悲しきテレビ生活
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 普段の私のテレビ生活は、深夜の1時間ほどである。午後11時近くまで書斎で書きものをしたり本を読んだりして過ごし、それから風呂に入り、妻と軽く晩酌をしながらテレビのニュースを観る。どの局を観るかは決めていず、その日の気分でチャンネルを変える。
 チャンネルを回していると、ニュースでも繰り返し同じようなシーンを観ることになる。スポーツニュースも、プロ野球の結果を何度か重ねて確認することになる。
 その頃にNHKスペシャルの再放送をやることが多いので、そちらに流れていくこともある。他に私がテレビを観るのは、サッカーや他のスポーツの国際試合がある時だ。定時の番組はほとんど観ない。時間流しをするほど時間に余裕がなく、読書をしていた方が精神が充足するからである。
 私が書斎にいる間、妻はテレビと向き合っているが、観ているのはほとんど映画である。ケーブルテレビに加入していて、CS放送で結構いい映画を放送している。最近評判になった映画も、意外なほと早く放送される。古い映画に登場する女優たちが美しい日本語を話すことに、改めて驚いたりしている。
 日々流される番組は、失礼な言い方をさせてもらえば、若者の散らかった部屋を見せられているような気分にさせられる。NHKの番組はていねいに作られ、昔から比べて水準が落ちたとは思わないが、民放の番組はおしなべてひどい。工夫というのは、散らかった部屋をどの角度からどの部分を写すかということのようで、そこに住んでいる芸能人たちのおしゃべりは、チャンネルをどこに回そうと同じなのではないか。大人が観るに堪える番組があまりにも少ない。
 美しい風景を映し出した番組を観ても、感動がなくなってしまったのは、たいていすでに見たような気分になる景色だからだ。厳密にいえば見ていない場所の風景ではあっても、近似の景色は見ているのである。実物を見ていなくても、疑似体験として見ているのだから、感覚としては見ていることになる。
 テレビ体験とは、すべてが疑似であるから、視聴者は風景を疑似的に激しい勢いで消費してきたのである。だから目が肥え、すべてを見たような気分になっていて、どんな映像を送り出そうと感動することはない。テレビの紀行番組で、どれほど秘境に行って苦労して番組を作っても、それだけでは素朴な気持ちで感動はしなくなってしまった。
 旅行番組や料理番組でどんなに珍しい料理が登場したところで、実際にそれを味わった体験がなくても、他の番組ですでに食べたような気分になっているのだ。疑似に何度も体験しているからである。
 これ以上テレビで何をやることがあるのかと、番組制作にも多少は関わってきた私は思う。手を変え品を変えてみたところで、結局素材は同じなのである。こうなったら、日々移ろっていく風俗の中に、時代の最先端という衣装をまとって入っていくしかないのではないかとさえ思うのだ。それももちろんテレビの仕事の一部だ。だがそれも一度しかできない。
 ことに民放のテレビは、視聴率がすべてである。スポンサーからの広告収入で運営されている以上、どれだけの数の人が観たかに影響される広告という媒体の持つ宿命である。
 たくさんの人に視聴してもらうためには、大衆の好みに合わせ、大衆に取り入らなければならない。若者が望む仕事につけず、ワーキングプアなどが出現する閉塞感に満ちた時代では、大衆は心の底に悪意をため込んでいる。芸能人を何か特別の人間ででもあるかのようにあがめつつ、一方その裏側ではわずかな傷でも見落とさず、不倫などもスキャンダルに仕立て上げる。そして、華やかな場所から引きずり下ろす。その瞬間を、悪意をためた大衆は待っているともいえる。一種の神前への生け贄である。スキャンダル ジャーナリズムは、これからもいっそう大衆に支持されていくだろうと私は感じるのである。
 そのような悪意の大衆に媚びなければならない視聴率戦争の落ちゆく先は、明白である。一つの番組が視聴率を取ると、制作者は誰も自信がないので類似の番組ができ、出演する顔ぶれも同じようなものになる。大衆はますます我が儘で飽きやすくなり、別の番組を求める。制作する側ではなんとか大衆の好みに応えようと努力するのだが、いつもいつもうまくいくわけではない。一方、テレビ局では三百六十五日二十四時間番組を出し続けなければならず、これは大変な負担となる。類似の番組を出す方が楽だから、どうしても楽な方へと傾いていき、どれもが同じような番組になる。それが現状ではないだろうか。
 経済か拡大して、大衆の消費が伸び景気がよい時は、それはそれでテレビは活況を呈すだろう。だがこれからの時代、経済は縮むばかりで、人の悪意は拡大する。また世代によって好みも変わり、個人の水準でも多様化する。大衆全体が好むものはいよいよ統一性がなくなり、視聴率は意味をなさなくなる。
 この視聴率戦争によって、中高年世代、とりわけ団塊の世代の私などには、観たいテレビ番組が少なくなってしまったと私は不満に思っている。
調査報告 2008年9月10日

良寛の俳句
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 良寛は一衣一鉢、すなわち袈裟と托鉢の鉢しか残さず、雲をたのみ流れる水をたのみとして生きた放下(ほうげ)の僧である。一生を修行についやした雲水で、死ぬ時に一寺の和尚でもなければ、僧の階位も残さなかった禅僧でありながら、遷化の後は支援者木村家の菩提寺の浄土真宗寺院の墓に入った。自由自在である。
 だが何も残さなかったのではない。その生き方を残し、たくさんの詩歌を後世に残した。良寛の漢詩も和歌も俳句もよい。それらを紙や鍋蓋に書いた書が何よりもよい。
 短い俳句であっても、良寛の人生がしみじみと込められている。良寛の独居した五合庵の近くに句碑が建てられている。
 焚くほどは風が持てくる落葉かな
 長岡藩の藩主牧野忠精は良寛に私淑し、長岡城下に寺院を建立するからそこの住持和尚になってくれるよう、五合庵にきて懇願する。それに対する良寛の返事である。
 僧たるものは衣食を自ら求めてはならない。生まれながらの余分はあるからで、そんなことに気を配るより仏道を一途に行じなさいというのが、良寛が愛慕してきた導元の思想である。落葉を焚くのに掃いて集めることはない。自然に風が持ってきてくれるということだ。その清廉な生き方を快く感じた藩主は、道の人としての良寛への思いをますます深くしたことであろう。
 うらを見せおもてを見せて散るもみじ
 良寛の辞世といいたくなる俳句である。喜びも悲しみも、長所も短所も隠すことなくさらして生きてきた人生であるが、ひらひらと舞い散るもみじのように結局自分も死んでいく。いかにも良寛らしい句だ。
 この発句は芭蕉とも交友のあった谷木因(たにぼくいん)の(裏ちりつ表を散りつ紅築かな)を先行句とするのだが、両句はずいぶん趣が違う。良寛はこの句に自己の人生を透かせ来し方を深く込めている。写生とは違う。すでに良寛独自の句といってよい、高い境地を感じさせる。
朝日新聞 2008年9月8日(月)

国立公園の危機
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 日本列島は南北に長く、風土の変化の激しいところである。気候も亜熱帯から亜寒帯まであり、そのため生物は多様性を持ち、四季折々で列島は美しい色に染まる。そのため生活の多彩さが形成され、風土の深みの上にオリジナリティーをもたらしてきた。
 要するに、旅をするには楽しいところなのだ。四季の変化も加わってもたらされる複合的な多様性は、日本人の生活を地方色豊かに味わい深く刻んできたのである。
 その象徴ともいうべきが、我が国を代表する傑出した自然風景である国立公園ではないたろうか。亜寒帯の利尻礼文サロベツ国立公園から亜熱帯の西表石垣国立公園まで、ほば日本列島の帯に沿って29ヵ所が指定されている。
 私はこのすべてに足を踏み入れたことがあるのだが、今日、日本を代表するはずの国立公園の自然が重大な危機に直面していると感じる。
 たとえは、西表石垣国立公園の最大の特徴であるサンゴ礁のサンゴに、白化現象が起こっている。サンゴは水中から陸上まで、生物の多様性を生み出す家のようなものたが、自然条件の変化によってどんとん死滅しているのだ。
 これは地球温暖化によって海水温が上昇したことや、海洋汚染などの複雑な条件が絡み合って、オニヒトデが多量に発生したことが原因の一つとしてあげられる。オニヒトデはサンゴを恐るべき勢いで食べて食べて食べまくる。
 森の荒廃も深刻だ。人工の森に人の手が入らなくなり、間伐されなくなった。輸入材により木材価格が低迷し、林業がたちゆかなくなったことが大きな原因だ。中山間地の人口が高齢化し、後継者の若者が都会に去っていくことも、林業の衰退と相互に影響を与え合って進行していく。我が国のどうにもならない現実である。これには経済競争を根底に置く世界経済のグローバル・スタンダード化が強く影響している。
 国立公園には天然林が多いのだが、シカの食害はあまりに深刻だ。私がよくいくところでは、日光や知床の山中でシカを見ないでいることは困難である。シカによって植物相は変わった。知床の奥地の草原では、イタドリやフキなどが見られなくなり、代わってシカの食べないバンゴンソウやアメリカオニアザミが勢いを持ってきた。ハルニレやミズナラやイタヤカエデの大木も皮を食べられて枯れた。
 国立公園として昨年独立した尾瀬の湿原では、繊細な花を咲かせる草がシカに食べられて裸地になった。国立公園だからといってシカを単に保護すればよいのではなく、対策を講じなければ、尾瀬のたぐいまれな湿原の景観は守れなくなったのである。
 シカが異常に増えたのも、人間の保護がゆき過ぎ、人の手により天敵のオオカミも絶滅したうえに、地球温暖化が影響していると考えられる。尾瀬や日光では、この数年間暖冬が続いて積雪も少なく、シカの越冬が容易になった。
 地域によって特色があるはずの多様な自然も、経済と同じように国境を越えた地球変動というグローバル・スタンダードの波をもろにかぶっているのだ。地球温暖化に伴う変化に向き合うためには、少なくとも国家レベルで対処しなくてはならない。
 しかし、現在我が国でなされている議論は現実に進行する現象とはまったく逆行している。地方分権は力強く推進すべきだと私も思うのだが、国立公園の現地管理を担うレンジャー(自然保護官)が所属する地方環境事務所を廃止もしくは縮小するという案に、私は異議を挟みたい。人為的な開発も含めた様々な事態により、日本を代表する自然風景である国立公園が危機に陥っている時に、守るべきものがここにあると考える。
 国立公園は全国民が享受すべき共有の財産なのである。たとえば尾瀬には年間約35万人が入り、自然を楽しみ、何らかの学習を行っている。多い年には65万人もの人が入った。そこをたった2人のレンシャーが管理している。しかも、群馬、新潟、福島、栃木の4県にまたがっている。
 この管理を地方に移管したなら、できることは限定されてくる。国立公園は自然公園法によって管理されているが、現実の法の適用には森林法、河川法、文化財保護法などが必要とされる。ここに省庁の縦割り行政の弊害が加わる。ここの複雑な管理を地方自治体にゆだねるのが得策なのだろうか。それより、国立公園を地球的視野で総括的に管理できる制度を模索すべきではないか。適格で迅速な対応を可能にするのが、本当の行政改革であるはずだ。
 政府が財政支出を極力抑えようとしていることはよくわかる。たが国立公園は日本人にとって守るべき最重要な一線だと、私は思うのである。
毎日新聞 2008年8月25日(月)

提言・JAに期待すること
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集落営農も限界に
 『家の光』に連載している「立松和平の元気探訪」の取材をしてまず感じることは、農業従事者の高齢化である。ただの印象で言うのだが、田んぼで見かける人は、だいたい七〇代の人が多いように思う。一〇年前は六〇代で、二〇年前は五〇代だ。そして、一〇年後には八〇代になる。
 このとき、日本の農業はいったいどうなるのだろうか。困らないためには後継者をつくる必要があるのだが、それがなかなかうまくいかない。現代では職業選択の幅があまりに多くて、どうしても若者はきらびやかな都市のほうに目を向けてしまう。
 後継者のいる農村は、たいてい元気である。若者は親の代に築いた技術や販路を継承すると、コンピューター導入など、自分たちの今日的な工夫をする。すると親は息子たちのサポートに回る。そう循環している農家はゆとりがあり、今後大いに発展が約束される。
 だが、これは満たされた例で、後継者をあきらめてしまったところが多い。夫婦が元気なうちは、現状維持でがんばろうというのだ。本当にがんばってもらいたいと、わたしはその背中に声援を送り続けてきた。
 耕作者が高齢のため、一人欠け、二人欠けしている。それを補うのが集落営農だが、請け負いができる面積も、しだいに限界に達しているようにも見える。来年はあの人が定年で村に帰ってくるからと当てにして計算し、労働力をなんとか確保しょうとしている光景を、しばしば目にするのである。

農村の“物語”を記録していきたい
 悲観的なことばかり書いてきたが、元気な農村というのは、転作がうまくいったところである。
 四割減反というのは、生産者にとってはつらい。そのつらい部分を新しい作物の生産に回し、産地化に成功したところは、若い後継者も育っている。わたしはそのような産地を探訪することが多いのであるが、他の産地との苛烈な競争をしのぎ、差別化に成功したところは、はつらつとした農業経営をしている。
 そうなるためには時間がかかり、汗も涙も流してきたのだ。その汗と涙の物語に感動したとき、わたしのペンも進むのである。農村には物語がたくさんあり、わたしはそれを丹念に掘り起こし、記録していきたいと念願している。
 このところに地域が元気になるヒントが隠されていると、わたしは思うのである。農家なら、製品を作っている以上、それを売らなければ生活できない。農家に人がいなくて小規模にならざるを得ないのなら、生産量の少ない農産物も売れるようにする。わたしは直売所のことを言いたいのだが、いま都市の消費者が切実に求めているのは食の安心・安全だ。生産者の名が記してある農産物は、安心・安全を保証している。

小規模農家にも作る楽しみを
 都市の住人が車に乗って直売所にやってきて、いま運ばれてきた野菜を競って買っている光景を、しばしば目にする。多くの直売所はJAの経営で、親合員が手塩にかけて育てた農産物を、近所の非農家の人が待っている。特定の生産者の名前を探して買っていく人も多い。つまり、ファンができたのである。これは地産地消であり、今後ますます高齢化していく農家を守るための一つの方法であるとも思うのだ。自分の農産物を朝運んできて、完売すればそれでよし、売れ残ったのなら、なにがしかの反省をする。どうやったら完売するか、工夫が生まれる。市場原理ではあるが、実際に現金が入ることだし、金儲けは人を元気にするのだ。
 転作地を大規模な産地に換え、大量の農産物を大消費地の市場に送る。それももちろん大切な方法だが、小規模な農家にも耕作して農産物を作り、それを売る楽しみを分かち与えるのも、JAの仕事ではないだろうか。直売所なら消費者と直接結びついているから、曲がったキュウリでも、少しぐらい虫が喰っているキャベツでも、それが安心・安全とわかれば消費者は買っていくものである。
 大量生産、大量消費で、何事にもコストが重んじられるこの時代に、どんなにささやかでもいいから農村と都市との交流を実現したい。農の楽しさと価値とが認識できれば、若者たちも農村に戻ってくるはずである。
 わたしはJA経営の直売所があれば、かならずのぞいてみる。取材のために行くというより、個人として行きたいのだ。家族へのおみやげは、たいていそこで買う。食堂がついていれば、なるべくそこで昼食をとる。農産物をふんだんに使った料理は、経験的にうまいからである。
 直売所は地域住民の雇用の場所にもなる。そこでは若い人がたくさん働いている。
 高齢化と後敗者不足のことを悲観的に書いてしまったが、自給率がカロリーベースで三九パーセントに落ち込んだ日本の農業をなんとかしなければ、この国は本当にだめになるとわたしは思っている。日本農業回復の手だてを、なんとか考えなくてはいけない。
 ここのところ『地上』では毎月、飼料用米の可能性の特集を組んでいる。わたしはこれに注目する。酪農は日本農業の虎の子であったはずだが、一瞬生産過剰になった。生産調整をして外国からパターやチーズを輸入し、その場をしのいだ。生産を元に戻そうとしても、牛はそんなに早く乳を出さない。そこに穀物の高騰が襲いかかった。
 根本は飼料を国産化して、安定供給を図るのがいちばんである。土地はたくさん余っているのだ。つまり、日本農業にはまだ潜在力があるということである。そのためには越えなければならないことがあるが、やってみるべきではないだろうか。
「JA教育文化」2008年9月号

一九七三年の中上健次
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 本当に久しぶりで、二十年ぶりといってもよいかとも思うが、私は書架から中上健次「鳥のように獣のように」を出して読んでいる。熱度の高い彼の文章を一行読めば、たちまちあの時代が廻ってくる。中上健次は一九六〇年代後半から一九七〇年代前半の空気を全身にまといつかせて私たちの前に登場したのである。
 タイトルにひかれて読みはじめたエッセー「働くことと書くこと」は、一九七三年五月三十一日「東京新聞」夕刊に発表された。当時の新聞のザラ紙やインキの臭いまで甦ってくるような文章である。
 「ぼくは働きながら小説を書いている。単純に生きている。しかしそれは作家としてみた場合奇形なのではない。あたりまえのことだ。生活やその感覚が確固としであった昔の小説の地位を、ちょうど一回ひっくり返したあたりで、いつも透けてみえる単純な一人の男の生活に鼻つらつけて、いわば自分にもって生れた業のようなものとして女々しくおぞましく思いながら書いているにすぎない。」
 彼は自分の生活している地平から文学状況を眺めわたし、単純なくり返しに耐えて多くのものがそこにいる肉体労働の現場と、文学がなんの触れ合いもないことに激しく苛立っている。生活感覚のない文学など、自分とは無縁である。だが実際の生活は「いつも透けてみえ」、「単純」であることから逃がれられない。そこに「鼻つらつけて」、「自分にもって生れた業のようなものとして女々しくおぞましく思いながら書く」という自己認識は、内向の世代の後からやってきた文学世代に共通のものであった。
 彼と一歳下で、つまり同世代の私も、そのように感じていた。だが私などはまだ言葉を持っていず、そのことをはじめてはっきりといったのは中上健次なのである。だからこそ彼の言葉には説得力があった。新聞などに発表された文章ばかりでなく、酒場での私にとっては直接的な会話などでも同じである。
 このエッセーが発表された頃、彼は羽田空港の航空会社の貨物部門に勤め、フォークリフトやウィンチで貨物を積み込む仕事をしていた。職人としてその仕事をする時の彼の同じエッセーの文章は、生き生きとして明るく、誇りに満ちている。労働がそのまま誇りであるような生活感覚に満ちあふれた文学は、彼や私の身のまわりにはなかったのだ。つまり、彼はいまだないものをつくろうとしてあがいていたのであった。
 ここにはもちろん文学状況というものが影響している。当時の文学の中心にいたのは、市民の日常的な生活の中でいわば安定している内向の世代といわれる人たちであった。中上健次は生活実感としては批判の根拠を持っていたのだが、文学の達成ということではまだ充分な批評の言葉を持っているのではなかったかもしれない。それでも彼は感覚で殴りつけるように書く。「『関係』を描くのが、わいざつなつきあいを描くことみたいな」や、「実際の肉体労働を知らないで労働を文学的にとらえる」ということが、「ぼくにはわからない」と、それでも控え目ないい方をしている。
 だがもちろん、彼は自らの生を肯定的にとらえているのではない。肯定と否定がないまぜになり、やがては破壊衝動にもなる。未来への道は見えていて、それを実現しようとする夢のような感触はあるのだが、まだ実現されたのではないというもどかしさである。
 今読み返すと、その時の観念を彼は実に見事にとらえてこう書く。
 「ぼくは時どき、自分が植物のように、生きているにすぎないと思いはじめ、やみくもに凶暴な想像にとらわれることがある。地表におちた種子のように発芽し、根をのばし葉をひろげ、花を咲かせ実をつけて枯れる。それはほとんどぼくの単純な生きかたといっしょだ。ぼくにとって労働とは植物が表面から水と養分をすい、葉で光をうけるのといっしょである。」
 私がこの文章を書いているのは二〇〇八年六月十日で、彼がこのエッセーを書いてから実に三十五年の歳月がたっている。三十五年前のエッセーを読んだ私の耳に、若々しいのだが深く苛立った彼の声が、肉声として甦ってくるような気がしたのだった。
 三十五年前、中上健次は羽田空港のフライング・タイガー社で働き、私は生活費を稼ぐため月に十日ほど山谷の寄せ場にいって働き、時どき新宿に汗臭い身体を運んできては待ち合わせて酒を飲んだ。私たちの前には茫漠とした空間が広がっていて、それは沃野か苦悩の荒野かはわからなかったのだが、文学をしようとする以上、そちらの闇に向かって歩いていかなければならないのはわかっていた。私は彼と同じ時代を生きてきたのだという実感がある。
 もし中上健次が生きていたら、今のこの時代をどのように語ったかと、私は考えることがこの頃しばしばある。
「河」2008年8月号

行儀の悪い人たち
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 若者たちの行儀の悪さについては、旧世代としてはすでに怒りというものを通り越し、諦めの心境てある。
 少し前のことだが、駅のホームに高校生らしい若者たちがべたっと腰を落としてしゃがんでいた。歩きにくくもあるし、みっともないから、私の友人である僧侶が叱りつけた。だが彼らは動こうともせず、小馬鹿にしたような顔で僧侶を見ていた。もう二言いってから僧侶は、身の危険さえ感じてその場を離れた。
 そこから少し遠ざかったところで、突然、僧侶は後ろから体当たりを受けた。そこはホームで、電車もやってくるし、危険なところである。僧侶はよろめいてから身体を立て直し、振り返ると、高校生たちはにやにや笑っていたとのことである。あんな危険な連中なら、命を懸けてまで注意しないほうがよいということになる。大人が精神論に後退し妥協した分だけ、行儀悪さの悪事がおこっている。
 駅のコインロッカーで女子高生が着替えているのを見たことがある。化粧はそのへんに座ってするか、電車の中で堂々とやっている。学校が終わると、まったく別人になるようだ。そんな光景にいちいち怒ってはいられなくなった。当たり前になってしまったのだ。
 行儀が悪く、つつしみを知らないのは、若者ばかりではない。先日、私は地下鉄に乗っていて、六十代後半と思われる女性が座席で一心に化粧している姿をつぶさに見た。私はその女性の正面に座っていたからだ。
 女性は黄八丈かどうかはわからないが、縦縞の黄色い派手な模様の着物を着て、粋な赤い帯をしめ、黒い草履をはいていた。髪は長く、後ろに束ねて結んでいる。どう見ても水商売の女性のようだった。
 彼女は大きな手鏡を片手で持つと、顔におしろいを塗りはじめた。本来は老眼鏡をかけないと見えないのだろうが、その分手鏡のサイズを電車の中で使うのにふさわしくないほど大きくしていた。髪の生え際や耳の裏側などにていねいにおしろいを塗ってしまうと、次は口紅だった。口を大胆に開き、様々な形をつくり、真っ赤な口紅を塗りはじめたのだ。私は唖然としたのだが、まるで劇場にでもいるような気分で、女性が大胆に変身していくのを楽しく眺めていた。眉毛を黒く染め、頬紅を塗って、はじめとはほとんど別人になり、せりふのない芝居は幕となった。
 若者たちを怒っていればよい、という時代ではないのである。行儀は地に墜ちた。
「フォーブス」2008年8月号

世界の片隅で起こっていること
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 どんなに文明が発達したところで、人は自然の生態系から離れることはてきない。早い話が私たちは自分より弱い生物を食べているのであり、都会暮らしをしていても、食物連鎖の中にしか生存することはできないのだ。
 たとえコンピュータが世界を支配しょうと、ロボットが人間に代って労働の現場に登場しようと、人間自身が自然そのものだということは変わらないのである。
 そんな人間が自らの存在のあり方を忘れ、自然などなくてもいいのだ、自然は人間のために収奪すればいいのだと考えるようになった。しかも、収奪したその富を少しでも多く自分のものにした者が強者であるとされ、それがつまり経済グローバルスタンダードの勝者であり、勝者である少数者がこの地球を支配するという構造が、強力にすすんでいる。貧富の差がいよいよ開いてきているのだ。
 地球上で最も尊いのは、地球の摂理と調和をした生き方をしている人である。過剰には欲しがらず、得たもので満足している。要するに、当たり前の生活をすることこそが、最も尊いのだと私は思う。
 土を耕し、その土を酷使しなければ、その土は永遠の富を約束してくれる。だがそんな暮らしは経済グローバルスタンダードの敗者であり、資本によってたちまち蹂躙される。すると土に拠る人は、いよいよ貧しくなる。
 わずかばかりの土を耕して生きる。それが悪いことなのだろうか。それでも自分の土地では家族を養えず、2、3日もかけて山道を歩いて大農園に働きに行く。そこでは経済グローバルスタンダードの力が露骨に強力に働いているのだ。
 私はペルーの山の中の村で、テンジクネズミを台所に飼っている家を訪れたことがある。野菜屑を足元に落とし、ゴミさえもリサイクルする形となっている。足元には自分の明日の運命を知らないテンジグネズミが、弱々しくもいじらしい姿でジャガイモの皮などに群がっていた。
 昔から静かな暮らしをしてきた人の中にも、資本主義は神の顔をして侵入し、人々を支配していく。そのあげくに森は力をなくし、川は汚れていく。森や川とともにあった人々の精神も、汚染されていくのである。
 地球のすみずみで恐ろしい事態が進行している。それはもう引き返すことのできない破壊の道であるかもしれない。
DAYS7

人類の愚かさの物語
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 ゴールデンウィークは、行楽日和だという天気予報が早いうちには出ていて、外出の計画を立てた人も多いだろう。しかし、こどもの日は雨で、全体を通して五月晴れとはいかなかった。予報官の苦労をおしはかると、天気予報がしにくくなっているのではないかと私は考えてみた。地球温暖化が進むと、気候は不安定になるという。
「+6℃」(ランダムハウス講談社)という本は、地球の温度が一度から六度まで段階的に上がるとどうなるかをシミュレーションしている。二度上昇すると、北極の氷が溶けてアジアと北米とヨーロッパは航行できるようになるという。当然北極グマは生息が困難になる。
 また二〇〇七年八月にロシアの探検家が海氷の下に潜水艦で潜り、北極点下水深四千メートルの海底にさび止めをした金属のロシア国旗を設置し、親プーチン政党から政党の紋章である毛皮つきの大きな北極グマのおもちゃを贈られたという。この地域の石油と天然ガスはロシアのものだと主張したのである。  先日テレビでニュースを見ていたら、この金属の国旗が写され、ロシア、アメリカ、カナダ、デンマーク、ノルウェーなどが採掘権を確立すべく躍起になっているとの解説がなされていた。この意味を読み込む人は読み込んでくれという風に私はとった。
 北極の氷が溶ければ、北極グマが生きられなくなることを悲しむのではなく、石油が掘れると喜ぶ人がいるのだ。石油はおそらく莫大(ばくだい)な富を生むだろう。その石油はまた地球温暖化の主要な原因となる。
 寓話(ぐうわ)のような話である。その先に待っているのは何であるか、あまりにも明白だ。とても笑ってはいられない。
日本経済新聞(夕刊)2008年5月14日(水)

日本の農業への提言
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 月刊誌「家の光」(家の光協会刊)に連載をしているので、私は毎月全国の農村をまわっている。宮崎の千切り大根を取材したかと思えば、月を改めて群馬県渋川にコンニャクとシイタケの取材にいく。
 渋川は軽石まじりの関東ローム層の台地で、水がないので田んぼができず、養蚕をしてきた土地柄である。昭和四十年代に群馬用水が引かれ、待望の水田ができるようになった。ところが二、三年後米は生産調整のため減反され、転作のコンニャクイモ生産が拡大された、固有の歴史を持つ。
 昭和四十年代以降、日本の農村は米の生産調整に苦しんできた。米はまだまだできるのに、つくれなかった。収入を充分に得られず、村は疲弊してきたのである。減反は耕地面積の約四〇パーセントで、四〇パーセント分の収入が、手をこまねいていたのでは減るということになる。余った耕地の米からの転作、つまり他の作物をつくることに成功したところが、よい産地に育ってきたのである。
 日本の農業のカロリーベースの自給率はとうに四〇パーセントを切り、なお下がりつづけている。世界の食粗事情も逼迫(ひっぱく)し、日本の経済力もかつてのように絶対ではない上に、資金があれば食糧が買えるという時代ではなくなった。それなのに日本農業の偉大な潜在力を眠らせたままにしておいていいのだろうか。眠っているつもりが、いつの間にか死んでいたとなりかねない。
 近い将来、車は石油で走るのではなく、穀物からつくられたバイオ燃料が主力となる。米はコストさえあえば、飼料にもなる。牛は藁(わら)まで食べる。農業にありったけの力をふるえるようにすべき時代がきたと、私は確信するのである。あとは政治の力だ。
日本経済新聞(夕刊)2008年4月9日(水)

十年後の日本農業
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 日本の農村地帯をまわって感じることは、日本の農業にとって最も深刻な問題である高齢化と後継者不足とが、じわじわと効いてきたということである。
 若い後継者がいるところては、農業従事者がどんなに年を取っても、目立つことはない。若いものがやるべきことをやり、年寄りはその手伝いにまわる。それが世間の正常な関係であるが、後継者がいなければ、できるまで農業をつづけようということになる。
 いよいよ身体がきつくなって農業ができなくなり、さりとて先祖代々受け継いできた農地を手放すことができず、近くの誰かに委託をすることになる。
 集団営農で機械を装備していれば、その集団が委託を受けることになる。また若い後継者のいる農家が、田植えや稲刈りやもみの乾燥を請け負うことになる。かくしてできる人のところに農地が集中し、朝から晩まで働いても稲刈りが間に合わないということにもなる。私は四十歳代の働き盛りの営農者と会った。彼の髪は茶色くて、染めているのだなと思った。聞くと、あまりの長時間太陽の下にいるので、まるでサーファーのように髪が脱色したということである。
 委託を受けるのが限界になり、結局耕すことのできない農地が遊休地もしくは耕作放棄地として残される。放っておけば当然雑草が繁り、農村風景は変わる。いくら転作を奨励しても、現実はこのようである。
 今の就農者の平均年齢がどれほどなのかわからないが、私が見るところ、七十歳代の働き手はいくらでもいる。むしろそれが普通だといえる。高齢になっても第一線で農地に出ている人は、たいてい後継者がいないのである。
 あと十年たつと八十歳代になる。なお十年たつと、と考えていくと、このまま手をこまねいていれば、日本から農業が消滅するのではないかと不安になる。  十年前は六十歳代で、二十年前は五十歳代だったのである。つまり、こうなることははっきりとわかっていたのだ。そして、近い将来どうなるのか、ありありとわかるのである。わかっているのに政府は何ら手を打たないできたのだ。各種の名目で補助金をばらまき、農政をそのつとお茶を濁してきたことのつけは、取り返しのつかないところまできてしまったと思われる。
 オーストラリアが天候不順で小麦が不作になり、中国が小麦の大量輸入国になった。そのたゆ穀物事情が世界的に逼迫してどんどん値上がりし、庶民の生活をおびやかしはじめている。だが日本は小麦をつくろうと思えばできる土地なのである。なんでも手遅れになってからあたふたする。こんなことを何年くり返していけばよいのだろう。
 農村の高齢化は、すでにのっぴきならないところにきている。そこに大量に定年を迎えた団塊の世代が帰農するというのは理想的な構図だが、もちろんそう簡単にいくとは思えない。都会生活をしてきた人が、天と地の間で農をするという天然自然の生き方に簡単に移行できるとは思えない。毎年気候が違い、それにあわせて肥料の組み立てを変えるというのは、あまりに高度な感覚なのである。
 そうではあるのだが、今日ほど帰農に適した時代はないというのもまた事実である。帰農を志した人には、地方はあらゆる補助金で援助をする。集団出荷をしている産地は、品物の質を落とすことはできないので、あらゆる技術を惜しみなく与える。まわりの力で、数年で出荷できる農業者になることができる。
 私たち「ふるさと回帰支援センター」でも、惜しみなく情報を提供するであろう。こうして日本の農業が少しでも持ち直すことを、私は夢見ているのである。もちろん団塊の世代ばかりでなく、二十歳代三十歳代の若者が帰農することが理想なのではある。
100万人のふつさと 2008年新春

宮崎奕保禅師の言葉
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 宮崎奕保禅師の生活と意見ともいうべきことをNHKが番組に制作することになり、そのインタビュアーとして選ばれたのは私にとって幸福であった。
 私にきた依頼は、禅師にいろいろな話をお聞きしてくださいということだ。テレビ局がそれを後でうまく編集するということである。当然私自身の勉強にもなるので、まことにありがたい仕事であった。
 映像としては冬の永平寺がよいということで、二〇〇四年年明けの指定された日に私は永平寺に行った。しかし暖冬で、永平寺にはまったく雪がなかった。百四歳になられていた禅師はすこぶるお元気だったが、年齢のこともあるのでお疲れにならない程度にと、侍局の方には時間を厳しく制限された。
 これまで私は禅師と何度もお話ししたことがあり、この番組のためには今後も何度か機会があるということでカメラは回っていたのだが特にテーマを決めず自由にインタビューをさせていただいち私には序曲というほどのものだった。
 その後、禅師は歯を悪くされたということで、札幌の中央寺にお帰りになった。すぐ永平寺にこられるのかと思っていたのだが、寒さも厳しくなって、越前までなかなかお出ましにならなかった。
 そのうちテレビの放映日が迫り、追いつめられてきた。禅師はようやく永平寺に戻られ、テレビ局のほうできっと我が儘をいったのだと思うが、一時間だけならインタビューに応じてもらえることになった。私は取るものも取りあえず永平寺に向かったのである。冬に間にあわせたつもりだったが、永平寺にはまたしても雪はなかった。
 あれも聞きたいこれも聞きたいと私は願っていたのだが、テレビのほうの要請もある。質問は重点的なことだけに制限された。一つは「坐禅について」、もう一つは「自然について」である。坐禅についてならいくらでもお話はできるだろうが、抽象化されてしまった自然という概念をどう語ったらよいのだろう。 「自然とはなんですか」
 つまりこのように問われて、明快な答えを出せる人がいるだろうかということだ。何年か前に、子供が大人に「どうして人が人を殺してはいけないんですか」という問いを放った。それに答えられる大人は誰もいなかった。「自然とはなんですか」という問いは、あまりにも直接的で、私が問われたらどう答えてよいかわからない。
 私は前もっての打ち合わせもなしに、恐る恐る問うた。すると禅師は逡巡もなくたちまち見事に答えてくださった。言葉は正確に復元できないにせよ、こんな感じであった。
 「わしは何年もにわたって毎日日記をつけておる。何があった誰がきたということのほかに、何の花が咲いたとか、どんな鳥が啼いたとか、雪が降ったとか溶けたとか、自然の中の小さな出来事を気づくたびに書いている。何年か後にまとめて見ると、花が咲くのも、鳥が啼くのも、雪が降るのも溶けるのも、大体同じ時機じゃ。誰が仕組んだわけでもないのに、自ずからそうなる。それが自然じゃ」
 人間が自分の都合でどのように思っても、そのとおりになるわけではない。誰がどうするわけでもないのに、自ずからそうなってしまう。少しぐらい異変があろうと、全体ではいつものように調和する。それが自然だといわれれば、よく理解できるのである。
 難しい言葉、相手をくらませる言葉、自分を立派なものに見せる衒(てら)いの言葉などが、一言でもあるわけではない。しかし、自然の摂理というものをこれほど明快に語った言葉を私は他に知らない。
 禅師は永平寺内で修行僧などに説法する時には、もちろん難解な禅語を駆使して厳格に説法される。一方私のような俗人に語りかける時には、まことに平易だが含蓄のある言葉を使われる。融通無碍で、恐い師匠と同じ眼差しのまま、子供と屈託なく遊ぷ良寛さんのような存在にもなれる。それこそが禅の究極の境地であろうと、私は思うのである。
中外日報新聞平成20年1月19日