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湯の花温泉
 
「東京にいってなんといっても驚いたことは、風呂屋だな。知らない人同士で湯にはいっているんだもんな。しかも、男ばっかりで。なんだか異様な感じがしたよ」
 こういったのは館岩村に住む大工の棟梁だ。棟梁は湯の花神楽の獅子頭をやっていて、獅子舞いの終りに獅子頭で私の頭をがぶりとやってくれた。お祓いをしてくれたのである。
 その晩、湯の花温泉の民宿で棟梁と酒を飲んだ。橋を渡ったところにある共同浴場に、私ははいってきたばかりだった。村の人と、村の旅館か民宿に泊っている人は無料だが、その他の人は入浴料を一〇〇円払わなければならない。入口に木の箱があり、そこに一〇〇円玉を落とせばよいのである。入口は二つあった。小さい入口と、大きい入口だった。小さい入口には木の札が下がっていて、こう書いてあった。
「集落の人以外は御遠慮ください」
 私は当然もうひとつの入口からはいった。湯のにおいが心地よい。中には湯舟がふたつあった。五十代の女性が一人湯につかっていた。入口のそばの棚に私が着ているものを脱ごうとすると、女性が声をだした。
「そこは風がきて寒いから、奥で脱いだらいいよ」
 私は靴下だけを脱ぎ、湯の流れるコンクリートを踏んで奥にいった。足の指を嘗める湯の感触が柔らかだった。
 湯舟の向こう側には簀子が敷いてあり、その上に幾つかたちいが置いてあった。洗濯をするためなのかもしれない。ひとつのたらいには女性の脱いだものが山盛りになっていた。湯の流れる音がする他は静かだ。時折女性が湯を掌ですくつて肩にかける音が澄んだ。
 私も着ているものをたらいに脱ぎ、傍に置いてある洗面器で身体に湯をかけると、爪先から先にそろそろと湯に沈んだ。旅先で温泉があるのとないのと、豊かさがずいぶんと違う。温泉は心の底からの慰籍だ。この世には何とよいものがあるのだろうというような気分になってくる。
「いいお湯ですね」
 私は同じ湯舟の女性にいわなければ気がすまない。
「お湯はいいな」
「いくらでも湧いてくるんでしょう」
「それはそうだな」
 私は見知らぬ女性とちぐはぐな会話をしている。
「あっちはどうなっているんですか」
 私は蒸気で濡れた板壁のほうに目をやっていう。壁の向こう側はこの集落の人しかはいれないのだ。
つぎへ


「湯舟がひとつあるだけだよ」
 こういうなり女性は湯から上がり、湯の湧き口からこちらの湯舟に渡してある木製の樋を、もうひとつの湯舟に向けた。湯が熱くなりすぎていた。壁の向こう側を知っているとはこの集落の人なのだ。
「お先に失礼します。ゆっくりしていってください」
 女性は奥にいって身体を拭きはじめた。壁の向こう側で若い女性の声が聞こえた。壁についているドアから若い女性の顔がのぞき、あらっと声をだして引っ込んだ。壁のこちら側にきたがっている様子だ。
「それはそうだよ」
 棟梁はいった。棟梁は共同風呂とならびの数軒先に住んでいるのだ。棟梁と私はすでにずいぶんと飲んでいた。爛をつけるのが面倒なので、一升囁からのコップ酒だった。棟梁はつづけた。
「集落の人がはいるほうがずっと狭いんだから。ちょっと前までは看板は逆についてたんだけどな。共同風呂は集落の人が金をだしあってつくったんだし、昔からはいってきたんだから。でもねえ、この頃はこの温泉を目当てにくる人も多くなったからな。遠くからきたお客さんを狭い風呂にいれたんじゃ申し訳ないということでさ」
 何処までも人がよいのである。いい温泉だから、確かに湯を目当てにくる人も多いことではあるだろう。
「他所からくる人のことより、自分たちの暮らしを大事にすればいいのに」
「まあ、ここの集落の人は両方はいれるってことでさ」
 私は棟梁になだめられてしまった。
「それにしても、風呂の分け方が男と女じゃなくて、集落の人とそうじゃない人なんてなあ。はじめてだよ」
「集落の人は子供の頃から一緒にはいってるから、どうもないんだわ。だけど一人でも他所の人がはけると恥ずかしくなってな。女房が嫁にきた時なんか大変だったよ。家に風呂がないから、どうしてもはいらなくちゃならないだろう。誰もこない時間探してやっとはいったり。みんな家に風呂がないから、子供の頃なんか真裸で家をでたよ。下の川で遊んで、寒くて唇が紫色になったら、風呂にはいって身体を温めたり。それからまた川に降りていって。湯が熟いから雪だるまつくっていれると、年寄りに怒られたりしたもんなあ。昔から何も変わらないのは、この湯だけかもしれないな」