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『捕獲と保護、なぜ寄付なのか?』

 昔は生息していなかった「鹿」「イノシシ」がどんどん繁殖して、有害駆除対象動物となっている。秋までは鹿もイノシシも夜行性の為に駆除と言ってもそうたやすく一度に何頭も捕獲できるものでもないが、冬になれば足跡をたどりながら相当数の駆除が可能になることから、正職を持たない高齢者のハンターは毎日のように出かけることとしている。
 本来狩猟者は殺傷だけの狩猟はしない。昔から肉も骨も無駄なく食べ、皮は張って道具や毛皮として売り物とした。駆除期間の動物は食することは出来なく、捕獲の証となる尻尾を切ったり、胴体にペンテングをしてから証拠写真を撮り焼却処分とする。この事件性の処理には「捕獲補助金」の支払いがあり、猟友会単位の地域には猟に入らない、昔からの約束が未だに生きていて、広域的協力体制が取れない現状も駆除が進まない問題となる。それぞれ単価の違いはあるにしても、高齢者には多分な手間となる金額でも無理をする者はいない。地元で捕獲できた野生の肉を郷土食として提供できるならやりがいもあろうが、ここに福島原発事故の汚染物としてのネックまでもが引きずる。
 福島原発と南会津町は200kmもの距離はあるが「福島県」であり、避難地区の中には多くの動物が行き来しまた混乱を招いてもいる。その一方、尾瀬保護財団のホームページには、貴重な高山植物を鹿から守るため駆除対応への寄付を依頼する文面が掲載されている。尾瀬国立公園のその多くは東京電力の所有地である。公園が荒らされ間に合わない現状になるかも知れないが、国と電力の責任や役割を明確にしない限り、「寄付」と言う行為に頼るのはどうか。ならば、降雪地の尾瀬の周囲を網で囲む等、現実的でない都会の専門家のご意見もあり、国立公園内での銃器の使用は厳禁であるが、尾瀬の保護を本当に考えるのであれば、尾瀬沼にまだイノシシが入っていない今こそ、人の入らない冬期間にヘリなどを使い、大がかりに実施すべきことが保護の近道と考える。




『歳の神』

秋に茅を刈り、11日に準備を整えた「歳の神」が1月15日の晩、無病息災を願いおこなわれた。今年は家々の室内灯、昨年よりも多くのろうそくが沿道を灯し、前沢集落の夜景は見事に演出され、近隣の集落からもたくさんの方の来場があった。誰が用意するともなく、お神酒、スルメ、あま酒、みかんが供えられ、ミズキの木やそれぞれが工夫した餅焼きを持ち寄り、焼かれた餅も振る舞われて、雪面に飛ぶ火の粉に大きな歓喜が発しられた。
 来年は、日中から店を出したり、二本の「歳の神」を立たせる意気込みを持ち、また多くの方に喜んで頂ける「冬の祭り」としたい。
『名峰田代・帝釈山』

 平成19年日光国立公園から分離する形で、尾瀬国立公園は29番目の指定を受け、栃木県県境に位置する田代山(1,971m)帝釈山(2,060m)も編入した。旧舘岩村に帰属する、田代山は山頂が大きな台形を呈しており、高山植物の宝庫の高層湿原だ。一方峰を連なる帝釈山はすそ野に貴重な一属一種のオサバ草、岩場の山頂は360度のパノラマが広がる。国立公園の指定を受け集客には大きな期待があったが、ここ数年登山者減に歯止めがかからない。環境省も登山者の利便性を考慮し、馬坂登山口、田代山頂に雨水による簡易水洗トイレを設置し後押しするが、今年は入山者カウントセンサーを付けてから最低の入山者数だ。世は山ガールなる登山ブームと合わせ、震災復興・不評被害払拭関連事業で、尾瀬全体の入山者は戻りつつあるが、田代・帝釈山は追随できていない。要因の一つは、公共交通網の不便がある。尾瀬と国立公園と言っても、群馬県鳩待口からの入山者は全体の6割を占め、福島県側からは2割。その多くは首都圏からの高速バスによる入山なのである。
自家用車や本数ままならない電車、バスを乗り継ぎ、近くの温泉宿に泊まり田代・帝釈山を目指す登山者は1割にも満たないのが現状。抜け出す手立てはないこともないが、町が一枚のポスターさえ作成が困難とする今も、また多くの方が雲上の楽園を目指す事を望むのは無理があるのだろうか。




『人のいる風景を旅する』

「立松和平 日本を歩く」は約30年に渡り全都道府県を歩き、書かれた紀行文をまとめたものでまさに記録になっている。縁とか自身の気持ちによって多い少ない所があると認めていて、一番多い場所は知床、沖縄となる。ただ、本のインタビューの中に三番目に登場したのが、紀行文としては10遍にも満たない舘岩村(現南会津町)である。
「結局、人の精神に映る風景の中に旅してるんです。人が良くなければその心の中に映る風景はやっぱりよくないと感じます。ただ外にある風景だけではないんです。人間に向かって旅しているという感じですね。だから僕の書いたものはほとんど人間が出てくる文章ばっかりでしょう。あっちに行ってこういう人に会ったという人間紀行ですよ。 ともかく、この本は歩きまわって実感でものを言うといった方法です。実感しか書いてないわけだから。でもそこで時の風化に耐えて人間の暮らしの跡を残すことが出来るのはやっぱり文学でしょう。文学には強い力がありますからね。そういうところで文学者として、やっていきたいなとは思うんですけど、風景が変わって人の暮らしが変わったぞという悲しい認識は強いですね。
―中略― 
 今度の出版はまあ放浪の跡の記録ですが、そうやって歩いてきた痕跡を自分自身で改めてたどってみると、旅をして他者を認識し、そして自分の生き方を探していく探究の旅をしてきたなという感じがします。旅はまだまだ続くのだけど、しばらくは座って大きい作品を書きたいという気持ちも強いですね。」(2006.6.16)