもない。真理とはまったくそのまま清浄で、穢れたり穢れを拭う明鏡があるというものでもなく、遥かにこれを透脱している。宇宙の真理はいつでもどこでもあまねく存在し、私たちは常に真理に抱かれている。この真理を仏法という。
 また『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』のうち「現成公按(げんじょうこうあん)」の巻にはこう書かれている。
「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、即ち法に証せらるるなり」
 仏道を修行するということは、自己を修行することである。自己を修行するということは、自己を忘れることである。自己を忘れるということは、自己がすべての真理に実証されることである。
 このように学んでくれば、私たちの日常のすべての行い、行・住・坐・臥の中に、真理は隠しようもなく現れているということがわかる。私たちの日常こそが、どこにでもある真理のまっただ中に位置しているのである。そうであるなら、人のするどんな行いもおろそかにしてはならない。私にとっては、道元禅師の御生涯を書くという修行の中を、機縁を持ってただひたすらに進んでいけばよいのだ。やはり書いていくことが私の修行なのだと、いつしか私は身心で理解したのである。
 それからは、毎月二十枚の原稿を書くことが楽しくなった。あくまで私に合わせてのことであるにせよ、その時その時の道元禅師とお会いでき、対話をすることができるからである。もちろんその座につくために、一ヵ月間は真剣に勉強をする。『正法眼蔵』やその他の著作を読み、国内や中国の御修行の地を訪ね歩き、時代は変わったにせよ道元禅師と同じ風景を眺める。そうすることが喜びとなったのだ。

『正法眼蔵』や『正法眼蔵随聞記』は深淵かつ美しい言葉の宇宙である。難解きあまりない言葉も多いのだが、味わっているうちに、いつしか私の人生が豊かになる。これが修行ということなのだと、私は嬉しい認識とともに実感する。
「渓声山色」の巻の蘇東坡の偈(げ)を何度も何度も味わう。

  渓声便(すなわ)ち走れ広長舌
  山色清浄身に非ざること無し

 渓流の音はすなわち永遠の釈迦牟尼仏の説法の声である。見渡すかぎりに見える山は、すべて釈迦牟尼仏の清浄心である。蘇東坡のさとりとは自然そのものが仏だということであり、自然の中にこうしている自分もすなわち仏だとさとったのである。煩悩があるわけでもない自然はそのまま仏の清浄心で、そのことをさとった耳には、渓流の流れもまたすべての自然の音も釈迦の説法と聞こえる。自然は完壁に調和して微動だにせず、これこそが仏祖の世界だ。とらわれもなく山の中にいることのできる自分は、仏の世界に遊んでいるといえる。もともとさとっている自然が、さとりを開いて自然の中に投入した自己の中に投入してくる。蘇東披はこのように偈をつくったのだ。私自身はさとりからはほど遠い地点にいるのだが、あるべき世界のことはぼんやりとだが見えはじめた。
『正法眼蔵随聞記』(四・一)には、道元禅師が肉声で語りかけてくれるような言葉が響き渡っている。
「学道の人は身心(しんじん)を放下(ほうげ)して、ただひたすらに仏法の中にはいるべきです。
 古人はいいました。『百尺の竿頭(かんとう)の上にあってなお一歩を進めなさい』
 いかにも百尺の竿頭の上に登って、手を放せば死んでしまうと思って、人はいっそう強くとりついてしまうものです。それを思い切って一歩進めなさいといっているのは、教えにしたがうのだからまさか悪いことにはなるまいと思い切り、すべてを捨ててしまえばよいのです。そうではあるのですが、世渡りの仕事からはじめて、自分の生活の手段に至るまで、どうにも捨てられないものですね。それを捨ててしまわないうちは、髪の毛についた火を払うようにして余裕もなく学道をしていても、道を得ることはできません。思い切り、身も心もともに捨ててしまいなさい」
 私にとっても切実な箇所であるから、その一節を現代語に直させてもらった。道を究めようとする最後のその一歩は困難きわまりなく、その一歩によって世界が開かれると、私は長いこと理解していた。もちろんそれで間違いはないのだろうが、困難な最終的な一歩とはどのようなことであるのか。努力をすれば、なんとか進むことのできる一歩なのか、あまりにも困難きわまりない凡夫には不可能に近い一歩であるということである。長いこと私が考えていたのは、努力が足りないからその一歩を進めることができないという凡庸なことであった。そうではないと、やがて考えを改めた。百尺の竿頭の上に立っても、その先にはなにもない。なにもないのだが、なお一歩を進めなさいと説いているのだ。それでは死んでしまうではないかなどと己れを守ることは考えず、思い切って仏の家に身を投げ入れてしまいなさいということだ。用心深く一歩一歩を進めるのではなく、なにもない世界に向かって一気に身を投げ入れることによってしか、到達できない世界がある。そこまでいきなさいと、道元禅師は力強く私たちを励ましているのだ。
 もちろん簡単にできることではないのだが、身心を放下するとはすべてを捨てることなのだろう。道元禅師の著作を読み、自分ながらの道をほんの少しずつでも歩いていくうち、自分自身が変わっていることを認識する。そんな瞬間が数限りなくある。それが道元禅師とともに生きるということなのだ。変わるたびに、ほんの少しずつではあるが道元禅師その人に近づいている。道元禅師の小説を書きつづけていくということは、少しでも道元禅師に寄り添い、その時その場の状況の中で苦悩し、道元禅師の通ってきた道を生き直すことなのだ。
 旅に出かける時も、『正法眼蔵』の何巻かを鞄にいれていき、飛行機や電車の中のわずかな時間もページを開くことが私の習慣になった。御生涯をたどるうち疑問点が生じると、私は「傘松」元編集長熊谷忠興老師や、昌林寺東堂故郡司博道老師を訪ねる。郡司老師は同じ東京に住んでいることもあり、労を惜しまずいつでも私のために充分な時間をとってくださった。郡司老師との対話の中で生じてきたイメージに助けられたことは多い。
 一人で『正法眼蔵』に向き合う時間が、私には限りなく豊饒の時となってきた。また小説を書く時も、毎月二十枚分ではあるがこれから道元禅師にお会いするのだという私なりに心躍る気持ちにもなってきたのだった。
 道元禅師をイメージで語るなら、月である。『正法眼蔵』には豊かな月のイメージがあふれている。
「現成公按」には、人がさとりを得るということは、水に月が宿るようなものであると説かれている。月は濡れず、水は破れない。月は大きな光なのだが、小さな水にも宿り、月の全体も宇宙全体も草の一滴の露にも宿る。一滴は月全体や全宇宙を呑んでも、なお余りある。この一滴とは、私たちのことである。人間存在をここまで根源的に強く認識することが、道元思想の根幹であり、私はそのことに魅入られた。
「都機」の巻にはこう説かれている。
「釈迦牟尼仏言く、(いわ)仏の真なる法身は、なお虚空の如(ごと)し、物に応じて形を現ずることは、水中の月の如し」
 真理である仏とは、形のない虚空のようなもので、水に映る月のように物に応じて形を現じる。つまり、私たちの心や身にも仏は現じるということだ。そうであるなら、仏が現じるためには、受け止める側の心も波風のない澄んだ水面のようでなくてはならない。全宇宙を宿す一滴の露も、それが濁っていれば、全宇宙も曇って見えなくなる。心の水を澄ませるように精進することが、すなわち修行だ。
「光、万象を呑む」
 真理である月光が、森羅万象を呑み尽くしている。万象は例外なく仏法に柔らかく包摂されていて、たとえそのことを意識していなくても、そのようにしか存在しない。「て蔵さず」ということである。月光は太陽光と違って人に意識されることも少ないのではあるが、柔和に包まれたその光の中から誰も逃れることはできない。仏法もそのようである。真理の形をこれほど美しく見事に語った言葉を、私は他に知らない。人が意識しょうとしまいと、月という真理に照らされ、なにもかもが隠しょうもなく露わになっている。
 月光はすべての森羅万象を呑み尽くすと同時に、心の光がすべての森羅万象を心の中に含んでしまう。万象の中には、生もあり死もある。生きて死ぬことが私たちのさとりなのであるが、生も死も隠されているわけではなく露わだ。全宇宙で隠されているものは塵ひとつさえなく、すべてが私たちの目の前にある。過去も過ぎて消えてしまったのではなく、未来はいまだ現れず見えないのではなく、すべてがこの今に現成されている。人が認識しょうとしまいと、ここにはすべてが厳然としてある。すべてが露わになっているのに認識できないのは、認識できない私たちの問題に過ぎない。
て蔵さず」とはこのように、道元禅師の思想の根幹なのである。私は認職をもどかしいほどにわずかずつ一歩一歩と進めて、道元禅師の御生涯を書き進めていったのである。私にとってはまことに尊い御縁であった。
 お断りしておかねばならないことがある。上巻のなかの十四章までの多くは『道元』(小学館)としてすでに上梓されている。その時はページの容量が決められていて、原稿を大幅に削らねばならなかった。物語の部分を、主に落とさざるを得なかったのだ。作者としてはつらい選択を強いられたのである。今回、古くから仕事を共にしている編集者、東京書籍の小島岳彦氏が、完全版での出版を強く熱心にすすめてくれた。そのことがあり、旧稿に全面改稿をほどこし、小島氏にすべてをゆだねたしだいである。おかげで道元禅師の御生誕直前の時代から、御遷化までを一貫して描くことができた。これが本来の私の望みである。
 最終的には「傘松」誌上に百回連載し、なお百枚の書き下ろし分を付け加えた。原稿総分量は二千百枚である。本書がこのような形になるまで、九年以上の歳月を要した。これまでに多くの助力をくださったすべての人に、感謝の意を捧げるしだいである。

 戦後民主主義教育で、人間は平等だと教わった。勉強が出来るやつも出来ないやつも平等だと。では、なぜ勉強しなければならないのか、と疑問に思った。
鎌倉時代初めに少年道元も同じような疑問にとらわれた。仏教は、「人間は本来悟った存在である」と説く。ではなぜ人間は悟りを求めて修行をしなければならないのか。
 道元は此叡山を降りて、臨済宗の栄西に疑問をぶつけ、やがて師を求めて中国に渡り、曹洞宗の如浮の下で悟りを得る。帰国して京都郊外に興聖寺を開くが、比叡山の圧迫を受けたため、越前の永平寺に移り、弟子を指導し、53歳で寂す。その思想は『正法眼蔵』として残る。
「女性関係もないし、権力との緊張関係もないから、小説にするのは難しいですね」
 と、立松和平さんは微笑む。
 親鸞や日蓮はいくつも文芸作品に描かれてきた。しかし、道元はほとんど書かれたことはなかった。700回忌(1952年)の時に、作家里見_氏が永平寺から執筆を依頼されたが、完成には至らなかった。
9年の連載後に100枚加筆50歳代を費やしたことになる
 2002年の750回大遠忌に向けて、立松さんが執筆を依顧されたのは、その5年前だった。
「10年はかかりますよ、と言ったのだけれど、いいですよ、と言われてしまって(笑)」
 永平寺の機関誌での連載は100回、9年に及んだが、連載終了後、100枚を書き足し、上下2巻として刊行された。立松さんの50歳代を費やしたことになる。
「毎回苦しくてね。でも、道元は行住坐臥(ざが)すべてが修行という考え方です。だから、これも僕の修行なんだ、分からなくて当たり前なんだ、書きながら学んでいけばいいんだと。リズムが出来てからは楽しくなりました」
 学者の研究でも道元の生涯のすべてが解明されているわけではない。母親は藤原摂関家のお姫さま、父親は久我源氏までは分かっても、人物まで特定されていなり小説家としてはそれを埋めなければならない。語り手として、道元より30歳年長の従者右門を登場させた。
「右門は僕ですよ。フィクションでカバーするのにフィクションをつくった。小説は大衆が読むものですから、道元思想が高邁(こうまい)だからといって読者をはねつけるのはおかしいじゃないですかじやわらかく噛(か)みくだいて、できたら美しい文章で全編を通す。それが僕の仕事じゃないかな、と」
 摂政関白を嘱望された道元は13歳で元服する。このとき4歳の邦子内親王が内約の妻とされた。その釣束は道元の出家で反古(ほご)になるが、広大な所領を相続した彼女に後助され、道元はその所領に興聖寺と永平寺を建立する。二人の関係は、立松さんの様々な疑問に答えてくれた老師が力説するところだったという。
「歴史家は認めないかもしれないが、精神性の恋愛みたいなことをちょっと書かせてもらった。こういうのがないと辛(つら)いですよね(笑)」
 執筆しているうちに750回忌を迎え、記念の歌舞伎公演の台本を頼まれた。立松さんにとって初めての歌舞伎『道元の月』は、鎌倉での道元と北条時頼の会見を描く。
「如淳の教えの『権力者に近づくな』と矛盾するが、時頼は三浦一族を合戦で滅ぼすなど、焼けたフライパンの上にいるようなもの。迷える21歳の若者時頼を救いに菩薩の行いで鎌倉に下向したということにした」
 道元の生涯にもけっこうドラマはあったのだ。9年間道元と向かい続けて、自分はずいぶん変わったという。
「<遍界曾て蔵さず>(へんかいかつてかくさず)。世界は何も隠していない。この言葉を噛みしめて生きるみたいな感じ、今はね」
インタビュー。文 高橋 誠

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晩 年

後記  
 「三田文学」編集長加藤宗哉氏とは、不思議な縁がある。お互いに学部の学生の時代は終っていたが、終って間もなくの頃である。加藤氏は「三田文学」に小説を発表し、私は「早稲田文学」を舞台として創作活動をしていた。お互いにライバル視するところがあり、加藤氏がよい作品を発表すると、すかさず私も読んで、闘志を燃やして新たな作品に向かっていったものだ。三十五年以上も前のことである。私たちには文学の青春時代といったところであったのだ。  あれから幾星霜をへて、「三田文学」編集長になった加藤氏から短篇小説を書かないかといわれた時、私には過ぎ去った時というものが整ってきたのである。思いをこらしてみれば、消えていった時の中で同様に消えていった数々の人がいる。私の中に生きている人々は、私がその人のことを忘れてしまうと、少なくとも私が支えていた分だけの存在が消滅する。そのことを痛みのような感覚として感じたのである。
 私のまわりには、彼岸に旅立っていった人がなんと多いことであろう。その人々の列は、今もつづいている。時の流れとともに、人々は列をなして冥界へと向かう。もちろんその列に私もいつかは加わるのであるが、この世に在る間は、一人一人を惜別の念とともにていねいに見送りたいと願う。短篇連作を先の展望もないまま書きはじめ、とりあえずの今のこの号をどうしようかと立ち止まっているうち、ふとそんな気持ちになった。
 「三田文学」は年に四冊でる季刊誌である。私は三ヵ月に一度身のまわりに材を探さねばならない。材料がなくなるとの不安がないわけではなかったが、過去まで遡っていけば、それは杞憂であった。消滅と生成をくり返すそんな時間の中を私は生きているのであるし、また私はそんな年齢になったということだ。
 棺の蓋を覆ってからでなければ、その人のことはわからない。そんな意味の諺があったが、生きている間は人には自我や見栄などがどうしてもあり、その人の本性はくらまされている。人は死ぬ時、その人を繕っていた属性が剥がれる。一瞬、ありありとその人自身として存在することがある。そのことこそまさに短篇小説の生起する瞬間である。
 このように身のまわりの死者について書いていくということは、私自身の人生について綴るのといっしょのことだ。加藤宗哉氏とは連作はできるだけ先までつづけていくと約束している。本書を「晩年」としたのは、短篇連作「晩年まで」はまだつづくからである。私が死者の列に加わって連作は終り、誰かが私を送ってくれるというのが理想だが、もちろん先のことはわからない。
  二〇〇七年、夏に向かっていく若葉の東京に
初版発行:2007年6月6日
発行所:人文書院
価 格:2,600円+税
HP:http://www.jimbunshoin.co.jp/

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知床の四季を歩く

あとがきにかえて ヒグマと暮らす奇跡の空間
 知床は野生の生態系がよく残っているところである。知床半島の奥地にいくと、ヒグマが数多く生息している。野生のヒグマを見ることは、それほど困難ではない。ここに知床の特異性があるのだが、そこには漁師たちが定置網の漁業を営む番屋があって、無人の大自然というのではない。
 人にはヒグマは危険な動物だという思いがあり、かつては姿を見かけしだいに駆除という言葉を使って射殺していた。北海道の開拓の歴史とは、一面でヒグマとの闘争でもあったのだ。ヒグマにしてみれば、その生態系の中に昔から当たり前に生きていただけなのに、いきなり人がやってきて生活環境を荒らしたということなのである。そこに因果が働き、ヒグマにすれば闘争のほうに追いやられたということなのだろう。
 知床の番屋のある漁師は、撃っても撃ってもヒグマが出てくるために、彼らの世界を犯しているのは自分たちではないかと考えるようになった。そこで撃たないようにしたら、ヒグマは漁師たちが網仕事をしているすぐそばにきても、何もせずただそこにいるだけなのだ。ヒグマは理由がなければ闘争はしない。姿を見ただけでなんでもかんでも殺すのは、人間だけなのである。
 ヒグマがそばにきても、漁師は気にもせずに自分の仕事をする。ヒグマにしても、人間が自分たちの暮らしを邪魔立てするわけでもないから、ヒグマはヒグマを天真欄漫に生きているだけである。人間を気にせずに生きているのだ。
 ヒグマ自身は自覚してはいないだろうが、人間がはいってきてから川にサケやマスが格段に多く遡上(そじよう)するようになった。孵化(ふか)事業をしているからである。もちろん人間の側からしても、ことさらにヒグマを驚かせるようなことはしないよう特に注意をしている。
 ここに世界でも類を見ない、人間と野生のヒグマが共存する奇跡的な空間が出現したのだ。まことに微妙なバランスの上に成立している野生の聖地は、誰でも足を踏み入れてよいというところではない。そっとしておくべきだ。
 知床を語る時、私はこの話がまことに象徴的であると思うのだ。知床はただ原始の野生が残っているから貴いのではない。その生態系の中に、人間が見事に位置づけられているからこそ、貴重なのだ。
 生物間の生態系とは食物連鎖の流れが中心であり、あらゆる生物は自分より弱い生命を食べて生き延びている。私たち人間も、魚や植物や家畜を食べなければ命を養うことはできない。人間がその生態系の中に位置するということは、野生の生きものも食べるということなのだ。
 知床の野生の生態系は、陸上で最大の動物であるヒグマが歩き、空には猛禽類のオオワシやオジロワシが飛んで、海にはクジラやトドが泳いで、完全であるといえる。そこにすべての食物連鎖の頂点に位置する人間がいて、漁業をしている。地球の生態系とは、人間を排除したところに成立するのではない。人間が生きられる生態系でなければならないのである。
 「俺たちが自然を大切にしてきたからこそ、世界自然遺産にも登録されるのじゃないか。世界自然遺産のために、何かを特別につくるということではない」
 知床が世界自然遺産に登録するにふさわしいかと、議論がかまびすしい頃に、番屋の船頭が私に向かってふといった言葉である。まことに正論だと私は思ったしだいである。
 自然を保護しなければならないのは、そこが人間が生きられる空間ではなくなってきたからだ。食物連鎖が完全に残っていなければ、人間も生きられないのである。人間を排除してと、排除しないでと、どちらの自然に価値があるかは議論を待たないであろう。
 知床は海の幸も、畑の幸も、また山菜などの山の幸も、格別においしいところだ。人間の生きる大地の知床が、世界自然遺産に登録された意味は大きい。
初版発行:2007年5月31日
発行所:株式会社 樹立社
価 格:1,100円+税
HP:http://www.juritsusha.com/

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まきば
牧場のいのち

初版発行:2007年3月12日
発行所:株式会社くもん出版
価 格:1,200円+税
HP:http://www.kumonshuppan.com

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大洪水の記憶

木曽三川とともに生きた人々

おわりに ー 伊勢、裏木曽、木曽三川、そして志摩の海へ
 私は『毎日新聞』東海版に、「もの語る旅−東海の道を歩く」を書き継いでいる。愛知県、岐阜県、三重県を歩き、その土地の風土や歴史を掘り下げていく仕事である。どんなことがあっても、毎週四百字詰六枚の原稿を書かなければならない。伊勢からはじまったその旅は、長良川の鵜飼、神岡鉱山のカミオカンデ、芭蕉、円空、万国博覧会、裏木曽、木曽三川流域ときて、現在は志摩の海を歩いている。最初はこんなにつづける心づもりはなかった。その土地を掘れば掘るほど遠い記憶が甦ってくるから、一歩いけばその先が見えてくるというふうに、書くべきことが後から後から湧き上がってくる。たまたま私が立ったのが東海三県だということで、日本中いや世界中すべての土地が、掘れば噴きこぼれてくるようにあふれてくる物語に満ちているのである。
 私にはその土地にいけばなんとかなると楽天的に考える傾向はあるにせよ、実際にはいつも時間とのぎりぎりの闘いになる。輪中を中心とした木曽川と長良川と揖斐川の物語を書こうとしたことについては、私なりの流れがあった。最初は無造作ともいえる一歩を伊勢にしるし、古代の時間がそのまま流れていることに衝撃を受けた。そのために、伊勢神宮を中心とした私なりの宇宙が構想されたのである。伊勢神宮の二十年遷宮の用材を伐り出す神宮備林のことが知りたくて、しばらく置いてから木曽ヒノキの裏木曽にはいった。すると木曽ヒノキを流送するための木曽川のことが知りたくなり、「大洪水の記憶」をめぐる木曽三川の旅をしたのである。
 ここまでの旅は、実は多くがすでに刊行されている。裏木曽の木曽ヒノキについては、『日本の歴史を作った森』(ちくまプリマー新書、二〇〇六年八月十日)、伊勢については『伊勢発見』(新潮新書、二〇〇六年十一月二十日)になった。次いで芭蕉と円空については『芭蕉の旅、円空の旅』(NHKライブラリー、二〇〇六年十一月二十日)となる。木曽三川については本書が上梓された。木曽川を下って伊勢湾に出て、「志摩の海」は現在まさに連載中である。つまり、本書は私にとっては最も新しい旅の記録ということだ。 「大洪水の記憶」の旅をはじめるにあたり、最初の一歩を踏み出すためにとにかく動いてみようと、船頭平河川公園にいった時のことを私は思い出す。公園の一画に木曽川文庫の古風な建物がある。こんなところにこそ埋もれかけた記憶が残っていることを経験的に知っている私は、木曽三川の治水に関する資料にあたりたくて、ひっそりとした書架の前に立った。その時にたまたま手にした『体験伊勢湾台風 −語り継ぐ災害・復旧−』と題された簡素な造本の書物に、私は記憶の扉を開かれたのだ。およそ半世紀前の生々しい記憶が、そこには鮮明に記録されていた。私はこの書物から、時の旅をさせてもらうことにした。
 本書が私一人の力で書けたとは、絶対に私は思わない。私の前にはおびただしい数の死者がいて、今もどこかで生活されているに違いない体験者がいる。そして、資料を提供してくれた人がいる。私の机の引出しに残っていた名刺を頼りに、その時お世話になった人の名を列記したい。
 中村稔氏(船頭平閘門管理所木曽川文庫)、藤澤彰氏(国土交通省中部地方整備局木曽川下流河川事務所)、伊藤明氏(国土交通省中部地方整備局木曽川上流河川事務所)、神野正美氏(海津市歴史民俗資料館)、山内久和氏(治水神社宮司)。このほかにも、まだまだ書き切れないほど多くの人がいる。私の旅の友はいつも、毎日新聞社カメラマンの伊藤俊文氏と小林理幸氏である。
二〇〇六年十二月
初版発行:2007年2月20日
発行所:株式会社サンガ
価 格:700円+税

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芭 蕉

「奥の細道」内なる旅

後 記
 芭蕉は禅の人である。深川の芭蕉庵の近くには、仏頂和尚が錫をとどめいた臨川庵があった。 二つの庵は、わずかに小名木川という小川をへだてていただけであった。本来は常陸国(茨城県)の鹿島根本寺の僧であった仏頂和尚は、寺領の訴訟のため江戸に上がっていた。これが芭蕉にとっては幸運であったのだ。
 根本寺は聖徳太子創建と伝えられている名刺で、徳川家康が鹿島神宮の領地から百石を割いて寺領にした。しかし、根本寺には無住の時期があり、百石の寺領が鹿島神宮に戻された。延宝二(一六七四)年に仏頂が根本寺の住職になると、寺領を取り戻すための訴訟を起こした。まことに俗なことではある。
 訴訟は天和二(一六八二)年に落着して、百石の領地は根本寺に戻ってきた。訴訟の間、仏頂和尚はしばしば深川の臨川庵に来て、芭蕉は朝な夕なに参禅をした。芭蕉が深川に居を移したのは延宝八(一六八〇)年冬のことで、三十七歳の時である。仏頂和尚と芭蕉との交渉があったのは、この年とその翌年のあたりであろう。貞享四(一六八七)年八月には、芭蕉は曽良と宗波をともなって仏頂和尚を訪ね、「鹿島詣」の旅に出ている。つまり、仏頂和尚はこの時には鹿島に帰っていたのである。
 仏頂和尚の名が後世に広く知られるのは、『奥の細道』で芭蕉が黒羽の雲厳寺に仏頂の事蹟を訪ねたからである。雲厳寺は臨済宗妙心寺派の根本道場で、芭蕉の時代も今も外来者の参拝を許さない。芭蕉が入れたのは、境内までだったのである。芭蕉は裏山の仏項和尚が山籠りをした跡を訪ねる。
 そこは縦横五尺にも足りない草の庵で、深川の芭蕉庵よりよほど粗末であったようだ。五尺といえば百五十センチで、坐禅をするのがやっとという狭さである。そんな庵でも、雨風を避けねばならず、人は生きるために屋根や壁をつくらなければならないのは悔しいことだ。芭蕉は仏頂和尚と自分を感応させ、家などいらず、何もいらないという道心の覚悟について語っている。鳥も獣も虫も一糸まとわぬ真っ裸で、何一つ所有せずに生きているではないか。四季がどのように移ろおうと、自然に身をまかせて自在に生きている。どんなに深い道心をもっていても、そこにいるために庵を結ばなければならない人間は、なんと不自由なことだろう。雲厳寺を訪ねた芭蕉の感慨は、このようであろう。
 芭蕉は所有しているものを一枚一枚脱ぎ捨て、最後に残った肉体も旅の中に捨てた。しばしば芭蕉と参禅をした其角は、俳諧はすなわち禅のごとしといっている。芭蕉や其角の目ざしたのは、俳禅一致の鍛錬であった。一枚一枚捨てていくのはまことに困難な鍛錬であり、芭蕉の表現とはその困難に向かって歩んでいくことであったと私は思うのだ。困難はそんなに簡単に達成できるものではない。その困難を知っているからこそ、芭蕉は醒めていた。
  いなづまに悟らぬ人のたふとさよ  晩年の芭蕉のこの句に接すると、理想の深さが感じられる。芭蕉が目ざした究極の俳語とは、詩によって諸法実相に迫ろうということだ。すべての偏見を捨てて諸存在を見ると、諸存在の諸相が一貫した真理(法)につらぬかれ、現象としての姿(相)を現じていることがわかる。それが諸法実相である。芭蕉のすぐれた俳語は、諸法実相を詩にしたのだ。それを蕉風と呼ぶ。
 禅者道元に導かれて、『奥の細道』の精神性を旅したのが、本書である。実際の私の旅は、月刊誌「ナーム」への連載という姿(相)をとったため、ゆっくりと歩きはじめ、多くの人のお世話を受けつつ、多くの時間を費やしたのであった。
二〇〇六年十一月
初版第1刷発行:平成19年1月30日
発行所:株式会社佼成出版社
価 格:1800円+税
H P :
http://www.kOSei-Shuppan.co.jp/

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地球の息

後記
四阿山
 毎日ほとんど文章を書いているのだが、数年前に書いたのに、もっと深刻な状態に進行していることに気づかされる。自分の過去に書いた文章に、改めて驚かされる。その深刻なことをいつしか忘れているからだ。それと次から次へと深刻な事態が押し寄せるからである。
 私がほぼ毎年冬に出かけていく知床の流氷は、年々歳々力が弱っているように感じられる。私は現在月刊雑誌に「百霊峰巡礼」を連載中で、ここのところ群馬県と長野県境にある四阿山(あづまやさん)と、福島県の安達太良山(あだたらさん)に登ってきた。紅葉の絶頂期を狙っていったのだが、どうも今年の紅葉は美しくない。モミジもブナも、燃えるような赤や黄に映えるのではなく、錆びたようにくすんでいる。秋になっても寒気がやってこないため、紅葉になるタイミングをつかめないでいるのだ。おまけにミズナラもコナラも、ドングリをつけていない。山の中は大変な不作で、クマやサルや山に生きるものにとって、試練の季節となった。野生動物たちは里に降り、人間との不幸な接触をしなければならない。
 また先日は奈良県の柿栽培農家を取材したのだが、暖かいおかげで柿がたちまち熟して困るということだった。固い上等な品を出荷しても、すぐに柔らかくなってしまう。樹になっていた最上級品を一個もいでくれたのを私はもらってきたのだが、三日後に家に着いたら熟し柿になってしまっていた。
ビニール袋にいれておいたので、鞄の中はまあ無事だったのだが……。
 本書は私が生活した上での実感が、その時の必要に応じて書かれている。その上で全体は恐ろしい環境汚染に向かっていると考えないわけにはいかない。
 たとえば東京湾は、栄養物質がたまりすぎて生物の生息環境にとっては有害な海となり、あり余るプランクトンの死骸が海底にたまり、ヘドロ状の無酸素の層ができている。そこでは生物は生きられない。また大量に工場生産された有機塩素化合物が、内分泌撹乱物質、すなわち環境ホルモンとなって海洋に流れ込み、また南では使われた農薬が大気によって極地に運ばれて蓄積されているという。
「PCBはクジラ、イルカ、アホウドリなど分解酵素を持っていない生物内に蓄積され、たとえばアザラシを食べたイヌイットの子供に免疫がなくなる病状が出るのだという。深海魚まで汚染されている。食料資源は生態系の産物である。人間中心ではない生態系本位の自然観を確立しなければならない……。(「海洋汚染」)」
 私自身の日常生活の中の好奇心から出発した探究の記録が、いつしか深刻な認識に至っていることを、私は改めて知るのであった。
 前作『象が眺める』と同様、今回も柏艪舎の可知任恵さんの熱意あふれる仕事ぶりの結果、この本がある。
二〇〇六年 晩秋 冬の日差しを感じる東京にて
初版発行:2006年12月31日
発行所:株式会社柏艪舎
価 格:1700円+税

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