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『しみじみと年を取る』(朝日新聞2001年12月26日)

 私の生まれた故郷は、栃木県の宇都宮である。その正真正銘の故郷に、死ぬまで付き合える仲間がいる。仲間たちにとっては、私はよその土地に出かけて悪戦苦闘しているように見えるのか、冗談交じりでいつでも帰って来いと言ってくれる。仲間は高校時代の同級生である。私は宇都宮市役所で働いていたこともあるのだが、そこで同僚だった人もいる。職業は農業やら職人やらサラリーマンやら、様々である。人生には浮き沈みがあり、リストラで苦しんでいる人も、会社を倒産させてしまった人も、火事で家が焼けてしまった人もある。私にも何度か人生のピンチがあった。家族の間でも、苦しきことは多いのである。苦しみも楽しみも分け合おうという仲間である。祝い事があれば、必ずみんなで祝ってきた。子供が小さいころ、夏になればキャンプに行った。その子供たちは大きくなり、自立していくようになった。そうしてもらわなくては困るのだが、親とすれば一抹の悲しみがある。私が故郷に帰ると、必ず仲間が集まる。家族ぐるみの付き合いである。その集まりは俗称「立松和平を囲む会」、略して「ワッカの会」という。みんな女房よりも古い付き合いなのだが、集まりに子供の顔がなくなり、お互いの顔も、また女房たちの顔も、年齢相応に老けてくるのは仕方ない。仲間の一人が宇都宮郊外の森の中にトレーラーハウスを作ったので、正月もそこに集まる。料理と酒を持ち寄り、周りに気兼ねなく好きなだけ語り合う。コンピユーターにたけた人がいて、私のホームページも立ち上げてくれた。夕暮れは穏やかな方がよいであろう。私はその仲間とともに、しみじみと年をとっていくのである。故郷はあたたかい。
 立松さんは少し早く亡くなり、しみじみと年を取ることが叶わなかったが、多くの仲間は和平さんの思い出とともに「しみじみと」老後を迎えている。私はまだ老け込むにはまだ少し早いので、和平さんの文学、言葉を伝えていく。昨日も全集の25巻が届いている。
『思わぬ注文品』

 最近では家具も量販店で良品を購入できて、使い勝手もなかなかいいものもあるのだが、先日遊びに来た鍼灸師の竹村先生は、舘岩の材木屋さんや木地師の工房を訪ね、弟子の門出に無垢材を加工した医療器材のワゴンをプレゼントしたいと言い出した。早速治療院で使っているワゴンの写真、寸法表が大工の光則さんへ届けられ、出来上がりの試作品に満足されると5台の発注、更につい立と一度に注文され、除雪作業でも多忙な大工さんも、また腕を見せるチャンスを頂いた。良いものを長く使って頂きながら、竹村治療院門下生として、信頼される鍼灸師となってくれるものと信じたい。



『3.11、これからの方向性』

 3月1日、県内で高校の卒業式が行われた。当時入学を迎えた新入生が震災に遭い3年目が経った。3.11を忘れてはならないとまた多くの場所で追悼のイベントが催される。3年経つても、進む方向が見いだせない現状は未だに10数万人が避難生活を送る。数日前の放射能漏れの報道にも驚きもなく、またかと東京電力での収束は無理とのあきらめが先にたつ。
 何もやっていないわけではない。携わる方々はそれぞれの部門で身を削る思いで仕事をされていると感じているが、結果としてより良い方向へ進み改善されているとも思えない。国は勝手な「収束宣言」からオリンピック招致、原発再稼働、他国への輸出と大きく舵をとっている。方向を換えたいにしても東京都知事、沖縄の選挙でもわかるように、地方からの声はなかなか大きな波にはなりにくく、更に国政選挙はまだまだ先となる。
 色々な方の考えもあろうが、この原発事故で半永久的に帰れない土地、区域の指定を明確にして国有化することも考えられる。故郷としての思い等々、様々な事もあろうが、一旦区切りをつけ、仮設住宅から新しい土地にふるさとを見つけて頂く事は出来ないか。無論、応分な保障ありきではあるが、卒業を迎え新たな生活へ進むのは高校生だけではない。その昔多くの方が職を求め上京し、そこの土地は中学や、高校までの年月をはるかに過ぎて子や孫は「ふるさと」になっていることも一つの考え方。多くの方が被災され、亡くなったことを忘れてはならないが、少しでも早く国としての方向性を示してほしいものです。