南会津・舘岩村のトチモチ
日本人の風景の原点はどんなものだろうと考えたことがある。岩ばかりの小島に松が生えており、青い波が白く砕けてぶつかってくる。離れ島ではないことを示すために、遠くに淡く霞んだ陸地があり、上空をあおげば富士山などが聳(そぴ)え立っている。
しかし、これは物見遊山の風景である。土を耕して幾千年と生きてきた私たちが、生活の根拠を置いた典型的な生活を、私は次のように思い浮かべるのだ。
手入れのよい人工林でもよいし、秋になれば見事に紅葉する自然林でもよいのだが、背景には山がある。山は深くて、人の認識力も充分におよんでいるとはいえない。山は限りない恵みをくれるが、一歩踏み迷えば帰る道をなくす恐ろしい迷宮でもある。山中には人間の共同体とは違う、まったく別の世界が隠されている様子である。
山から生まれた清冽な水が、急流をなして平地に流れてくる。もちろんその水は田畑をうるおすのだが、その前に流れだす勢いを利用して、水車小屋がある。これは米や麦を粉にする機械である。
森林を抜けてきた水には緑の色が染み込んでいる。深い山に養われた水は、豪雨でも一気に流れず、日照りがつづいても水苔や樹木の根元に貯えられて少しずつ染みだし、一年中枯れることがない。この水を確保するためにも、山に関する碇は厳しくなければならない。樹を勝手に伐(き)ることなど許されないのである。
山からでてきた水は水車を回してから、青々とした水田に流れていく。稲が豊かに実れば人の暮らしもよくなり、山を手厚く護ることもできる。農民たちが豊かになれば、物質の交易市場としての都市も繁栄するというわけだ。
土を耕して生きてきた日本人の原風景とは、山の麓にある水車小屋のような気がする。もちろん水草小屋のまわりには水田がある。
私がこんなことを考えたのは、館岩村にきたからである。山と平地とが境界を接する館岩村は、稲刈りの季節で穂は黄金に色づいてはいた。春や夏は水のあふれる緑なす田園地帯である。山の緑も濃くて深く、その中にいると溺れそうだ。山からは冷たいきれいな水がとどまることを知らずに流れつづけ、おまけに山麓には温泉まである。あまりにも懐かしさに満ち満ちた村なのである。
旅人ならいざしらず、この懐かしさの感覚だけでは、人は暮らせない。
この舘岩村がにわかに脚光を浴びたのは、国土庁の選んだ農村アメニティ・コンクールで一位になったからである。景観、伝統文化、都市との交流、住民の自主努力等を審査基準にし、日本一住みやすい村として舘岩村が選ばれた。この基準の中には、数値にはでにくいが、若者たちが暮らせるような未来があるということも含まれるだろう。
館岩村は、昭和三十八年以後、数々の国の地域指定を受けている。豪雪地帯、振興山村、過疎地域、特別豪雪地帯と、こうならべてみると、「秘境」という言葉が連想されてくるほどだ。
四方山に囲まれ、平均標高は六八三メートルもある高原地帯である。昭和四十年には四〇〇〇あった人口も五十年代にはいると三〇〇〇を割ってしまった。
国勢調査によると五十五年は二六五四人だったのが、六十年には六十五人減の二五八九人、減少率二・五パーセントである。近隣の市長村では最も少ない。
たった六十五人でも減少ではないかというのは、間違いである。都市の雑踏の中では六十五人などひとつかみの人数に過ぎないが、一人一人が大地に根を生やして立っている山間の過疎地では、この一人分の存在が大きい。一家族が転出していけば五人とか八人とかいう数になることも考えあわせれば、六十五人で食い止めたというべきである。
自然の中で自然のへめぐりとともに生きていく農村では、自然と微妙なバランスをとった上にしか暮らしは成り立たない。自然を解読し、そこから一番暮らしやすい方法を築いてきたのである。
当然その地域によって、暮らしの形態は変わってくる。同じ材料でも料理法が違うように、地域によって生活の形は変わってくる。自然とのそんな細やかな交渉と、暮らしの形とが、すなわち文化であり、伝統である。私たちは、そして私たちの祖先は、限りない恵みを与えてくれると同時に時に命や家を奪うはど狂暴になる自然と、絶妙にバランスを取り、自らを抑制して、生きてきたはずなのである。
そんなしなやかで強い暮らしが、日本のあちらこちらにはまだ残っているはずなのだ。
それらの精髄が、ともあれ、福島県南会津郡館岩村なのである。
浅草から東武電車に乗って三時間十五分で、会津高原駅に着く。舘岩村へは、ここから車で三十分かかる。
会津高原駅には、館岩村教育委員会の君島政一君(30)が迎えにきてくれた。さっそく彼のコロナクーペで山越えにかかろうと走りだして間もなく、軽四輪トラックを認めて君島君はブレーキを踏んだ。運転席の若く美しい女性と、君島君は二言三言話した。
「うちのおっ母(かあ)だ」
君島君は照れたようにしてこういった。尋ねれば、新婚五カ月というではないか。人生の花の期間に、彼らはいる。ちなみに、君島夫人は農協に勤めている。
岐阜県の飛騨高山合掌造りの民家がならぶ白川村や、新潟県の秋山郷のある津南町など、名だたる村と張り合って、どちらかというと無名だった館岩村がアメニティ・コンクールで、第一回の大分県の湯布院につぎ第二回目に選ばれたのは何故なのかと、私は運転席の君島君に尋ねた。
「わかんねえな。県の人からアメニティ・コンクールってのがあるって知らされて、だしてみるべと思ったんだ。上司の人にいうと、書類が面倒臭せえっていうんで、俺が書いたんだ。決裁はもらったけど。最終審査の人がくる日も、町長があれ今日は何の日だべっていうんだから。もちろん決裁はもらってんのに」
控え目な君島君から、私がやっと引きだした言葉なのである。アメニティ・コンクール第一位は、村を愛する青年のホームランだといえる。自分の暮らす村が日本一住みやすい村だということになれば、住んでいる人にも力が湧いてくるというものだろう。
だが、このホームラン・バッターは、どこまでも控え目だ。東京で行われた表彰式にも出席しなかった。私がこんなことを書いただけで、当惑してしまうかもしれない。
田島町から山を越えて、最初の集落が番屋である。その頃から街道の両側にコスモスの花が揺れている。旅から旅の暮らしを送っている私には、それだけでこの村はただものではないぞと思ってしまうのだ。
君島君の新婚家庭のある岩下集落あたりから、稲架(はさ)掛けした稲が目立つようになった。八段もの高い稲架掛けである。最近では機械乾燥がさかんで、こんな風景もめったに見かけなくなってしまった。天日で乾燥した米は、お陽様のにおいがして何ともいわれないほどにうまいのだが……。
椀や杓子(しゃもじ)などをつくるなりわいをしていた木地(きじ)師が、材料の入手困難や時代の流れのために定住を決意して開拓入植した高杖原(たかつえはら)を過ぎ、高原にはいると、風景は一変する。たかつえスキー場のあたりは、チロリアン・ビレッジと呼ばれ、ヨーロッパ風の白亜のホテルやペンションが立ちならぶ。
都会のギャルが、テニス・ウェアに颯爽と身を包んでラケットを持ち、笑いさざめきながら芝生を歩いている。
「おめえ、言葉遣いまで変わっちゃったんべ。あかぬけちゃって、このお」
君島君がホテルのフロントに立っている芳賀保幸君(26)に向かっていう。チロリアン・ビレッジで中心的存在である会津アストリアホテルは、第三セクターでできた。ホテルで働く人も、九十パーセント以上が地元の人である。ネクタイを締めブレザーを着た芳賀君が、コーヒーハウスのテーブルにきてくれた。JRがまだ国鉄と呼ばれていた六年前、芳賀君は川崎機関区から故郷にUターンしてきた。二十歳の時だった。長男だし、家も墓もあるから、いつかは帰りたいと思っていたそうだ。
「ホテルができないと、Uターンできたかどうかわからないなあ」
このホテルができた昭和五十七年十二月頃、多くの若者がリターンしてきた。銀行、デパートガール、バスガイド、幼稚園、出版社などから、故郷の村の職場に転身をはかったのだ。
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