水引集落
福島県南会津郡舘岩村は山間の村である。福島県の南のはずれ、栃木県と境界を接している。村でも一番南のはずれに、水引集落は位置している。
村のはじまりには、二つの説がある。ひとつは文安年間(一四四四〜一四四九) に、三人の猟師が湧き水にひかれて住みついたというものだ。もうひとつは平家の落人が住みついたという説である。
水引という名の由来も、現在の大山神社下の湧き水から用水を引いてきたという説と、いくら井戸を掘っても水が引いてしまうからという説とがある。井戸は掘る必要がないほど、水は山からいくらでも湧いてくる。
元禄九年(一六九六)の宗旨改めの帳簿によると、九軒六十四人の集落であったという。明治十九年、十五軒あった全戸が焼失するという大火があった。水引の家は曲がり家といい、人と馬とがともに暮らすつくりになっていた。木組みによる建築で、釘を一本も使わないのである。大火の後の再建は越後大工によってなされた。七、八人の大工が一軒につき二カ月の共同作業をし、一年で全戸を再建したという。材木は周囲の森から伐り出された。
明治二十九年に再び全戸消失という大火にみまわれた。この時は十四軒一八〇人が暮らしていた。またもや越後大工によって再建されたのである。現在残っている建物のうちの多くは、この時の建築である。火事を恐れている心の中の様子がはっきりと見てとれるほど、一戸一戸は間隔を置いて建てられている。
明治四十一年には枯木峠が二メートルはどの幅の道になり、栃木県の土呂部まで通った。それまでも道はあったのだが、いわゆる獣道(けものみち)であった。これで馬を使っての交通路が関東に向かってひらけたのである。
水引に住む五十嵐政一さんは私にこんな話をしてくれた。
「俺が小さい頃、四十年か五十年前、じいさんがバンドリとか猟をやってとったのを、宇都宮まで売りにいったんだが。昔の人は歩いていったんだが。今のスーパー林道越えて湯西川にいった」
猟のさかんなところだったのである。獲物はクマ、カモシカ、サル、ウサギ、テン、バンドリ、イノシシ、ヤマドリなどであった。ここではバンドリ狩りについて、聞いてきたところを述べよう。
落葉樹がすっかり裸になった季節の月夜の晩がよい。しかし、あまり晴れた夜では、獲物のほうに用心されてしまう。薄雲が空一面を覆っていて、しかも月がでているというのだから、条件は難しい。バンドリとはモモンガともいう。前肢と後肢との間に膜があり、これをひろげて枝から枝へと飛ぶ。夜行性の動物なので、枝になった実を食べている。卵の形をした影を狙えばよい。懐中電灯の光を当てても逃げないともいわれているが、そんなことをしなくともよく見えるので、落ち着いて狙えばよい。肉は食べられず、使うのは皮だけだ。大正四年頃からとるようになった。一時は高く皮が売れた。おかげで出稼ぎにでる必要もなかったのである。
(
つぎへ)