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舘岩蕎麦
 
 私は蕎麦が好きだ。蕎麦のつくり手も、食べるほうも、それぞれに一家言を持っている。どの蕎麦が一番うまいなどということは絶対に言えない。
 そのなかでも私がうまいなあと思う蕎麦がある。
 福島県南会津郡舘岩村の湯ノ花に住む星キミエさんの打つ蕎麦は、いつも納得させられる。星さんは店を持っているわけではない。頼んでおくと打っておいてくれる。出張しても、打ってくれる。
 もちろん館岩村にいかなければ、食べることはできない。館岩村は栃木県と県境を接するところにあり、山をひとつ越えれば奥鬼怒(きぬ)で、尾瀬に近いところだ。
 私が尾瀬という地名をだすと、「それは隣村の檜枝岐(ひのえまた)だべ」と小勝政一は怒る。純粋な舘岩っ子の政一は、「舘岩には田代湿原があるべ」と主張するのだが、私は田代湿原には登ったことがない。いつかいこうと思っているうちに、歳月がたっているのだ。でも私は館岩村にはもう数えきれないくらい足を運び、村のことはずいぶん知っているつもりだ。
 先日、私は東京の自宅で星キミエさんの蕎麦を食べる機会に恵まれた。私が長年使っていた机が、上にたくさん本を乗せたせいか、しだいに傾いてきたので、政一に館岩の木工所で机をつくってくれと依頼しておいた。デザインやら値段やらはすべてまかせ、つべこべ口を挟まないと言った。小勝政一はそれほど親しい友なのだ。
 ある日、政一は木工所の渡部君と車で机を運んできてくれた。中心が空洞になった栃の木の幹を半分に断ち割って脚にし、その上に厚さ約八センチ、大きさ畳一畳以上の栃の一枚板をどんっと置く。一枚板の下には桐で引出しがついていて、キャスターのついた三段の引出しもある。立派な机は私の部屋のほぼ半分を占めるようになった。
 この板を運ぶために政一はやってきたのだったが、おみやげもいろいろ持ってきてくれた。会津の日本酒一升瓶六本、薬効成分のあるメグスリノキとキハダの木の皮、それに星キミエさんの打った蕎麦だった。過剰なおみやげなのだが、先日彼の一家を伊豆の温泉に招待したので、そのお礼なのだろう。



 ひとつ忘れていた。舘岩の豆腐もあった。発泡スチロール箱に大きな豆腐がぎっしりとはいっている。材料をふんだんに使った硬い豆腐で、最近はこの豆腐も舘岩の名物になった感がある。政一の気持ちとして受け取った。もちろん私もこんなにたくさんではないが、おみやげを用意してはおいた。
 蕎麦は二箱だった。ゆでれば、二十人前ほどであろうか。午前十一時に館岩村を出発して午後三時半に東京の私の家に着き、出発が遅いなと思っていたが、きっと星キミエさんの蕎麦が打ち上がるのを待っていたのだろう。まさに打って間もない蕎麦で、見るからにうまそうであった。
 その晩は、私の家の近くのインド料理店に彼らを招待して、翌日の昼から蕎麦を食べはじめた。蕎麦のゆで方が書いてある紙もついていた。なるべく大きな鍋に水をいれて沸騰させ、そこに塩をひとつまみいれて蕎麦を軽くほぐす。鍋に蓋をし、三十秒はど沸騰させてから、冷水で差し水をする。十秒から十五秒で素早く取りだし、水道の水でよく洗って、器に盛りつける。
 おみやげで、もうひとつ忘れていたのだが、政一が摘んできたと思われるフキノトウとタラの芽があった。妻がつくった汁にフキノトウの薬味をいれ、蕎麦をつけて食べる。
「うまいわねえ。どこか違うねえ」
 妻や娘たちの声である。まったく同じことを、私も思う。小勝政一や星キミエさんの気持ちがこもっているのだ。
 もうひとつ、忘れていることがある。栃でつくった立派な机の請求書がまだきていないのだった。