古代の衣食住現代に伝る
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 なぜ日本人はかくも伊勢へ伊勢へと心魅(ひ)かれてきたのであろうか。
 私は高校生の時に修学旅行で訪れて以来、いつしか伊勢の内奥へと一歩一歩はいりはじめ、忘れていた遠い記憶の底と邂逅(かいこう)したように感じてきた。私は日本の原郷と出会ったのである。ここ数年も通いつづけ、このたび本を出した。あらためて、その魅力の一端でも語りたい。
「日本書記」では第十代を数える崇神(すじん)天皇の御代、一説によれば西暦3世紀前後、国内に疫病が流行して人が多く死に、日夜天神地祇に祈っても農民は恐怖にかられて離反をしつづけた。崇神天皇は自分のまつりごとに何か誤りはないかと考えた。
 宮中には皇祖神である天照大神と、地主神である倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)の二柱を祀っていた。この二柱の神の力を畏れ、八百万神が共に住もうとしない。これが誤りだということになり、天照大神の祭場を天皇の暮らす政庁から分離した。つまり政教分離をすることにしたのである。
崇神天皇は豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に、天照大神を倭の笠縫邑(かさぬいむら)に祀らせる。次代の垂仁天皇(すいにんてんのう)の時代になり、豊鍬入姫命の後を継いだが、天照大神の鎮座地を求め、送駅使の五大夫に守護されて巡行はじめる。五大夫とは軍隊のことであったと思われる。力の関係で鈴鹿峠を越えることができず、北上して琵琶湖東岸の米原までいき、尾張に入れず南下して伊勢に至る。これが大和朝廷の勢力範囲であった。倭姫命の巡行は、大和朝廷の日本国内統一のための布石だったと考えられる。

式年遷宮、調度も一新
 「常世(とこよ)の浪の重浪帰(しきなみよ)する国なり、傍国(かたくに)の可怜(うま)し国なり。是の国に居らむと欲(おも)ふ」
 光まばゆい伊勢にたどり着くと、倭姫命はこのようにいった。常世(とこよ)とは、常に変わらず、長寿と富とを与えてくれる国だ。こうして五十鈴川のほとりに斎宮を建て、天照大神は落ち着きどころを得た。これが伊勢神宮内宮の鎮宮由来である。後の雄略天皇の時代に、天照大神に食事を供する豊受大神が、丹波国から伊勢に遷宮されてきた。こうして外宮ができたのは、内宮ができて約200年の後であるとされる。
 天照大神はあらゆる生命の源太陽神で、豊受大神すべての産業の守護神である。お伊勢参りは外宮から内宮へと参るのがならわしだ。稲をつくる人々である日本人にとっては存在を支える根本の神である。
 以上が伊勢神宮成立のあらましだが、伊勢神宮の価値は、古代の衣食住にかかわる生活文化をそのまま残していることだ。20年に一度の式年遷宮は、建物ばかりでなく、神の使うすべての道具や調度を一新するのである。これは稲が毎年育って米をつくるという再生の思想を、神事として表現している。

再生の思想、目で確認
 式年遷宮が定められたのは、天武天皇の奈良時代で、約1300年前だ。同じ頃、一度焼けた法隆寺の伽藍が再建されている。法隆寺は世界最古の木造建築で、一方の伊勢神宮は20年に一度、稲のように甦り、古代の生活文化を現代に伝えている。この二つの道が同時につづいてきたことが、日本文化の深さだ。
 なぜ20年に一度の式年遷宮なのか。20年に一度では木も育たないし、人間の側の都合なのではないだろうか。奈良時代の日本人の平均寿命は38歳ほどであったという。唯一神明造りの技術を自ら習得し、なお後世に伝えていくため、20年という歳月はぎりぎりの時間だったのだ。たえず死と再生とをくり返す人間にとって、溌剌(はつらつ)とした文化を気概を保って後世に伝えていくには、まことに理にかなった方法なのである。
 よくいわれることだが、永遠の輝きを保つはずの大理石で紀元前438年に建てられたギリシャのパルテノン神殿は、幾度かの戦火にみまわれたにせよ、現在は廃虚である。一方、政教分離の伊勢神宮はもろくて腐敗しやすい木と萱とでつくられているのに、1300年たっても新しい。伊勢では日本人の本来の精神性である再生の思想を、目を見張るかたちで確認することができるのだ。
 伊勢神宮では、米を炊くのも、塩をつくるのも、布を織るのも、頑なまでに古代の様式が保たれている。神宮神田で栽培されるのは、ここで生まれた品種のイセヒカリであるが、外宮で調理される神に供する食事、すなわも神饌(しんせん)の火は、檜の板にヤマビワの心棒を激しくこすりつけてつくられる。
 この火で米を蒸し上げ、酒、塩、水、鮮魚二種、野菜、果物の9品目を一人前とし、六人前を辛櫃(からひつ)にいれ、古代の装束の神職が担いで、神々の食堂たる外宮正殿裏の御饌殿(みけでん)に朝と夕、少なくとも1500年間、毎日運ばれてきた。食材もすべての道具も自給自足されるのである。
 日本人の原郷として、このように古代の記憶を伝えている伊勢の伝統は、世界の奇蹟(きせき)といってもよいのではないか。過去を振り返り、未来に向かってどう生きたらよいかを示してくれるのが、伊勢なのである。
朝日新聞(夕刊)2006年12月20日(水)

椎葉村で考えた
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 台風が迫っていて山の樹木が騒然とし、雨も降りかかってきた。宮崎県の椎葉村で、先祖代々猟師を営む尾前善則さんの家には、山襞を縫って走り道に迷い、なかなか到着しなかった。そうしている間にも、刻一刻台風は近づいてくるのであった。
 尾前さんは家の中で待っていてくれた。私たちがあわただしく訪ねていくと、今日はもう来ないのではないかと思っていたと言った。座敷に上げてもらい、鴨居を見て驚いた。イノシシの下顎の骨が100個以上もならべてある。
「すごいなー」
 私が言うと、尾前さん言葉を返してきた。
「何がすごいもんか。ほんの一部や」
 60年間で1200頭のイノシシを仕留めてきたというから、ほんの一部に違いはないのである。このあたりの伝統的な猟は、犬を使う。犬がイノシシを追い詰め、人間を待つ。犬が囲んで吠えてイノシシを動けなくしているところに人間が行き、鉄砲で撃つ。犬とは普段から深い信頼関係を築いておく。犬といっしょに山に入り、あっちこっちにつくってある小屋に泊まってイノシシを追う。昔は過ごして気持ちのいい山が多かったが、だんだんそんな山はなくなってきたと尾前さんは嘆く。
「のらさん福は願いもうさん」
 尾前さんはこう言った。余計な獲物は望まず、山の神様から授かったものだけでよいという考え方である。山の神様からの授かりものならば、自分のものだけにせず、みんなで分かちあう。
 サカメグリという仕来りは、猟に行くための掟である。暦によって、猟に入る山の方向が決められている。暦を巡る方向と逆の方向に入ることをサカメグリといい、猟にとっては悪いこととされた。たとえ獲物がいても、サカメグリは絶対にいけない。獲物が逃げ込む場所をつくって、イノシシが減らないようにするやり方である。このような独特の知恵を、柳田國男は「後狩詞記(のちのかりのことばのき)」で書きとめている。椎葉村は柳田が訪れた明治40年代も、現在も、焼畑の農業が行われているところである。
 「分けても猪は焼畑の敵である。一夜此者に入込まれては二反三度の芋畑などはすぐに種迄も盡きてしまふ。之を防ぐ為には髪の毛を焦して串に結付け畑のめぐりに挿すのである。之をヤエジメと言つている。」
『後狩詞記』にはこのように書かれている。急斜面の多い山で、犬がイノシシを追い詰め、人はぎりぎりまで鉄砲を使わない。仕留めた後のイノシシが成仏するよう祈りを唱え、内臓の各部を7つに切って山の神こ捧げる。犬は山の神の使いで、犬が死ぬとコウサギ様として祀る。このような伝統は、尾前さんたちによっていまも椎葉村に伝えられている。
 柳田國男は明治41年(1907年)7月に、講演のために熊本に行った折に、足を伸ばして椎葉村に入っている。そこで村長・中瀬淳に山村生活の様子を聞き、日本の常民の暮らしに出合って衝撃を受ける。柳田は農商務省の官僚で、近代こそが農村の進むべき道との理想と確信に燃えていた。しかし、徒歩で山を越えて椎葉村に入り、常民の精神性の深さに触れる。この驚きが「後狩謂記」を書かせ、同じ年の12月から「遠野物語」の聞き書きをはじめさせる。ここかう日本人による日本人の発見として、柳田民俗学が出発する。
 私がこのような文章を書くのは、現代も柳田の時代とまったく変わらず、日本人は日本人と出会うことが必要だと考えるからである。柳田は農務官僚として、時代の最先端を走っていたからこそ、本当の日本人を考えるべき必然性に迫られていたのである。時代に迷いそうな私たちも、柳田國男の原点に戻ることが必要だと、いま私は考えている。
100万人のふるさと 2006年秋号

すべての大人、手を結べ
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 いじめというのは、一種の差別である。差別をするのは、自分が差別をされないためという一方的な力学に基づいているから、差別を受けたほうは理不尽でしかない。理由がわからないものである。
 差別の構造とは、自分よりもっと差別されている人をつくることで、相対的に自分の社会的存在を高めようとする行為が差別である。差別の理由は、もっぱら差別するほうの事情による。だから差別の因果を一つ一つ検証していくと、核心には結局何もなくなってしまう。そうであるからこそ、差別をするのもされるのも、よくわからないうちにそうなっていたということになる。
 子供を死にまで追い込むいじめは、結局のところ大人の社会のそのままの反映であると私は思う。大人の息詰まる競争社会は、自分以下とみなすことのできる人間を心理的にでも生み出そうとするのである。競争社会とはとどのつまり優劣をつけることであり、勝者と敗者に人を分別することなのだ。私たちの社会は、どうしてこんなふうに極端になってしまったのだろう。消費をあおる社会は、お金をたくさん儲けた人が偉いのだと、とどのつまりはそのことに行き着くのだ。子供たちは大人の風潮をそのまま写しているにすぎないのだと、私は思うのである。
 激しい競争社会では、全員か勝者になることはできない。子供の社会も、受験に勝つ者と敗れる者とに色分けされる。二種類に分別されるという恐怖は、自分より劣っているものを無理につくり出し、どうやら心理的バランスを保つことができるのだ。
 生きるのに、切ない時代である。いじめは大人社会をそのまま子供社会に持ち込んだものだとするなら、大人社会にも弱者いじめはたくさんある。根が深いから、学校など教育関係者だけで解決できる問題ではない。
 何故いじめが生まれるのか。外部からの因果が大きく、一つ一つ確証していくと結局中心には何もなくなってしまうというそのことを、大人たちは大声でいいつづけなくてはならないのではないかと、私は考えている。いじめを社会問題化し、いじめなどつまらないことだといいつづけるべきなのである。マスコミもそのことをいいつづけると、社会運動としていじめなどつまらないことだとの認識がひろがっていく。徹底してそのことをいいつづけよう。
 つまらないことなのだから、そんなことに苦しむのはつまらない。自らの命を断つなど最もつまらないことなのだ。つまらないことに苦しんでいるのだから、自分はいじめられていると子供がまわりの大人に伝える声を、すくいとってやらなければならない。いじめられていることを告白した子供を、そっと抱き取ってやって、決して孤立させない。そのためには、すべての大人が手を結ぶ。保護者、地域、学校、教育委員会、文部科学省が、つまらないいじめなどで子供も大人も誰一人孤立させないぞという強い決意を示すいい機会が、今なのだと私は思う。
毎日新聞2006年11月25日(土)

家族の夢 人の思いを背負って
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 札幌にいった時、柏艪舎の山本光伸さんと会って小檜山博全集が出版されることを聞き、さっそく注文させていただいた。その全巻が送られてきて、好きなところから読んでいるところである。「出刃」や「イタチ捕り」などの初期短篇を読み、エッセイを勝手な順番で読んでいる。そこで小檜山博のいろいろなことを知る。作家は自分で自分のことを裸にする仕事をする人だ。そこで私は幾つかの新たな衝撃を受けた。
「父の命日」によると、福島県喜多方で生まれた父は、十六歳の時四つ歳上の母と結婚する。三年後に母は理由もいわず子供を連れて故郷の実家に帰ってしまう。離婚した父は、一人で足寄に出稼ぎにくる。母のほうでも困難な人生があり、北海道に流れてきて、父と復縁する。それから十六年間オホーツク海に近い海上の山奥で炭焼きをしたあと、荒地を開拓して農業をはじめる。
「家が狭く蒲団(ふとん)もないため、ぼくは中学一年まで父と一つ蒲団で寝た。だからぼくはふだん父と話さなくても父の気持ちがわかった気でいたし、父はぼくの気持ちをわかっていたに違いない。(『父の命日』)」
 私は小檜山博より少々年下で、生まれ育った場所も違うのであるが、こんな文章に接すると深い共感を覚えないわけにはいかない。私たちの家は六畳一間と狭く、蒲団がないので、私は小学校の高学年の頃まで母と一つ蒲団で寝ていた。父は弟と寝た。私は弟より身体が大きいから、父とくらべて身体の小さな母と寝れば釣り合ったからである。こんな共通体験があることなど、このエッセイを読むまで知らなかった。
「ぼくの家は滝上の市街から十五キロも山奥に入った百姓だった。小学校へ入ると毎日、片道四キロの山道を学校へ通った。靴などないため、雪の溶けた四月から雪の降る十一月までは裸足で歩いた。砂利道のため足の裏が痛かったが、慣れてくると何も感じなくなった。馬糞、人糞、ガラス、釘など何でも踏んで歩いた。(『ウンコ街道』)」
 ここまでくると、私などは圧倒されるばかりである。つらいとか苦しいとかいうのではなく、彼は少年の日の一情景としてさらりと書く。この原点からまったくブレずに文学活動をしてきたのが、小檜山博なのだ。原点ならば、その人にとっては最も聖なるものであり、否定することではない。
「父は冬の氷点下三十度という酷寒の早朝、まだ真っ暗い三時に起きて馬を連れ、丸太の運搬のために山奥へ出かけて行った。バチバチという橇(そり)に丸太を積み、二十キロ先の街の木工場まで選んで運び賃を稼ぐのだ。一回運んで家へ戻ってくると夜の九時にもなるのに、次の朝また三時に起きて働きに行くのだった。その稼ぎで、ぼくは高校へ行かせてもらっていた。(『戒め』)」
 高校にいくのも、仇やおろそかでいくのではない。六人兄弟の五番目に生まれた彼は、中学を出たあとで馬追(うまお)いになり、造材山の飯場(はんば)に出稼ぎに行くことになっていた。どうしても高校に進みたいと親を説得し、受験するだけだぞということで苫小牧工業高校の電気科を受ける。合格すると両親の考えが変わり、長男や二男の協力のもとで、カネのつづくかぎり行かせるということになった。
「長兄は妻子を村へ残し、山へ出稼ぎに行ってぼくへ送金し、次兄もカネを送ってくれた。父母も豚を太らせて売ったり、ニワトリを飼って卵を売ったり、村人から借金したりして送金してくれた。
 途中で「ニ度両親に『もう借金するとこもなくなった。学校やめて働け』と言われた。そのたびぼくは土下座(どげざ)して床に額(ひたい)をすりつけ、泣きながら頼んだ。 (『二つの夢』)」
 このようなことを書いたのは、私には小檜山博へのある思いがあるからである。彼がなんとなく小説を世間の日に触れるところに発表にできるようになったのは、私がそうできたのとほぼ同時期である。私には彼に対して同期生という思いがある。そんな前提があって、ある夜私はいっしょにススキノで飲んでいる時、後に勤めをやめて小説一本に絞ったらどうかとすすめたことがある。その当時、彼は北海道新聞社に勤め、給料取りの身であった。給料をもらうためには、会社にたくさんの時間を奉げなければならない。
「食の退路を断つ」という言葉がある。文筆だけで生きていかねばならないと決意すれば、生活も仕事も緊張感に満ちてくる。私も宇都宮市役所に勤めていたのだが、小説を書いて生きていこうと決意し、辞職をした。不安といえば不安なのだが、とにかく自分の時間を自分のために使うことができる。自由業というのは使うほうが自由で、使われるほうの自由はその仕事を受けるか断るかの二つから選択することしかないのだが、小説を書くためにはとにかく膨大な時間を必要とするのだ。
 どんどん書いたらどうかという、私からの期待を込めたメッセージであった。だが彼は私の言を即座に否定した。酒の席ではあったが、煮え切らない言葉が返ってきた。
「僕は高卒だから……。高卒が新聞社にはいることなど、本来は考えられないのだから…」
 彼はこんなふうにいったのだ。「…」の部分に彼の深い思いが寵もっていることはわかっていたが、その内容についてその時私は理解することができなかった。その場はそれですんだのだが、私の中になにがしかのわだかまりが残った。
 だが今は、彼の心中のことが理解できるような気がするのである。
 「ぼくが北海道新聞社に就職が決まった日、山奥の村に住んでいた父は畑仕事を放り出し、昼間から焼酎を飲んで酔っぱらい、『俺の息子が道新に入った。俺の息子が道新に入った』と村中に触れ回ったという。
 やがてぼくが四十歳ごろ、勤めの職場で課長職というものになったとき父は『お前はよくがんばった。偉い』と言った。課長職など、入社して何年かたてば誰でもなれる役職だと説明しても『いや、そんなことはない。たいしたもんだ』と言うのだ。(『二つの夢』)」
 がんばったのは、父や母をはじめとする家族たちである。その思いが深くあるから、文学などという曖昧なものに身を投げるような形で家族たちを悲しませてはならないと、彼は考えるのであろう。文学をやりたいなどという薄弱な理由で、ようやく実現した家族の夢を壊しては絶対にならない。その思いを背負って生きている彼は、小説家などではなく、滝上の山の中の開拓地から出てきて札幌の新聞社で働く人間を生きると、私にいったのである。人の思いを背負って生きるということは、つまらない我を捨てることなのだ。そのことをやっと私は理解できるようになったのである。
週刊読書人2006年11月17日(金)

作物は誰が育てたか
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 この世は因と縁と果によってできているのだが、そのことを理解しようとせず、すべてが自分を中心として動いていると考えている人がいるようだ。たとえば畑に作物をつくるのに、自分が耕し、自分が種を蒔いたらこそ実りがあったのだと主張する人がある。もらろん彼が耕さず、種を蒔かなかったら、芽もでず作物も実らない。それはそうなのであるが、彼の行動は因の一部となったことは間違いないはないにせよ、彼が全部を取りしきってそうしたのではない。
 種は温度と水分の条件が整って発芽したのである。発芽したのはその人の力ではなく、種の力であり、種の力を引き出したまわりの力によってである。その人は縁を整え、つまり条件を整えただけで、縁がなければ果はないのだが、そんなはじめのことをしたにすぎないのだ。
 私がこんなことを考えたのは、最近子供は自分のものだと思っている人が多いようだからだ。自分が産んだ子供ならば、どんなふうに扱おうと親の勝手だというのである。
 だが親と称する人のしたことといえば、畑に種を蒔いたにすぎなくて、他の様々な要素が子供を形成していったのだ。一人のなしたことはたいしたことはないにせよ、その人の行為がなければ子供は生まれなかったことは確かだ。だがそれだけではもちろんない。つまり、数多くの要素がなければ子供は生まれないし、育ちもしない。
 そのことは明らかなのだが、家庭を、会社を、国を、自分一人て動かしていると錯覚する人が時折出現する。家庭の中で君臨すると家族が困るか、もしくは本人が疎外されるくらいですむにせよ、国に独裁者がでると、全体をつくっているゆるやかな関係は壊れてしまう。
 みんなが支えあい、それぞれの持ち場で力を出しているからこそ、社会全体が成立し機能しているのだ。そのことを知って、謙虚に生きていくべきである。
(社)在家佛教協会「在家佛教」2,006年12月号

私の誓願
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「岳人」編集部に「百霊峰巡礼」の話をいただいた時、こんなに贅沢な仕事はないなと思った。毎月山に登ることができ、その一つ一つを記録しっつ、神仏のいる山々の曼荼羅をつくっていく。日本最高峰の富士山を中心に置き、それは壮大な曼荼羅になるだろう。自分の心の中には歩いた足跡がはっきりと残る。しかも、一つ一つの登山が楽しい。自分の人生においてばかりでなく、全体からいっても大きな仕事になるに違いない。
 考えれば、日本の山はすべて霊峰といってよいものだ。人が生活する地上から最も遠い、神仏の棲む天上に最も近いところが山なのである。百霊蜂の巡礼を達成するためには、昔の修行者が身を清めて山にはいったように、私も生活を整えていつでも山にはいれるようにしなければならない。
 これまで「百霊峰巡礼」をつづけてきて、一番苦しかったのは、第一回目に登った男体山であった。私にとって男体山は子供の頃から朝を夕なに眺めてきた山で、子供の頃より何度か登ったことがある。故郷の山を「百霊峰巡礼」をはじめるにあたって第一番目に選定したのだが、よく知った山だという慢心が心の底にあったのである。早朝に東京から私が車を運転していき、昼少し前に登りはじめた。
思いがけず私の体調が悪くて、下山が遅れて途中で暗くなってきた。しかもなお慢心していたといえるのは、懐中電燈を持っていなかったのだ。
 男体山は厳しい修行道場であった。暗い山道をなんとか歩いていると、前方に微かな懐中電燈の明かりが見えた。近づいてみると、年配の婦人が疲れ切ってしゃがんでいたのであった。電池が切れそうなその懐中電燈の明かりを頼りに、一人で歩けなくなっていた婦人を励まし、私たちはなんとか下山してきた。心細い気持ちで夜道を歩きながら、闇の中で迷った人間を救うのは、次の一歩をどこに出したらいいか示してくれる足元の明かりなのだと私は得心したりした。「百霊峰巡礼」を円成させるために、とにかく体調を整えなければならないのである。毎月毎月の巡礼をするには、健康でなければならない。最初に不調がわかってよかった。すぐに私は病院にいき、悪いところはきれいに治した。毎月一つ百の山を登るということは、百力月かかり足かけ九年の歳月が必要だ。長丁場に備える覚悟がいる。
 こうして「百霊峰巡礼」は私の誓願になったのである。

ケニヤからきた象の彫り物
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 薄井健郎先生ほ私の中学校二年生の時の担任であった。宇都宮市立一条中学校という地域の市立の中学校にはいることが当たり前で、私は私立中学校や国立大学附属中学校にいくという発想がなかった。当たり前の道を歩けばよいと、親も考えていたに違いない。そうして上がった中学校で、薄井先生ははじめての英語の担任だったのだ。
 薄井先生ほ若くて、御自身も先生の一年生だったのである。一度社会に出てから、もう一度教員試験を受け直すかして、多少の回り道をしてきたらしい。そのせいがあるのかどうか、教師としての夢をいっぱい持っていて、そのことをまだ何もわからない田舎の中学生の私たちに話してくれた。先生ほ情熱的に語ってくれたものだ。
「ぼくは英語を使って、いつか外国で仕事をしたいと思っている」
 今では当たり前のことだが、昭和三十年代はじめの日本の大人たちは敗戦の痛手をまだ背負っていて、何事においても自信を持てないでいた。ことにアメリカ人やヨーロッパ人に対しては劣等感のようなものを抱いていたから、外国に出ていくことなど夢のまた夢であった。若い英語教師が習い覚えた英語を使い、外国で仕事をしたいということなど、大言壮語のたぐいであったのだ。
 生徒の私たちも、世間の大人たちの影響を受けていたから、若い英語教師の言葉はなんとなく気にしながらも、信じているわけではなかったのだ。優秀な薄井先生ほ国立宇都宮大学附属中学校に引き抜かれるような形で、間もなく私たちの前から姿を消した。
 それから何年もたち、薄井先生の噂を聞いた。日本人学校の先生として、外国にいっているというのである。その時点でも実感がないから、私はへえと思ったくらいであった。
 薄井先生と会ったのは、ケニヤのナイロビであった。私ほ三十歳代半ばで、サファリラリーの取材にいっていたのである。薄井先生がどうもケニヤにいるらしいと知り、住所を聞いて、手紙を書いたのだった。
 薄井先生はナイロビのインターコンチネンタル・ホテルに訪ねてきてくれた。十代のはじめに英語を教えてもらってから、十数年がたっていた。私は自分が中学一年生だった時のことを思い出し、あの時先生がいった言葉がまだ忘れられないという話をした。
 あの時は大法螺(おおぼら)としか思えなかったが、先生は自分の夢を実現している。薄井先生はケニヤの日本人学校の校長先生をしていた。英語を使わなければ、日常生活も仕事もできない。先生は何もわからない子供の私たちに向かって、あの時自分の心意気を正直に表白してくれたのだ。そのことが二十数年後に実感としてわかって、私は嬉しかったのである。
 インターコンチネンタル・ホテルのプールサイドでビールを飲みながら、私は先生と大いに話した。昔のこと、現在のこと、そして、ケニヤやサファリラリーのことである。時代が大きく変わり、あの当時の子供だった私なども、平気で外国に出かけるようになっていたのである。
 時代は変わったかもしれないが、先生が生徒に自分の夢を語り、自らその夢を実現させたことの価値は変わりない。教え子として、私は感動していた。中学時代の英語の先生と、こうしてケニヤで会っている。
「先生、ぼくは少し残念なことがあります。もうちょっと英語を真面目に勉強すればよかった。そうすればコミュニケーションがもっと楽にできていたでしょう。中学一年生を教えただけで、よその学校にいってしまった先生が悪いんです」
 冗談ともつかないこんな話をしたことを覚えている。そろそろ別れなければならない時間になり、私が勘定をしようとすると、伝票をとって先生が強い声をだした。
「君、先生はぼくだぞ」
 その時はビール代を払ってもらったのだったが、私は嬉しかった。何もわかっていない子供の私たちにも、先生は心の中の本当のことをいっていたのだ。二十何年もかかって、そのことを確認できたのである。先生はいつまでたっても先生なのである。
 それからまだ三年間、先生はケニヤにいて、私も何度か先生のところにいく機会があった。ケニヤは政情不安になり、街の治安も悪くなって、クーデターなどもあった。暴動のようなことも起こり、何度か先生からは悲痛な手紙をもらった。文面から、日本人学校の生徒たちを命にかえても守ろうとする先生の覚悟を、感じたりもした。
 任期が無事に終了するという時、ケニヤの先生から手紙をもらった。荷物を船便で送るから、ケニヤらしい記念品をいっしょに送ってあげようというのだ。私ほ象の影り物ということにしてもらい、日本に戻ってき先生から、それを受け取った。その象の木彫は、今も私の家の玄関に飾ってある。両耳を開いて踏ん張っている姿の象である。
「文藝春秋 特別版」2006年11月臨時

メロンづくりに生きる
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 私は家の光協会が発行する「家の光」に連載のルポを書くため、毎月一度は農村にはいる。「元気探訪」という題での旅だ。力いっぱい生きている元気な農家を訪ねるのであるから、現代の農業が抱える根深い問題である高齢化と後継者不足などどこ吹く風といった感じだ。
 今もこの原稿を、取材先の長野県飯田市のビジネスホテルで書いている。旅先には万年筆と原稿用紙と、長時間暗いところで書くと目が疲れるから、電気スタンドを持っていく。
 二十年ほど前に会津若松のパチンコ屋でとったクリップライトで、いつも旅の友できたから、あっちこっちへこんでぼこぼこになっている。
 先月は同じ取材で島根県益田市に行ってきた。そこでふるさと回帰をした一組の夫婦に会った。その夫婦のことは「家の光」に詳しく書いたのだが、印象的だったのでスケッチ風にもう一度書いてみよう。
 益田市はメロンの有名な産地である。洪水で苦しんできた土地で、湿害に負けずに先人が努力に努力を重ね、メロンをつくってきた。贅沢品のメロンを、最初は見たこともなかったのである。産地として成功すると、共選による共同出荷ということになる。生産組合が一括して出荷するのである。
 そのためには、組合員全員が品質を保たねばならず、落ちこぼれは許されない、メロン栽培は高度な技術の蓄積であるが、肥料の組立て、芽の摘み方、つるの立て方、土づくり、湿度管理、すべて先人の努力によってマニュアル化されている。組合員になれば、一律に品質を保たなければならないので、しっかりと指導がはいる。つまり、先人が試行錯誤の果てにつくり上げたマニュアルの通りにやれば、メロンもきちんと栽培することができるのだ。
 脱サラ、もしくは定年で新規就農する人にも、思いがけずに生きる場所がある。メロンの部会長である篤農家はいう。
「やりたいという人があれば、大歓迎です。共選で同じ品物が出来てこそ、生産地の評価が高くなります。本人がどこを習得したいといえば、惜しみなく教えます。」
 Aさんは大阪の会社に30年間勤めた。同僚のリストラなどをやり、精神的にもおい詰められていた。
「辞めるまで、会社でしんどそうでしたよ。死ぬよりはいいと思った」
 奥さんは言葉少なにこういう。 この言葉に込められた意味はあまりに深い。
 Aさんは好きな農業に人生の活路を求め、インターネットで調べて農業後継者育成基金に行きついた。幾つかの県に同じものがあったので問いあわせると、島根県が一番親切で、だから決めたのだという。同期入社の奥さんも理解してくれ、二〇〇〇年に会社を辞め、二〇〇一年には益田市にきた。
 認定就農家になり、土地とハウスの手当てもしてもらった。耕地面積は二十一.六アールで、ハウスは全部で七棟ある。 奥さんと二人で営農するのが限界であろう。ほかにトラクターを持ち、所有する土地は全部で六〇アールだ。
 農地は最初は賃借で、賃借料は年に二十万円てある。二年間払ったのだが、これは補助金として積み立ててくれ、三年目から返済にはいる。六年目の今年は、七百万円の金額を返済した。 つまりすべてが自分のものになったのである。これほどまでにいたれりつくせりで、新規就農者を受け入れてくれるのである。
 Aさんはすでにメロンの立派な栽培農家である。心が生きている感じと、現在の心境を表現している。Aさんのハウスでは、メロンが大きくふくらんで甘い実をためていた。
100万人のふるさと 2006夏

登山道は即修業道場なのだ top
 頂上をひたすらめざす山登りをくり返す人を、ピークハンターという。頂上に立たなければ、登山の価値がないと思っている人がいる。この考え方の根底には、山を支配するという根強い思想がある。
 処女峰に最初に登った人は、その人の所属する国の旗を立てる。そこには山を領有するという意思が露骨に出ている。山を征服するためには、どうしても山頂を究めなくてはならない。この登山の思想には、自然を征服してこそ人間は価値があるのだという高慢な考え方が潜んでいる。
 そんな征服の思想から逃れたいという思いで、私は「百霊峰巡礼」をはじめたのだ。日本の山はほとんどが神仏の棲むところで、山中の水源には竜神を祀って禁忌をもうけ、人間の破壊を防ごうとした。山に登るとは、神仏に一歩でも近づこうとする行為だったのである。
 山を征服するのなら、登る人は力に満ちていなければならない。体力をつけ、元気に頂上をめざさなければならないのである。しかし、日本古来の山登りである修験道は、精進潔斎をし、つまり肉や魚などの動物性タンパク質をとらないで山にはいる。時には五穀断ちをし、米、麦、粟、稗、豆を食べない。木喰行(もくじきぎょう)とは、木の実や草の根だけを口にいれかろうじて生命を養い、生きながら餓鬼道(がきどう)におちる行である。飢えた人々と苦しみをともにしようということだ。当然体力は落ちる。
 三日間も不眠不休の行をして登ることもあった。どうしてこんなことをしたかといえば、体力を弱らせて傲慢な自我を殺し、神仏に少しでも近づき、神仏と感応することを願ったからである。山はそのための修業道場であった。
 神仏に限りなく寄り添い、大自然の曼荼羅(まんだら)の中で、生きたまま菩薩(ぼさつ)になる。自然と少しでも一体化しようとする。そのために山行きの苦しい行をするのだ。百霊峰巡礼をし、私は毎月、昔から神仏の棲むとされる山の少なくとも一つの山に登りながら、このように実感した。「百霊峰巡礼」は月刊誌『岳人』(東京新聞出版局)に連載をしているのである。この山行きが、私には心から楽しい。
 たいていの山には、麓(ふもと)に里宮、中腹に中宮、山頂に奥宮がある。たとえば日光の男体山では、中禅寺湖畔の二荒山神社の中宮祠から奥宮まで、旧来の登山道は直線でつながっている。崖崩れなどがあって一部に迂回路ができているが、本来はまっすぐな急勾配の道である。どうしてこんなに苦しい道なのだろうと思索して登りつつ、ふと気がついた。ここは修業道場なのである。自分を高めるために修行する道場ならば、苦しいのは当然で、むしろありがたい。
 神と仏とが習合して日本の山は調和のとれた自然であったのが、明治初年の神仏分離政策によって廃仏毀釈(きしゃく)が起こり、仏教は排せられた。また山頂まで道路を通す戦後の観光開発にも、霊峰は苦しめられてきた。これらは文化の根底的な破壊であると私は感じる。こんな怒りを心の内にひめつつ、私は「百霊峰巡礼」をつづける。
東京新聞(夕刊)2,006年8月3日(木)

知床毘沙門堂例祭 top
 ジャガイモの白い花が咲き、麦が熟れる麦秋の美しい夏の一日、知床では毎年楽しい集まりがある。漁師はとれたばかりのホッケやサクラマスやホタテを、農家は当日収穫したアスパラやトマトを山はど持ち寄り、何日も前から草刈りをはじめて準備に参加してくれる。
 知床毘沙門堂例祭と私たちは呼んでいる。十三年ほど前、地元知床の人が私に相談を持ちかけてきた。私のログハウスのある斜里町日の出は、かつては駅逓(えきてい)があり、小学校が建っていた。駅逓とは北海道各地に道路や鉄道が充分に通っていない頃、旅人や運送業者のための宿や馬の世話をする施設があったところだ。さらに奥地をめざす人は、この駅逓で態勢を整えて森や海岸をいったのである。
 日の出は小さな集落をなしていて、小学校の脇には神社もあった。幾時代かがあって貧乏もしたし、世相も変わって、気がついたら神社が消滅していた。神社とは、自然への畏怖(いふ)を人格化して形にしたものだ。その心のよりどころを復活したいと、私は依頼されたのである。
 私は俗世間に生きる小説家である。神職にも僧職にもあるわけではない。神社の復興という事業を、どうして私に頼むのか。私が問うと、なんでもやってくれそうだからという。どんな神社だったのかと問いても、もうほとんど記憶も消えているというのだ。日頃深い付き合いをしているので、私は布施と思ってそれを引き受けたのである。
 私がまず相談したのは、友人の福島泰樹であった。有名な歌人である彼は、東京下谷の法華宗法昌寺の住職なのだ。神社をつくりたいと申した私に、「寺にしろ」と一言彼はいった。法昌寺は下谷七福神のうち毘沙門天を祀る寺で、その毘沙門天を分神するということであった。
 私なりに検討もして、神仏習合思想に基づく両部神道に説かれた三十番神に行き着いた。国土を一カ月三十日間一日ずつ交代で守護する三十の日本古来の神を、毘沙門天を御本尊としてお祀りする。三十番神とは、熱田、諏訪、広田、気比(けひ)、気多(けた)、鹿島、北野、江文(えぶみ)、貴船(きふね)、伊勢、八幡、賀茂、松尾、大原野、春日、平野、大比叡、小比叡、聖真子(しょうしんし)、客人(まろうど)、八王子、稲荷、住吉、祇園、赤山(せきさん)、建部(たけべ)、三上、兵主(ひょうす)、苗鹿(のうか)、吉備津の神々である。これらの神々を一度にお祀りし、なお毘沙門天をいただいて、毘沙門天が守護する仏法のすべてをお祀りする。
 毘沙門天は北方の守護神である。知床は日本列島では鬼門である艮(うしとら)(北東)の方角に位置し、そこに毘沙門天をお祀りするのも意味があることだ。構想は雄大で、私たちが実際できることとの落差はあまりにも大きい。
 福島上人に知床で毘沙門堂を建てる場所を決めてもらい、導師の快諾を得た。みんなで木を伐り、ブルドーザーで土台を掘って、私も屋根に上がって金槌(かなづち)を握り、手づくりでお堂を建てた。地元の鉄工所からは鉄パイプを溶接した頑丈な烏居が届けられた。斜里川河口を浚渫(しゅんせつ)してでてきたハルニレの材をもらいうけ、東京の仏師に毘沙門天を掘ってもらって、法昌寺で入魂した。これを真新しいシーツにくるんで、私が飛行機で持っていった。
 みんなの力が集まり、あれよあれよという間に毘沙門堂ができていった。その頃、私は奈良斑鳩(いかるが)の法隆寺に行にいくようになっていた。法隆寺金堂での一週間の御行(みこな)い吉祥悔過(きちじょうけか)は、吉祥天と毘沙門天(多聞天)に挙げるもので、日本で最古の毘沙門天がこの金堂に祀られている。私たちが知床につくっている毘沙門天は、まだできていないのだから、日本で最も新しい毘沙門天である。そんな御縁もあり、一九九五年七月三日午前十一時に行われた知床毘沙門天開堂式には、当時の法隆寺管長高田良信師もきてくださった。それを引き継いで、現管長の大野玄妙師が現在もきてくださる。
 山の中に忽然(こつぜん)と毘沙門堂が出現し、お坊さんたちがやってくる。地元の人たちは大変に喜び、お堂開きの法要の後、盛大な野外パーティーの用意をしてくれた。知床は自然の豊かなところで、海のものも畑のものも美味である。七十キロある牛の脚を焼き、こそいで食べる。生ビールも飲み放題だ。知床毘沙門堂例祭の形ができたのである。
 その後、そこにいくたび地元の人が灯籠を建ててくれていたり、一位の木を植えてくれたりして、聖地の様相をおびてくるのを私は感じた。高田師の肝煎りで聖徳太子殿ができ、大野師の尽力で観音殿ができて、三堂となった。
 観音経には、観世音菩薩は「毘沙門の姿によって救うべきものには毘沙門の姿によって教えを説く」と説かれ、法隆寺の信仰では、聖徳太子は観音の化身であるとされる。毘沙門堂を建てて、自然の流れのうちに観音信仰をしていたということになる。
誰がきてもいい知床毘沙門堂例祭には、地元や全国各地の人はいうにおよばず、奈良や京都から思いもよらないはどの高僧がきてくださるようになった。もちろん毘沙門堂の導師福島上人も、聖徳太子殿と観音殿の導師大野管長も、昔とまったく変わらず友人として夏の一日を知床にきてくださり、五穀豊穰や海上安全や家内安全を祈る。
何の強制もなく、自然と人が集まって両掌を合わせていく。まことにスローな宗教である。
日本経済新聞 2006年6月25日(日)

街づくりに働く top
 年をとるということは、ことに専門領域においては成熟するということである。この成熟には時間がかかる。人間の一生というような厖大な時間が必要なのである。
 その成熟した技術を地方において改めて生かしてほしいというのが、
「一〇〇万人のふるさと回帰支援センター」の願いである。これは社会全体のためであり、個人の生き方のためである。
 私たちはそんな提案を長い間しつづけてきたのであるが、ここにきてようやく社会全体に受け入れられてきたようである。社会は多様性があり、また自分の力でつくりかえることもできる。いつまでも社会の歯車の一つであるのはつまらない。私は、社会はもっと多様であるべきだと考えている。
 テレビの制作をもう四十年間もしている友人が、たまたま京都で会って晩飯を食べている時にこんな話をした。
 「京都はまだましなんだけどね。日本中の街が、どこに行ってもみんな同じになっちゃったね。その街らしい一カットをどこかで撮らなくちゃいけない時など、その場所をどこにするか苦労してしまう。全国どこでも特徴がなくなったんだよ」
 街の中心部は空洞化し、商店街はさびれ、錆びたシャッターが降ろされているっそのかわりに郊外には大きな道路がつくられ、大型量販店がならんでいる。東京に本店のあるスーパーも、ファミリーレストランも、コンビニも、洋品店も、仏壇店も、自動車のディーラーも大駐車場を持っている。郊外の高層住宅団地や一戸建ての住宅街から、人々はみな一直線に自家用車でやってくる。
 市の中心部の活性化策も、車が走りやすいよう道路を拡張することで、歴史のある街並の少なくとも道路の半分側は破壊される。確かに車は走りやすくなるのだが、にわか造りの安っぽい建物になってしまう。立ち退いた商店のほうでも、ちょうど良い機会が与えられたとばかり廃業してしまう。
 建物を壊しても建て直す力はとてもなくて、元手をかけずに金になる駐車場にする。あっちもこっちも駐車場で、確かに車にとっては便利なのだが、家並は隙間ばかりで無惨な状態になる。
 地方都市の中心部の活性化などとんでもなくて、車の走りやすい道ができて、郊外はますます栄えるが、一般的な街並になってくる。経済合理性を追求しつづけると、大量生産の安物を売る量販店ばかりになる。つまり、どこにいっても毎回同じ街並になるのだ。
 地方都市の郊外で車に乗せてもらっていて、ふわっと居眠りし、目覚めて今はとこの街にいるのだったかなと、しばらく考えなければ思い出さない。思い出したところで、ああそうだったなと思うくらいで、特に感動があるわけではない。
 日本は合理性を追求するあまり、こんなにもつまらない国になってしまったのだ。それはもしかすると、私たち団塊の世代が頑張って頑張ってあげくにつくり上けてきた世界ではなかったのかと、今にして私は思うのてある。
 私は夢に見ることがある。定年を迎えた団塊の世代がそれぞれの人生と技量を抱え、地方に帰ってできることを力一杯にやる。それぞれに思いのある土地に根づき、街づくりをはじめるのである。
 すぐれた人物が数人いるだけで、街づくりはできる。街はどんどん変わっていく。経済の合理性のことばかりを考えるのではなく、知性と感性のあふれる街になる。そのために我が「ふるさと回帰支援センター」は働けないだろうか。
100万人のふるさと 2006春号

ふるさと回帰運動への想い top
 今日の日本の大きな問題は、地方の過疎と高齢化である。農業の生産現場にいくと、就労メンバーの高齢化と後継者不足が目立つ。農業は自分の代限りと思いを決めている人が多い。老齢化して田んぼを誰かに委託しようとしても、耕すことを引き受けてくれる人がいない。
 必然の流れとして、耕作放棄地が目立ってくる。風景はその時代の人の精神を表わす。そうして見るならば、耕作放棄されて草ぼうぼうになった畑や田んぼは、荒涼としたこの時代をそのまま表現しているといえる。
 一方、都会では人があふれている。若者は企業からリストラされ、新卒で就職ができないのでフリーターになり、あるいは最初から働くつもりもなくてニートになっていく。団塊の世代と呼ばれる人たちがいっせいに定年をむかえ、街にあふれるということになる。
 地方と都市とのアンバランスは、大きな問題である。私たちがNPO法人「ふるさと回帰支援センター」をつくったのは、根本的にはこの日本の不均衡をなんとかしようと考えたからである。私自身は昭和二十二年生まれの団塊の世代に属し、まわりの友人はそろそろ六十歳定年を迎える。終身雇用は日本の企業社会の美徳だと思うが、入社の時に六十歳で会社を辞めると契約を結んでいるので、定年は仕方がないことである。
 六十歳という年代はあまりに若く、更け込む年ではない。二十歳で就労したとして、四十年の経験と技術がある。四十年間蓄積されたキャリアはもちろん簡単に得られるものではなく、一人一人の人生にとっても、これを生かすべきである。
 こうして都市では労働力が余ってしまうー方、地方では過疎に苦しんでいる。過疎とは、人材が不足してやりたいことをやれないということである。このアンバランスを、都会でリストラされた若者や定年者で埋めることはできないだろうか。
 ことに定年者は即戦力以上の、経験と技術を持ったリーダーとなれるのだ。求めるものと求められるものとが、うまくマッチングできれば、個人の生き方にも社会全体にもためになるのではないか。そんな意味を持って、「ふるさと回帰支援センター」の動きは始まったのである。
(財)常陽地域研究センター JOYO ARC 2006年5月号

偉大なる自然への畏怖 top
 全国の70パーセントが山林の日本は、どこにいようと山が見えないということはない。日本は山の国なのである。
 したがって、それぞれの地方にある山を、その土地の人は見て生きてきたのである。誰にも故郷の山というものがある。日本で一番高いのは富士山であるが、一番高貴なのは故郷のその山だと誰しもが思っている。
 私にとって故郷の山は、日光にある男体山(なんたいさん)だ。朝起きてはいった便所の窓からまず見えた。幼稚園から高校まで、通学途中にも天気がよいかぎり見えていた。山肌は春になれば若葉の色で染まり、夏の色がスクリーンのように通り過ぎていき、冬になれば真白になる。山の色が季節の言触(ことぶ)れであったのだ。
 男体山を見てようやく、故郷に帰ってきたなあと思う。変わらない山に向かって立つと、自分の人生の変化を痛いように感じる。
 どの山にも固有の歴史があり、それを感じるのが楽しいのだ。日光山を開山する、すなわち二荒山(男体山)にはじめて登頂しようと勝道(しょうどう)上人が志したのは三十二歳の時で、七六六(天平神護二)年のことである。苦労して大谷川を渡り、石の上で念誦(ねんじゅ)していると、そこに紫雲が立ちのぼった。草庵を結んで紫雲立寺と名づけ、やがて四本龍寺と呼ばれるようになった。
 日ごと仰ぎ見ている二荒山に登頂しようとし、まず女峰山をめがけて歩き出したのが、勝道上人三十三歳の時だ。この途中で二荒山の山腹に出て、眼下に中禅寺湖を発見した。しかし、山はあまりに(しゅんけん)で、頂に立つことばできなかった。
 その十四年後に再び登頂を試みるが失敗し、翌七八二(天応二)年、勝道上人四十八歳の春、ついに男体山の山頂に立つことができた。勝道上人のこのときの感激を、当代一流の文筆家である空海が文章に残している。この文書は石碑になり、空海の著作集「性霊集」にもおさめられている。
 勝道上人の男体山の頂に立った時の感激は、どれほどのものであったろう。誓願してから登り切るまでに十五年の歳月が流れている。登山の意味が、現代とはまったく違うのである。またはじめて中禅寺湖を発見した時の驚きは、どんなだったであろう。 このような歴史と物語とを味わいながら登るのも、日本の山の楽しみである。日本の山はことごとくが霊山で、多くの物語が層のように部厚く積み重なっているのだ。
 勝道上人が開いた紫雲立寺がもとにたっている二荒山神社は、麓の東照宮のそばの本社と、中禅寺湖半の中宮祠と、男体山山頂の奥宮とがある。この中宮祠と奥宮を結ぶのが、男体山登山である。つまり、勝道上人がはじめて二荒山登山を誓願したと同じように、男体山登山は二荒山神社への参拝ということになる。
 そもそも男体山と中禅寺湖は二荒山神社の御神体であり、男休山登山は神仏と出会うための修行であったのだ。日本の霊山への登山は、山を征服するのではなく、神へのお参りであり、祈りであり、自分自身への修行であった。
 日本の山は、人が生きてきた歴史を色濃く伝え
ている。人間を超えた偉大なものへの畏怖(いふ)の心が強く、山を征服しようというヨーロッパ・アルピニズムの思想とはまったく別のものである。
 私はこんなことを思いつつ、登山をするのだ。
産経新聞平成18年5月7日(日)

「100万本植樹」掲げ11年 top
 「足尾に緑を育てる会」が呼びかけ、足尾に植林がはじまって十一年たつ。毎年あまりにもたくさんの人が訪れ、植林場所となっている「大畑沢緑の砂防ゾーン」は人でごったがえするほどである。山も人で真っ黒になり、植樹活動は年々歳々さかんになっている。
 そもそもの会の前身は、一九九五(平成七)年に結成された「渡良瀬川協会」である。その後、幾つかの団体が集まって「足尾に緑を育てる会」が結成されたのだが、私は「渡良瀬川協会」に参加していた。足尾鉱毒事件や田中正造に関する資料が、時がたつにしたがって散逸する。それらの資料を集めて後世に残そうという趣旨で結成されたのが「渡良瀬川協会」であった。
 
渡良瀬川5団体が結集

 栃木県出身の宇井純氏が主宰して、公害研究では一時代を画した自主講座「公害原論」が解散になるにあたり、そこにあった大量の文献の主だったものを継承するかたちで「渡良瀬川協会」の活動ははじまった。現在もその活動はつづいていて、その拠点となる資料室は「足尾に緑を育てる会」の事務局と同居するかたちで、足尾市街地の通洞駅の近くに昨年オープンした。
 もちろんそこに参加する人たちの思いはさまざまではあるにせよ、私は田中正造の思想を継承し、田中正造のやり残した足尾での治山治水の事業を実感したいと思ったのである。
 「足尾に緑を育てる会」会長の神山英昭さんは、当時は足尾町役場の職員で、私たちが宇都宮市内で勉強会のようなことをはじめると、はるばる足尾から車を運転して駆けつけてくれたものである。
考えてみれば、もう三十年もの付き合いとなる。神山さんは足尾のために自由に活動できる立場を得たいということで、足尾町役場を早期退職した。
 活動も試行錯誤の連続であった。「渡良瀬川協会」が結成された年、有志が、現在植林をしている場所に桜を十本植えた。花見をしにいということが理由であった。しかし、そり年の秋までに十本はすべて枯れてしまった。本気で植林をしなければ駄目だということになり、渡良瀬川上流下流の団体が五つ集まって「足尾に緑を育てる会」が結成されたのは、九六(平成八)年五月のことである。
 この時の標語が「足尾に百万本の木を植えよう」ということであった。何気なくでた百万本という言葉だが、後にそれがどんな意味を持つのかは痛いほどわかるようになる。

軽く200年かかる大事業
 私は最初の植林から参加している。苗もスコップも持ってきてほしい、という呼びかけだったが、交通の不便な足尾であり広報活動もそれほどできていなかったから、元々の仲間の十数人で植林をすればよいというイメージであった。ところが蓋(ふた)を開けると百六十人がきてくれた。会では苗が用意できなかったから、それぞれが持参した百本の苗木を植えた。それでも多くの人がきてくれて、私は涙ぐむほど感動したものだ。
 それ以降、年々、植樹活動はさかんになり、植えた木の80%から90%は育ち、はげ山は日に見えて緑になっている。今年の四月二十三日、春の植樹デーには千三百人もの人がきてくれ、約四千五百本を植えた。この十一年で約七千人が参加し、約三万七百本の苗木を植えたことになる。
 だが百万本まではまだまだ遥(はる)かな道のりである。二百年は軽くかかるという、気の遠くなるような大事業なのだ。
下野新聞 平成18年5月2日(火曜日)

身と心で味わう喜び top
 山登りが好きな人と、海が好きでたとえばダイビングをする人がいる。私はどちらの世界でも遊ぶ事ができたのでよくわかるのだが、山のほうは一人でいることを好み、寡黙で、内省的である。
 一方、ダイバーのほうは、一人でいるよりは仲間と騒ぐことを好み、海の魚がうまいので快楽的で、外向的である。ダイバーより登山家のほうが、どちらかといえば古風である。もちろんダイバーは新しい人種ということではないが、自分を中心に考える傾向があるように思う。
 これはまことに大雑把(おおざっぱ)で一般的な傾向であるかは、すべての人に当てはまることではない。楽しさの見つけ方は山と海と対極的なのである。
 海には魚や貝がたくさんいる。勝手に獲ったら密漁になるからできないにせよ、漁師たちと親しくなれば、うまいものが手にはいる傾向がある。一方山のほうは、すべて自分で担いでいかなければならないのである。荷が重くなれば身休に負担がかかるから、食事は簡単なレトルトになる。酒もウイスキーや焼酎のような濃いものになる。
 中学生か高校生の頃、山のキャンプ場で私が最も御馳走だと思ったのは、醤油御飯であった。
飯盒(はんごう)の内蓋に醤油をいれて少し濃い目の炊き込み御飯にし、これをおかずに飯盒で炊いた白い御飯を食べる。他のものはいらない。これが一番おいしいものであったのだ。
 テントも食料も飯盒も石油コンロも衣類も、すべてリュックサックに詰めていく。わざわざ苦しい思いをして山に登るのは何故なのであろうか。
 もちろんそこには深々とした慰藉(いしゃ)があるからだ。楽をしたり、うまいものを食べたり、また他人から与えられるような手軽な快楽ではない。重い坂を、重い荷を担いで一歩一歩と歩いていくと、考えるのは頂上はまだかということである。
 道が曲がっているところまでいけば、山頂がひらけるのではないかと期待する。やっとそこまでいくと、また別の道があるばかりだ。苦しい息をしっつ重い身体を運び上げながら、どうして自分はこんなつらい目にわざわざあいにきたのかと、自問自答する。とにかく考える。この思惟(しい)が、山の楽しみである。自分はこんなに弱い人間だったのかと、思い知らされる。つまり、自分と向き合い、自分を知ることになるのだ。しかも空も峰もこの身体より遥かに大きくて、自分の卑小(ひしょう)さを思い知る。どうしてこれが快楽的といえるだろうか。
 だがこの苦しみの底に本当の喜びがあることを、登山家は知っている。しかもその喜びは、他人に安易に与えられたものではなくて、この自分の身と心で掴んだのである。
 今がどんなに苦しくても、いつか必ずここを抜け出すことができて、着いたその場所には限りない喜びがある。山登りとは、そのことをくり返し経験することなのだ。この道を歩いていけば、必ず山頂に登ることができる。山はそのようにできているのだから、苦しみに安心して身をまかせることができるのだ。まるで人生の練習をしているようではないか。
 山頂に着いた時の喜びも、実は内省的である。声を上げる人もいるが、多くの人はじわっと広がる喜びを、心の中に暖めているのである。道をいくかぎり、この喜びは必ず味わえるのだ。

いのちの尊厳 森のいのち top
 森にはいると、命のあり方というものがよくわかる。森にはこの世の成り立ちのすべてがある。
 多様な植物が生きている森では、地面に苔が生え、草が繁り、潅木(かんぼく)が立っている。中くらいの木から、まわりを影で包む大きな樹がある。そして、地中には線虫や微生物の世界が隠されている。まず高さで棲み分けているのである。
一本の大きな樹があると、影ができる。ほとんどの植物は太陽の光を好むから、そこで生きにくくなる。しかし、うまくしたもので太陽が嫌いな植物もある。キノコなどの菌類や、シダの類である。菌やシダにとっては、大きな樹は生きる場所をつくってくれたということになる。どんな条件でもその環境に適応した植物がいるから、森の中にはまったく無駄がないということになる。どんな場所でも生命がはぐくまれるのである。
 太陽の好きな植物は、少しでも太陽の恵みを得るために、葉を精一杯にひろげるのだが大木にはどうしてもかなわない。大木は太い枝を高い位置から四方にひろげ、葉もたくさんつけるから、太陽光を一人占めする。するとますます大きくなっていく。一本で森のように濃密に繁る樹があるのだ。
 菌類から大木までの多様牲が、森の命の秘密である。多様な植物が、多様な形の根を張る。苔は地表をおおい、杉などの大木は地中深くに喰
い込む。一般に杉や檜などの針葉樹の根は垂直に、欅(けやき)やブナは横に根を張る。草も幼木も腕のように太い根も、毛のような細い根も、多様な根が地中で入り組んでいる。隙間もできて、ちょうどスポンジのような状態になる。そこに水が染みていき、そのまま貯えられるのを、保水力という。森の保水力は、多様な植物が繁っていることによって保たれるのである。森は多様性によって成立しているのだ。
 日陰をつくってまわりにストレスを与えていた大木も、永遠の命というものはないから、いつかは倒れる。倒れたところに、太陽の光がさす。そこから次の世代の激烈な競争がはじまるのだ。これまで日当たりが悪いため、芽を出しても育つことができなかったのが、大木をめざして兢い合いがはじまる。大木になれるのは結局一本だから、あまりにも苛酷であるといえる。大きな樹は勝って勝って最後に勝ち残った樹である。それが命というものの置かれている現実なのである。
 実生(みしょう)として生存競争をスタートするのは、おそらく数百万という単位であろう。森を歩いていると、植林したように木が一列にならんでいるところに出会う。幼木ならよくわかるのだが、倒木更新である。大木が倒れ、幹がやがそ腐ると、そこに落ちた実が芽を出す。そこは酸性が多い土壌の影響を受けず、少し高いところなので水に流されることもない。新しい世代が育つようにと、老いた木は自らの栄養分も提供する。自分をきれいに捨て、すべてを後からくるものにいさぎよく渡す。
 森には命の成り立ちのモデルがある。無駄なものがまったくないというところが、素晴らしいことだと私は思うのである。
「名古屋御坊」新聞 2006年4月10日

大事が起きるたびに、女房の強さと優しさを感じます。
(インタビュー記事)
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 こんなことは口が裂けても本人には言わないけれど、なかなかいい女房だなと思いますよ。頼りがいがあってね、ほんとうに頭が下がります。特に今は、感謝の気持ちでいっぱいなんですよ。

ほんとうに大切なのは魂だと思う
 少し前に、栃木県宇都宮の老健施設に入っている母が倒れましてね。脳出血でした。それで、突然ものすごく大変なことになって、夫婦で力を合わせてこの事態に向き合わなくてはいけなくなりました。
 宇都宮は僕の故郷です。息子と娘も、宇都宮で生まれ育ちました。だから、彼らにとっても、宇都宮はやっばり故郷。
 家族で東京に出てくるとき、宇都宮の家を売り払うことも考えたんですが、やっぱり残しておきたくて、そのままにしておきました。ここ何日かは、この家を拠点にして、母を見舞っていました。
 こういう非常事態が起こると、一人では何もできないと、つくづく思いますね。女房と、娘夫婦と、宇都宮に住んでいる僕の弟夫婦がほんとうによくやってくれる。彼らの力がなかったら、この困難な状況はとても乗り切れない。いくら感謝してもしきれないほどです。
 僕は今、こんな殊勝なことを言っているけれど、昔から好きなことをして生きてきた人間でしょうね。女房に感謝はしているけれど、あまり口には出さないし、それに僕は、若いころからずっと自分の思いをとげてきた人間です。
 女房と結婚したのは僕が二十四歳のときです。当時、僕はまだ学生でした。就職が決まっていた出版社の内定を、迷いもせずに取り消して、日銭稼ぎのアルバイトに精を出す毎日を送っていました。赤貧と呼べるほど貧しかったけれど、売れなくとも、思いをぶつけた小説を書き続け、それはそれで楽しい日々でした。
 そんなある日、事件が起きた。女房が妊娠したんです。当時、女房は勤めていましたが、仕事を辞めたら生活が立ちゆかなくなる。僕が働けば、何の問題もなくすべては解決するのですが、自由で放埒な毎日を送っていた当時の僕に、会社勤めをする気はまったくなかった。
 こんな状況で僕は「インドへ旅がしたい」と女房に言ったんです。青春と決別してくるような心持ちでした。絶対に反対されると思っていましたが、女房は「そんなに行きたいのなら、行ってらっしゃい」と言ってくれた。
 何ヵ月にもわたる行く当てのない放浪の旅。その途中、僕はカルカッタ(現・コルカタ)で女房から届いた手紙を受け取り、男の子が生まれたのを知りました。その子が、今や三十代になっている僕たちの長男です。
 僕のわがままはこれ以外にも、いくつもあります。せっかく勤めた宇都宮市役所でしたが、苦しくて、辞めたくなつた。このときも女房は「だったら辞めればいいじゃない」と言ってくれました。
 「インドなんて行かせない」「市役所を辞めるなんてとんでもない」なんて言われていたら、僕はきっと腐っていただろうな。考えてみると、懐の深い女性なんですね。
 でも、はたからは勝手なばかりの人間に見えるかもしれない僕も、ほんとうに食えなくなったときは、さすがに働きましたよ。
 夫婦、あるいは家族を考えるとき、つくづく思うのは経済だけが大事なんじゃないということ。
 もちろん経済、つまりお金は大切ですよ。お金がないと生活できないし、困るんだけど、それて事足りると思ったら大間違いです。ほんとうに大事なものは経済の中には絶対にない。もっとずっと大切なのは魂であるはず。魂が通い合ってさえいれば、夫婦も、家族も、なんとかなる。きれい事なんかでなく、僕は心からそう思うんです。

女房がいなかったら、作家もやっていられなかった
 僕は仕事柄、旅に出ることが多い。数えたことはないけれど、一年のうちだいたい三分の二くらいは家を空けています。三十四年の結婚生活のうち、女房と一緒にいる時間はひょつとして十年ぐらいかもしれません。
 一般的な夫婦の形からは外れているでしょうが、こうしてきたんだから仕方ない。でもいつまでも旅ばかりはしていられないでしょう。それに今さら、三度三度の飯を角突き合わせて食べられても、女房は困るでしょう。女房に頼って濡れ落ち葉になっても、女房はいやでしょう。
 でも、僕らが家族らしいことをしてこなかったかというと、全然そんなことはないですよ。旅行には、女房と二人で、あるいは子供たちを連れて四人で、よく出かけました。
 たとえば娘とは、彼女が大学生のときにインドやブラジルに一緒に行きました。バックパッカーの安宿旅行です。息子とは僕が援農隊で行った与那国島のサトウキビ畑で働いてきたこともあります。
 女房とも、知床や沖縄など、あちこち一緒に巡っています。まあしかし、女房は僕と違って、灼熱の砂漠とか酷寒の地なんかには行きたがりませんがね(笑)。
 僕は物書きですが、今の時代、この商売も無頼とか、孤高では、なかなかやっていけない部分があります。
 昔は「ペンは一本、箸は二本、衆寡敵せず」なんて言っていました。ペンは一本しかないのに、飯を食うために必要な箸は二本ある。一本が二本にかなうわけがない、文章で飯を食えるわけがないんだ、といった意味ですが、今は当時とは違う環境だし、現に僕も小さいながらも事務所を持っている身です。いくら作家だと言ってみても、事業者として厚生年金にも入らないといけないし、決算もしないといけない。もっともこうした業務はほとんどすべて女房がやっているんですがね。
 原稿用紙に向かうときは、もちろん物書きとしての自分。この世界には、たとえ女房でも入り込むことはできない。
 でも、ほかのことに関しては、多くが女房との共同作業です。なんせ僕は、一年のうち多くを旅に出ている。スケジュール管理もできないし、経理のこともまるっきりわからない。この間なんか、税理士さんに税金のことを聞かれて、全然答えられなかった。恥ずかしいけれど、女房がいないとお手上げ。自由業であるはずの作家も、妻の存在なくては、何もできないのが現状なんです。もっともこれは僕の場合ですが。

いざというときには我を抑えるのが夫婦
 月日は流れ、僕も女房も六十歳が目の前となりました。二人とも、名実ともにおじいちゃん、おばあちゃんになりました。
 僕たちには今、小学一年生を筆頭に、三人の孫がいます。時には彼らを抱きかかえることもあるけれど、何というか、どうにも落ち着かない。三十数年前、インドの放浪から帰って、長男を抱きかかえたときに感じた落ち着きのなさを思い出してしまう。
 誤解してほしくないのですが、子供は大好きですよ。自分の孫は、なおさらかわいい。それはそうなんだけど、そこに安住するつもりにはどうしてもなれない。それに何より、昔のイメージにあるようなおじいさんをやっていられるようなゆとりが僕にはまったくない。
 女房も同じです。仕事に趣味に、忙しい毎日を送っていますから。
 もうかれこれ十年くらい前からでしょうか、女房は事あるごとに「これからは仕事をもっと絞って、やりたいことだけをやっていったら」と僕に言うようになりました。
 無理をしがちな僕を、女房なりに気遣ってくれているのだと思います。でも、貧乏性のせいか、それがなかなかできない。
 ただ一つ思っているのは、これからは女房といる時間を少しでも多く持って、少しは女房孝行をしようということ。もちろん、こんなことは面と向かっては言いませんよ。
 僕の仕事に定年はありませんが、同年配の多くの男性は順次、定年を迎えていきます。好んでも好まなくても、夫婦で顔をつき合わせる時間は増えるでしょう。
 僕もそうだけど、ふだんは互いに我を通すことがあっても、何か一大事が起きたときには、その我を引いて、互いを思いやって事に当たるのがほんとうの夫婦なのかなと今、痛感しています。でも、そうした夫婦、あるいは家族は一朝一夕では出来上がらない。やっぱり日々の積み重ねが大事なんだということも、僕は今、つくづく感じています。
取材・文:平出 浩
「PHPほんとうの時代」2006.5号
PHP研究所

個性を失う地方都市 top
 車に乗せてもらっていて、うとうとと眠り、目を覚ます。窓の外を流れていく風景を眺め、はて今日はどこへきていたのだったのかと一瞬考える。もちろんすぐに思い出しはするのだが、風景を見ただけでは地名を思い出さない場合が多い。
 ことに郊外は、どの地方都市にいっても同じような表情であるといえる。全国的なスーパーマーケットの支店があり、自動車のディーラーがならび、電機器具やスーツや仏壇の量販店が軒を連らね、コンビニやファミリーレストランや焼肉屋や牛丼屋のチェーン店が居ならんでいる。全国展開をしている店は全国同じカラーリングとロゴマークなので、風景はまったく同じである。
 日本の都市は急速に均質化していっている。利便性を追求していくと、行き着く先はみんな同じになる。全国展開のチェーン店も、カラーリングやロゴを同じにすれば、店内の配置も置かれた商品も同じである 。工夫された設計なのだろうが、一回やればそれ以上に設計をする必要はなくなる。客は安心するのだろうが、全国どこでも均質なので、私のように旅をするものにほ、予定調和的な安心感しかない。要するに、どこにいっても同じでつまらないのだ。
 もちろん都市はそこに暮らしている人のもので、旅人のものではない。暮らしやすければそれでいいのである。暮らしやすさを求めてきたあげく、全国的な均質性に身をゆだねるのが、結局安心なのである。
 かくして、全国どこにいっても同じ表情が揃うようになった。古くから歴史を紡いできた中心部の旧市街はさびれ、駐車場が充分にあって全国チェーン店のならぶ郊外が栄えるようになった。構えている店はテレビのコマーシャルで宣伝をしているので、消費者も親近感を持っていて、安心して足を運ぶことができる。
 消費者は車で移動するから、大量に買ってもらえる。大駐車場を用意するのはもちろん、そこに来るまでも道路を広くし、渋滞などしないようにする。車が順調に走れるようにすることが、都市計画である。都市の中心部を活性化するのが多くの地方自治体の目標なのだが、都市計画の多くは車が通りやすく都市を改造することで、やっていることはまったく反対の政策である。
 このようにどこもかしこも同じ顔になってしまったのでは、独自の文化など育たないではないか。足並を揃えることは昔から得意な国民性であるが、ここまで同じようになってしまったのでは、むしろ不気味さを感じてしまうのだ。
 快適に生活するということと、利便性のある生活をすることとは、別のことではないかと私は思うのである。確かに便利で簡単に買物ができるのだが、結局は大量生産の同じものしか手にはいらない。
 快適な生活の中には、個性的な独自な文化の中に生きているのだという、精神的な充足が必要である。そこにしかない故郷の山を見て、そこにしかない故郷の海の香りをかいで、人は郷土愛を持つ。それは風土性といってよいものである。地方がどこも同じ顔になってしまったのでは、風土性が育つ余地はなくなる。
 日本の多くの都市は、第二次大戦のアメリカ軍の空襲により焼失して瓦礫になった。そこからとにかく復旧するのが、当面の目標であった。復旧といっても、元の姿に戻すのではなく、むしろ合理的に都市を改造していった。その結果として、伝統的な古いものは顧(かえり)みられなくなり、とにかく便利なようにとされたのだ。
 空襲を受けた都市と受けない都市では、ここにきて都市の様相がまったく違ってきた。奈良や京都や金沢は本来が日本的伝統を色濃く残す文化都市で、それゆえアメリカ軍も爆撃をしなかった。しかし、他の地方都市もそれなりの伝統を育んでいて、それなりの独自性を持っていたのだ。それが一律にきれいに焼かれてしまい、独自性はことごとく失われた。第二次世界大戦の空襲がなければ、現代の日本の都市はまったく違っていたはずである。歴史に仮定はないにせよ、私はそれが残念でならない。
 都市を破壊したのは、もちろん空襲だけではない。戦後の激しい都市開発は、モータリゼーションの流れに乗って、郊外をすっかり変えてきた。人は車に乗って郊外に買物にいくようになり、中心部の古い商店街はさびれてしまった。シャッター通りといわれるごとく、商店街もシャッターを閉め切っているのだ。そのシャッターも錆びているので、廃墟の感を呈している。
 交通を便利にすれば人が集まり、商店街も活気づくだろうということで、道路を広げる都市計画が行われる。すると少なくとも片側の街並が壊される。保障金がはいったのをよい機会ととらえ、商店はどんどん廃業していく。都市計画は廃業を促しているかのようである。商店は建て換えられる過程で、建物が壊されるまではよいのだが、そのまま空地にしておかれる。やがて空地にはアスファルトが打たれ、駐車場になる。車が入ってこられないのがさびれた原因だと考えられていたのに、やたら駐車場が増えて、街は櫛の歯が欠けたような状態になるのだ。ますます街の魅力がなくなるということである。
 街の魅力の一つに、路地がある。窮屈そうに小さな酒場が身を寄せあうような路地は魅力的だが、不潔なもののように思いなされ、風通しばかりよい街につくり換えられていく。
 私は個を失うばかりの地方都市の都市計画に絶望しているのである。地方は地方の独自性を持たなければならない。独自性は不便であるかもしれないのだが、街づくりには不便でもよいという覚悟を持つべきではないかと私は訴えたいのである。
財団法人都市計画協会「新都市」平成18年3月号

懐かしの名作を聴く/歌声喫茶 top
「青春の歌声喫茶愛唱歌全集」という古風なタイトルのついた箱の蓋を開け、CDを取り出して機械にいれる。そして、たちまち私は懐かしい思いにとらえられた。まず聞こえてきたのが、ダーク・ダックスの『モスクワ郊外の夕暮れ』であった。私は車を運転していた。故郷の宇都宮に帰ろうと関東平野を走っていて、しかもたそがれ時であった。なんだか出来過ぎた情景の中に私はいたのた。
 曲はつづいてボニーシャックスの『行商人』ヴォーチェ・アンジェリカ『スリコ』、再びダーク・ダックスの『私が郵便馬車の馭者だったころ』、芹 洋子の
『四季の歌』.ペギー葉山の『学生時代』とつづいていく。どの歌も、声を揃えてかつて私は一生懸命に歌った。私は二〇〇六年冬の東北自動車道を疾走しているのだが、心は昭和四十年代に飛んでいたのだった。
 私が早稲田大学にはいるため東京にいったのは、昭和四十一年である。そこでサークルは「早稲田キャンパス新聞会」を選んだ。一気に広い世界にきて、もっともっと広い世界と出会いたいという願望があったのである。
 ある時、サークルの先輩に連れられて新宿にいき、歌声喫茶というものに初めて入った。「灯」という名の歌声喫茶が営業していたのである。
 店内には歌舞伎の花道のようなステージがあり、そこを歌手か縦横に歩きながら、指揮をする、ように歌唱指導をしていた。横にはアコーディオンやギターの伴奏がいて、歌手か独唱すると、次には店内の全員で合唱をしたのである。そこで歌ったのが、『モスクワ郊外の夕暮れ』や『ともしび』や『ヴォルガの舟唄』などのロシア民謡であった。声を揃えて歌っていると、そこがモスクワ郊外になり、シベリアになり、ヴォルガ河になるのであった。

歌えば同志のような連帯感が生まれた。

 歌っているうちにみんな高揚してきて、手を握ったり、肩を組んだりした。コーヒー一杯で、大いなる共生感を味わうことができたのだ。はじめて会ったのに、立って肩を結んて歌っていると、思想や心情を一緒にする同志のような連帯感さえ生まれてきた。コーヒー一杯の代金を払ってたまたま隣り合わせたに過ぎないのだが、未来を同じくするもの同士のようにさえ思えてきたものだ。
 歌声喫茶とはそのようなところであった。歌に力があるのは間違いのないことだが、歌声喫茶にいけば、歌の力に身をゆだねていればよかったのだ。
 今日ならば、若者から「気持ちが悪い一という声が返ってきそうである。今は歌うところはたくさんあるが、たいていは密室のカラオケルームだ。そこでマイクを持ち、個人で歌う。歌声を合わせるといっても、せいぜいデュエットである。歌の持っている性格が歌声喫茶とカラオケルームと、根上本的に違っている。
 よくスナックなどで経験することだが、友人たちと気持ち良く語らっている時、大ボリュームでカラオケの歌声が暴力的に響き渡ったりする。迷惑この上ないが、文句をいえご喧嘩になるかもしれず、自分が逆の立場を演じていることもあるので、我慢をする。やっと一曲が終わったと安堵するのも束の間、マイクはそのグループの中を順々に手渡されていく。友としみじみ語り合うなどという雰囲気からはいよいよ遠くなっていく。

若者が集う所には必ず歌声があった。

 しかし、歌声喫茶の世界、歌うことによって一つの世界を共有することが、実は私もしだいに居心地悪くなってきたのだ。コーヒーカップが空っぽになるのを恐れてコーヒーをちびちびなめながら、涙さえ流して大声で歌っている。そんなことが、大人になると恥ずかしくなってくるのである。屈折しながらも、私は私なりの青春を生きはじめていた。見知らぬ人と肩を組んで涙を流しながら歌うのは、デモでの高揚感に似ている。こんなことを今日の時代に書いても、時代背景がまったく違うので、体験した人にしかわからないであろう。幾度となく屈折し、新宿駅の西口広場でフォークソングを歌うことが、新しい時代への参加であった時さえあった。だがすべては通りすきていき、今は思い出として心の底に残っているばかりだ。
「青春の歌声喫茶愛唱歌全集」の箱の蓋をとり、湧き上がってきた歌の数々は、新宿にあったあの歌声喫茶ばかりでなく、私たちの青春そのものが地層のように重なっている。百人いれは、百通りの青春があったのだ。どれがよい青春で、どれが悪い青春などということばない。誰もが時代のどこかにいたのであり、その場所には必ず歌声が聞こえてきたはずなのである。
 私がたまらないほど懐かしい思いにとらえられたのは、私の青春の一面が甦ってきたからである。誰もが自分の青春を甦ることができる、そんな魔法の箱なのである。
Zekoo 2006年3月

自然・環境・いのち(4) top
心安らぐ古寺や社、人生を彩る旅先の美味…。
千年以上続いた文化を、千年先に引き継ぐためにも、
育んでいくべき自然があります。

連綿と引き継がれてきた宮大工の技術も、素材となるヒノキの大木がなけれほ活かすことはできない。
だから、400年先を見越した森づくりが始まりました。

 前回は、立松さんにとってもう一つの”ふるさと″、足尾銅山における植林活動について伺いました。ほかにも、林野庁が進める「古事の森」づくりの提唱者でいらっしゃいますが、どういうきっかけで始まった活動ですか?

法隆寺の伽藍を、守るために。もう一度日本に、大木を育てよう。

「古事の森」づくりのスタ−トは、足尾での植林活動とも関わりかあるんです。長年の銅の採掘によってはげ山になっていた足尾では、われわれ民間ボランティアの植林活動に先立って、国による大規模な復旧活動が行われ、今も続いています。その復旧活動の中心となっているのが足尾を管轄する大間々営林署で、われわれの植林活動にも賛同をいただき、一緒に植林を進めてきました。こうした経緯から、当時の署長に、古いお寺や神社の修理に必要な、立派な木材を育てる活動ができれば、という話をしたのです。
 というのも、僕は、毎年お正月の1月7日夜から14日まで法隆寺で行われる金堂修正会という行に小坊主として参加させてもらっています。小坊主ですから毎朝5時ごろに起きて、伽藍のなかのお灯明をともして回ります。お供えを並べ、準備をして、やがてお坊さんたちがやってきて、朝昼夜2時間ずつの行をする。そんな経験を重ねるうちに、1400年もお寺を守ってきた足跡が少しずつ見えてきました。ただ昔の人が建てたから今あるのではなくて、たとえば雨漏りを見つければ即座に修理るというように、大勢の専門家が毎日毎日、お寺の隅々にまで目を光らせて伽藍を守ってきたのです。そして、法隆寺の場合は100〜150年に一度、小修理を行い、300〜400年に一度、大修理を行います。すでに昭和の大修埋は終えていますが、400年後にはまた大修埋が必要になります。ところがその時必要になる大径長尺材が、今のままでは供給不可能になるというのです。話は法隆寺に限ったことではありません。日本が誇るたくきんの木造建造物はすべて、修理のための大木がなければ維持できなくなってしまいます。
 そんな危機感があったから、僕は署長に一生懸命、森をつくらなければならないと話しました。すると林野庁が動いてくれた。それもなんと、2001年10月ごろに林野庁長官に会い、翌1月には第一回の「古事の森づくり」の場として京都の鞍馬山が選定され、4月には森づくりが実施されるという、驚くほどの素早さでした。

400年後には、育った木の一部が、文化財になる…。
「古事の森」づくりに、ふくらむ夢‥

 以来、関西では奈良の若草山、高野山、関東では筑波山、ほかに岐阜の裏木曽や北海道の江差で植林が行われてきました。今年は、高野山と斑鳩での植林が予定されています。「古事の森」づくりは、林野庁が国有林の一画を提供し、民間のボランティアがその土地にヒノキなどの木を植え、国が文化財の修理のためにそれらの木を育て、保護するという取り組みです。当然、大勢のボランティアの協力があって成り立っています。今後もそういう協力の輪がさらに大きく広がっていくことを期待しています。
 植えるのは、その土地にあったヒノキが中心です。たとえばスギは、どんなに立派でも450年ぐらいしか持ちませんが、法隆寺のヒノキはすでに1300年を経過しています。ヒノキが材としていかに優秀かがよくわかります。また、ヒノキ以外にお祭りなどに使うウルシなどの木も必要です。そういうものや山菜などもとれる、豊かで明るい市民の森が育っていけばいいですね。400年後には育った木が文化財の一部になると思うと、人の営みの壮大さを実感できます。それに、僕らの生きているうちにも、森がある程度形を整えてきたら、ピクニックや森林浴が楽しめるようになりますね。

「ニゴロブナがいなくなる」と、肩を落とした琵琶湖の漁師。
伝統の食文化を守りたい思いは、みな同じ。
琵琶湖を守る取り組みは続きます。

 関西には法隆寺を始め、たくさんの歴史ある木造建造物がありますから、もっと関心を高め運動を盛り上げていければと思います。立松さんは関東のご出身ですが、関西の、大切な水源である琵琶湖の環境保護にも心を寄せておられますね?
琵琶湖の魚の生態系を守るために、「琵琶湖ルール」が施行されました。
「僕は琵琶湖にも友人がいて、漁師をしているのですが、もうずいぶん前に、ニゴロブナがいなくなってしまうと肩を落として語っていました。ニゴロブナというと、琵琶湖特有のフナで、鮒ずしの素材として有名ですね。鮒ずしは奈良時代から継承されてきた発酵食品で、日本の食文化のなかでも最も歴史ある食品の一つ。これが、ニゴロブナがとれなくなって、15〜16匹漬け込んだ一樽が30万円とかすると言うでしょう。フナと一緒に、長い歴史を持つ食文化の一つが消え去ろうとしているんです。これは大変なことですね。
 ニゴロブナが激減した原因は、乱獲や水質の悪化、琵琶湖の総合開発によって産卵の場となる泥の洲が失われたこと、湖全体がブラックバスやブルーギルといった外来魚に席巻されてしまったことなど、いろいろです。
 こうした状況に少しでも歯止めをかけたくて、02年に、小学生の仲良し3兄弟が琵琶湖の魚を救う冒険に繰り出す『魚になった3兄弟』という絵本を書きました。その後03年4月には、外来魚のリリース禁止などを定めた「琵琶湖のレジャー利用の適正化に関する条例」いわゆる「琵琶湖ルール」が施行され、状況の改善が期待されています。
 滋賀県では20年余り前に「琵琶湖富栄養化禁止条例」で、リンの入った洗剤の使用を禁止しました。当時、地域の生協などが中心になって運動を盛り上げ、水質改善に大きな成果を上げたという歴史がある。外来魚の問題も、より多くの市民が関心を持つようになり、運動が盛り上がっていけば素晴らしいと思います。

豊かな生態系から生み出された、日本の文化。
一人ひとりの自然を守る努力が、
歴史ある文化を、明日へと引き継ぐ力に。
誰のためでもなく自分のために、
ささやかでも、自然を守る活動を…。

「古事の森」にしても、「琵琶湖ルール」にしても、僕が大切だと思うのは、そこに、日本の文化の存亡がかかっている点なんです。
 人間の文化は、人間だけがつくるのではなくて、そこにある豊かな生態系に支えられて生まれてきます。だから、自然を破壊すれば、人間の生存に必要な地球環境がおびやかされるだけでなく、生態系が崩れて、古くからの文化が危機にさらされてしまう。神社仏閣を修理したくてら、その素材となる木がない。昔から慣れ親しんできた食べ物が、高価なものになり、やがて姿を消していく。そんな事態はできる限りなくしていきたい。
 幸い、今ならまだ間に合います。僕たちが足尾で始めた植林は、毎年約1500人もの人が集まってくれるようになり、1回で約6000本ずつ木が増えています。全国各地にできた「古事の森」でも、400年先を目指してヒノキが成長を始めています。琵琶湖の生態系を取り巻く状況も、すでに「琵琶湖ルール」が施行され、今後市民の関心が高まっていけば、より良い方向に向かい始めることでしょう。こうした小さな積み重ねによって、関西が誇る伝統文化も、より豊かに継承されていくに違いありません。
 そのためにも欠かせないのは、一人ひとりができることから始めることです。僕たち一人ひとりはお金も権力もないけれど、「貧者の一灯」ならできます。植樹の活動に参加して1本の木を植えること、リンの入った洗剤を使わないこと、ゴミを分別すること、エンジンのムダぶかしをやめること…。
誰のためでもなく自分のために、僕もコツコツとできる限りのことを続けていきたいと思っています。

「ステーション」2006年03月号
発行:生活協同組合コープこうべ

自然・環境・いのち(3) top
「荒廃した足尾の山に、百万本の木を植えよう!」
活動は世代を超えて広がり、今年で11回目。
山が緑に。これからも、もっと緑に…。

かって殖産興業の最先鋒であつた、足尾銅山。
当時のハイテクを駆使した事業が、歴史の光と影を織りなし、その後には、木のない山が残りました。

 立松さんは、足尾に木を植える活動に関わっておられますが、なぜ足尾に植樹が必要なのか、なぜ関わっておられるのか、その背景から教えていただけますか?

富国強兵策の桂であった、足尾銅山。

 足尾銅山の歴史は古くて、江戸時代初期、1610年に発見されて以来採掘が続けられましたか、一時衰退していたんですね。これを明治政府が、北九州の八幡製鉄所と並ぶ”日本の殖産興業、富国強兵策の柱”としようと、非常に力を入れて再開発しました。全国から技術を持った坑夫をヘッドハンティングして足尾に集結させたのです。イギリス人の技術が入って、日本で初めてダイナマイトを使って発破をかけた。すると金屏風のような“大直利(だいなおり)”、つまり大鉱脈ですね、これが出て一気に活気づいたわけです。産出量は相当なもので、一年だけですが世界一になったこともあるほどでした。
 実は僕の母方の曽祖父がこれに関わっています。もともと兵庫県の生野銀山で坑夫をしていて、17〜18歳当時、古河市兵衛の呼びかけに応じ、足尾に移った。そして、銀谷組という組を率いるようになりました。おふくろの方の本籍地は、兵庫県朝来郡生野町奥銀谷なんです。当時、生野銀山というのは、足尾銅山のダイナマイトに先駆け、フランス人の技師が入って日本で初めて黒煙火薬を使った鉱山だった。僕はこうした曽祖父にまつわる歴史をほぼ30年がかりで調べ、これを題材に『恩寵の谷』という小説を書きました。ちょうど震災のころ、神戸新聞に連載されました。

一連な営みが遺した、負の遺産

 足尾はまた、僕にとってのもう一つの”ふるさと“です。僕は宇都宮に生まれ育ちましたが、足尾の親戚の家に、子どものころから毎年夏休みの10日ほどを過ごしに行きました。大変愛着もあるし、鉱害の爪痕についても考えずにはいられなかった。
 かつての鉱山は技術の粋が集められたハイテクの地です。鉱山労働者たちにしてみれば、殖産興業の担い手として社会の要請に応え、また自分や家族の幸福のために、正直一途に働いただけだったでしょう。ところが、その事業は大変な自然の荒廃を招いてしまったのです。僕の親戚の家があったのは、真ん中を渡良瀬川の清流か流れる緑豊かな街でしたが、ちょっと奥に入った渡良瀬川の源流の辺りは、荒涼たるはげ山でした。
 というのも、まず、杭道を延ばすための板や柱、燃料の木炭を得るために、周りの木をどんどん切った。鉱物の含有量の少ない鉱石をズリと呼び、鉱石を溶かしたかすをカラミと呼ぶのですが、どちらも鉛やカドミウム、水銀なごの重金属を含んでいます。これが野積みされた。さらに木炭がコークスに変わると、燃焼時に出る亜硫酸ガスが草木を枯らしていきました。

森の消失という痛みは大きく…。

 はげ坊主になった山は、雨が降るたびに表土を失っていきます。山の保水力が全くなくなって鉄砲水が出る。しかも、流れ出した重金属で大槻模な土壌汚染が起き、下流域でも木が枯れ、生きものがいなくなっていった。水俣病と同じものを発症するという事態も起こった。この問題に真正面から取り組んだのが田中正造という人物です。
 足尾銅山は1973年に閉山され、今は国による大槻模な復旧事業が続いています。ですが、一度失われた自然を取り戻すのは、決して簡単なことではないんです。
最初に立ち上がつたのは、地元の有志10人余り。手べんとうで土も苗も持参、会費まで払うという活動に、予想をはるかに超える人々が参加してくれました。

 そうしたことを背景に、植林活動が始まったわけですね。そのきっかけや活動の状況は?

少数の思いから始まった、植林。

 僕には、宇都宮や足尾に仲間がいます。みんなそれぞれに、足尾の歴史や自然に関心を寄せ、渡良瀬川の浄化や田中正造と足尾鉱毒事件の研究、資料館づくり、足尾のまちづくりなどに取り組んできた人たちです。そういう仲間が集まって、1996年に「足尾に緑を育てる会」をつくった。国の復帰事業は復帰事業として、われわれ民間もボランティアて、田中正造がやり遺した「治山治水」を継承していこうという気持ちでした。
 とはいえ、最初は10人ちょっとのささやかな集まりでね。お金も何もないわけです。
 そこで、「足尾のはげ山に木を植えたいと思います。参加してくださる方は、苗と、土と、スコップと、カッパと、長靴と、べんとうを持って足尾に来てください。来てくれた人全員から、会費として1000円いただきます」という、呼びかけをしました。さして期待もせず、まあ自分たちだけでもやるつもりで、スタートしたんで
す。 ところが初回から160人ほどっも人が集まってくれました。

活動が広がり、緑が甦ってきた。

 以来、毎年4月の始終日曜日に植林を続けてきました。植える木は、ミズナラ、ブナ、アキグミ、コナラ、ケヤキ、ナツツバキ、ミズキ、リョウブ、ニセアカシア、タラノキ、ウドなど、なんでもいい。広葉樹を中心に、自然に近い木が甦ってくれれば、というのが会の方針です。今では参加者も大きく増えて、毎年1500人くらいの人が来てくれます。老若男女入り乱れ、世代は完全に超えていますね。かつては銅を採掘し、その銅は日清・日露戦争の際の銃弾にも利用されました。そうした歴史に直接、間接に関わった日本人が今、三代、四代と代をくだり、緑を甦らせるために力を合わせているわけです。木も10年経つとすごく大きくなる。子どもも10歳だった子が、二十歳になるわけです。それはやっばりすごいことだなと思います。そして、表土もなく生命を拒んでいたその場所が、緑になりましたね、本当に。これを続けていかなければならないと思います。

貧しい老女が供えた、たった一本の灯明には、お金持ちが供えた一万もの灯明よりも、力があった。
今僕たちに必要なのは、この”貧者の一灯“の精神です。

 足尾に緑が甦れば、今後、鉄砲水の心配などもなくなっていきますね。

心に木を、植え続けよう。

 そうした直接的な効用ももちろんありますが、それだけが植林の目的ではありません。僕が最初から一貫して言ってきたことは、「心に木を植えましょう」ということです。実際に植林しているとね、これはどこで植林しても同じですが、自分の心の中に木を植えているような感じがしますよ。それで僕は、一人で勝手に「百万本植える予定」だと言っています。これはね、最近ようやく毎年6000本ぐらい植えられるようになりましたが、160年以上かかる本数です。しかも、本当に百万本植えたら山が完全に緑になるかというと、そうとも思えない。要するに、百万本が意味しているのは、完結することのない大事業だと言うことなんです。
 それを承知でやり続ける支えとなるのが「貧者の一灯」の精神だと思うんです。「貧者の一灯」というのは、お金持ちが人を雇って立てた一万のお灯明が雨風で吹き消されたときにも、貧しい老女が心を込めて立てたただ一本のお灯明だけは消えずに燃え続けたという仏教説話です。私たち一人ひとりはお金も権力もなく大きなことはできないけれど、貧者の一灯は立てられます。たとえば、リンの入った洗剤を使わない、ゴミを分別する、エンジンのムダぶかしをやめる、どれもみんな貧者の一灯です。それを続けていこう。
足尾ではそういうつもりで植林を続けているし、これかちも続けていきます。

「ステーション」2006年2月号
発行:生活協同組合コープこうべ

自然・環境・いのち(2) top
あるままで、一切ムダのない、大自然。
その中には、ちゃんと、人間も組み込まれている___。
知床の森、川、海が、そのことを教えてくれます。

サケ、ヒグマ、ワシ、キツネ、人間…。
知床では、すべてが連鎖し合って、みごとなバランスを、保っています。

 そうですね。まず、知床の生態系の頂点に立っているのは人間です。人間が、サケ・マスの孵化事業を行って、稚魚を川に放す。放された稚魚のなかで、大自然を生き延び成長したものが、4、5年すると知床の川に産卵のために戻ってくる。それを、ヒグマやオジロワシ、キタキツネなどがとらえて生きる糧にします。そして、彼らによって森に運ばれ、食べ残されたサケやマスが、栄養となって木々を繁らせ、森をさらに豊かにする。豊かな森は天然のダムになって、降った雨をゆっくりとろ過してから川、そして海へと流す。だから、知床の川も海も、実にきれいです。

漁師が、クマが、流氷が、大切な知床の海と生態系を、守っている。

 知床の漁師はと.アマを殺しません。後から侵入してきたのは自分たちだということをよく知っているからです。クマも漁師が害を加えないことを知っています。彼らは触れ合えるほど近づいても互いに干渉し合わず共存しています。そして、クマは漁師が殖やしたサケ・マスを食べ、森に運んで土壌を肥やし、結果的に、漁師にとって何より大切な海を守っているのです。
 知床の海、特にオホーツク海側は、流氷のため、冬は漁ができません。北の海の冬の漁の中心はスケソウダラ漁で、知床でも流氷の比較的少ない太平洋側では、非常に盛んでした。ところが、最近はスケソウダラが激減した。オホーツク海側では、このスケソウダラも、流氷によって守られています。流氷は、生態系の頂点に立つ人間の営み、漁を一時的に妨げることと、アムール川の植物プランクトンを閉じ込めて運んでくることによって、二重に知床の海を豊かにしています。これによって海の生態系のバランスも保たれ、クジラやイルカも生きていける、恵まれた環境が維持されています。
 流氷はまた、冬に海から吹く風を遮ることで、森を塩害から守ってもいます。

自然は、不変。ただ、自然の見方を変えるのが、人間の知性…。

 こうした一切を、自然は何一つ隠していません。すべては善悪を越えて、あからさまに存在しています。季節の恵みのなかで、一切何のムダもないんです。そういう自然の姿は不変のもので、ただ人間の知性が自然の見方を変えていくだけです。僕は知床で、そのことを大きく学びましたね。

知床の自然を楽しもうとする人は、知識に裏打ちされた、いのちへの思いやりを持ってほしい。
そうすれば観光地としても素晴らしい場所になります。

 知床が世界自然遺産に登録され、観光客が一層増えました。自然に与える影響も心配されているようですが?

 観光客の間違った行動の一つは、野生動物にエサを与えることです。たとえばキタキツネがいると、すぐに人間はエサをやってしまうんですね。それも、味のついた、野生の世界では食べたことのない、とんでもなくおいしいエサです。もらったキツネはその味が忘れられない。道の端で、車がやって来てエサを投げてくれるのをひたすら待つ生き方を始めます。知床にはそんなキツネがいっぱいいますよ。秋になって車が来なくなっても待ち続ける。冬になってもまだそこにいる。エサの捕り方を学んでないから、結局は飢え死にしていきます。中途半端なヒューマニズムは、そんなふうにとても残酷です。

観光客は節度ある自然との交流を。

 知床が世界自然遺産に登録されたことで、エコツーリズムも盛んになって、今後、知床の大自然に足を踏み入れる人も大きく増えることでしょう。キタキツネだけでなくすべての野生動物に対して、間違った行動をとらないように十分に気をつけたいですね。たとえばシマフクロウ。これは絶滅危惧種で、絶滅を防ぐためにもその生態の研究は大変重要です。だから、研究対象となっている場所には地元の人も足を踏み人れません。観光客もそうしたマナーをわきまえて、節度ある自然との交流を心がけなくてはいけないですね。
 受け入れ側も基準づくりを進め、みんながルールを守って、観光地としても素晴らしい場所にしていければと思います。

知床の自然を守ってきた漁業や農業が、観光業と手をたずさえて発展していければ…。
それを可能にするのは、多くの知床ファンたちです。

 ほかにも、立松さんが、愛する知床のこれからに対して、願われていることはありますか?

第一次産業が元気でないと、自然は守れない。

 これは、知床に限ったことではないのてすが、日本人は伝統的に、農業、漁業、林業といった第一次産業を通じて自然から恵みを受け取ると同時に、自然を守り育ててきました。だから、第一次産業が勢いを失うと、自然を守り続けていくことはできません。特に知床には、人間を含んだ完璧な生態系があるわけですから、人間を排除することはかえってマイナスです。世界自然遺産に登録されるに当たっても、一時、浜から何km以内は網を入れさせないようにして漁師を排除しろという話になりかけました。そのとき、漁師の一人が私に、「俺たちが自然を大切にしてきたからこそ世界自然遺産にも登録きれるのじゃないか。世界自然遺産になるからといって、何か新しいものをつくるということではないはずだ」とつぶやいたんです。これはまさしく正論です。ツーリズムは第一次産業を押しのけてではなく、第一次産業の上にのっかって盛んになるべきで、本当は、ツーリズムと第一次産業が互いに補完し合うようになるのがいちばんです。
 例えば、知床では今、大量のサケやマスが獲れるのに、ノルウェーなどからの輸入が多くて値段が大きく下がってしまい、漁がビジネスと成り立たなくなる寸前まできています。そこで大勢の観光客に、地元産の新鮮なサケをおいしく食べてもらうことができれば、観光客にとってもうれしいことだし、地産地消によって漁業が元気づきます。また、観光客が知床の自然に触れて、知床のサケ・マスを食べれば知床の自然も守られるのだということを学んで帰れば、日常の食材として使う機会も増えるかもしれません。本当にそうなってほしいと思いますね。

暮らしに密着した、知床の農業も。

 農業も、知床の農業は小麦とじゃがいもとビートの輪作が中心ですが、もっといろいろな作物をつくって観光客にも喜んでもらいたいと考えて、8年ほど前、知床の農業青年といっしょに「知床ジャニー」という会社をつくりました。
僕は知床のみごとな生態系に魅せられて、ここに丸太小屋を持って足繁く通うようになった。そして農業青年たちとも交流ができたのですが、彼らがやっている。同じ作物ばかりを広大な土地で大規模に育てる農業だけでは、どうも物足りなく感じたんです。もっと日々の暮らしに密着した野菜などもいろいろつくった方が、農業の喜びが深まって、知床の第一次産業はいっそう元気になるだろう。そう思って、農業青年たちに提言すると、ぜひやろうじやないかということになつた。それぞれ本業である大規模農業場を抱えているので思ったようには進みませんが、今もふたりの農業青年が頑張ってくれて、キャベツやねぎや大根などを減農薬でつくり、宇登呂のホテルから朝注文を受け、昼ごろ持っていくというようなことをやっています。愉送コストの問題もあってささやかな規模ですが、僕が橋渡し役になって、東京の市民流通団体などを対象にした通販にも取り組んでいます。農作物だけでなく、サケ・マスの売り上げに少しでも寄与できればと、吟味した新巻き鮭なども扱っています。

守っていきたい、知床の完璧な生態系。

 これからは、漁師や農業がこれまで以上に元気に仕事をして自然を守り、観光客は知床の自然を正しく学んで、海の幸、山の幸を含めた自然の魅力を存分に楽しむ、そんな知床になってほしいですね。そして、地元の人と、これからどんどん増えるであろう知床のファンが一緒になって、世界にも稀な、人間を含む完璧な知床の生態系を守り続けていけたらと願っています。
「ステーション」2005年12月号
発行:生活協同組合コープこうべ

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 知床では、人間が自然と共に生きることで、
豊かな生態系が維持されています。
これを、なんとしても、
次世代に引き継いでいきたいですね。

漁師たちが続けてきたサケ・マスの孵化(ふか)事業が、生と死の交錯する奥深い自然の営みを支え、海や山の豊かさを、育んできました。

 まず立松さんが知床に魅かれ、20年も前から深い関わりを持って来られた理由を教えてください。

 僕が初めて知床に行ったのは大学に入った年で、水底に黒褐色の昆布が揺れているのが遥か遠くまで見渡せる、これまでに見たこともない海が広がっていました。まるで汚れを知らない、それはそれは気高く美しい風景だった。そんな記憶が焼きつく知床を、20年余り前にテレビ番組の取材で再訪したのです。それが緑で、知床の人々と親交が深まって、彼らが自分たちで建てたログハウスが並ぶビレッジに、僕も仲間入りしました。知床の自然は美しく、しかも、その自然を知り抜き、守りながら恵みを受け取っている漁師や農家の人たちがいる。この豊かな自然と温かい仲間を大切にしていきたくて、年に10回ぐらいのペースで通い続けて来ました。


 今回世界自然遺産として認められた「知床」では、どんな自然に出会えるのですか?

 知床というのは、生態系が非常に整っている場所なのです。日本では最大の陸上の大型動物はヒグマですね。知床には、このヒグマがたくさんいます。それと、猛禽類でいちばん大きいのはオオワシですね。このオオワシもたくさんいます。一回り小さいけれど羽を広げれば2mはあるオジロワシもいます。海の方ではいちばん大きいのはクジラ。このクジラも、最大のシロナガスクジラではないのですが、季節によってわりと簡単に見られます。イルカもたくさんいます。
 もう一つ特徴的なことは、知床の自然は、人がつくった、人と共生している自然なんです。
 たとえば、知床はサケ・マスの漁獲高が非常に多いところです。昭和30年代から比べると10倍以上になっています。これは、孵化事業をしているからです。卵を採って受精させて稚魚に育て、川に流すということをしている。ですから、全く手つかずの自然ということではない。知床の川は急峻です。山の奥から海までが短くて、せいぜい3kmとか′1km。上流が中流になりかけて終わる、下流のない川です。だからサケやマスも簡単に、さかのぼることができなくて、かつての自然産卵の時代には漁獲高も限られていた。それを、地元の漁師たちが、地道に孵化事業を続けることで10倍にも伸ばしてきました。

知床の豊かな自然は、漁師たちの地道な努力のたまもの。

 知床では、お盆過ぎにはもう秋の気配が濃くなり、生と死が交錯する自然の営みがいたるところで展開されます。それを支えているのが、漁師たちの孵化事業です。サケやマスは生まれた川に戻ると言いますが、あれもピタッと正確なわけではなくて、北海道で放したのは北海道に戻ってくる、ぐらいの感覚なんです。そういう大らかな営みを自然が受け入れ、それによって、漁が、そしてまた、ヒグマが暮らす知床の生態系が、守られているわけです。
 実際に、サケ・マスの漁にも出られたのですか?
 サケの産卵を、僕は何度も河口に潜って見てきました。たとえば8月の終わりから9月の初めにかけてはカラフトマスがものすごい勢いで上ってきて、カップリングをする。流れの緩やかな、砂と泥がやわらかくたまっているところを胸びれ、尾びれで埋って、産卵するわけです。後から後から来て同じようなところを掘りますから、産みつけられた卵がどんどん掘り返されて、河口で見ているとものすごい数のイクラが流れてくるんです。生きてるイクラはサーモンピンク色ですが、死ぬと真っ白になる。そんな光景のなかを、「ホッチャレ」と呼ぶ、産卵を終えて死に向かっているサケが流されてくるわけです。死にかけているけど、魚は自殺はしません。見ていると、死を引き受けた生きものほど強いものはありませんね。何の恐怖もなく、ぼくの顔のガラスのマスクのところにチユチエチエチユとキスしてくれる。それが、顔が半分骸骨になってたり、片目が機械仕掛けのように動いて、もう一つの目はなかったり。すごい姿だけども、僕はいのちを最後まで使い切っていくものの、気高い美しさを感じます。
 そこにまたクマが飛び込んできてサケをとるわけだけども、クマも元気なサケはそう簡単にはとれません。それでもホッチャレはとらない。ホッチャ
レは、放ってしまえという意味で、おいしくない。元気なのをとって、メスのおなかの中の卵だけ食べて、残りは投げてしまう。それを今度は、キツネやオジロワシ、カラスなどが食べて、残りは森の栄養になります。こうして豊かになった森が天然のダムとなって、サケが生きる川や海の美しさ、豊かさを守ってくれるわけです。

あからさまに生死が見える、知床の海。

 漁も、知床の漁師は、心根がやさしいですよ。僕はよく漁師について網上げに行きますが、一度に1万5000本ものサケがとれたりする。それはそれは豊かな海です。でも、そこには1万5000の死があるということです。命にあふれているとは、死にあふれているということで、あからさまに生死が見えます。そこに、生きることの根本を支えている人の営みを深く感じますね。漁師がとることだけを考えていたら、知床のサケもマスもとっくにいなくなっている。そうではなく、孵化事業をやり、網の目も大きくして、ロシアの底引き網漁などとはまったく違う漁をやってきた。だからこそ、知床は、あれほど海も山も豊かなままなのです。


流氷は、オホーツク海特有の、壮大な自然現象。
流氷が運ぶプランクトンが、サケ、マス、タラの、広大な海への旅立ちに向けた力を、養います。


 知床と言えば、流氷も有名ですね。

 流氷は、あれがやってくると海に出られませんから、20年ぐらい前までは漁師たちに嫌われたものです。ところがだんだんと流氷のメカニズムが解明されてきて、北海道大学の学者たちが説を固定してきたのです。
 わかりやすく言うと、オホーツク海というのは、ユーラシア大陸とサハリンと北海道と千島列島で、半ば閉じられている。その水面に、アムール川から大量の真水か入る。すると海水の氷点はマィナ1.5℃ぐ、りいなのですが、真水は0℃ですから、真水だけが凍りながら南に流れてくる。それが流氷です。そこにはアイスアルジーという珪藻類の植物プランクトンがたくさん入っている。春になって海で氷が解けると、海中に植物プランクトンが広がり、それがオキアミのような動物プランクトンのエサになる。そのときにサケ・マスの稚魚は、放流されて海に出ていく。自然産卵の稚魚も、河口辺りにいたのが海に出ていく。スケソウダラの卵も孵化して稚魚になる。海にはプランクトンが非常に豊富ですから、稚魚たちはしっかり食べて成長し、回遊を始めることができるのです。それが、サケ・マスなら4、5年でまた知床へと戻ってくるのです。
 つまり、流氷は、海の生きものにとっては豊かな豊かな食物連鎖のベースなのですね。そういうメカニズムがわかって、漁師たちも流氷を恵みと感じるようになりました。

知床では、漁師とヒグマは同じ生態系の一員。
世界にも類を見ない共存の風景が、知床の自然の貴さを、象徴しています。

 知床では、人の営みと自然の営みがかみ合って、見事なまでの共生が実現されているのですね。

 それはもう、奇跡的と言っていいほどです。そのことを象徴しているのが、漁師とヒグマの関係です。
 知床は、奥地に人ることは禁止されていて、ヒグマがふつうに歩いています。ところがそこにも、毎日定置網を上げにいくために番屋暮らしをしている漁師たちがいます。彼らも最初はハンターに頼んでクマを撃ってもらったそうですが、いくら撃ってもクマは出てくる。このため、クマの世界を侵しているのは自分たちではないかと考えるようになり、撃つのをやめた。すると、ヒデマは網の手入れをしている漁師たちのすぐそばに来ても、何もせずに、ただそこにいる。今ではヒグマがすぐそばに来ても、漁師たちは気にせず自分の仕事をしています。もちろんこれは、実に微妙なバランスで成り立っている共生なので、部外者ほ足を踏み入れず、そっとしておかなけれはなりません。
 人間がここまで生態系の一員になりきって、野生生物と共に生きている。知床の自然はその点にこそ、世界自然遺産にふさわしい、世界にも類を見ない価値を誇っているのだと思います。
「ステーション」2005年11月号
発行:生活協同組合コープこうべ
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