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カメラマンになりたかった男の後記

 カメラマンになりたかった。高校時代、私は弓道部と写真部にはいっていた。弓道は初段をとったが長つづきせず、写真のほうは三年生で部長になった。
 スナップ写真が好きだった。カメラをさげて街にいき、人が何気なくつくる表情をこっそりいただいてくるのが、得意だった。フィルムは自分で現像し、印画紙に焼きつける。赤外年ランプがぼんやり灯った暗室に一日中こもっていても飽きることはなかった。現像液にひたした印画紙から徐々に絵がせり上がってくるのを見ていると、光と影との緻妙なあわいに、表現への欲求というようなものが感じられもしたのだ。
 高校卒業後は日本写真大学か日大芸術学部写真学科に進みたかったのに、意外なことに親に反対された。意志を徹してもよかったはずだが、写真をやるのに専門の学校にいかねばならないとは思わなかった。大学では学生新聞会に所属してカメラマンをやっていた。
 私がカメラを持たなくなったのは、文学の世界にぐいぐいと引き込まれていったからである。写真は機材や材料に馬鹿にはできをい経費がかかるが、小説を書くには紙と鉛筆とがあればよい。、もっとも、人生の元手というやつは際限もなくかかるのであるが‥・。
 十五年以上のブランクの後、やがて再び、私はカメラを待つようになった。旅先で一瞬しかない風景によく出会ったからだ。小説家である私はそんな風景を言葉で書けばよいのだが、刹那に失われていく光があまりにも多く、ペンを持つ私の手の動きが間にあわないのであった。
失われていくものへのいとおしみを込めて、私はシャッターを押す。フィルムに光と影とが刻印される。
 旅にでかけるたび、私は光と影とを切り取ってきた。そうやって無造作に撮影してきたフィルムが、ほとんど整理されないまま私の部屋のあちらこちらに小さな固まりをつくっている。撮影する情熱はあっても、整理にかける手間を惜しんでいた。私の写真など人が見ることはないだろうと思っていたからだ。まして写真集など、夢のように考えることはあっても、私が撮影したフィルムから編集が可能だとは発想すら持っていなかった。
私の忘れかけていた夢を実現してくれたのは、グラフィック社の赤平覚三氏である。釧路湿原に四季折々通って撮影したフィルムを部屋中をひっかきまわして全部揃えるのも私にはひと仕事だったが、赤平氏か練ってきた編集プランはまるでマジックのようであった。私が見て心の底まで揺り動かされた釧路湿原が、記憶の彼方よりまざえざと立ち現われてくるではないか。
 私が釧路湿原に通ったのは、テレビ番組「ニュースステーション」の取材のためである。風のように通り過ぎていく旅人とは異なり、立ち止まって作品をつくりにいったのである。四季の風景やら、自然の中で営まれる人の暮らしに、心をこらして向きあわねばならなかった。楽しいが、つらいことでもあった。一瞬の光が欲しいために、何日も通い、何時間でも待つのが、当たり前だ。まして人と付き合うには、こちらの生き方を試されていると同じことなのである。
釧路湿原を美しい自然としてとらえるだけでなく、そこに暮らす人の精神に映る風景として感じたい。私はその精神に向かって旅をくりかえすのである。
 最初はただの広大を野にしか見えなかった釧路湿原だが、やがて緻密きあまりない小宇宙の無限の集合体だとわかってきた。人間も一個の小宇宙なのである。茫々たる釧路湿原は、どの一点をとっても無駄がない。
 本書は私の刹那殺郡の旅の記録である。「ニュースステーション」の旅の仲間、釧路の熱き友人たち、そして何よりも赤平覚三氏に「感謝を捧げたい。
夢がひとつ実現した。
一九八九年一月、平成の最初の日に