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軍曹かく戦わず
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後記にかえて
アートンの郭充良と明石肇が私の家にやってきたのは、盛夏のそれは暑い日であった。小説執筆の依頼のためである。彼らに熱意を感じて私はその仕事を引きうけ、しばしば連絡をもらったのだが、いろんな事情があって手をつけられないでいた。私は不義理をしたということになる。
何年もたった冬の日、私はまた二人の訪問を受けた。私とすればその時その場でやらなければならないことに追われて仕事が遅延しているだけなのだったが、彼らに厳しく叱責されるのだろうなと覚悟した。その時は劇団新宿梁山泊の金守珍もいっしょだった。金守珍は劇団員に元日本軍兵士がいて、おもしろい手記を書いたから読んでみてくれと、ワープロ打ちの手製の分厚い冊子を置いていった。それが『湘桂作戦戦いなき兵士たち ある軍通無線・先任下士官の足跡』であった。読みはじめると、戦場にあっていかにして戦わないかということと、生き抜くためにいかにして食糧を得るかということばかりが書いてある。なんとも痛快な手記であった。私は前作になるべき作品に手もつけていないのに、彼らは新たな素材を持ってきてこれが小説にならないかというのであった。
それからまた何年もたった。もう私への依頼などどこかにいってしまったかと思っていたら、明石肇から電話があり、今度アートンがPR誌『あとん』を出すから、そこに連載をしないかという話であった。なんだか気が長くて粘り強いことであるが、やっと私は重い腰を上げたというわけだ。小説、ことに書き下し小説は、右から左にと簡単にできるものではない。長い時間がかかってしまったのなら、といっても手つかずの長い長い時間がつづいていただけなのではあったのだが、それだけの熟成を作品の中に込めなければならない。
最初書き出してから、手記の作者の小松啓二と渋谷のアートン社内で会った。大正九年十月二十九日生まれの元軍曹は、陽気でおしゃべりですこぶる元気な人であった。私が書き出したというと心から喜んでくれ、どんな協力も惜しまないと宣言してくれて、疑問点にていねいに答えてくれた。もちろん手記を自由自在に使ってくれといい、資料はあとでどっさり送るといってくれてから、たった一つ注文があるということであった。私は少々身構えたのだが、それは小松啓二軍曹という実名で書いてほしいということであった。主だった戦友も、また戦死者も、実名で残したいというのだ。なぜならば、彼らがあの時代を生きたという証しになるからである。
それまでのんびりしていたのだが、はじまってしまったら、アートンの編集者の要求は息もつかせぬ過酷さであった。彼らの要求を満たすために、私は他の仕事をすべてうち捨てねばならないほどであった。小松軍曹ともしばしば会い、電話をかけ、疑問点を晴らしつつ、いつしか私は全力疾走していたのである。あの時代を生きた証しというなら、事実を誤ることはできない。私の創作が随所にはいってはいるにせよ、そのフィクションさえ事実に則したものでなければならない。したがって連載のつど、小松軍曹その人に目を通してもらったしだいである。
私は実は「満州」の小説を、これも長い長い時間をかけて準備をしている。私の父が関東軍の一兵卒で、命からがら日本の故郷に引き揚げてきて、そこから私の家族も私自身の生もはじまったからである。『軍曹かく戦わず』は日中戦争の話で、私が書こうとしている大テーマの流れの中にある。だからこそペンは走ることができたのだ。
読者には一つの疑問が残るだろう。その後、青木小隊はどのような過程をたどつたのかと。青木小隊は三十四師団に配属され、南部奥漢打通作戦に呼応し全県を出て都竜嶺山脈の中に分け入り、三カ月間山中をさまよい、野犬の群れに遭遇したりして、桂林に近い大坪に出る。そこで青木本隊と小松分隊に小隊の編成変えをし、本隊は柳州へ、分隊は全県に向かう。昭和二十年三月十七日硫黄島の日本軍は全滅し、四月一日アメリカ軍が沖縄に上陸を開始する。この頃から戦局が急激に変わり、中国の日本軍は大反転作戦、つまり大敗走がはじまる。この途中、小松分隊は孤立し迷って敵前五十メートルまで出てしまう。戦争が終わったのを知ったのは、衡陽、漢口、徐州ときて、蛙埠に到着した八月十五日のことであった。十六日に南京にはいるその日に列車にて上海に向かい、連隊に復帰した。
それにしても戦争などというなんと愚かなことをしたのかとの思いを、私は禁じ得ない。中国に攻め込み、そこを戦場としたのである。どのように強弁したところで、それは許されることではない。またそれは日本の平凡で愚直に生きていた庶民を、生死の淵に追いやって苦しめることでもあったのだ。理不尽な運命に弄(もてあそ)ばれながら、暴力の支配する軍隊で庶民感覚からの非戦を結局のところつらぬいた小松啓二軍曹の思想と行動は、力むところもないながら、いま顧みるに値すると思うのだ。誰でも賞讃するような立派なことを主張し、強固な信念に基いて行動するというのではないが、日常の些事を一つ一つていねいにまた懸命に乗り越えていくのが、庶民なのである。このような愚直な人たちが、戦後の日本を築いていったのだとの確信が私にはある。それは小松啓二軍曹であり、ここに登場する兵士たちであって、私の父でありあなたの母なのだ。底辺において、庶民は健全であったのである。そのことを私は信じたい。
あの狂気の夏から、今年でちょうど六十年目である。その年にこの作品を書き上げることができたのには実に多くの人の思いの後押しがあると、私には感じられる。生きていると死んでしまったとかかわらず、まことに多くの人の力に押されて完成させることができたのだ。
見える世界のことでいえば、書く過程で、アートンの編集者、権鐘伍、出口綾子、秋元けい子他にお世話になった。謝意を捧げたい。
二〇〇五年七月 炎熱の東京にて
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初版発行:2005年8月15日
発行所:株式会社アートン
価 格:1,600円+税
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「書評」
戦争(戦場)にあって犠牲になるのは、常に前線の兵士であると同時に「銃後」の女、子供、老人といった無辜(むこ)の民である。先のアジア太平洋戦争や最近のイラク戦争を見ればわかるように、兵器が高性能化した近・現代の戦争では特にこの傾向は著しい。戦場の兵士は、おのれの命を賭けていかに無事の民を含む「敵」を殲滅(せんめつ)するか、「敵」の都市を破壊するかに全力を傾けるからである。これが、戦争の「原理」である。
本書は、アジア太平洋戦争の末期に中国大陸の戦線で、そんな戦争の「原理」に逆らって「敵を殺さず、自分たちも死なず」をひそかに決意し、それを実行した小隊下士官(軍曹)小松啓二の、困難を極めた上海から南京、武漢を経て全県に至るまでの転戦記である。「敵を殺さない」兵士を主人公にしたという一点では、本書は珍しい戦争小説である。この長編には基になった本人の「手記」(「湘桂作戦 戦いなき兵士たち ある軍通無線・先任下士官の足跡」)があったとのことだが、それとは別に、この作品の最大の特徴は泥沼化しっつあった中国戦線で「敵を殺さない」ことを指揮官が決意した小隊の、「戦地での日常」を兵士=庶民の視点で描いている点にある。
ここで描かれているのは、前線の一部に基地を設直しなければならない通信部隊の苦難や、現地調達主義をとっていた日本軍の食糧確保(徴発)の苦労、あるいは敵機の攻撃によって命を落とした部下への悲嘆、等々である。
全編には、戦争にあって「殺すな!」の論理と倫理を実践した主人公への共感を支える作者の、「それにしても軌争などというなんと愚かなことをしたのかとの思いを、私は禁じ得ない」(「後記にかえて」)という感慨が通奏低音のように鳴り響いている。
戦後六十年、自衛隊のイラク派遣や憲法改正論議が如実に示すように、新たに「戦争」が露出してきているように思えてならない。本番はそんな現在に警鐘を鳴らし、人の生命の尊さを訴える、戦争文学史に照らしても異質な光を放つ作品である。
評/黒古一夫(文芸評論家)
北海道新聞 平成17年9月11日(日)
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