心の一冊を持て |
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道元禅師の著作を読み込んでいくうち、世界観を全く変えるほど強い衝撃を受ける言葉に出会いました七月に『道元禅師』(上下巻、東京書籍)を上梓(じょうし)した。 脱稿までに九年余りをかけた二千百枚の大作。五十代のほとんどを費やして書き上げた。「この本のほとんどは永平寺が出している曹洞宗の機関誌に連載した原稿です。曹洞宗の開祖、道元禅師の全生涯を見据えた小説を、と頼まれたのですが、書くのが苦しかった。初めのうちは堅い扉をひとつひとつ力でこじ開けていくような思いでした」
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小説を書いていたい |
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身のまわりのこまごまとしたことは別にして、小説家の私が結局やりたいのは小説を書くことだ。今書きたいこと、今しか書けないことを書いているので、それが死に向かって生きている人間としては、生きているうちにしたいことというわけである。
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足尾の桜 |
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東京から足尾にいくには、浅草で東武電車に乗り、桐生でわたらせ渓谷鉄道に乗っていく。渡良瀬川に沿って電車が走っていく、眺めのよい鉄道である。
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法隆寺と伊勢神宮 |
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私は毎年正月に奈良の斑鳩の法隆寺にいき、千三百数十年つづいている御行(みおこな)いにこの十数年参加させてもらっている。法隆寺の千三百年の木造建築の中にいると、先人たちがつちかってきた文化の確かさを感じる。
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心の棘/席取り |
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行楽シーズンを迎えて、高速道路インターチェンジのドライブインは混雑していた。それでもみんなトイレをすませ、コーヒー一杯でも飲むと、さっさと出発していく。混んていても、駐車場のスペースは限られているので、そこに入れない車は去っていくから、トイレも店も身動きもできない混雑ということはない。ある時、私は犬を妻に預け、トイレをすませて妻と交代して犬の綱を持った。トイレにいった妻を待って、なんとなく歩いていた。そして、大きなテーブルの隅の席が空いているので腰をかけた。がっちりとした木製で、吹きさらしのところに置かれていて、六人掛けであった。すると対角線の位置に坐っている六十年配の女性が、少し強い声でいった。「あの、娘が今釜飯を買いにいっていて、ここでみんなで食べることになっているんですよ」
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白山と十一両観音 |
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白山に私は越前禅定道(ぜんじょうどう)から登った。まだ雪渓が残っている季節で、時どき道が下に隠れて方向がわからなくなった。白山は大きな山で、歩いても歩いても山頂の御前峰(ごぜんがみね)は遠かった。
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全国同じ町並みになった |
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私は旅から旅の暮らしをしていて、地方にいくことも多い。車に乗せてもらい、ふわっと眠って、目が覚める。車窓の外を眺め、はてどこの街だったかとしばし考えたりする。朝ホテルで目覚め、窓の外から街の光景を眺めて、ここはどこだったのかと不安な気持ちで考えてしまう。
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保存する明確な意識持とう |
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足尾銅山(栃木県)による渡良瀬川の水質汚染が顕在化したのは、明治10年代後半(1885年ごろ)とされる。アユやハヤの姿が見えなくなったのである。明治20年には魚がまったくいなくなり、沿岸の漁業者は生活が立ちゆかなくなった。明治23年に大洪水が起こって汚染が拡大し、栃木、群馬両県の7郡28ヵ村、1650余町に麦や陸稲や豆の立ち枯れが起こり、広く農民たちを困窮させた。源流にある足尾銅山が、銅、硫酸などの生物にとって有害な物質を大量に排出しだからである。
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鏡花の女性崇拝 |
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鏡花には、幼くして母を喪うた少年が母の面影を求めて年上の美しい女性を慕うという構造を持った作品が多い。鏡花の描く女性は、たいてい薄幸の美人である。もちろんそれは、九歳で妹の出産がもとで享年二十八歳でなくなった、母鈴の面影を求めていることは間違いない。
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「私訳歎異抄」五木寛之 何処までも平易に「私」を捨てた「私訳」 |
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「歎異抄」の中で私が好きな場面がある。弟子の唯円が、師の親鸞に念仏をしていても心からの喜びが湧いてこない、自分は信心が足りないのだろうと告白をする。その部分が五木寛之氏の「私訳」ではこのように現代語化される。
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「少欲知足」ということ |
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このところ、鎌倉時代の禅僧道元の一代記を、永平寺の機関紙「傘松」にこつこつとつづけてきた。毎月二十枚の原稿を書き、百回になった。足かけ九年かかったことになる。これだけでは足りず、あと百枚書き足して仕上げたのが、「道元禅師上・下」(東京書籍)である。全部で二千百枚の小説で、全体的に長いものが多い私の作品の中でも最大の長編小説だ。
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"良き人"となれ |
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生きる場所すべてが学び場
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人生すべて修行の場/道元禅師の教え |
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「保守のプリンス」ともてはやされた首相が、突然の辞任。身内の争いを勝ち抜いた「背水の陣」内閣は、台頭する野党勢力に決戦を迫られている。すべてのものが危うく、移ろう諸行無常の世。なんだか鎌倉時代と似ていなくもない。天変地異で社会も人心も乱れた。そんな時代に禅を説いたのが曹洞宗の開祖、道元禅師(1200〜1253年)だ。その全生涯を書きあげた作家の立松和平さん(59)に、現代人にも通じる仏の教えを聞いた。【大槻英二】 「いやあ、こんな分厚い本、誰も読まないと思ったら、案外、売れてるみたいでね」
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師を求める物語/道元禅師 |
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日本曹洞宗の開祖・道元禅師(1200〜1253)。鎌倉初期に貴族の家に生まれ、14歳で出家、宋で悟りを得たのち、永平寺建立、『正法眼蔵』完成など、その生涯と思想に迫る2100枚の長編小説だ。
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二荒(ふたら) |
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− 久々の書下ろしの舞台は日光ですが、立松さんにとって日光とはどんな場所なんですか?
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修行と気付き苦しさ克服 |
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−なぜ道元を書くことになったのですか。
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知床の森のクマ |
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最近はヒグマが出没する騒ぎがしょっ中起こるものの、私は知床の森を歩くのが好きだ。ハルニレやミズナラの大きな樹木が繁っていて、冬には人を寄せつけないのだが、春夏秋の季節の彩りがはっきりしている。かつては大径木が抜き切りされ、本当のよい木は残っていないという人がいる。それでも私の好きな何箇所かの森は、一人でもそこにはいっていくと自分だけの静寂に包まれる。私には貴重な時間である。
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われ思う仕事と本当の幸福 |
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ある日、妻がしみじみとした口調でこういった。
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貧者の一燈の力 |
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「貧者(ひんじゃ)の一燈(いっとっ)」という言葉の語源を知りたくて、「広説佛教語大辞典」(中村元著 東京書籍)を引いた。このように書かれていた。
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よりよく生きるために |
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先程の政府の発表では、日本のカロリーベースでの食糧自給率が40パーセントを切ったということだ。その一方で、中国をはじめとする輸入農産物の安全性が問われている。このまま日本の農業が活力を失っていけば、輸入食品が農薬で汚染されているなどということはいえなくなり、どんな食糧であってもないよりましだなどということにならないとも限らない。
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こころにひびくことば |
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流れる水は先を争わず。私の座右の銘である。いつも自然体であるがままにいようということだ。自分だけ少しでもよくなろうと思い、 無理をして先へ先へと急いでいくとする。結局人を押しのけることになり、そこから争い事が生まれてくる。水のように流れていけば、この世はすべてうまくいく。流れる水は一緒に流れているだけで、まわりを押しのけているわけではない。どんなに急いでも、まことに円満にこの世の摂理の中におさまっているのである。人の生き方も、そのようにありたいものだ。PHP 2007年9号 |
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白瀬矗への敬愛 |
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南極の大雪原に立つと、この激しい風景をひたすら目指してきた白瀬矗(のぷ)という人物のことがしのばれてくる。今でこそ機械の力に囲まれて行くことができるが、白瀬は人と犬の力で南極点に到着しようとしたのだ。
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ずっと友だちさ |
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ミクロネシア連邦の首都コロニアのあるポンペイ島には、古代から建設された海上遺跡のナンマドールがある。誰がどのような技術をもって巨石を組み上げたのか、まったくわからない。ただ遺跡だけが確かにあるのだ。
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母が涙を見せた時 |
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母が脳梗塞(のうこうそく)で倒れ、私は病院に駆けつけた。母は心細かったのか、私の顔を見るなり目に涙をいっぱいにためた。私は長男なのだが、故郷の家を出てしまっている。その私を見て流した母の涙は、私にとって私自身の生き方を問うものであった。
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地球流転 |
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地球の荒々しい姿南極にいってから、万物は流転しているのだということを改めて認識した。山の上に迷い子石と呼ばれる大岩があり、古代文明の失われた象徴のようにいわれたり、ノアの方舟の時の大洪水の証拠だといわれたり、はたまた天狗の投げ岩だといわれたりしている。そのことで妙に納得したりもしてきたのだ。
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名編集者から励ましの電話 |
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こつこつと文学など280冊もの本を書いてきました。自分自身、数えてみて驚きました。書きたいものを1冊ずつ書き続けてきた結果にすぎません。
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母が涙を見せた時 |
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母が脳梗塞(のうこうそく)で倒れ、私は病院に駆けつけた。母は心細かったのか、私の顔を見るなり目に涙をいっぱいにためた。私は長男なのだが、故郷の家を出てしまっている。その私を見て流した母の涙は、私にとって私自身の生き方を問うものであった。
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文化交流使として中国訪問 |
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文化庁派遣の文化交流使として4月下旬から1ヶ月間、北京や東北地方に滞在する。現地の作家と交流したり、清華大では「環境と文学」をテーマに講演を行う予定だ。
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沖家室島の歳月 |
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周防大島と沖家室島にいったのは、大学の先輩の菩提をとむらうためであった。五十代はじめで亡くなった彼は、学生運動の闘士で、故郷に背を向ける暮らしをしていた。山口県立柳井高校を卒業し、早稲田大学にはいるために上京してから、ついに一度も故郷に帰らずに客死したのである。
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モズのこと |
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ジャズ喫茶のモズは、早稲田通りの穴八椿の向かい側にあった。木造の階段を登っていくと、モダン・ジャズの大音響が響いてきた。店内は暗い。小さな喫茶店だが、一歩中にはいるとまったく別世界になった。
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地球に対し謙虚であれ |
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南極に行ってから、私は地球温暖化は大丈夫なのかとよく聞かれる。十日間ぐらい南極に行ったところで決定的なことはわかるはずもないが、いろいろなことを見聞きした。
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関連リンク |
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足尾に百万本の樹を植える |
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足尾で植樹を呼びかけた時、第1回目は現在も植樹をしている大畑沢緑の砂 防ゾーンであった。2回目は松木渓谷の奥のほうに設定したのだが、現場にい くまでに危険がともなう。万が一大雨が降ったら、鉄砲水が出る。だから松木 渓谷に植えたのは1回だけで、3回目からは松木渓谷入口の大畑沢縁の砂防ゾ ーンに戻る。第11回目の2006年も同じところで植えている。斜面はどん どんきつくなる。階段を登って相当高いところにいかなければ、植樹はできな い。4月の植樹デーには1300人もの人がくるので、一気に階段を登ること ができず、階段の登り口にたまってしまう。これが問題である。
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関連リンク |
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南極への旅 |
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荒涼の地に悠久の生命
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関連写真 |
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荒あらしく圧倒的な地球 |
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南極の圧倒的な風景を前にして、地球46億年の歴史を考えた。私はこの地球の上にかろうじて生存を許されている一分子なのだと、切ないほど実感した。南極は全体が氷で覆われていて、その氷を氷床という。日本の南極観測隊は氷床の深層コアを3035.22mまで掘削した。氷に閉じ込められている大気を分析すると、地球は10万年ごとに大きな気候変動にみまわれ、そのたび生物は絶滅したり生きるチャンスを獲得したりしてきた。この2000年間、つまり産業改革以降、二酸化炭素の量が急激に増えているということだ。二酸化炭素は、もちろん地球温暖化の主たる要因である。南極の荒あらしい風景を見ていると、どんな事態になっても、地球は生きのびていくのだろうなと感じる。生命が滅びても、地球そのものには何ともないことだ。ただ絶滅する生物の悲劇というに過ぎないのである。 地球温暖化ができるだけ進行しないようにと努めるのは、人類とその周辺の生物のためなのだ。 地球は人類にやさしいわけでは絶対にない。
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遠野にいった柳田國男 |
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前回につづいて柳田國男のことを書く。柳田が『遠野物語』で、日本人の失われていく姿を活写した明治40年代が、物質偏重の消費文明に目が眩んで足元が見失われている現代と、時代相が似ていると感じるからである。
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南極への旅 |
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地球規模の時間に思い馳せ
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無垢な生命抱く大地 |
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日本の南極観測五十年の歴史で、輝かしい達成の一つにオゾンホールの発見がある。昭和基地での観測値で、一九八〇年からオゾンの全量が急激に減少していた。少し遅れてイギリスのハリー基地でも同様の観測値が発表され、南極の上空は春十月になるとオゾン層に大きな穴ができることが分かった。 オゾン層とは、生物に有害な紫外線をカットし、地球を生命の星とするための大切な自然の仕組みだ。破壊は人工物のフロンによる化学反応に よりで引き起こされるとつきとめられて、フロンの排出は規制された。しかしフロンを分解する方法はなく、五十年間オゾンホールは存在し続ける。 南極は紫外線が強く、用心しないとたちまち肌が赤く焼け、白内障になる。日焼け止めクリームとサングラスが欠かせない。このオゾンホールの発見は、ブリザード(暴風雪)の日も休まずに観測を続けた成果である。 だがまだ地球のことで分からない現象は、あまりに多い。無知のために人が地球を住みにくくしていることもあるだろう。南極は人間をはじめ生物の活動が活発でないので、地球の様子が比較的シンプルに分かる。 一日、私たちはアデリーペンギンのルツカリー(集団繁殖地)に、「しらせ」のヘリで飛んだ。人間という生物の恐ろしさを知らないペンギンは、無防備で寄ってくる。南極もまた生命の大地なのである。この極寒の地で生きる方法を見つけたペンギンは、おそらく何千何万年と同じ生活を続けている。科学技術にとらわれず、進歩をしなくでもよい生き方がある。つねに前進を求められる私たちとどちらが幸福か分からないぞと、私は無垢なペンギンに思った。
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万物流転 移動する湖 |
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ドームふじ基地での氷床深層コアの掘削は、地球のここ七十二万年の歴史を解き明かしながらも、困難な事態を迎えていた。そのことが昭和基地と無線でしばしばやりとりされるので、私にもよく分かった。 全層コアを堀り抜き、基部の岩を掘り出すことを目的としているのだが、氷床の底部は超高圧と地熱のため凍っていないと分かってきたのだ。地底は湖になっていて、湖と湖は水路で結ばれ、しかも湖は移動している。水は海岸の方に動いているから、湖の淡水はいつかは海に出て海水と混じる。あるいはその前に凍結するかもしれない。ここでも万物は流転しているのだ。 地下の淡水の中には、何十万年も生きながらえてきた生物がいるかもしれない。南極では菌類と藻類とが共存して地衣類をつくり、岩の中にまで生育しているのだ。それが驚きだった。彼らにはそこが生きるのに最適の場所なのである。 私たちが南極を去った後の一月二十六日十七時二十一分、ドームふじ基地で掘削中のドリルはシャーベット状の氷に邪魔されて止まった。深さは3,035.22mであった。固い氷は掘れるのだが、水は掘れない。底の岩までは届かなかったものの、約六mmの岩屑が採集された。氷河が削った岩かもしれないのだが、もちろん古い岩であることには違いない。そのまま日本に持ち帰って分析することになっている。 氷床の三千メートル底は、すさまじい圧力であろう。その重みで南極大陸は沈んでいる。南極は氷を盛った巨大な器の形をしている。最低標高はマイナス二、四七六メートルだ。もし氷が全部溶けたら、南極大陸はせり上がり、このことでも地球の気象に大きな影響があるとされている。
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禅味ある氷雪の「山水」 |
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オングル島の昭和基地の向かいの、氷山を浮かべた真白い海を眺めて、私は初めてこの景色を目にするのではないように思った。既視感があるのだ。子供のころより、映画や写真で何度も見てきたからであろう。その景色が目の前にあることが、何とも不思議に思われたのである。
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気象変動の秘密探究 |
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飛行機の窓から、他の世界のどことも違う景色を眺めた。氷床の上から山の頂がわずかにのぞいていた。氷漬けの大陸には二千五百万立方キロメートル、地球上の90%の淡水があるとされる。流転する氷は数十万年かけて海に戻り、大気として降るという循環を繰り返している。この圧倒的な量の氷が、人類の引き起こした地球温暖化により溶けてしまわないかというのが、多くの人の心配だ。もしすべてが溶けたと試算すれば、海面は五十七メートル高くなるとされる。
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眩しい太陽と白砂漠 |
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南アフリカのケープタウンから南極にあるノルウェーのトロール基地までは四千三百キロあり、飛行機で七時間かかる。
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南極への旅 |
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思いがけず昭和基地に
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母校にて |
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わが母校は宇都宮市立西原小学校である。昭和二十年代の終わりに入学した頃には、あっちこっちに原っぱが残って遊ぶ場所はいくらでもあった。子供は遊びの天才だから、どんな場所も遊び場にしてしまう。 新川という小さな用水が流れていた。二宮用水ともいい、二宮尊徳が農地開発のためにつくった用水である。だが子供にはそんな歴史のことよりも、学校帰りに笹舟をつくって流し合って競争をするほうが大切であった。時折走り幅跳びをして跳び、跳びきれずに川に落ちたりもした。 土の岸辺だったその小川も、護岸堤がしっかりとつくられ、うかつには跳べなくなった。岸辺の両側には雑草が生えていたのだが、アスファルト舗装され、怪我をするのでますます跳べない。川岸には桜の苗木が植えられ小さい木だという印象が強かったのに、いつしか鬱蒼と繁って桜の名所になっている。 ある日、その新川を昔のように溯って、西原小学校にいった。NHK番組「課外授業ようこそ先輩」の収録のため、授業をしにいったのだ。 西原小学校は私が小学生の時分は、当時小学校で珍しくプールがあった。授業で使うのはもちろん、夏休みなどは市民プールとして大いに賑わったものである。私たちには自慢だったプールはすっかり改装され、学校のためだけの静かなプールになっていた。もっとも季節は三月で、プールはひっそりとしたたたずまいではあった。昔の華やかな記憶と、あまりの落差があった。 戦後のベビーブーマー世代である私たちが入学すると、小学校は教室が足りなくなった。そんなことは前からわかっていたはずなのだが、建設が間にあわなかったのだろう。 一クラスは五十五人で、寿司詰め教室といわれた。最後部は後ろの黒板にくっつきそうで、通路もないほどだった。特別教室などはとれない。理科室はなく、実験なども普段の教室でやった。どうしても必要な図書室は、校舎と校舎を結ぶ廊下をあてた。 西原小学校には自慢の講堂があった。その講堂も四つにカーテンで仕切って、教室にした。どうしても学校の行事で講堂を使う時には、移動式の黒板も、机も椅子も、仕切りのカーテンも外に運び出したのである。 そんな混雑の思い出のある西原小学校に今回いってみて、あんなにも窮屈だつた校舎は新校舎に建て替えられ、新校舎といっても少々くたびれているのに感慨を持った。そして、何よりも変化を感じたのは、その教室が余っていることだった。卒業間近の時期だったので五年生への授業をしたのだが、授業をする隣の教室が空いているので、作文などは生徒一人一人個別に指導ができる。 それがよいことなのかどうかわからないが、時代が変わったことを実感したしだいである。東京栃木県人会会報 2007年 No.27 |
現代人も学ぶことある |
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ここまで「地球」を意識した旅はなかった。南極に初めて立った時、青氷の上に大きな岩が転がる光景に驚いた。氷河が谷を刻み、山を越えて運んだものだ。人間がかなわぬ圧倒的な力の差が目の前にある。数万、数十億年…ぼくらが持つ時の流れとはるかに違う裸の地球が見えた。結局のところ万物は流転する。
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道元禅師の御生涯を書く |
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「傘松」前編集長熊谷忠興老師の依頼を受け、道元禅師の全御生涯を見据えた小説を書きはじめて、たちまち不安を感じないわけにはいかなかった。たとえば父母のことである。母は摂政関白家の松殿藤原基房の女伊子とされ、多少の異論はあるものの、可能性は高い。しかし、父に至っては、久我源氏の源通親、もしくはその子の通具とされ、双方には強力な論拠がある。どちらか一方に決めてもらえば、物語作者としてはその通りに言葉を運んでいけばいいのであるが、どちらともいえないということなのだ。父と子とどちらかで書いたとして、人間関係の綾が最後までもつれずにつながらないと困る。最初にボタンをかけちがえれば、小さな矛盾が修復できない大きな矛盾に育ち、やがて決定的につじつまがあわなくなってしまうことはないだろうか。父と母のことが象徴的なのだが、微妙にわからないことがたくさんある。道元禅師の御生涯を書くということは、それを一つ一つクリアしていかなければならないのだ。
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涙出たオニオンスライス |
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「若き日の貧乏物語というのは、現在お前は何をしているのかという存在を問う声がたえず響いてきて、ほろ苦い思いになる。つまり、昔は純粋だったなあということである。 故郷の宇都宮から早稲田大学に入学するため上京した時、私は高校の先輩と四畳半の下宿に二人で住んだ。一人二・二五畳である。下宿では食事がでたが、盛り切り一杯の御飯と、おかずは朝は海苔が少々、夜はサバの味噌煮などが一品ついた。味噌汁は水を足すだけで増やしていくので、少し遅くいくと具が何もはいっていない。
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定年帰農はそれほど簡単なことではない |
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先日、地方へのUターン、Iターン事業をすすめる人と話していたら、住宅の世話しても2種類の人があり、対策に迷っているという話を聞いた。一つは別荘という感覚で、地元に帰属するという意識は薄い。もう一つは、その地域に根ざそうという人たちである。別荘がわりに使おうという人は、地域と融合しないのはこれはもう仕方がない。
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