■田崎さん
─遠い軒先に帰りたい─ 立松和平氏の思い出
私の家での酒宴の折、あなたに戴いた色紙を今観ながら書いてます。
市役所の総務課で沼尾ちゃんに紹介されたのが、あなたとの出会いの始まりでした。それから三十数年間、家族ぐるみの付き合いが持続しました。
高校大学と同じ場所に生きてそれまで一度も話をしたこともありませんでした。出会って間もないころ、「亨ちゃん長く付き合おうよ」とボソット言ってくれたのが嬉しかったのを思い出します。同じ年なのに仲人までして頂いて、それ以来あなたとワッカの会の連中には迷惑のかけっぱなしでした。
今思うとあなたからのプレゼントは万華鏡のようです。麿赤兒の舞踏。友川かずきの歌。外波山文明の芝居。福島泰樹の絶叫短歌。トシ・ライブ・バンド。三上寛。山下洋輔のフリージャズ。梁島さんの絵。勿論あなたの文学の世界。それとあなたの出会ったすばらしい人たちがたくさん宇都宮に来てくれて、ライブで体験できました。夢のような体験でした。
生きる賑わいをこんなにあたえてくれた恩に報えず残念ですがあなたの教えの通りこの無常と闘わず受け入れるしかありません。帰郷のおり少しでも 遠い軒先の一部にワッカの会がなれていたら幸いです。また会いましょう。実につらく苦しいけれど耐えるしかありません。
(立松和平追想集から)
■「サト子」さんだったはずが
当時、若いころは
サト子と呼ばれずに
サーとか、サトちゃんと呼ばれていたので
そのまま「サト」になったようですが、
頂いた当時は誰も「子」がないことに
きずきませんでした。書き間違えを直して
頂いて下さいと言われたままになって、
額にいれて保管していましたが、飾れば
そんなもんかと飾ってあります。
今回
田崎家でも漢字間違いで二本棒で訂正され
た色紙を大切に保管されていたので、
なっとくの一枚になりました。
■那須塩原温泉 和泉屋旅館
立松さんの色紙。「ふるさと恋い」とでも言うのでしょうか、立松さんはふるさとを愛した人でした。
塩原はもちろん、那須も湯西川も足尾も愛していました。
ふるさとと言う時、それは人に繋がり言葉に繋がり食に繋がり、おのずから来し方の思い出に繋がるからでしょう。シャイな方ですが、改まって色紙をとお願いすると快く筆を染めて下さいました。
塩原に来ると「湯」を愛で「水」を愛で「景」を愛でて下さいました。塩原の経友会でご講演をお願いしたときの演題は「自然の声を聴こう」でした。書いて下さった色紙がこれです。「澄んだ水 美しい箒川 立松和平」「箒川 青き流れを 夢に聴く 立松和平」
和泉屋旅館ホームページ
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■平野物産店 1992年5月9日
『山に学び 山から恵まれる』
■五十嵐政一
『水引に立つ 栃の木の大きさ』
■泉屋豆腐店 1995年9月26日
『どんな味にも染まり 自分を忘れない豆腐は、偉いと思う』
■居酒屋日吉丸/北の家
『湯の花の四季 美しきめぐり また足を運ぶ』
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飯山の春の宴「ワッカの会」
14.5.5
■西島さんの形見
故人となった西島さんが作った和平文庫のネオンサインが前沢の和平文庫にのこっている。
西島さんは腕の良いネオンサイン職人で繁華街の看板や大きなパチンコ店のネオンサインなどを作っていました。夜になるとこのネオンサインが輝きだし多くの人達の目を引いたのです。
そして、同じ様なデザインで立松和平と書かれたネオンサインが立松さんの自宅にのこっています。
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■宇都宮市東図書館
南図書館での足尾の記録展時に貼ってありました。
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■前沢集落の和平文庫
頂いた何枚かの色紙の中に「すべての世間にそむくことなく犀の角のようにひとり歩め」と書かれたものがある。いつもカバンに入れてある岩波文庫「ブッタのことば」によれば、犀の角が一つしかないように、求道者は、他人の人々からの毀誉褒貶(きょほうへん)にわずらわされることなく、ただひとりでも、自分の確信にしたがって、暮らすようにせよ、の意である。と訳されている。誰もが日々の生活では「自分らしく生きる」事の難しさを痛感していると思われるが、私はなかなか意味深い「色紙」を頂いている。
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■水月の壁
宇都宮市内の居酒屋「水月」の壁に書いたものです。
新年会で記念に書いたものでした。
「無理しないで、人にあったそこそこで、生きていこうよ。」
2004年1月3日
残念ながらこの店は、大家さんの都合で立ち退きとなり、店は取り壊されてしまった。その後、近所に店を開店させた。今では、解体の時に外しておいた壁を飾ってある。
宇都宮の居酒屋「水月」のトイレの壁に書かれた言葉です。
「一人の人生は、他人の知らないことが、いっぱいあるのです。
そのことを、いちいち教えなくて、いいじゃないか。」
2003年1月3日
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■立松さんはいかに飲んだか
私は、宇都宮市にある松が峰教会のそばの、あまり流行っていない居酒屋のマスターです。
今年(2010年)の1月、流行っていない店を貸し切って親しいお友達と新年会を開いたのが、立松さんが宇都宮で飲んだ最後の夜となってしまいました。
実は、立松さんのことはお顔とお名前ていどでほとんど知りませんでした。だいぶ昔に「遠雷」を手に取りましたが、数ページ眺めただけで挫折。時おり新聞の記事で「パリダカ」に参戦された事や、神社仏閣を守るための「古事の森」でのご活躍を目にしたていど。ニュース番組でのコメンテーターぶりも見た事がありませんでした。
そんな私と立松さんの架け橋になってくれたのが、当店の常連客である立松さんのHP管理者氏(以下H氏)です。地元のお友達との親睦会の場に、たびたびご利用いただきました。
“小柄な方だなぁ”というのが、初めてお会いしたときの感想です。私はどうしたわけか人見知りのマスターで、最初のうちはご挨拶程度しかできなかったのですが、何度も声をかけていただいて少しずつお話できるようになりました。立松さんの本を読ませていただき話題の種にでもしようかと、H氏にサイン入りの「光の雨」「恩寵の谷」「毒」をお借りしました。機を見て話しかけると「え、あれ読んだの。大変だったでしょう(笑)」。
H氏にツーショットのスナップを撮っていただき、後日お見せすると写真にお言葉をいただきました。
「人生はあれもあるしこれもある」
あとでH氏に
「立松さんは書く言葉を決めてるんですか?」
「いや、けっこう人を見て書いてるよ」
さて、立松さんはいかに飲んだか。実は、立松さんご自身はあまりお飲みになりませんでした。だけど、そのお仲間の皆さんはしたたかにお飲みになってた。親密に。打ちとけて。だいだい色のオーラに包まれてました。
立松さんはそのように飲んでたらしたのです。
橋本 浩
2010.7.21
■民宿山楽
『舘岩の 青き流れを たたえめや』
■和平文庫、キミエさん
■横断幕の言葉 2010年1月11日
2010年1月11日、宇都宮で行われた講演会の終了後に全小説刊行出版記念パーティーの打合せをしました。そこで舞台の上に掲げる横断幕を決めようと言うことになり、和平さんがテーブルにあった紙ナプキんに書いたものです。それから一月後に旅立つとは、
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