心の一冊を持て
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道元禅師の著作を読み込んでいくうち、世界観を全く変えるほど強い衝撃を受ける言葉に出会いました
七月に『道元禅師』(上下巻、東京書籍)を上梓(じょうし)した。 脱稿までに九年余りをかけた二千百枚の大作。五十代のほとんどを費やして書き上げた。
「この本のほとんどは永平寺が出している曹洞宗の機関誌に連載した原稿です。曹洞宗の開祖、道元禅師の全生涯を見据えた小説を、と頼まれたのですが、書くのが苦しかった。初めのうちは堅い扉をひとつひとつ力でこじ開けていくような思いでした」
「禅師は摂政関白家の縁せきであることば確かで、母親はほほ特定できるのですが、父親には有力な二説がある。エッセーではないのだから強い確信を持って一貫した物語を紡ぎ出さなければいけない。力業でした。苦しいのは修行だからなんだという認識に至って救われました」
『正法眼蔵』に寄り添い、導かれて書き進めた。道元が説示した教えをまとめた大著で、難解にして深遠。読みこなすのは至難の業だ。
「これまでにも禅師のことを考える機会があって、何度か読みました。読めば読むほど難しいのですが、それでもだんだん分かってくる。と言うか、分かる部分が少しずつ増えてくる。
『道元禅師』を書きながら再び繰り返し熟読しました。旅に出るときもいつも何冊か携えて行き、とうとう本がぽろぽろになった」 「『正法眼蔵』は美しく、深い言葉の宇宙です。禅師の力強い肉声に満ちています。この書に向き合う時間がやがて限りなく豊穣な時になり、人生が豊かになったように感じた。振り返ると、これも修行でした」
「とりわけ『典座教訓』という、道元の著作にある言葉『「遍界(<彳扁>へんかい)曾(かつ)て蔵(かく)さず」』に世界観が変わるほど強い衝撃を受けた。世界は何も隠されていない、真理はあらゆる場所に遍在しているという意昧です」
「悟りという真理に行き着く修行の場は禅寺の僧堂だけにあるのではない。遠くの海や山にも、近所の街角にも、台所にも便所にも机の上にもあって、日常のすべての行いの中に真理は隠しようもなく現れている。自分の中にもある。だから、ふだんの行いをおろそかにしてはいけないんです」
「禅師の胸を借りて格闘して本を書き終えたのもうれしいのですが、『正法眼蔵』と深い意味で出合えた。それが得難い収穫でした」
自分が今、立っている「現在地」を知る道しるべを見つけ出したい
 巨人、道元に立ち向かう気力の源は自問自答にある。
「十年近く前のことです。ロンドンの広い公園を歩いているうち道に迷ってしまった。内外の極地や難所を好んで歩いてきましたが、難攻不落の要塞のように立ちはだかる『道元禅師』を書き始めたばかりだったからかもしれません、立ちすくむような不安に襲われた」
「そのとき、看板の地図に赤い印で『You are here』(現在地)とあるのを見つけて安心すると同時に、人生のキーワードに出合ったような気がしました。『お前はここにいる』、つまり人生の中で立っている場所が自分では確認しにくい。だから現在地を知る道しるべが大事なんてす」
「道元禅師に『無常迅速、生死事大』という言葉があります。時はたちまち過ぎ去る。一番大事なのは生死を明らかにすることだ。自分という真理の中に、生があり死がある。この歳になると実感します。一方で、自分の中にも無限の真理が流れているという『遍界曾て蔵さず』をかみしめ、自問自答しながら人生の現在地を確かめる修行を続けたいと思います」
「お堂にこもって座禅を組むだけではない。山歩きだって立派な修行なんです。平たんな道ばかりではなくて苛酷な道もあって、自分の弱さと向き合って瞑想する時を持ちましょう。人生を顧みて、自分の今とこれからを考える手がかりになる。読書もそうです」
人生の精神的な伴侶になる本、「心の一冊」を持つことを勧めたい
 『正法眼蔵』と並んで、中村元の『ブッダのことば』(岩波文庫)も座右の書だ。
「自分の現在地を教えてくれ、生きる力を与えてくれる本を持っている人は幸せです。これから探すのもいい。若いときに感銘した本を心の一冊にするのもいい」
「『ブッダのことば』に出合ったのは二十二か二十三歳のころで、インドを放浪したとき、リュックにたった一冊だけ入れていった。東京の病院で放射線科に勤めていて、妻が初めての子どもを身ごもっていました。レントゲンのフィルムを入れる袋をブックカバーにして、インドを歩きながら読みふけった」
「後年、中村先生にお会いして本の扉に『拝眉(はいび)の栄を喜ぴて』と書いていただいた。古びて変色したこの本は私の宝物です」
「難しい言葉はないのに、読み解くのがとても難しい。今でも読んで、宝石のような言葉を味わいますが、また分からないところが多い。やっと気付いたのですが、『You are here』を教えてくれた一冊でした。回り道しながら、深いがやさしい言葉、当たり前の言葉、自分の言葉を模索する仕事をずっと続けてきたのですから」
十二月十五日、六十歳になった。団塊の世代だ。
「現代は競争社会の真っただ中にあります。経済至上主義で世界と競争し、国内でも社内でも競争してきた。僕たちの世代はそんな世の中を生き抜いてきた。歴戦の勇士であり、屈強の修行者です。心の一冊を携えて、これからは自分だけの人生修行を悠々とたのしみたいですね」 (編集委員 中沢義則)
日本経済新聞(夕刊)2007年12月20日(木)

小説を書いていたい
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 身のまわりのこまごまとしたことは別にして、小説家の私が結局やりたいのは小説を書くことだ。今書きたいこと、今しか書けないことを書いているので、それが死に向かって生きている人間としては、生きているうちにしたいことというわけである。
 私はこのほど400字詰め原稿用紙2100枚をついやした長編小説『道元禅師』を完成させたのだが、9年にわたる執筆期間中、これを書き上げるまで死にたくないと切実に願っていた。
 死ぬきざしがあったわけではないにせよ、命がなければ書けないのであるから、執筆途中では突発事故でも死にたくなかった。
 死ねば、もちろん書くことはできない。書くことが、生きることだったのだ。死と競走するような境遇で書かなければならないとしたら、もっと切迫したことであろう。それでも命のある間に必ずやり遂げねばならないことと思っていた。  どうにか書き上げ、本も刊行したのであるが、今もって私には死ぬような気配はない。私の中に死を感じていたというのではたく、ただ小説を完成させたい一念だったのである。
 執筆期間を9年もかける作品は、おそらくこれが最後であろう。これからは本当に自分の死と競争になってしまう。それでもどんな作品と向きあっている時でも、これを完成させてから死にたいと私は願うのだ。小説を書くとは、生きている間の行為なのである。作品は生者のためのものといえる。
 そうであるなら、私は死の直前まで書いていたい。これで満足して死ねると得心できる作品がおいそれとは書けない以上、わたしはできるだけ長生きしたい。小説を書ける体力と知力と感性とを残していないと、長生きする意味はないから、できるだけ元気でいたいとおめおめ願っているのである。
 生きているうちにしたいことは、今やっていることをそのままつづけていきたいというわけなのだ。
2007年12月9日(日)

足尾の桜
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 東京から足尾にいくには、浅草で東武電車に乗り、桐生でわたらせ渓谷鉄道に乗っていく。渡良瀬川に沿って電車が走っていく、眺めのよい鉄道である。
 森初芳さんと会ったのは、その足尾であった。私は古い友人たちと銅山開発のために荒廃しきった足尾の山に植林しようとし、植林の日を決め、世間にボランティアを呼びかけていた。
 足尾の山は表土さえも失われ、根底的に破壊されている。植林をするには、土を運ばなければならない。ガレ場を掘って、土をいれ、そこに苗木を植える。まず土を運び上げなければならないことが、他の山の植林とは違うところである。  私たちの呼びかけは、庭の木でもなんでもよいから苗を持ってきてください、土を持ってきてください、スコップも自分の分は持ってきてください。その上、参加費1,000円いただきますというものだった。こんな呼びかけでは、誰もこないのではないかと不安だった。
 ある日、植林予定地に田んぼの土が二台分積み上げてある。クヌギやナラやブナの苗がささっていた。名のるでもないので、誰がしたのかわからない。まるで日本昔話の六地蔵の恵みのような話だ。
 後でわかったのだが、それをしたのが森初芳さんだった。少し後に、足尾の植林活動の象徴にしようと、大きな桜の木を職人たちと大型ロータリー車で運んでくれ、たちまちのうちに植えて去っていった。森さんはまことに爽決な男であった。足尾の植林の時期になるとその桜が咲く。
 こうして私は森さんと知り合ったのだ。森さんは登山家で、栃木県勤労者山岳連盟理事で、山岳連盟救助隊副隊長だった。植木屋をやっているが、冬の半年しか働かず、あとの半分はパキスタンのカラコルムあたりにいっている。カラコルムやヒマラヤの六千メートル級の山を幾つも登頂し、足の指二本と手の指六本を凍傷で失っている。
「仲間を遭難で失ったことがあって、遺体を氷河の中に埋葬したことがありました。その時はラッキョウのような涙が出て止まらなかったです。翌年本葬にいったら、二百メートルも離れたところに遺体が流されていて、荼毘に付して遺骨を持って帰りました」
 森さんからはこんな話をよく聞いた。日本の山を知りつくしている森さんと、近くの日光の女峰山に私は案内してもらった。森さんは働く時には徹底して働くが、一年中あくせくすることはしない。途中で人生観を変えた ということだ。  男体山のその奥にある女峰山は、知らないと登山道の入口もよくわからない。しかも道は険しく、山頂近くは四つんばいになって登るほどの厳しさであった。日光修験は男体山と女峰山と太郎山を巡る三峰五禅頂(さんぷごぜんちょう)で、春夏秋それぞれ踏破のコースが決まっている。あまりに厳しい難行のため、室町時代末期の天正年中(1573〜1591年)に中絶してしまったという。女峰山はいかにもやさしそうな名なのだが、実際に登ってみるととんでもなく険しい。しかし、山岳救助隊副隊長の森さんと登れば、安心であった。
 再び森さんと登山をしたのは、茨城県最高峰の八溝山であった。東北新幹線那須塩原駅で待ち合わせたのに、森さんの姿が見えない。ようやくのこと連絡がついたのは、宿にはいってしばらくしてだった。森さんは別の日と勘違いをして、ここから百キロほど離れたところで仕事をしていたのだ。
「これからすぐいくから。二時間か三時間はかかるかもしれないけど」
 電話口で森さんはこういった。今回はいいですよと私がいうと、約束だから絶対にいくといい、夜中に本当にやってきた。車を飛ばしてきたのだ。
 翌日、私たちは予定通りに八溝山に登った。森初芳は信義に厚い友だ。
「お元気ですか」2007年12月号

法隆寺と伊勢神宮
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 私は毎年正月に奈良の斑鳩の法隆寺にいき、千三百数十年つづいている御行(みおこな)いにこの十数年参加させてもらっている。法隆寺の千三百年の木造建築の中にいると、先人たちがつちかってきた文化の確かさを感じる。
 この文化を、私たちは先人から受け継いで、未来へとつないでいかねばならない。檜のもつ重厚かつしっとりとした質感の中で、木造文化は信頼性がある。もしこの建物を近代建築としてコンクリートでつくったとすれば、百年ともたないのである。それが千三百年もちこたえてきて、その先にもつづいていくのだ。
 しかし、日本の森林の現状はどうなのかと考えると、とても安閑とはしていられないのである。日本の建築の代表的な例として、法隆寺と伊勢神宮がある。法隆寺は建てたそのままを、ていねいにメンテナンスして使っている。一方、神道の思想に基づく伊勢神宮は、稲の甦リのサイクルを生きている。米一粒から、毎年八百粒の米が生まれる。米にとっては新鮮さ、新しい生命力が何にも増して重要である。
 伊勢神宮の二十年遷宮(せんぐう)はともに奈良時代の千三百年前に大事業として行われた。この二つのやり方が、対照的ながら、日本文化を後世に残す確かな道といえる。
 二十年遷宮とは、建物や内部におさめられている調度をすべて一新することである。檜材は二十年などという短い耐用性ではなく、本殿の材は別宮や摂社や鳥居や橋として再生される。決して無駄にするわけではない。
 それでは何故二十年なのだろうか。二十年では用材の木も育たない。これは木というよりも、あくまで人間の都合なのではないかと私は考える。
 現代の私たちの寿命は八十年を越える長寿である。伊勢神宮の遷宮がはじまった奈良時代には、日本人の平均寿命は三十八歳ほどであったとされている。五十年も生きれば、立派な長寿であった。三十八年しか生きない人間にとって、技術を習得してもそれを後輩に伝えるために、二十年という時間が設定されたのではないかと私は考える。二十年遷宮では、一人が一生のうち二度はあたらない。しかし、必ず一度はぶつかる。それは技術を後世に残していくために、ぎりぎりの時間ではなかったか。
 法隆寺の伽藍の柱は、すべて四つ割りだという。芯の部分と表皮の部分は、丸柱のまま使うと乾燥が違い、ひびがはいる。これを四つ割りにし、木なりに割れば、乾燥がよくなって割れない。実際、法隆寺の柱にはほとんどひびははいっていない。
 四つ割りにする技術は、今日には伝わっていないという。そんな太い木は存在しないので、誰もやったことがないのだ。現在、法隆寺を建てるのはほとんど不可能であるが、補修はつづけなければならない。かつては樹齢千年を越えるような檜が、日本各地でとれたのだろうが、今はもちろんそうはいかない。だが木がなければ補修もできないのだ。日本の檜でつくられた建造物を補修するのに、外国産の別の樹種でうまくいくとも思えない。なにしろ千年先まで完璧でなければならないのである。
 その補修材として、直径一メートルを超える材を、三百年から四百年かけて育てようというのが、「古事の森」のプロジェクトだ。私が法隆寺で修行中にやるべきこととして発案し、林野庁に話した。全国十箇所で神社仏閣や城や橋の文化財を守るために供しようと、森づくりをつづけている。
 このたび、愛媛県の伊予之二名島(いよのふたなのしま)という森で、植林をしてきた。地元の小学生がたくさん集まった。一本一本木を植え、法隆寺や伊勢神宮など日本を代表する建造物を支える森をつくるというのが、私の夢なのである。
100万人のふるさと 2007年秋号

心の棘/席取り
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 行楽シーズンを迎えて、高速道路インターチェンジのドライブインは混雑していた。それでもみんなトイレをすませ、コーヒー一杯でも飲むと、さっさと出発していく。混んていても、駐車場のスペースは限られているので、そこに入れない車は去っていくから、トイレも店も身動きもできない混雑ということはない。
 ある時、私は犬を妻に預け、トイレをすませて妻と交代して犬の綱を持った。トイレにいった妻を待って、なんとなく歩いていた。そして、大きなテーブルの隅の席が空いているので腰をかけた。がっちりとした木製で、吹きさらしのところに置かれていて、六人掛けであった。すると対角線の位置に坐っている六十年配の女性が、少し強い声でいった。
「あの、娘が今釜飯を買いにいっていて、ここでみんなで食べることになっているんですよ」
 つまり、このテーブルは自分たちが使うことになっているから、どけというのである。誰にそんな権利があるというのだろうか。理不尽なことをいわれているのはわかっているのだが、私がそこに居坐ったなら、いやな雰囲気になるだろう。私はその女性といい合いをする元気はない。それならわけもないことなのて、こちらがどいたほうが面倒はない。
 私が隣りのテーブルに移動すると間もなくして、娘とおぼしき人が釜飯を買ってきた。男二人がどこからともなく現れ、四人が釜飯を食べはじめた。結局のところ、私が最初に坐った席は空いていたのである。
 席取りというのは、どうも自分勝手なものてある。自分も嫌な行動をしないようにと、気をつけなければならない。
 この席取りて、私は嫌な思いをしたことがある。∃ーロッパから東京にいく飛行機は、がらがらであった。私はエコノミーの切符を持っていた。空いていると横になれるので、ビジネス席よりエコノミー席が楽である。客はぱらぱらといるばかりで、飛行機が離陸したらできるだけ早いうちに席を確保しようと私は考えていた。ぱらぱらいる誰もが、きっと同じことを考えていたのだ。
 飛行機は滑走して空に浮かび上がる。まだ赤ランプが点いていたのだが、私は立ち上がり、素早く別の席に移動しようとした。私がその席に着く直前、何かが投げられ、その席のあたりに落ちた。靴だった。
 それを投げたのは、白人の若い男だった。私に席をとられると思ったのか、彼は咄嗟に自分のはいていた靴を脱いで投げたのだ。靴はとりあえず彼の狙いどおりのところに落ちたようだ。
「そこは俺の席だ」
 男は英語でいった。私はいい返そうとしたが、この男のそばでこれから一晩を過ごすのだなと思ってしまった。用心できないやつで、敵にまわすとこちらが落ち着かなくなって眠れなくなるかもしれない。この男と英語でやり合うのも面倒になった。
 まじまじと男の顔を見てから、私は自分の席に戻った。早く動いた私も悪いのだろうが、どうも納得はできず、そのうち忘れた。
 自分は事なかれ主義だったかなと、時々そのことを思い出して私は考えるのだ。結局のところ人を押しのけてまでして生きていきたくないと思いながら、押しのけられてしまったのである。
2007.12 SQUET
三菱UFJリサーチ&コンサルティング(株)

白山と十一両観音
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 白山に私は越前禅定道(ぜんじょうどう)から登った。まだ雪渓が残っている季節で、時どき道が下に隠れて方向がわからなくなった。白山は大きな山で、歩いても歩いても山頂の御前峰(ごぜんがみね)は遠かった。
 美濃の長滝寺からの登山道を美渡禅定道といい、白山比v神社からの登山道を加賀禅定道という。禅定には山岳信仰から山頂の意味もあるのだが、そもそもが心を静めて一つの対象に集中する宗教的な瞑想のことである。釈尊が瞑想によりさとりの境地にはいったその時の姿のことだ。
 普通は座禅をすることを禅定というのだが、白山では山を歩くことを禅定という。身体を−歩一歩険悪な道に運び上げていく。苦しい息を吐いているうち、自我という強張(こわば)りがとれていく。自分という存在は、この大宇宙であまりにも弱々しい微塵のようなものではないかという認識にたどり着く。自分は大宇宙を分子か原子のような微少な存在として形成しているに過ぎないと認識しつつ、さとりの境地である山頂にたどり着く。それが霊山に登る意味なのではないかと、私は思っている。
 白山という大きな自然の曼陀羅の中心に位置するのが、御前峰である十一面観音だ。人々に慈悲をかける仏である観音菩薩は三十三に変相するのだが、何故その一つの十一面観音なのか。十一面観音は頭に十一の観音をのせて、慈悲の光を十一の方向に放っている。この慈悲は人に限りない富をもたらし、すべての生きとし生けるものの命を養う。
 十一両観音の慈悲とは、白山に源を発する川のことではないのかと、御前峰に立って私は感じた。無数の沢が白山から発し、やがてそれが集まって大河を形成する様子は、十一両観音の慈悲を曼陀羅にしてこの大地に刻みつけるようである。加賀には手取川が、越前には九頭竜川が、美濃には長良川が、そして越中には庄川が流れる。これらの川は広大な流域を形成し、そこには無数の命が存在するのだ。
 この水の活(はたら)きを十一面観音といったのだと私は思う。
木村芳文写真集
新・北陸写真風土記『白山の恵に生きる』

全国同じ町並みになった
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 私は旅から旅の暮らしをしていて、地方にいくことも多い。車に乗せてもらい、ふわっと眠って、目が覚める。車窓の外を眺め、はてどこの街だったかとしばし考えたりする。朝ホテルで目覚め、窓の外から街の光景を眺めて、ここはどこだったのかと不安な気持ちで考えてしまう。
 日本の地方の街は、どうしてこんなに同じになってしまったのだろうか。有名な城や寺や神社などが視界の中にあればすぐにわかるにせよ、京都の郊外にいっても、鹿児島にいっても、稚内にいっても、瞬間的に見える風景は区別がつき難い。よくまあこんなに同じ街を全国につくったものだなと、感心するほどである。
 地方都市は第二次世界大戦末期のアメリカ軍の空襲により、ほとんど焼かれてしまった。戦後に急ぎ復興されたために、同じ街並みになったということもあるだろう。実際、京都、奈良、金沢の中心部の古い街並みは、空襲を受けていないために個性的である。観光地として、限りない富を秘めている。
 その一方、空襲で焼け野原になった街は、由緒や奥行きというものが失われてしまい、生活をする利便性はあるのかもしれないが、遠い昔との連続性が断ち切られ、または薄められている。あの戦争がなければ、日本の街並みは現在とはずいぶん違っているだろう。
 もう一つ、街並みを均質にした大きな力は、経済グローバリズムだと思う。今の時代というのは、コストの安いものに価値がある。安くなければ、経済戦争には勝てない。その価値感が私たちの生活の隅々にまで浸透し、コストの安いもので満たされている。一番コストが安いものは、工場で大量生産されたものである。凝った手造りの一品製品では、どうしてもコストが高くなる。コストの安いものは、スーパーマーケットにだけあるのではなく、全国どんな場所にも行き渡っている。商売とは、それぞれの差を較べるのではなく、いかに価格を抑えるかということに尽きてくる。
 かくして、建物さえも、工場で大量生産されたコストの安いものが建ちならび、どこにいっても同じになる。郊外の大規模店は全国チェーン店で、売っているものも全国同じならば、建物も大小はあるにせよ同じなのである。同じ品物をできるだけ数多く揃えるのが、安くするコツだ。
 全国津々浦々に、同じ看板を掲げたコンビニがある。福岡のコンビニに入ろうが、那覇のコンビニに入ろうが、はたまた知床のコンビニに入ろうが、絶対に迷うことはない。商品の配列も同じで、どこに何があるか決まっているからである。売っている商品も、生ものまで、ほとんど同じだ。距離があって運送経費がかかるはずなのに、値段もたいして違わない。
 全国どこでも同じ商品が安く手に入り、商品の配列まで同じというのは、消費者への安心提供で、企業努力である。もちろん問題にすべきことは何もない。  かくして、全国どこでも同じ街並みになってしまった。掲げている看板が同じだから、色彩も装いも同じで、一瞬今どこの街にいるのかわからなくなる。広い駐車場があり、全国の多くの人々が消費しているのと同じ商品を買うことができて、車に乗せていけばもちろん運送のコストもいらない。郊外に建っている巨大店にいけば、生活に必要な品はたいていなんでも手に入れることができ、時間も節約できる。
 街の中心部にある専門店は、資本も売り場もないから品揃えも限られ、コストの面でとても太刀打ちできない。商売が行き詰まり、昼間でも店は開けることのできないシャッター通りになる。全国どこにいっても決まりきった構図である。人は生きていくためには必ず一定の物質は必要で、もちろん安いほうが好ましいのだが、そのことを追求することが時代をつくっていく力となる。大衆が、誘導されたにせよ一つの方向に向かい、街並みをつくっていったのである。
 街の中心部が過疎化する。中心部を活性化しなければならないと考えた行政が、買い物客が郊外にいってしまうのは充分な駐車場があるからだと考えた。街の中心部の道路は狭く、通勤時間には車が走れなくなってしまう。渋滞の解消がなければ、車も入ってくることができないので、商店街の活性化もない。コストを安くするためにも、スムーズな交通は必要であると考えた行政の政策は、都市計画となる。
 つまり、車を走りやすくするため、道路の拡幅をする。これには大きな予算が必要である。少なくとも道路の片側の家を撤去し、新しく建て替えなければならない。もっといえば、少なくとも片側は古い街並みが破壊されてしまうのだ。
 土地を道路に譲った商店は、新しく店をつくって商売をやり直すかというと、なかなかそこには踏み切れない。昔のように客が戻ってくる保障はまったくなく、そもそもが零細な商売だったのである。建物を建て、内装をして、備品を入れるよりも、もっとコストを安く生計を立てる方法がある。駐車場である。世の中に急激に車が増えたため、どこでも車を停める場所の確保に苦労している。駐車場なら、簡単な機械を入れればすむし、月決めの駐車場ならアスファルト舗装をして白い線を引けばいい。これほどコストのかからない投資はない。
 地方都市の都市計画が済んだところは、がぜん駐車場が多くなる。駐車場は単なる空間であるから、街並みとすれば櫛の歯が欠けたような景観となるのだ。
 全国どこでも同じ街並みになったことへの試論を、私なりに書いてみた。どこにいっても同じということは、旅に出てもおもしろくないということである。
国土交通2007.11

保存する明確な意識持とう
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 足尾銅山(栃木県)による渡良瀬川の水質汚染が顕在化したのは、明治10年代後半(1885年ごろ)とされる。アユやハヤの姿が見えなくなったのである。明治20年には魚がまったくいなくなり、沿岸の漁業者は生活が立ちゆかなくなった。明治23年に大洪水が起こって汚染が拡大し、栃木、群馬両県の7郡28ヵ村、1650余町に麦や陸稲や豆の立ち枯れが起こり、広く農民たちを困窮させた。源流にある足尾銅山が、銅、硫酸などの生物にとって有害な物質を大量に排出しだからである。
 これが世にいう足尾鉱毒事件で、日本の大規模公害の第1号である。その後も大洪水が何度も起こり、被害を拡大させていった。鉱山開発のため源流域の森林が乱伐され、雨が降るたび表土さえも流れ出し、保水力が失われていったからである。
 生活にも困るようになった農民は、「押し出し」(大挙請願行動)をし、警官隊に阻まれ投獄されたりした。当時、衆議院議員であった田中正造は、農民救済のため奔走し、帝国議会でくり返し演説をする。その一つの論点が、渡良瀬川の「治山治水」である。山の樹木を守ることが治水になるということを論点にしようとしたのである。しかし、明治政府はそれを理解せず、富国強兵のための銅山の事業を強く推しすずめていく。
 鉱毒問題から治水問題への展開は、歴史的にも大きな出来事であったと私は思っている。田中正造が議員を辞職して明治天皇に直訴をしたのか明治34年で、その約100年後に私たちは生きているのだ。
 「足尾に緑を育てる会」をつくって、表土さえも失い自然の治癒力では緑が回復しない足尾の山々に植林をはじめたのは、田中正造のやり残したことを私たちの手で少しでもやろうとしたからだ。14年間ほど植林をし、植えたところは緑がかなり復活した。現在、私たちは久蔵沢の緑化に取り組んでいる。久蔵沢は足尾鉱毒事件の中核に位置する足尾銅山製錬所の上流で、煙毒により地上から消滅した久蔵村があったところだ。
 緑化活動をしながら、私には思うところがあった。足尾の山々を緑にするということは、足尾鉱毒事件の痕跡を消すことではないのかということだ。ガレ場になって岩が露出し、どうしても植林のできないところがあるから、本当は心配はない。ただ、歴史過程を保存することは生きた教材を得ることであり、未来のためにも必要である。
 足尾には消えつつある歴史の痕跡がたくさんある。日本の近代化の象徴ともいえる足尾銅山製錬所は、巨大なモンスターの風貌で岸辺に残っているが、未来に生きる子供たちのためにぜひ残したい。他にも坑道や坑口や社宅や、このままではあと数年で完全に消滅してしまう建造物は多い。今のところあたり全体が歴史博物館のようなのだが、保存するという明確な意識がなければ、近い将来にきれいに消えるだろう。歴史を消すとは、未来を消すと同じことだ。
 今年9月、栃木県が世界文化遺産の候補地公募に足尾銅山を提案したが、これらを残すために世界遺産になるというのも一つの方法である。世界遺産というと、観光資源のイメージがわいてくるのだが、観光客がやってきてもこなくても、私たちはこの道を歩いてきたのだということをたえず知る必要がある。
 私の念願をいえば、足尾に公害情報センターのような施設ができたらいいと思う。誰かを糾弾するような施設ではなく、水俣病など今も進行する世界中の公害情報がここに来れば学習できるという、先進的な情報センターだ。これができた時、足尾の歴史からの本当の回復があるのだと、私は確信している。
朝日新聞2007年11月15日(木)

鏡花の女性崇拝
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 鏡花には、幼くして母を喪うた少年が母の面影を求めて年上の美しい女性を慕うという構造を持った作品が多い。鏡花の描く女性は、たいてい薄幸の美人である。もちろんそれは、九歳で妹の出産がもとで享年二十八歳でなくなった、母鈴の面影を求めていることは間違いない。

「五色の翼」

 「化鳥」は鏡花がはじめて試みた口語体の小説で、少年は母と二人で暮らし、空想の中で化鳥を求めている。化鳥はこんなふうに描かれる。
 「大きな五色の翼があって、天上に遊んで居る美しい姉さん」
 少年はその鳥を求めて鳥屋にいき、奥の暗い棚のほうをじっと見たりする。翼の生えた美しい人は見つからない。 天上に遊んでいるんだから籠の中には居ないかもしれず、裏の田んぼにいって見ておいでと母にはいわれる。夢と現との境界がないのが鏡花の世界で、時折夢が現実の中に入ってくる。「化鳥」は実際に母が登場する鏡花には珍しい作品である。実際の母とは現実のことだ。暗い田んぼに落ちそうになって、背後から不意に母がしっかり抱いてくれ、少年は気づくのだ。
 「『母様!』(おっかさん)といって離れまいと思って、しっかり、しっかり、しっかり襟ん処へかじりついて仰向いてお顔を見た時、フット気が着いた。  何(ど)うもさうらしい。翼の生えたうつくしい人は何うも母様であるらしい。」

現世と自在に行き来

 鏡花は書くことによって、幼くして失くした母と出会っている。母と出会うために書いているのだといってもよい。すでに冥界にいった母を求めて、鏡花は現世と冥界とを自在に行き来する。その自由さが文学なのだ。この世とあの世とは連続してつながっていて、生きとし生けるものも、異類となったものも、分けへだてなく存在しているのが鏡花の世界なのである。
 鏡花の描く女性はすべて母性を露わにしている。現実が思うにまかせないなら、怪異や霊異を現出させて動かす。女性が中心に存在して、すべてを支配しているのが、鏡花の世界なのである。
 若くして死んでしまった母のいるところは、氷のように冷たくはなく、廃墟のように荒涼としているのではないという根本認識が、鏡花を支えている。「天守物語」や「夜叉ヶ池」の女たちは、時々現世に出現したりもするが、天守閣や池という異界で生彩を放っている。死の世界に存在する母への思慕の念の強さが、鏡花に異界という生き生きとした場を与えているのだ。

すべての女性は母

女性たちは崇高で美しくなければならない。高い霊性を持つ女性をおとしめるのは、男性が性的な欲望を持って近づいた時である。そのような下種な男たちは、「高野聖」でのごとく、ひきがえるや猿や馬に変えられてしまう。女性は触れることもできない霊的な存在であるべきなのである。何故なら、すべての在は母だからだ。
 鏡花は女性崇拝、もっというなら母性崇拝の作家である。
北國新聞2007年11月6日(火)

私訳歎異抄」五木寛之
何処までも平易に「私」を捨てた「私訳」
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 「歎異抄」の中で私が好きな場面がある。弟子の唯円が、師の親鸞に念仏をしていても心からの喜びが湧いてこない、自分は信心が足りないのだろうと告白をする。その部分が五木寛之氏の「私訳」ではこのように現代語化される。
 「おはずかしいことですが、じつは念仏(ねんぶつ)しておりましても、心が躍(おど)りあがるような嬉(うれ)しさをおぼえないときがございます。また一日でもはやく浄土へ行きたいという妙(せつ)なる気持ちになれなかったりいたします。これはいったいどういうわけてございましょう」
 こうして引用していると、これなら万人の言葉であり、私自身がこういってもなんの不思議もないのだと思えてくる。凡夫の言葉であり、誰でもいいそうなことではあるが、実際にはめったにない得難い問いである。何故なら、人はここまで率直になることが難しいからだ。まして長いこと親鸞のそばにあって修行してきた弟子なら、矜持(きょうじ)もあるだろうし、なおさらのことである。
 私は思いだす。もう何年も前、子供が大人に本質的な質問をしたことがある。  「人はどうして人を殺してはいけないのですか」
 大人は誰一人この問いにまともに答えることができなかった。あまりにも当たり前だという先入観があって、思考はそこで止まっていたからである。
 親鸞ならどう答えたろうか。唯円の問いは、物事の本質を柔らかくついている。疑いのない信仰心はそんなに簡単に養うことはできないのである。唯円の問いは、日常的な風を装っていながら、魂の深みから発せられた叫びなのだ。五木さんの叫びであり、私たち多くの人の叫びといってもよいのだ。
「そうか。唯円、そなたもそうであったか。この親鸞もおなじことを感じて、ふしぎに思うことがあったのだよ。
 しかし、こうは考えられないだろうか。それをとなえると、天にものぼるような喜びをもぼえ、躍(おど)りあがって感激する念仏であるはずなのに、それほど嬉(うれ)しくも歓びでもないということは、それこぞ浄土への往生まちがいなしという証拠ではあるまいか。
 よいか、喜ぶべきところを喜べないのは、この身の煩悩のなせるわざてある。わたしたちは常に現世への欲望や執着にとりつかれた哀れな存在であり、それを煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫という。
 阿弥陀仏(あみだぶつ)は、そのことをよく知っておられて、そのような凡夫こそまず救おうと願をたてられたのだ。そう思えば、いま煩悩のとりこになっているわたしたちこそ大きな慈悲(じひ)の光につつまれているのだと感じられて、ますますたのもしい気持ちになってくるではないか。(後略)」
 流れるような文章に、もっともっと引用したいという誘惑にかられる。この平易さは、またなんとしたことであろうか。平易なのだが意味は深く、意味をとろうとして何度も読み返すことになる。読み返すごとに、ほんの少しずつだが自分が深化していくような気分があって嬉しいものだ。
 仏教に関する書物は、時に難解である。読誦する経典はインドから伝わったものが、中国で漢訳されたものを日本ではそのまま音読しているので、そもそも聞いただけでは意味はわからない。しかも漢語には独特の美しさがあり、それに酔ったりもする。
 経典はわからないからありがたいというものではない。修練して聞く人に心地よく読誦する僧侶だけのためというものでもない。万人に開かれ、すべての人にその意味が伝わるものでなければならない。
 親鸞の語ったことを弟子の唯円が書き残したとされる「歎異抄」は、この書物の持つ深淵はともかく、もともと平易な文章で書かれたはずなのである。難解に感じられるのは、言葉の上からだけいうなら、鎌倉時代の文語体だからである。それならば今の時代のすべての人が理解できるよう、現代語訳をする必要がある。
「『私訳 歎異抄』とは、私はこう感じ、このように理解し、こう考えた、という主観的な現代語訳である。そんな読み方自体が、この本の著者、唯円が歎く親鸞思想からの逸脱かもしれない。そのことを十分、承知の上で、あえて『私』にこだわったのだ」
 五木氏は「まえがき」でこのように書くのだが、すぐれた思想書には人生を懸けて向き合わないわけにはいかず、「私」か出るのは当然のことである。「私」を消したような態度は、学問の世界では成立し得るかもしれないが、生身の生活者の上には空疎というものだ。五木氏のこの志向は、親鸞と唯円への思慕がむしろ感じられる。このように謙虚にしか、親鸞には向き合えない。「私訳」ではあるが、限りなく自己を消した上での「私訳」である。つまり、「歎異抄」を現代文に訳そうとすれば、「異ることを歎く」という意味のとおり、唯円が恐れていたことが必然的に派生する。そのことを呑んだ上での、「私訳」なのである。  五木氏には覚悟の書であると私は感じる。隅から隅まで平易な言葉に置き換えていくのは、もちろん親鸞がそのように語り、唯円がそのように記述したからだが、私たちの前では五木氏がそのように訳したからだ。
 ここまで書いてきて、私は前に引用したその先のことが気になる。煩悩のせいで私たちには浄土を慕う心がおきないのだと、親鸞は説く。どのように思おうと、私たちは必ず死に、そして必ず浄土に迎えられる。
「はやく浄土へ往生したいと切(せつ)に願わず、この世に執着する情けないわれらだからこそ、阿弥陀仏(あみたぶつ)はことに熱い思いをかけてくださるのだ。
 そう考えてみると、ますます仏の慈悲の心がたのもしく感じられ、わたしたち凡夫の往生(おうじょう)はまちがいないと、つよく信じられてくるのだ。(後略)」
 念仏するたび喜びが湧き上がってきて、一刻も早く浄土にいきたいと願うのは、凡夫としての煩悩が足りず、浄土へ救われるのが後まわしになる。それは困ったことなのである。逆説でいっているのではない。レトリックなど、最も遠いものである。
 易しく語ることのほうが困難なのだが、「私」を捨てるような形で何処までも平易に語る。それが五木氏の「私訳」なのである。
メディアファクトリー
「ダ・ヴィンチ」2007年12月号

「少欲知足」ということ
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 このところ、鎌倉時代の禅僧道元の一代記を、永平寺の機関紙「傘松」にこつこつとつづけてきた。毎月二十枚の原稿を書き、百回になった。足かけ九年かかったことになる。これだけでは足りず、あと百枚書き足して仕上げたのが、「道元禅師上・下」(東京書籍)である。全部で二千百枚の小説で、全体的に長いものが多い私の作品の中でも最大の長編小説だ。
 これを書き上げるまでは死にたくないなと私は切実に思ったのだが、書き上げてみると死にそうな気配はまったくない。このところ道元の著作にひたってきて、深い影響を受けてきた。その道元が今日の私たちが直面する環境問題に大いに関わることを説いているので、そのことを書いてみたい。

身心整え、安楽な境地
 道元は主著「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」を百巻にしたかったようだが、九十五巻で尽きてしまった。その最後の巻が『八大人覚(はちだいにんがく)』である。これは偉大な人が覚知する八つの真理ということであり、釈迦の最後の説法といわれている。
 八つのうちの第一が「少欲(しょうよく)」であり、第二が「知足(ちそく)」である。
 多欲の人は名利を求め貪(むさぼ)るから、苦しみ悩みが多い。少欲の人は求めることなく、欲がないので、患(わずら)いはない。
 少欲の人は自分を曲げて他人にへつらったり、他人の気に入るようなことはしない。少欲の人は自然のうちに身心をおさめ整え、身心の欲するままには行動しない。
 苦しみと悩みから逃れたいのなら、「知足」を観ずるべきである。知足の人は住むに家なく、地上に眠っても、なお安楽である。不知足の人は、天の御殿にあっても満足はしない。不知足の人は富んでいても貧しく、知足の人は貧しくても富んでいる。不知足の人は五欲のために常に悩み苦しむから、知足の人は憐(あわ)れみで見られる。

欲望が生んだ温暖化
 「正法眼蔵」の主旨を現代語訳すると、このようである。現代に生きる私たちはたえず欲望を刺激され、あれもこれも欲しい、もっと欲しいと、欲望を飽くなく追求している。無限の欲望が経済発展の原動力だと、経済学でも説かれている。
 その結果はどうであろうか。私たちはいつも経済競争にさらされ、古いものはコストが高いので切り捨てられる。競争は必ず勝者と敗者を生むから、社会的な格差は人にも地域にも広がるばかりである。
 欲望を求めていくあまり、快適な生活ばかり追いかけて、大量の二酸化炭素を放出し、地球の温暖化をもたらしている。原因もすべてわかっているのだが、石油を大量消費する文明はやめられず、いつかは地球は温暖化のために暮らせなくなってしまうかもしれない。
 それならどうすればよいのか。約七百五十年前に道元は「少欲知足」を説いているのである。法華経にもこの言葉はあるから、少なくとも二千年前に賢人がすでに人はどう生きるべきかを説いているのだ。
 足るを知るとは、もちろん簡単なことではない。今や国際語になったモッタイナイも、知足の言葉だ。少しのことで満足することができれば、世の中は変わる。こう書いたところで私自身も「少欲知足」を簡単に実行できるとは思わないが、そうしようという気持ちを少なくとも持っていたいと思う。
下野新聞2007年11月2日

"良き人"となれ
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生きる場所すべてが学び場
香りのうつる”良き人”となれ!
 
 食前の「いただきます」は宗教的であるから、自分の子供には云わせない−最近の学校にはそんな親がいると聞いた。確かに「いただきます」は、他の命を頂きますという意味を含んだ仏教の言葉である。どういった世界観を持つかは個人の自由だが、宗教と聞けば新興宗教のように押し付けで日常生活を邪魔するものだと連想するのだろう。
 給食費を払わない親、「いただきます」を云わせない親、子供ではなく偏見に凝り固まった大人が学ぶことを忘れておかしくなっている。基本的な知識を子供たちに授けることは重要だが、今は知識を持っている人が教育をする資格を持つという時代でなない。現代社会では、大人が子供に教育できなくなってしまったのである。
 先生は教室だけにいるものではなく、どこにでも存在している。犬や虫、川などの自然、そして農業をする人、漁業をする人、商業をする人、そして子供からも教えられることは数多く、我々は学びながら生きていかなければならない。教育とは決して一方通行ではないのだ。
 同じ風景を見ても感じ方が個人によって違うことは当然で、教育の画一化を図るのは間違いである。しかし、今の時代風潮の中で、子供は他人と違うことを嫌い、それがいじめの動機になることさえある。人間の本質は同事で大きな違いはないというのに、なんと心根が貧しいことか。地球上で生きているものは人間だけに限らないのだから、人間同士で支えあい、互いに学ぶことが必要なのである。
 曹洞宗の開祖である道元は、僧堂(座禅をする修業場所)のみならず、人の生きる場所すべてが修行の場であるという思想を抱いていた。あらゆる所に先生がいて、学びの場所は無限である。事実、道元自身は思想の根幹となる「遍界曾て蔵さず」(真理はなにも隠されていない)という世界の見方を名もない中国の老僧から学んだ。
 道元は中国に行った折、手続きに問題があり港の周辺にしか上陸を許されておらず、そこで食材の買出しに訪れた老いた典座(料理をする役僧)と出会っている。勝手に他の土地へ行くことが許されていない道元は喜びを感じ、老僧と様々な仏教の話をした。しかし時間が経つと、典座は役目があるから寺に帰ると告げる。もっと話をしていたい道元が、「科理なんか、若いお坊さんに任せておけばいいじゃないですか。もっと仏教の話をしましょう」と云うと、老典座は「あなたは何も分かっていない。典座の仕事は尊い修行の形だ」と答えた。ネギ、大根、一粒の米に至るまで、自然の恵みや仏の恵みで与えられた食材を心から作った料理を、修行している僧に振舞う。料理とは、自然と人間を結ぶ修行だったのだ。
 後日、道元がお寺で修行していると、別の老典座が真夏の暑い日であるにも拘らず、汗だくになって干し海草を作っていた。道元が「私がやります」と駆け番ると、興座は「お前は私の修行を取るのか」と制した。「いや、こんなに辛い仕事は私がやります」と道元が云うと、「お前は私の修行を取るのか」と老僧は繰り返したのだ。そこで道元は、老興座が修行をしていたことに気付かされる。中国の旅路では、禅の溌刺とした雰囲気の中、道元は様々な″当たり前″に出会ったのだ。
 我々は真理に包まれて生きていながら、気付かないことだらけである。道元は中国から日本に帰ってきた際に、学んだことを問われて「眼横鼻直」(目は横に、鼻は真っ直ぐについている)と答えた。真理は一切隠されていないにも拘らず、当然のことに自発的に気付くのは難しい。知ろうとしなければ、感じようとしなければ、ずっとなにも理解できないままだ。
 すべての事柄は教育と勉強につながっており、無限にある学び場の中では、人生の″良き人″といつどこで出会うか分からない。だからこそ道を求め、謙虚になることが必要だ。
 しかし、学ぶことを忘れて物質的な富のみを幸せだと認識する人が増えている。自己確立だと誤認して、ブランド物で全身を武装する。しかし、ブランドを身に着けているからといって本人はなに一つ偉くはない。どういう生き方をして、どういう人間関係を築いて、人に対してどう優しく接しているのか。こうした態度こそが、本当の尊さである。
 働いてお金を稼ぐことは、本質的には自分のためだ。社会では競争して、勝利のみが追求される。だが、勝ち負けのみに拘るのではなく、他人のために働くという発想が必要なのではないだろうか。家族のために働き、世間のために働き、社会へ布施することが大切である。それが幸せの形だと思う。他人を慈しむ心を子供たちに伝えていくためには、まずは親が他人を慈しむ生き方を確立することだ。拝金主義の大人の背中を見て育てば、子供もただ金だけを追い求めるようになる。子供たちも、親を真似て育っている。
 「露の中を行けば衣が湿る」という道元の残した言葉がある。霧の中を歩いていると自然と衣が湿ってくるように、″良き人″と交わればその人の香りや品格が伝わってくるという意味である。
 100歳を越える禅師として尊敬を集める永平寺の宮崎禅師は、「ただ、師匠の真似をしてきただけなのだから自分はなにも偉くはない」とおっしゃる。ご飯の食べ方、座禅の仕方、経の読み方、草のむしり方、掃除の仕方〜全部を真似してきただけだと云う。真似をすることは簡単ではない。だが、″良き人″の真似を重ねることで、本物に近付いていくのだ。宮崎禅師は、「今の世は、真似をして良い大人がいなくなった」と云われた。
 教育とは難しい。根本的には自分が立派に生きるしか方法がなく、真似されるような大人物になろうと考えることは増上慢だ。しかし、子供は大人を真似て育っていることは事実である。大人も学ぶことを忘れず、傍にいる人々に香りが伝わる″良き人″になることが理想なのではないだろうか。
「力の意志」2007年11月号

人生すべて修行の場/道元禅師の教え
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 「保守のプリンス」ともてはやされた首相が、突然の辞任。身内の争いを勝ち抜いた「背水の陣」内閣は、台頭する野党勢力に決戦を迫られている。すべてのものが危うく、移ろう諸行無常の世。なんだか鎌倉時代と似ていなくもない。天変地異で社会も人心も乱れた。そんな時代に禅を説いたのが曹洞宗の開祖、道元禅師(1200〜1253年)だ。その全生涯を書きあげた作家の立松和平さん(59)に、現代人にも通じる仏の教えを聞いた。  
【大槻英二】

 「いやあ、こんな分厚い本、誰も読まないと思ったら、案外、売れてるみたいでね」
 東京・恵比寿にある事務所を兼ねた民家の2階。著書が書棚に並ぶ簡素な畳敷きの部屋で、立松さんはあの朴訥とした語り口で迎えてくれた。
 「道元禅師」(東京書籍)は、永平寺発行の月刊誌「傘松」(さんしょう)に連載された全100回分に、原稿用紙100枚を書き下ろした上下巻計1120ページにも及ぶ長編小説。読み進むうち、自分が仏典に向かう修行僧になったような世界に引き込まれる。
 「毎月20枚。書き始めたころは、苦しくてたまらなかったんです。道元の生涯には、わからないことがいっぱいある。でも、これは自分の修行たと思ってね。ならば苦しいのは当たり前、楽しちゃいけない。そう思って『正法眼蔵』(しょうほうげんぞう)を読んだり、座禅会に参加したり。道元が見た中国の風景を訪ねたりしているうちに、少しずつ理解できるようになって。苦しみが楽しみに変わってきたんです」
 それは、登山にも似た作業だったという。あそこが山頂だと思って、なんとかしがみついてたどり着くと、その先にまた山が続いていて、本当の山頂はその先にあるはずだということの繰り返しだった。
 道元が、宋の港に着いた時に出会い、後に訪ねてきた老典座(ろうてんぞ)(食事をつくる役僧)に「修行とは一体どのようなものですか」と問う。こんな答えが返ってくる。
 「遍界曽(へんかいかつ)て蔵(かく)さず。この世界のすべてはなにも隠すことはなく現れていますよ」
 その言葉と出合い、立松さん自身も目の覚める思いだった。
 「僕は海や山に行くことが多いんですが、例えば、知床や屋久島に行かなくちゃ、自然は見られないということじゃなくて、真理はどこにでもあるということです。道元は『只管打座』(しかんだざ)(ただひたすら座禅する)を掲げながらも、修行の場はお寺の僧堂だけにあるのではなく、例えば、家庭の台所にも、職場にも、どこにでもあると説いた。毎日毎日、お米をといだり、大根を洗うのが嫌だなと思うかもしれないけれど、実はそれが人生の修行なんだという考え方です」
 ふと、柔選の世界選手権で7度目の優勝を果たしたヤワラちゃん、谷亮子選手のことを思い浮かべた。柔道と育児の両立に悩みながらも、優勝を決めた後、「出産して逆にスタミナがついた」と語った。彼女にとって、鍛錬の場は柔道場の中だけにあるのではなく、出産や育児も修行の一環だったと実感しての言葉だったのではないか。
 「光、万象を呑む」。道元の教えは、月の光のようだと例える。
 「中学生のころの体験ですが、夜、キャンプ場で、月が照っていて、何もかもが濡れているような美しい風景の中にいたことを思い出します。無意識のうちに月光をつかもうとして、突き指をしました。月というのは、手を開くと中に満ちるけど、つかもうとすると、すべて手の中から消えてしまう。仏とは月光のようなものたと道元は言っています。あらゆるものが柔らかな光に包まれていて、誰もそこから逃れることはできないということです」
 そんな道元思想が今こそ求められているのだろうか。
 「仏に祈ったから御利益があって病気が治るとか、金持ちになるとか、そういうことではないんです。ひとつひとつの行いがすべて仏、つまり真理に通していて、その思想に触れること自体が御利益なんです」
 生涯、清貧を貫いた道元。「晩年、『少欲知足』という言葉を残しています。むさぼらず、へつらわない。最小限をもって満足する。もっと欲しい、もっと欲しいと、いくら物があっても満足しない今の世の中だからこそ、この言葉が私たちのキーワードになるんじゃないでしょうか。少欲知足で生きられれば、環境問題はそもそも起こらないし、戦争もなくなりますよ」
 <この濁世は、しかし、清浄なる我が道元さまがお生まれになる下地というべきものです。蓮は泥の中から生じてきますが、泥に染まらず、美しい花を咲かせる。道元さまはその蓮の花なのでございます>(「道元禅師」上巻より)
 そうだとするならば、いまの乱れた世も、道元禅師のような人物が登場する下地が広がってきていると言えるのか?
 「そういう人に、あなた自身がなりなさい、ということですよ」と一蹴(いっしゅう)された。
「四摂法 −−四つの大切なこと、という言葉があります。布施、愛語、利行(りぎょう)、同事です。例えば、天は森に雨を布施するが、何か見返りを求めるわけじゃない。森は川に水を布施し、川は田んぼに、魚に、あらゆる生き物にその水を布施する。田んぼは稲を育て、米を人間に布施する。経済至上主義とは対極の世界にある循環の思想です。要語は人にやさしい言葉で接する、利行は人のために働く、同事は人は皆同じという認識です。この四つの大切なことを実行することで、どんなに汚れきった世の中でも、泥に染まらない菩薩の生き方ができるわけです。なかなかできないことですが」
 9年かげた連載を終えた時、一抹の寂しさを覚えたという。
 「導元の教えをそのままに生きた人は、実は良寛さんてす。
『日本人の作家はみんな、いつかは良寛を書きたくなる』と静かに言われて、そんなことないと思っていたら、いつの間にか書きたくなってね。今、連載を始めたところです。道元禅師を書きあげ、また、コツコツと良寛和尚に向かって歩いてゆく。これも僕の修行なんです」
 和平さんは、名前のごとく、柔らかな菩薩のような微笑を浮かべた。
毎日新聞2007年10月16日(火)

師を求める物語/道元禅師
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 日本曹洞宗の開祖・道元禅師(1200〜1253)。鎌倉初期に貴族の家に生まれ、14歳で出家、宋で悟りを得たのち、永平寺建立、『正法眼蔵』完成など、その生涯と思想に迫る2100枚の長編小説だ。
 道元思想の眼目は「只管打坐(しかんたざ)」。ただひたすら座禅する、という意味。座禅は、悟り到達のための手段ではなく座禅自体を目的とする。
 執筆に9年かけた。最初は書きあぐねた。「なにしろ只管打坐″でしょう。つらくてね。茫漠たる虚実という感じ」。繰り返し『正法眼蔵』を読み、道元が見た景色を求めて中国取材を重ねるうち、「つらさも修行と思うようになった」という。
 「師」を求める物語である。 苦難の果てにめぐりあった宋の如浄和尚を道元は終生師と仰ぎ、その道元を師と慕う懐弉(えじょう)らが志を受け継ぐ。師から弟子へ、受け渡される仏法。立松さんもまた、進行中の小説に疑問が生じると旧知の僧を訪ねて教えを請うたという。
 「現代の道元ともいえる永平寺の宮崎奕保(えきほ)禅師は『自分は偉くない。ただまねしただけ』とおっしゃる。代々の僧は道元禅師の、もっとではお釈迦様のまねをしていた、ということです。一生まねして本物になる」
 「遍界かつて蔵(かく)さず」。世界は何ひとつ隠れていない。真理(仏法)は明らかなのに気づかないだけー。道元が宋で耳にし、自らの思想の根本とした言葉だ。「私の机の上にも、台所にも真理はある。救われたような気がした。これで生きられると思った」と話す。
 「光、万象を呑む」も「遍界−」と同様、真理としての月光が森羅万象を呑み尽くしている、という意。つまり、どこも修行の場所になりうる。行住坐臥(ぎょうしゅうざが)に真理はひそむのだ。
 「光」は立松文学のキーワードでもある。連合赤軍事件を扱った『光の雨』では陰惨な場面と向き合って救いの意味を問うた。厳しい修行を記す『道元禅師』と筆致がどこか似かよう。立松さんが道元にたどりついたのは偶然ではあるまい。
「人の行いはみんな修行。山頂かと思うと、まだその先に山頂がある。道元思想をやわらかく実現した人として今度は良寛さんを書きたくなりました」
毎日新聞2007年9月30日(日)

二荒(ふたら)
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 久々の書下ろしの舞台は日光ですが、立松さんにとって日光とはどんな場所なんですか?
立松 一番大切なフィールドですね。子供の頃から、日光の風景と深く長く付き合ってきたし、男体山は心の山です。奥が深くて、いつ訪れても新しい発見がある。いつか必ず書きたいと思っていたテーマでした。日光の魅力は、何と言っても奈良時代からの長い時間の積み重ねです。日光ほ歴史上、三度読みかえられているんですね。最初は千二百年ほど前、勝道上人という人が前人未踏の山林原野を踏み分け、開山を果たした時です。上人はこの地を観音浄土と捉えた。「二荒」という名も観音浄土の「補陀落」に由来します。つまり上人は、衆生を救う観音に会いに来たんですね。次は東照宮による徳川家の聖地化です。そして、意外に知られていないのは明治以降の欧米人によるリゾート開発。彼らは、魚がいなかった中禅寺湖にさかんに鱒を放流し、アングリング倶楽部を作りゴルフ場も計画した。イギリスの湖水地方に似せようとしたわけです。彼らにとってのサンクチュアリですよ。
 今は観光地になっていますが、どこを切っても血が噴き零れるような生身の歴史があると感じるんですね。土地の霊魂が生きて染み込んでいるわけです。それは、過去から今に至る「精神のリレー」みたいなものだと思います。

 それだけの時間の厚みを描くために、構成もかなり工夫されたんですか。
立松 そうですね。昭和五十年頃を小説全体を貫く時間軸とし、鱒の養殖業を手伝う勝と奥日光の旅館の娘佐代との恋愛を物語の主軸にしました。恋愛といっても、携帯電話もない時代の真っ直ぐで神話みたいな恋愛ですね。そのストーリーに絡むように、勝道上人の開山の苦闘や、「日光の仙人」と言われた朝次郎の姿、日光の緻密な自然、そして満州事変から二・二六事件の頃、アングリング倶楽部要事長だったハソス・ハンターという英日混血の紳士の話を織り込みました。

 ハンス・ハンターは実在の人物ですね。
立松 ええ、実業家です。彼は昭和の動乱期に「混血」という両義的存在でした。その葛藤を抑え、政情に死に物狂いで背を向けて、美しい風景の中で静かに釣りをしていた。これはイギリス紳士の抵抗の形なんです。彼も日光に救いを求めたんだと思う。「日光の仙人」も実在の人で何度も会いました。僕はこの人と彼の息子に、自然の見方を教わったんですよ。熊の話、鹿の話、木の話…。僕は仙人の姿を通して日光の森羅万象を描きたかった。命の力強さと儚い、時に無残だけれど美しい一瞬を、小説として甦らせたかったんです。

 二荒山(男体山)には登られたんですか。
立松 男体山登山は僕にとって大きな体験でした。四年ほど前のことですが僕の体調が悪く、非常に苦しんだのですね。下山中にすっかり日は暮れ、懐中電灯も持っていない有様。要するに慢心していた。遠くに中禅寺湖畔の光は見えるのに、足元を照らす光がないんです。その時、同じように行き暮れ疲れ切った一人のお婆ちゃんを発見した。その人が小さな懐中電灯を持っていたんですよ。僕は心底「救われた」と思いました。でもお婆ちゃんは、自分のほうが救われたと信じて疑わないんですね。これは、救うことと救われることの根源的な体験だったと思います。この体験は小説でも描きましたが、実際、二荒の神様に慢心を厳しく諭されたと感じました。その意味でも僕は救われた。だから、本が出来上がったら、二荒の神様に捧げに行ってこようと思っているんです。
『二荒』 九月二十七日発売
「波」2007年10月号 新潮社

修行と気付き苦しさ克服
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なぜ道元を書くことになったのですか。
「これまで道元の生涯を書いた文芸作品がなかった。そういう思いが曹洞宗のお坊さんたちの中にあって、七百五十年遠忌(二〇〇二年)を前に原稿を頼まれたんです」

道元の生涯には不明な部分もあって難しかったのでは。
「母は藤原摂政関白家の伊子と名前が分かっていますが、父親は久我通親、通具という二説がある。二人は父と子。どちらが父親か分からないが、小説の作者としては、どちらかに決めないといけない。どちらにするかで設定が大きく変わってしまう。ボタンの掛け違いが怖かった。だれもやったことのない仕事ですし、難しかったですね」

順調に書き進められましたか。
「文筆家としては原稿用紙二十枚ぐらいは何でもないですが、道元禅師を書くということはただごとではない。只管打坐の人ですからね。小説は俗世のものでしょう。道元と相いれないんです。苦しくてね、本当に苦しくてね。それで、ある時、これは自分の修行だ。苦しいのは当たり前だと気付いたんです。それからは、楽になりました」

道元と向かい合う日々を過ごして、ご自身に変化は。
「大きな変化がありました。『霧の中を行けば覚えざるに衣しめる』という道元の言葉がありますが、道元の思想、世界観に深く影響されました。いつも『正法眼蔵』をかばんに入れて読んでますし、道元主義者になりましたね」

現代に道元の生き方を伝える意味については。
「道元思想を一言で言えば、生活のあらゆる場が修行だということ。とても現代的です。洗濯も掃除も料理も、すべてが真理に近づくための道であるということ。足るを知るということも説いている。人間は欲を大きくして地球まで滅ぼそうとしているけれど、欲を小さくして得たもので満足すれば、環境問題もない」

結局、原稿用紙二千百枚の大作になりました。
「下調べも含めて足かけ十年、五十代のほとんどを費やした作品です。書き切りたかったし、書いている間は死にたくなかったですね。今度は書き終えるのが寂しくて寂しくて、ずっと書いていたかった」

次はどんな作品を書く予定ですか。
「あと十年で七十歳ですから、体力的にも、もうこれ以上長い作品は書けないでしょう。今は良寛を毎月二十枚書いています。良寛は道元思想の中に生きて、死んでいった人です。何一つ冥利(みょうり)を求めず、こだわらず…。道元を書くことがぼくにとって勉強だったように、良寛を書きながら、また考えることができる。幸せですね」
下野新聞2007年9月25日(火)

知床の森のクマ
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 最近はヒグマが出没する騒ぎがしょっ中起こるものの、私は知床の森を歩くのが好きだ。ハルニレやミズナラの大きな樹木が繁っていて、冬には人を寄せつけないのだが、春夏秋の季節の彩りがはっきりしている。かつては大径木が抜き切りされ、本当のよい木は残っていないという人がいる。それでも私の好きな何箇所かの森は、一人でもそこにはいっていくと自分だけの静寂に包まれる。私には貴重な時間である。
 そこにいく道はない。なんとなくそちらに歩いていき、帰りは方向をコンパスで確かめながら出てくる。森の中には細い道が縦横に通っていて、その道をたどっていくとますます踏み迷うことになる。エゾシカやヒグマの踏み分け道で、獣道と呼ばれている。動物たちと人間とは考えていることが違うので、獣道を歩いていっても、人が望むところに出ないのは当然である。獣たちも森の中をたえず移動している。知床の森の中は動物たちのほうが人間より遥かに多いのだから、森にはいったなら人間のほうで注意しなければならないことはたくさんある。
 草食動物のシカは敵を見たら逃げるしかないので、いつもまわりを窺い、人間との距離を測っている。その距離が近くなった瞬間、素早い身のこなしで逃げ去っていく。危害を加えるわけではないシカは、人間にとって恐ろしいことはまったくない。
 危険なのはクマである。クマも全知全能をつくしてまわりを窺い、唯一の天敵といえる人間が知る以前に、クマが逃げているのだ。いきなり予期せぬ遭遇をすると、クマは前に逃げるより仕方がなくなり、人間を攻撃してくるのである。そうならないようにクマは気をつけているのだから、人間のほうでも不幸は回避する努力をするべきだろう。
 人間は森にはいったら、自分はここにいるのだというシグナルをまわりにたえず送っておく。クマ除けの鈴を腰にぶらさげていくか、もっと明確に存在を知らしめるために、小型ラジオを鳴らしながらいく。何も持っていなければ、アーツとかワーツとか大声を上げながら進むのだが、正直これは疲れる。本来森に住んでいる生きものに対して、人はせめてもの配慮をしなければならないのだ。
 今や原生林はめったに見られないのである。本当の自然の森は、見た目には荒涼として映じるものだ。知床半島の多くの森は、火山の上にできている。流れ出した溶岩の上に薄い土壌がかぶさっているため、どんな大木でも根は案外に浅い。冬は雪が深くて枝に重量がかかり、海からの強風も吹いて、耐えられずに倒れる木が多い。根こそぎになるばかりではなく、幹が途中で折れる。手入れのよい人工林を見慣れた目には、知床の森は死をも連想させる荒涼さを感じさせるものだ。
 森を抜けると、海岸には番屋がある。猟師たちが漁をするため生活する場所で、春はホッケ、サクラマス、トキシラズ、夏はカラフトマス、秋にはアキアジを定置網でとる。私は知床の森と海に二十六年ほども通いつづけ、森羅万象に接して、気の向くままに写真を撮ってきた。今度写真展が開かれることになり、この何日かポジフィルムを集中して眺めてきた。
 改めて、クマの写真が多いことに気づいたしだいである。知床の奥地に番屋ができたのは昭和三十年代後半で、漁師たちもたえず出没するクマが怖くて、姿を見かけるとドラム缶を叩いて近づけないようにした。たくさん出ると、ハンターを呼んで射殺した。一日に三頭を殺したこともあったそうだ。一頭を殺すと別の一頭が出てきて、きりもない。そのうちにクマは漁師に対して悪いことを何もしていないことに気づいた。漁師は海から魚をとればいいのだし、クマは森や海岸で生きられればよいのだ。クマの世界を侵しているのは自分たちだと思い至った漁師たちは、クマを撃つのをやめた。
 クマからも人間からもお互いが恐ろしいという記憶が消えるだけの時間を待たねばならなかったが、同じ空間でクマはクマを生き、人間は人間を生きるようになった。つまり、人間がそばで仕事をしていてもクマは気にせず、人間のほうでもクマがそばを通ってもそのままにしている。いや気にしないというのではなく、知らんぷりをしているといったほうがよい。お互いを内心では意識しながらも、余計で危険な一歩は踏み込まないようにしているのである。
 そこは不思議な世界だ。漁師の船に乗せてもらったり、クレーンの修理や道路修繕に向かう友人とともに私はいくのだが、望んでも望まなくてもたいていクマがいる。長玉の望遠レンズに三脚をつけて撮る暇はまずないから、せいぜい二百ミリレンズしか使わない。またそれ以上のレンズは必要としない。そのつど楽しんで撮っていた写真を、二十六年の歳月を一瞬に凝縮して見直すと、クマの日常生活というものが写っている。雄グマは一頭でいつも流れ歩き、種をつけられる雌グマは冬眠中の穴で出産する。それから一頭ないし二頭の子とともに、母はそのまわりで生きるのである。母と子はいつもくっついていて、子は母のやることをすべて真似る。母がするのは餌をとることで、子供は生きる方法を学ぶということになる。ころころした子の様子はいかにも可愛い。母子は二年間生活をともにするのだが、二年目になるとどちらが親でどちらが子か大きさも一見してわからなくなるものの、子は稚拙で川を溯上するサケをなかなかつかまえることができない。
 結局、私は思うのである。クマの最終的な望みは幸福に暮らすことで、それは私たち人間もなんら変わらないのだ。
山と渓谷 2007年10月号 山と渓谷社

われ思う仕事と本当の幸福
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 ある日、妻がしみじみとした口調でこういった。
「私が一番よかったのは、あなたが市役所に勤めている時。朝起きてお弁当つくって送り出してしまえば、夕方まて帰ってこなかったもの。昼間はどこで何をしているか、はっきりわかっていたし」
私は宇都宮市役所に勤務していて、郊外の団地に住んでいた。妻がつくってくれた弁当を荷台にしばり、自転車で十キロの田んぼの中の道を毎朝通勤した。収入も安定していたし、決まった休暇もあり、妻は自由な時間を使うことができて、幸福だったというのである。
 私が市役所を退職したのは、もう三十年も前のことなのだ。当時の同僚たちはそれなりの地位になり、定年退職をむかえようとしている。三十年たってもずっと付き合っている友人たちが故郷には多く、家族ぐるみの付き合いだから、いつもあくせくしている私への批判として、先の妻の言葉がでできたのである。
 私は三十歳で市役所を退職し、紆余曲折はあったにせよ、小説家という自由業になったのだ。自由業になり、毎日決まっていくべきところはなくなって、百パーセントの時間を自分の思うように使うことができるようになったのか。
 とんでもないことである。仕事がなくなって家族を飢えさせるようなことになったらどうしようと、いつも前のめりになって走ってきた。きちんと休みをとることもできず、土曜日も日曜日も祝祭日もなく、始業時間も終業時間もなく、早朝から深夜まで働いてきた。現在もそうなのである。
「フリーランスとは、使うほうがフリーであって、使われるほうはまったくフリーではない。フリーランスに自由な数量があるのは、その仕事を受けるか受けないかだけだ」
 私の友人でこういったものがいた。まったくその通りである。いざとなったら減収を承知の上で働かないことはできるのだが、私たちの仕事は一度断ると、次ということはなかなかないものである。だからつい働き過ぎてしまう。
 そんなことが根底にあって、先の妻の言葉につながるのである。世間ではそろそろ定年にさしかかる年代なのだから、退職金もないし、年金の給付もずっと先で、しかももらえるのかもらえないのかわからないにせよ、そろそろゆっくりしたらどうかとの妻の言葉なのだ。家族のためとはいっても、子どもたちは外に出て所帯を持ち、家には妻と私の二人しかいない。だからもう落ち着いて、休むべき時には休んだらどうかと妻はいう。前へ前へとのめるように走りつづけるような年でもないということなのだ。
 私もそう思う。身すぎ世すぎの仕事はなるべくつつしみ、本当にやりたい仕事、人のため世のためになる仕事ができるよう、心がけたいと思う。あと何年生きられ、そのうち本当に仕事ができるのは何年かと考えると、無駄なことはしていられないと感じる。
 宇都宮市役所に勤めていた同僚の多くは、中学校や高校の同級生でもある。だから生涯の付き合いをしているのだが、私は彼らと同時代を生きてきたという思いがある。若い時はともかく、彼らはある程度の地位になると、家族もかえりみないほどに働いたことを私は知っている。責任のある地位になればなるほど、誰でもそのようにしなければならない。
 そのうちの一人が定年をむかえる時期が迫り、市のよりいっそうの幹部になるようにとの話を受けた。彼は私とその話になった時、はっきりといった。
 「ここまでやったんだから、もういいだろう」
 人材を惜しも気持ちがまわりにはあるのだが、彼は社会的な栄達よりも、身のまわりの小さな幸福の道を選んだのである。彼らや私たちの世代は親が介護を必要とする年代になり、その負担も多くなってきた。家族のほうを向いて生きなければならない条件になってきたのである。
 詳しくは聞かなかったが、どうも彼は朝、父親のおむつを交換してから出てくるようである。彼の父親は地方の名士というべき人物で、彼自身も尊敬していた。そうではあるのだが、人は誰でも年をとることを防ぐわけにはいかないのだ。私自身も、私と妻のそれぞれの母親の介護をしているのである。
 人の本当の幸せとはなんだろう。働いて働いて寝る間も惜しんで働き、家族もかえりみることもなく働いて、一体何を求めているのだろうと疑問に思う。私がそのような年代になったからかもしれないのだが、時代に流れる空気もそのようになったと感じる。働いて豊かになったという実感はあっても、せいぜいが物質的な富を得たということで、それが人の本当の幸福ではないということがわかってきたのである。
ひろばユニオン 2007年7月号

貧者の一燈の力
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 「貧者(ひんじゃ)の一燈(いっとっ)」という言葉の語源を知りたくて、「広説佛教語大辞典」(中村元著 東京書籍)を引いた。このように書かれていた。
「貧しい生活の中から供養する一灯は、富んた者の万灯にもまさった功徳があること。国王(Ajatas'tru王)の献した万灯は風に消えたり、油がつきてなくなったが、一老婆の献じた一灯は消えなかった、という説話が、『阿闇世王受授決経』に出ている。 また同じ辞典で「貧女(ひんしょ)の一燈(いっとう)」を引くと、こう書かれている。
「貧しい女が仏にささけた一灯にははかり知れぬ功徳があるという話。貧者の一灯に同じ。形式的供養より、たとえわずかてあっても心をこめて供養することがいかに尊いかを説く。『樵談治要』『賢愚経』」
この言葉が気になったのは、私たちか今の時代に対して何かできるとしたら、「貧者の一燈」しかないと思えたからた。毎日を生活人として送っている私たちは、生きることにほとんどの力を使いつくしている。生活の中で、ゴミの分別収集に協力したり、太陽光発電をしたり、車を使わない生活はできないのでせめてアイトリング・ストップをしたりしている。それがどんな効果をもたらすかよく知らなくても、せめてできることとしてやっている。
  一人一人の力はあまりにも小さい。しかし、多くが集まれは、かなりのパワーになる。ゴミを無差別に捨てていたのでは、リサイクルもできず、身のまわりはたちまちゴミの山となってしまうであろう。アイトリング・ストップをしても、車を使わないのではなく、二酸化炭素を排出する量は膨大であることに変わりはない。しかし、朝エンジンを無駄にかけないと心掛けるだけで、生活態度は変わる。そこから得られる影響は、太陽光発電や風力発電にもつながっていき、新たな技術革新も行われ、多くのことか得られるであろう。
「貧者の一燈」は、はかり知れないパワーを持っている。阿闇世王がとんなに富と権力とを持って万燈を灯そうと、風に吹かれれば火は消えるし、油がつきても火は消える。貧者はたった一燈しか供養しなくてもその火を見守っていくことができるのてある。
私は幾つかの植林ホランティアをしている。その−つの、鉱山開発で表土さえも失われた足尾の山に木を植える事業は、公共機関の力を借りているわけではなく、まったくの民間ボランティア、つまり一人一人の布施によって行われている。その呼びかけは苗と土とスコップを持って、植林の現場にきてくださいというものだ。できたら年会費千円を払って、「足尾に緑を育てる会一の会員になってくださいと呼びかけている。
  一人一人がそこに寄せる力は小さいが、この十数年でほぼ六万本の植林をした。植えられたところは、確実に緑が甦っている。最終目標は百万本の植林をして足尾に緑を取り戻すことである。まだまだ道は遠いのであるが、パケ山は少しずつ緑に染まる。森は確実に回復している。
これも「貧者の一燈」の力である。一本ずつ持ち寄った木が、やがて山を緑にするはずである。
総本山善通寺

よりよく生きるために
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 先程の政府の発表では、日本のカロリーベースでの食糧自給率が40パーセントを切ったということだ。その一方で、中国をはじめとする輸入農産物の安全性が問われている。このまま日本の農業が活力を失っていけば、輸入食品が農薬で汚染されているなどということはいえなくなり、どんな食糧であってもないよりましだなどということにならないとも限らない。
 どうも未来はただ明るいというのではなく、彼方知れずの要素をますます強くしているようだ。唯一それを将来の頼りにといってもよいほどに給料から払いつづけてきた年金も、無条件で私たちの未来を支えるというものではないようだということがわかってきた。
 それならばどのように生きるのか。誰にも向けられた時代の問いなのだが、答えが簡単にわかるはずのことでもない。未来はいつも混沌としているものだが、このところことに混沌の度合いは強くなったようである。
 こんな時代に定年を迎えるとは、どういうことなのだろうか。ずっと積み立ててきた年金が危ないなどといわれても、どうしてよいかわからない。このところの時代の動きを考えてみるなら、あなたまかせではなく、時代は自分の手で切り開かなくてはならないということである。自分の人生を自分できちんと設計し、自分でつくっていく。当たり前のことではあるのだが、もうその方法しか残されていない。
 自分の手で人生をかち取るとは、なんと魅力的ないい方だろう。私たち「認定NPO法人ふるさと回帰支援センター」は、自分の道を切り開いて生きようとする人を応援する。そんな人こそこの国には必要だと思うのである。
 今必要なのは何か。若い体力ももちろんだが、若さの力はテクノロジーが代わることができる。賢人の知恵は、内面に蓄積がなければとても得ることはできない。その知恵を得るには大変な時間がかかり、その人の生涯の多くが必要とされるのだ。別のいい方をするなら、その知恵を持っているのに生かさないのはもったいないということだ。
 一人一人がよりよく生きるようにと、私たちは呼びかける。そのことがすなわち、この国をよりよい国にするということなのである。
認定NPO法人ふるさと回帰支援センター

こころにひびくことば
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流れる水は先を争わず。
 私の座右の銘である。いつも自然体であるがままにいようということだ。自分だけ少しでもよくなろうと思い、 無理をして先へ先へと急いでいくとする。結局人を押しのけることになり、そこから争い事が生まれてくる。水のように流れていけば、この世はすべてうまくいく。流れる水は一緒に流れているだけで、まわりを押しのけているわけではない。どんなに急いでも、まことに円満にこの世の摂理の中におさまっているのである。人の生き方も、そのようにありたいものだ。
PHP 2007年9号

白瀬矗への敬愛
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 南極の大雪原に立つと、この激しい風景をひたすら目指してきた白瀬矗(のぷ)という人物のことがしのばれてくる。今でこそ機械の力に囲まれて行くことができるが、白瀬は人と犬の力で南極点に到着しようとしたのだ。
 もちろんほぼ同時期に南極点に向かった、ノルウェーのアムンゼンもイギリスのスコットも同じようなものであったが、彼らには国家と国民の厚い支援があった。白瀬は大隈重信を会長とする南極探検後援会が義援金を集めたが、国家の実質的なバックアップは皆無であったといってよい。木造帆漁船を改造した開南丸も、東郷平八郎に命名されて名前こそ立派だが、204tしかない貧弱な船であった。スコット隊のテラノバ号は750t、アムンゼン隊のフラム号は402tと、比べものにならない。
 開南丸がロス棚氷の沖に到着したとき、アムンゼン隊のフラム号が沖に停泊していて、乗組員たちはよくあんな小さな船でここまで来たなとあなどった。だがそのうちその冒険心の高さと操船技術の巧みさに、尊敬の念を抱くようになったとの話が伝わっている。内陸を探検するのに、白瀬隊は犬29頭だけだったが、スコット隊は犬30頭、馬19頭、モーター付きの機械ぞり2台、アムンゼン隊は犬116頭と、陣容については比べものにならなかった。それでも白瀬は勇躍として南極点に向かったのである。
 もちろん最初からここまで条件の差があるとも思わず、実際に探検が始まってからも知るよしもなかったろうが、人跡未踏の極地に至ろうとするには、精神主義も必要であったはずである。白瀬に限らず当時の探検家は誰も、北極を目指していた。しかし、白瀬が48歳の1909年にアメリカの探検家ピアリーが人類で初めて北極点の踏破に成功し、探検家たちの目は南極点に向けられることになる。実際に白瀬がロス棚氷に到着して探検にかかるのは50歳のときである。長い準備と雌伏の期間があったのだ。
 白瀬は11歳で北極点探検を志したのだとされている。そのときに有名な五つの戒めを心に誓った。
 一 酒を飲まない
 二 タバコを吸わない
 三 茶を飲まない
 四 湯を飲まない
 五 寒中でも火に当たらない
 こんなことは私自身にはとてもできるとは思えないが、白瀬はやりきったとされる。しかも、南極探検がすんだ後にもこの禁止事項を守ったということだ。  こうして極寒の地に備えを怠らなかった白瀬であるが、すでに北極点に到達されたと知るや、世界の探検家たちと同時に反転して南極に向かう。その際には酷暑の赤道を越えていかねばならない。無風地帯で足止めされた。そのため頼みとするカラフト犬のほとんどが死んでしまった。寄生虫が原因だとされている。また犬の餌も腐った。白瀬にしても、赤道を越えていくという発想がもともとなかったのである。
 もちろん当時の船は砕氷船ではなく、氷をよけながらその間を縫っていかなければならなかった。悪戦苦闘した白瀬がロス海の鯨湾に到着したのは、1912年1月16日である。アムンゼンは前年の12月14日に人類で初めて南極点に到達し、スコットはその34日後の1月17日に南極点に至っている。白熱のレースが終了してから、白瀬の南極探検は始まったのだ。
 スコットは南極点にすでにノルウェー国旗が翻っているのを見て絶望し、帰路に燃料と食糧が尽きて全員が遭難死する。燃料と食糧が蓄積されていた補給地点までわずか18kmだということだが、みな限界の行程をたどっていたのだ。南極は夏とはいってもそれほど過酷なのである。
 白瀬はフラム号の乗組員からアムンゼンの南極点到達を知らされていただろうが、2月20日にとりあえず5人の突進隊が棚氷の上に上がり、内陸に向かって進んでいく。帰路の食糧のことを考え、1月28日に南緯80度5分のところまで行って撤退する。
 白瀬はアムンゼンとスコットに次ぎ、南極探検において第三の男である。白瀬はほかの2隊に比べれば貧弱な装備しかもっていなかったのだが、よくそこまで行ったものだと思う。
 私は南極の大氷原に立ち、白瀬とその仲間たちがいかにすごいことをなしたか、実感した。地図もない時代に、クレバスに用心しながら犬ぞりで進むのは、大変な冒険である。もしクレバスに落ちたら、救助隊がいるわけでもないので、絶望的である。白瀬の冒険心を支えていたのは、未知のものを見たいという探求心であったと思う。領土的な野心があったのだと言う人もあるが、確かに領土拡張の時代ではあるにせよ、白瀬の背景には国家は全くなかった。帝国議会は3万円の経費援助を決定するのだが、政府からは支払われなかった。白瀬を支えたのは庶民からの義援金であり、白瀬自身の後半生は借金を返すために極貧の生活となる。
 未知の世界を知り、真理を探究しようという精神は、もちろん現代の南極観測隊員の一人一人に受け継がれている。南極条約によって領土権が認められていない今日は、探究への欲求がますます純粋な形で表れていると思う。南極は温暖化やオゾン層破壊など悪化していく地球環境にとっては、ますます重要な場所になっている。地球温暖化問題の聖地といった趣を強めている。だからこそ、南極では先端的な研究や地道な観測も含めて、継続されていかなければならない。
 南極のことを考えるには、私たちは白瀬矗という人物を忘れてはいけないのである。あの並々ならぬ胆力を現代人の私たちがもつことは不可能かもしれないのだが、あの冒険心を忘れてはならない。
 日本の南極観測の拠点・昭和基地は、白瀬が上陸したロス海の鯨湾とは大陸を斜めに突っ切った対角線の位置にある。その近くに白瀬氷河がある。白瀬矗は日本人として世界地図に個人名を残した唯一の人物である。間宮林蔵の間宮海峡は日本でそう呼んでいるだけで、世界地図上は別の名前だ。
 私は南極観測船「しらせ」のヘリコプターで、白瀬氷河の上空を飛んだ。白瀬氷河は南極で最も速く流れる川である。遠くからカーブをしながら流れていて、いかにも川の姿だ。氷が引かれて引っ張られるから、裂け目ができて深いクレバスが連続している。鬼気迫るような絶景で、人間を拒否した極限的に過酷な世界である。この氷河に白瀬の名を冠せたことで、後年の人々の白瀬への敬愛の念を知ることができるのである。
「ひたち」2007年夏号 日立評論社

ずっと友だちさ
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 ミクロネシア連邦の首都コロニアのあるポンペイ島には、古代から建設された海上遺跡のナンマドールがある。誰がどのような技術をもって巨石を組み上げたのか、まったくわからない。ただ遺跡だけが確かにあるのだ。
 私は十七、八年前に、ナンマドールを見物するためにこの島を訪ねたことがある。その時に、昔の風情が残っていると伝えられる村にいったことがある。そこでひときわ大きな家で昼寝をしている老人にあった。立派な風貌で、日本語を見事に使いこなす人であった。その老人はナンマルキという役職で、一族の族長であった。この島では大変に力を持っている人物なのである。
 族長は彼らの文化である消えゆく踊りを再現したがっていた。裸で腰みのをつけて踊る昔ながらの踊りで、若い人は誰も歌ったり踊ったりできず、民族楽器も演奏できなくなっているということであった。
 彼らは文字を持っていない。紙に書いて歴史や伝統の記録を残すということをしない。そのかわりに、歌と踊りがある。祭りの日に歌と踊りをすることは、過去に遡り、未来に向かって彼らの歴史を残すことである。踊りがなくなったら、彼らの祖先たちのことが消えてしまうということだ。
 腰みのはハイビスカスの皮の繊維でつくるのだが、アメリカの染色を取り寄せてもどうもうまく染まらない。ついては、日本の染料を送ってもらえないかということであった。
 求められた染料を、私は帰国してから送った。しかし、送ったきりになっていたのである。その記憶さえも失っていた。そして、今回ポンペイ島に訪問する機会を得た。テレビの取材の仕事で、祭りをやっている村を訪ねたのである。  車で向かう時も、道は昔とはくらべものにならないほどよくなっていたのだが、何かしら遠い記憶と合致する不思議な雰囲気を感じてはいた。祭りはどんどん進行していく。当地の祭りには、シャカオという胡椒科の植物の根を石ですりっぶして絞り、どろどろの液体にしたものを必ず飲む。ハイテンションになり、また酔っぱらうという人もいるが、私はそうはならず、冷静であった。豚をつぶし、山からタロイモを掘ってきて、精一杯の料理でもてなしてくれた。
 二度に分かれて歌と踊りがでた。男も女も腰みの一枚である。一度は室内にしつらえた舞台でやり、もう一度は屋外で列になってやった。彼らの歌と踊りは、単なる見世物ではない。なんとなく完成された踊りを見て、私は十七、八年前に会った族長を思い出していた。とうとうやりましたねと、私はどこにいるかわからないかの老族長にいってやりたかった。
 ある時間、歌声の中にこんな言葉が響いてきた。
 今日から友だち
  明日も友だち
    ずっと友だちさ
 これが日本語で歌われたのだ。もしかするとかの老族長がつくったのかもしれないし、もっと昔に日本軍の兵士がつくった歌かもしれない。もう誰もわからない。それを遠い時間を越えて確かにこうして伝承している。争い事のない平和の中で、すべての人とずっと友たちでいたいと私は思うのだ。これをつくった人も歌ってきた人も、同じ気持ちであろう。
 私の記憶はどんどんはっきりとしてきて、昔の私の体験を現在の族長に語った。すると族長はこういった。
「あの人は私の父です」
「自己表現」2007年6月号
芸術生活社

母が涙を見せた時
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 母が脳梗塞(のうこうそく)で倒れ、私は病院に駆けつけた。母は心細かったのか、私の顔を見るなり目に涙をいっぱいにためた。私は長男なのだが、故郷の家を出てしまっている。その私を見て流した母の涙は、私にとって私自身の生き方を問うものであった。
 若い私は、自分が生きる道を探すために、一生懸命であった。学生時代からしばらく後までは東京で暮らし、妻と子を連れて故郷に帰った。市役所に勤め、やがて小説を書くためにそこも辞めた。その間、両親には大変世話になったのである。
 その後、小説を書き続けるために今度は東京に出た。もちろん、しょっちゅう故郷に帰ってはいたが、私には残しておいた両親が心配でないことはなかった。父が死んでからも、母は一人暮らしをしていた。母のほうは人生の晩年を迎え、激しい変化にみまわれていたのである。そして、今度は自分が倒れたのだ。  私はすっかり中年のおやじになっていて、母が倒れたことを聞き、自分のことしか考えていなかったのだなとうろたえた。母も遠く離れている息子のことを常日頃から心配していたから、駆けつけた私の姿を見て涙を流したのだ。その涙には、倒れてしまって申し訳ないという自責の念が込められているようにも私に感じられた。母は泣いて私にわびていたように思えて仕方がないのだ。もちろん、わびる理由などまったくない。
 どうやら一人暮らしができるところまで回復した母だったが、その数年後に今度は脳出血で倒れた。ちょうど私は故郷の宇都宮にいたから、すぐさま病院に駆けつけることができた。脳内の出血範囲は広くて、母は意識不明であった。私には、母は泣いていると見えた。もちろんこちらに意思を見せて泣いているのとは違う。今度は私が泣く番で あった。あれから一年たち、相変わらず人事不省の母の枕元にいると、私は親不孝をわびる気持ちで涙が出る。
「御堂さん」2007年5月号
本願寺津村別院

地球流転
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地球の荒々しい姿  
南極にいってから、万物は流転しているのだということを改めて認識した。山の上に迷い子石と呼ばれる大岩があり、古代文明の失われた象徴のようにいわれたり、ノアの方舟の時の大洪水の証拠だといわれたり、はたまた天狗の投げ岩だといわれたりしている。そのことで妙に納得したりもしてきたのだ。
 だが、地球の周期をもっと広い幅で考えれば、一目瞭然なのである。氷河期には地球上に氷河が縦横に走っていて、私たちの持つ時間の尺度から見ればあまりに遠大な時が必要だったにせよ、山を削って大岩など簡単に運ぶことができた。間氷期になって氷河が消減すれば、思いもかけないところに岩が残されている。氷河の存在を考えなければ、謎が残るだけである。そんなことでも、現代人にとっては大いなる想像力が必要なのだ。
 研究者にとっては常識ということでも、市井で生活する私などにとっては、想像力を必要とすることはたくさんある。氷河はその文字の通り、河である。南極で広大な氷原の中の氷河を見れば想像力などなくても一回でわかるのだが、ビルの中の快適な空間で生活していればそうはいかない。氷河は流転する万物の象徴ともいうべき存在だ。
 南極観測船「しらせ」のヘリコプターで昭和基地の周辺を飛びまわると、しらせ氷河などの荒々しい光景に触することができる。氷の中にクレパスが走り、地上を歩くしかない人間などとても生きられないところである。ただ恐ろしい光景だとしか見ていなければ、恐怖心が残ってそれで終了である。しかし、流れていく氷の河なのだと理解すれば、引っぱられて氷に裂け目ができ、流れはじめてその流れはしだいに激しくなると納得できる。山の中の源流からはじまる川と同じである。水の流れはこの目でありありと見ることができるが、氷河の流れは静止しているようにさえ見える。計測すれば、流れていることを知るのは実に簡単なことだ。流れる氷の河のある南極は、山紫水明の私たちの山河となんら変わりがない。つまり、万物は流転をつづけてやむことがないということだ。
 火山がマグマを噴出し、あるいは流れる水が土砂を堆積させ、岩石をつくる。この頑丈な岩も、日中は灼熱の太陽にあぶられ夜は冷えて少しずつ砂になっていく。結局のところサハラ砂漠もそうやってできたのである。地球は流転しつづけている。
温暖化は何をもたらすのだろうか
 最高で四千メートルの厚さになる南極氷床も、年間三センチほど降り積もる雪によすて形成された。南極では他に水分を供給するものはないのである。年間三センチの降雪も、圧力がかかれば数ミリになるが、時を蓄積させれば四千メートルになる。つまり、南極氷床は日々成長をつづけているということになるのだ。
 できてしまった氷も、静かに固まって動かないのではない。重力の法則に逆らわず、下へ下へと流れる。つまり氷は循環しているのだ。氷の底には凍っていない湖があり、その湖もさまよえるごとく動いているとのことだが、取り囲む氷が流転しているのに氷が静止しているなどあり得ないことだ。
 南極大陸は雪が蓄積したものだから、淡水の固まりなのだ。地球上の淡水の氷の七十パーセントが南極に集まっているのだが、私たちの心配は化学石油燃料を燃やす人間活動による地球温暖化で、その氷が溶けてしまわないかということだ。その危機意識はすでに多くの人の心の中に潜んでいて、私は南極から帰ってくると何度も質問を受けた。専門の研究者が結論を出せないことを、たかだか十日間ぐらい南極にいったところで門外漢の私が語れるものではない。しかし、事はそれほど単純ではないことは理解できた。
 海流や気流は、地球が一方にたまった熱を分解させようとする作用なのである。海流や気流が今まで通りに働かなくなれば、地球は気候大変動にみまわれる。そのことではたくさんの仮説がある。
 温暖化によって氷が溶ければ、海水の塩分濃度が薄くなる。海水は凍る時、比重の重い塩分を外に排出する。低温によっても比重が重くなった塩分は、深海に沈んで深層海流を押し上げ海流を走らせてきた。塩分濃度が薄くなれば深層海流の駆動力が弱くなり、海流がうまく働かなくなる。赤道の熱が分散されなくなり、熱帯は灼熱になり、その他の地域は凍りつく。地球温暖化が、むしろ極寒をもたらすというのだ。この仮説にも説得力があるから恐ろしい。つまり、地球は生物が住むのにふさわしい星ではなくなるのかもしれない。
 もちろん私たちは地球の気候変動によって絶滅し、あるいは生き延びて栄えた多くの生物を知っている。このことでも地球上で万物は流転するということである。私たち人類からすれば、地球上で生きているこの今も、大いなる流転にさらされているということだ。(南極の写真)
Ship & Ocean Newsletter No,165
20 June 2007

名編集者から励ましの電話
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 こつこつと文学など280冊もの本を書いてきました。自分自身、数えてみて驚きました。書きたいものを1冊ずつ書き続けてきた結果にすぎません。
 私の文学の原点は変わっていませんが、人と会い、新しい分野を描き続けてもきました。最近では、子どもが「いのち」についてより深く気付くことができる「酪農」に関係する絵本を書きました。娘とー緒に北海道の酪農家を訪ね、人々の日常の思いを聞かせてもらったのです。
 私が文を書き、娘が絵を書きました。絵本は、小説よりもポイントを狭く絞り込まなくてはなりません。私は、牛の出産の場面を描写すると同時に、乳牛としての寿命を終えて、牧場を離れる牛についても描きました。
 教育の場で「死」を扱うことは難しいようです。しかし、生と死を切り離すことはできません。この絵本を通して、子どもたちが死にも思いを巡らせることができるのではないでしょうか。
 実際に現場で見なければ、本当のことは分からないものです。ディテールを表現するためには、現地で人と会うことが欠かせないのです。
就職の内定断り肉体労働
振り返ると、大学卒業前、何度も何度も面接を受けました。集英社に就職が内定しました。多くの人からうらやましがられたものです。
 ところが私は悩むのです。ものを書きたい。この思いはどうしても捨て切れません。結果としてこの内定を断り、日雇いの肉体労働で生活費を賄いつつ、文章を書く生活に入りました。
 当時の集英社には面白い制度がありました。「社内里親」とでも言えるでしょうか。学生担当を決め、先輩社員が助言したり相談に乗ってくれたりしました。
 私が付いた人は「週刊少年ジャンプ」の初代編集長で100万部の雑誌に育てた名編集者の長野規さんです。
 長野さんに、内定を断りに行きました。すると、「お前、ばかだ。でも、面白いところもある。生活は苦しくなるぞ。どうしようもなくなったら、飯くらいは食わせてやるから」とのことでした。
 それからは、肉体労働の日々です。いろいろな仕事に就き、経験を重ねました。金銭的な余裕はありません。しかし、自分が選んだ道なのです。貧乏も当たり前だと思っていました。
 そんなころ、既に重役になっていた長野さんからよく電話がかかってきました。「俺は今、銀座で飲んでいる。美女に囲まれて飲んでいる。お前は書いているか。お前は書くしかないんだよ」と。私は、「はい。書いています」と答え、電話を切りました。そして10分後、再び電話が鳴りました。長野さんからでした。「俺は今、銀座で飲んでる。美人に・・・」同じことの繰り返しです。ずいぶん酔っていたのでしょう。
 長野さんは詩が好きな人でした。後に、詩集を出しています。編集者としての仕事では、作品を作ることと金を稼ぐことの間で葛藤があったのでしょう。だから、あのような電話をかけてきたのではないでしょうか。
 長野さんは亡くなるまで、私に見せる顔を変えませんでした。今、私も生活には困らなくなりました。普通に生きていければいいと思って暮らしています。ですが、ものを書くことの原点は変わっていません。最初にやろうとした文学を書き続けていきたいと願っています。
日本教育新聞 平成19年5月7・14日

母が涙を見せた時
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 母が脳梗塞(のうこうそく)で倒れ、私は病院に駆けつけた。母は心細かったのか、私の顔を見るなり目に涙をいっぱいにためた。私は長男なのだが、故郷の家を出てしまっている。その私を見て流した母の涙は、私にとって私自身の生き方を問うものであった。
 若い私は、自分が生きる道を探すために、一生懸命であった。学生時代からしばらく後までは東京で暮らし、妻と子を連れて故郷に帰った。市役所に勤め、やがて小説を書くためにそこも辞めた。その間、両親には大変世話になったのである。
 その後、小説を書き続けるために今度は東京に出た。もちろん、しょっちゅう故郷に帰ってはいたが、私には残しておいた両親が心配でないことはなかった。父が死んでからも、母は一人暮らしをしていた。母のほうは人生の晩年を迎え、激しい変化にみまわれていたのである。そして、今度は自分が倒れたのだ。  私はすっかり中年のおやじになっていて、母が倒れたことを聞き、自分のことしか考えていなかったのだなとうろたえた。母も速く離れている息子のことを常日頃から心配していたから、駆けつけた私の姿を見て涙を流したのだ。その涙には、倒れてしまって申し訳ないという自責の念が込められているようにも私に感じられた。母は泣いて私にわびていたように思えて仕方がないのだ。もちろん、わびる理由などまったくない。
 どうやら一人暮らしができるところまで回復した母だったが、その数年後に今度は脳出血で倒れた。ちょうど私は故郷の宇都宮にいたから、すぐさま病院に駆けつけることができた。脳内の出血範囲は広くて、母は意識不明であった。私には、母は泣いていると見えた。もちろんこちらに意思を見せて泣いているのとは違う。今度は私が泣く番であった。あれから一年たち、相変わらず人事不省の母の枕元にいると、私は親不孝をわびる気持ちで涙が出る。
御堂さん 2007年5月号

文化交流使として中国訪問
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 文化庁派遣の文化交流使として4月下旬から1ヶ月間、北京や東北地方に滞在する。現地の作家と交流したり、清華大では「環境と文学」をテーマに講演を行う予定だ。
 中国にはこれまで何度も訪れている。1984年は日中青年大交流で北京へ、おととしの浙江省国際作家大会には日本代表で参加した。陳健功(現・中国作家協会副主席)ら中国の作家たちとは長年の親交がある。「中国は心の友。政治的問題は個人の友情には関係ない。古い友人の作家たちと対談が今回一番の楽しみです」
 中国への思いを決定づけたのは、その生涯を描いた長編小説『道元』(02年)。道元が修行した浙江省に足を運ぶうちに、日本と中国の関係の深さに改めて感じ入った。
「浙江省は日本仏教の母体です。仏教だけでなく、先人が多くを学んだ中国は日本文化の屋台骨。ここまでが日本だ中国だというのではなく、両方の文化は長い歴史の中で絡み合ってきた。」
 亡き父親は、中国から引き揚げてきた。滞在中は東北地方を回り、「満州国」をテーマに作品の構想を練る。「作家にとって本当の交流は作品を書くこと。時間はかかりますが」
日本と中国 2007年4月25日

沖家室島の歳月
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 周防大島と沖家室島にいったのは、大学の先輩の菩提をとむらうためであった。五十代はじめで亡くなった彼は、学生運動の闘士で、故郷に背を向ける暮らしをしていた。山口県立柳井高校を卒業し、早稲田大学にはいるために上京してから、ついに一度も故郷に帰らずに客死したのである。
 しかし、故郷のことをいつも考えていたのを、家族や友人たちは知っていた。酔うと、柳井高校で剣道部にはいって活躍していたこと、祖父と沖家室島に住み、瀬戸内海で泳いだり釣りをしたことなどをよく語っていた。私にすれば、見知らぬ島の光景などをまるで見てきたかのように心の内にとどめているのだから、何度も何度も話を聞いたのだ。家族にすれば、なおさらのことであったろう。彼には夫人と二人の娘さんがいた。
 癌との闘病生活の果てに亡くなった彼は、お骨になってしばらく家族のもとにとどまっていた。そして、彼を菩提寺の沖家室島の泊清寺に葬おうとしたのは、夫人と娘さんたちの思いであった。友人の十五人ほどが、それに同行することにした。賑やかなことの好きな彼らしい見送りとなったのだ。
 私たちは東京から広島に飛行機で飛んだ。山口字部空港ではないかと思ったものだが、マイクロバスで周防大島から沖家室島にいくのに、高速道路が便利だというのだ。それに彼の妹が錦帯橋をつくる海老崎棟梁と結婚していて、橋の架け替え工事の準備をはじめていた橋梁を訪問激励する旅程を組んであったから、広島のほうが便利であったのだろう。
 今は周防大島へも沖家室島へも橋が架かっているから、車で走っていくと島という感じがしない。周防大島への長い橋を渡っている時、瀬戸内海の潮がざあざあと流れていることに驚いた。潮の音がして、白波が立ち、激流であった。見た目には穏やかな瀬戸内海だが、潮が速い。この潮の動きをよく知っている水軍は、潮に乗って攻撃し、潮に乗って去っていったのだろう。つまり、瀬戸内海への出入りは、周防大島をぐるっと回るか、この潮を乗り切るしかなかった。
周防大島については、民俗学者の宮本常一の故郷であるという知識ぐらいしかなかった。山がちの耕地の少ない島で、段々畑がいたるところにつくってある。江戸時代の中頃にサツマイモが伝来すると、島の人口が三倍にも増えたという。それだけ貧しいところなのである。その段々畑も、耕す人が高齢化したり島を去っていったりしたためか、放置され草が生えている。そんなことが、窓の外を流れていく風景に読み取れるような気がしたものだ。
 沖家室島はさらにその先にある。沖家室大橋ができたので島という感じはないのだが、以前は当然渡船でこなければならず、何度も船に乗り替えるのが大変だったはずだ。橋がほしいという島人の切実な悲願は、もちろんよくわかる。  沖家室島には中世の頃から人が住みついたとされているが、記録は残っていない。潮の流れを熟知した海賊たちの拠点になっていたことが、天正十六(一五八八)年に豊臣秀吉により海賊禁止令が出されたことでわかる。政治の力によって無人の島となる。伊予興居島より河野家家臣の石崎勘左衛門がやってきて住みついたのが、慶長十−(ー六〇六)年だ。つまり、四百年前に開島されたということになる。
 その後、朝鮮通信使が帰路寄港し、その後往復とも逗留したこともある。つまり、海上交通の要路であったのだ。浄土宗知恩院の直末寺に泊清寺がなったのは、寛文三(一六六七)年のことだ。以来、泊清寺は島で唯一の寺として、参勤交代の折には大名の本陣となり、藩の役人が常駐し、御番所、御舟蔵、高札場がおかれた。海上交通の要衝として、漁業の基地として、家室千軒といわれるほどに家がひしめきあい、大いに繁栄したという。狭い土地に家が軒を連らねていた時代の様子は、泊津寺の山門への路地を歩いている時などに、わずかにしのぶことができる。
 〇・九五平方キロの小さな島なのだが、明治期には人口は三千人を超えた。その後、人口は急激に減った。昭和三十四年は人口千三百四名四百二十五戸、平成十八年三月末には人口百八十七名百二十九軒になった。医者もいない。日本の地方の弱体化を先取りした形の典型的な過疎の島になったのだ。
 私の先輩が祖父と島で暮らした昭和二十年代三十年代は、まだ人も多く、海では魚がたくさんとれたことであろう。彼は島のよいところしか見ないですんだのだ。
 家室千軒の名残りはあるのだが、空家が多い。かって沖家室島の人たちはハワイや台湾や朝鮮にさかんに出かけ、稼いだ富を故郷に送って家を建てた。そんなわけで立派な家がならんでいるのだ。
 栄えた島の唯一の寺らしく、泊清寺は龍宮門をそなえた立派な寺である。住職の新山玄雄師はまさに島の支柱で、昭和五十八年に沖家室大橋が開通した際、その建設に奔走したということだ。その新山住職に先輩の葬いの導師となっていただいたことが、東京からやってきた私たち後輩には喜びであった。 先輩のお骨を墓に納める時、向かいの海景をしみじみと眺めた。明るい瀬戸内海が真正面にあった。彼はこれから永遠にこの風景を眺めて過ごす。
かけ橋 2007年3月号

モズのこと
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 ジャズ喫茶のモズは、早稲田通りの穴八椿の向かい側にあった。木造の階段を登っていくと、モダン・ジャズの大音響が響いてきた。店内は暗い。小さな喫茶店だが、一歩中にはいるとまったく別世界になった。
 当時モダン・ジャズに傾倒していた私は、授業の合間などによくいった。ママが一人でいて、注文するとコーヒーをいれてくれた。現在かかっているジャズレコードのジャケットが見えるように展示してあった。私は何気なく聞いたジャズに、衝撃を受けた。息せき切って吹き鳴らすフルートが先へ先へと急いでいるようで、時代の風潮ともあい、私たちの心情を示していた。ジャケットを見ると、ジェレミー・ステイグという演奏者である。交通事故で負傷し、ジャズへの情熱がそれでもやみがたく、自分の喉から直接息をとるマウスピースを自ら開発し、ジャズフルートを吹いていた。
 私はそれからモズでは、ジェレミー・ステイグの「ホワッツ・ニュー」をくり返しリクエストした。私がいくと、ママが黙ってかけてくれるようにもなった。新しいとは何のことだと、古い楽器を吹きながら男が叫んでいたのだ。若い私は女子学生などをモズに連れていき、雰囲気に助けられて口説いたりもしたが、一度もうまくいったためしはなかった。
 やがて私は卒業し、地方に暮らしたので、モズにいくことはなくなった。小説家として生きるようになり、学生時代の思い出としてモズのことを書いた。それからまたしばらくして、私はふらっとモズにはいった。卒業して二〇年もたっていたから、モズがまだやっているか確かめたい気持ちもあったのだ。
「私はあなたが学生時代にモズにきてくれていたことを、誇りに思っています」
 私のことなど記憶にないだろうと思っていたのだが、いきなりママに話しかけられた。私のエッセイを読んでくれていたのだ。
 それから一〇年たって、ママが亡くなったという風の便りを受けた。モズは元の場所にはなくなったが、向かい側にできたと聞いて出かけていくと、常連客だった人がモズの名を受け継いで洋酒酒場をやっていた。人生に深く影響を受けた人もいるのだ。その店が今もあるかどうかはわからない。
早稲田学報 2007年4月号

地球に対し謙虚であれ
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 南極に行ってから、私は地球温暖化は大丈夫なのかとよく聞かれる。十日間ぐらい南極に行ったところで決定的なことはわかるはずもないが、いろいろなことを見聞きした。
 南極半島は南アメリカ大陸のアルゼンチンやチリに向かって突き出した半島で、夏は海が一面には凍らないので、貨物船も直接接岸することができる、最近注目されている南極観光は、ほとんどこの南極半島で行われるのである。
 南極半島は南極のうちではそもそも暖かいところなのだが、ことに温暖化し、雨が降るようになったと聞く。夏はペンギンの子育ての時期で、抱卵しているところに雨が降りかかり、雨というものを知らないペンギンは当惑しているということだ。間違いなく温暖化は進行しているのである。

温暖化の“しっぺ返し“
 南極には地球の氷の九○%が蓄えられていて、これがすべて溶けたら海面は五十七メートル上昇するとされる。陸地がそれだけ減ることになり、人類や生態系には大きなダメージとなる。
 地球は四十六億年前に誕生した。暖かな間氷期と寒い氷河期を何度も繰り返し、氷河期は一万年前に終焉した。最も寒冷だった約二万年前には今よりも百三十メートル海面が低く、それ以降で最も温暖だった約六千年前には、海面は今より数メートル高かったとされる。地球は自ら激しい気候変動をくり返し、そのたび幾種類かの生物が絶滅して、幾種類かの生物に繁栄のチャンスを与えてきた。これが地球の歴史であって、地球は人類のために都合よくあるのではないということである。
 もっと厳しくいうなら、生物の一種類である人類が地球温暖化を自ら引き起こして苦しみ、また有毒な紫外線を遮断する地球の装置であるオゾン層をフロンガスを放出して破壊し、紫外線を浴び白内障や皮膚がんになって滅亡したとしても、地球にとってはなんでもないということだ。多くの生物を産み、また滅亡させながら、地球は四十六億年の歴史をつくってきたのである。地球は地球のためにあるのであって、人類のためにあるのではない。

まずは1本の植樹から
 人類は地球に住まわせてもらっているにすぎないのである。人類が「地球にやさしくする」など、まことにおこがましい。人類は地球温暖化などを引き起こして自ら追い詰めるのではなく、なんとかこの地球にいさせてもらえるように謙虚にしていなければならない。
 では、私たちはどうしたら地球温暖化などの愚行を回避し、かけがえのないこの星で平穏に暮らすことができるのか。みんなわかっている。これ以上破壊的なことをすれば、自分自身を破壊することと同じことだ
。  一度破壊してしまった森を回復させるのも、人類が生きのぴるための道の確実な一つだ。どんなにささやかであっても、私たちはできることをやっていかねばならない。
 今年も足尾に植林をする季節がやってきた。植樹デーには五千人を超える人が集まるようになり、主催者としても管理が困難になって、二日間で植樹をすることにした。四月二十一日(土)と二十二日(日)で、どちらも午前九時半からである。今年の植樹場所は足尾ダムの先で、例年より勾配の楽な山である。多くの人の参加を待つ。
下野新聞2007年(平成19年)3月1日(木)

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足尾に百万本の樹を植える
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 足尾で植樹を呼びかけた時、第1回目は現在も植樹をしている大畑沢緑の砂 防ゾーンであった。2回目は松木渓谷の奥のほうに設定したのだが、現場にい くまでに危険がともなう。万が一大雨が降ったら、鉄砲水が出る。だから松木 渓谷に植えたのは1回だけで、3回目からは松木渓谷入口の大畑沢縁の砂防ゾ ーンに戻る。第11回目の2006年も同じところで植えている。斜面はどん どんきつくなる。階段を登って相当高いところにいかなければ、植樹はできな い。4月の植樹デーには1300人もの人がくるので、一気に階段を登ること ができず、階段の登り口にたまってしまう。これが問題である。
「足尾に緑を育てる会」では、100万本を植えようと目標を立てた。11年 かかって達成したのは、ほぼ3万本である。100万本を植えるためには、こ の調子でいけば、1年で3000本を植えるとしてあと320年はかかるとい う計算になる。なんとも気の長い話ではないか。
 見渡しているかぎり、植える場所は無限だとも思えるのだが、実際はそうは いかない。足尾の大部分の土地は銅山が所有するので、勝手に植林をしてもい いというのではない。今植えているのは、水源涵養(かんよう)のために国土 交通省が管理している土地である。しかも、植林ができるように、基盤整備さ れていなければならない。人がどこにでもはいっていっていいというものでは ないのだ。足尾の山はガレ場が多く足元が崩れるので、簡単には登ることがで きない。植樹デーには千数百人がきて、老若男女がいるから、彼らの安全も確 保しなければならないのである。足元を整備しなければ人は登ることもできな いし、植えても崩れてしまう。
 どこにでも植えられそうに見えても、実際に植えることができる場所は限定 される。植樹デーで多数の人に植樹してもらうためには、どうしても前もって の準備が必要なのである。私は植樹デーには必ず参加するにせよ、どうしても 地元に住んでいるメンバーに縁の下の負担がかかる。
 足尾の植樹が世間的にも注目を集めてくるにつれ、修学旅行の生徒や職場か ら、日光などの観光地への行き帰りに樹を植えたいとの申し込みがくるように なった。もちろん大歓迎ではあるにせよ、そのための苗木の準備をし、植える 場所の整備をして、スコップなどを用意し、当日は植樹の指導をしなければな らない。それもすべて地元の会員の負担になってしまうのだ。
 ボランティアを強請することになるのだが、過重なことはできない。そのた めに「足尾に緑を育てる会」をNPO法人にし、植樹を申し込んだ学校や職場や 労働組合には多少の参加費を負担してもらい、当日世話のために出てくれた会 員には世間並には遠くおよばないにせよ、少しの日当を払うことにした。
 足尾の植樹活動がさかんになるにつれ、これまでしなくてもいい苦労をしな ければならなくなってきた。社会化されるとはそういうことなのだろう。’06 年もまわりを見ていると、朝から晩まで駐車場の整理をしていた仲間がいた。 山に登る人を整理するため、一日中ハンドトーキーで叫んで声をからしている 仲間もいた。しかも、会員は1週間前から資材を運び上げ、テント張りをし、 植樹が終わると後片付けをする。私などは樹を植えさせてもらっているにせよ、 一本も植えられない仲間も多い。
 現実はこのように雑用ばかりが拡大していくのだが、私たちはできるだけ多 くの人に足尾にきてもらいたいと願っている。ボランティアの集まりの「足尾 に緑を育てる会」は、ボランティアを世話するボランティアになっているので ある。
 私はこの運動がはじまった最初の頃を、なつかしく思い出す。仲間うちで花 見をするための桜を植えようと、10本ほど植樹をした。その樹がすべて枯れ てしまったことが、本気で植樹をしようという発端であった。
 4月の第4日曜日を植樹デーと決め、10人ほどの仲間と植林を呼びかけた。 その仲間とは、もう30年以上も足尾鉱毒事件や田中正造について学んでいる。 田中正造がやり残した、治山治水や源流域の保全をやれるだけやろうという気 持ちもあった。
 その時の呼びかけは、シャベルと唐グワと土と苗を持ってきてくださいとい うものだった。昼食、軍手、雨具は個人で用意し、できたら会員になって会費 1000円を納めてほしいというのである。つまり、私たちには元手は気持ち だけしかなかったということだ。
 ある日、植樹予定地の大畑沢線の砂防ゾーンに、田んぼの土がダンプで2台 分積んであった。土にはナラやブナの苗がささっている。名を名のらなかった ので、誰がやったのかわからなかった。不気味な感じさえもしたものだ。
 日本昔話にでてくる六地蔵が、わざわざ土を運んできてくれたような気がし た。あとから誰がやったのかわかり、自分で田んぼの土を掘って持ってきてく れたとのことだったが、私は本当に慈悲心あふれる六地蔵が担いできてくれた のだと思っている。
 こんな活動をしていると、人の情に触れることがしばしばある。会場で毎年 顔を合わせる家族がいて、子供が目に 見えて大きくなる。11年目の今年は、最初の年に植えにきてくれた10歳の 子供が、21歳の青年になっているということだ。
 私は心に樹を植えましょうと、毎年あいさつをしている。心に植えた樹は、山 に植えた樹と同じように、どんどん育っている。心の樹は間違いなく育っていく から、みんなは毎年集まってくれ、しかも人数が増えていくのだろう。山に植え た樹も、私たちの予想を遥かに超えて、根が活着している。すべてはうまくいっ ているのだが、100万本にはまだまだ遠いのである。
ways2007年 春

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南極への旅
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荒涼の地に悠久の生命

 なお領土権については、アルゼンチン、オーストラリア、チリ、フランス、ニュージーランド、ノルウェー、イギリスの七箇国がかつて主張したが、現在は南極条約によって凍結とされている。軍事活動も地下資源の採掘も、禁止だ。南極はどこの国のものでもなく、したがってパスポートのいらないところなのである。
●「コケ坊主」
 スカルブスネスには日本の観測隊の小屋があり、シーサイドテラスと名付けられていた。隣にテントが三張あって、ペル軍人の研究者がきていた。研究の国際的な協力が、南極観測の特徴だ。
 日本人研究者三人のあとについて、私たちはさっそく露岩を歩きだした。荷物を持っているのは彼らなのに、どんどん置いていかれてしまう。体力がなければ研究はできない。氷河が縦横に走ったあとで、削り取られたさまざまな種類の岩石が散乱している。露岩がしっかりしているところもあれば、ガレ場になっているところもある。植物がまったく見えないので、荒涼とした光景である。
 このあたりは池が点在し、仏池(ほとけいけ)、如来池、菩薩池、地蔵池など仏教的な名前がつけられている。もちろん日本人がつけたのだ。仏池は井村博士が「コケ坊主」を発見したところで、名前のない時は「イムさん池」と愛称されていた。それが仏池の起こりだ。
 「コケ坊主」とは湖底一面に乱立する塔状の緑色の植物で、苔、藻類、藍藻(らんそう)、細菌などが群生したものである。この裾には苔と藍藻からなる厚手のマットが広がっている。生物は生きられるあらゆる場所を見つけて棲息している。南極では、岩石の中に住んでいる地衣類がある。地衣類は菌類と藻類の共生体で数ミリ以下で低温や乾燥には強い。繁殖組織である子器だけを岩の表面に出し、菌糸と共生藻の層を岩の中にいれている。これを岩生内地衣類という。極寒の劣悪な自然の中で、少しでもよい場所を見つけて生き延びようとする、生命のしなやかな強さを見た。
●湖底で延命
 小さな池には当然のことながらゴミも落ちていず、清浄である。ゴムボートで漕いでいく。水深はおよそ三メートルで、湖底には「コケ坊主」がならんでいた。このあたりの池の調査はほとんどすんでいる。
 「菌は培養して顔を見てみたい」 湖底から苔と藻類のサンプルを採集しながら、研究者がつぶやく。底の泥には有機物が堆積し、微化石がまじっている。生物は裸地の岩盤の上ではそのまま生きられず、三千年から四千年前より氷河から解放され、水の中を生命の場所として見つけて生き延びてきた。「コケ坊主」はどこからやってきたのか、まだわからない。植物は南アメリカやアフリカから風に乗り、たえず移動しているのだという。だが命を継ぐことのできる場所は、めったなことでは見つからないのである。
●野生の大群
 ある日、私たちはラングホブデのペンギン・ルッカリー(ペンギン営巣地)に調査にいっな。ヘリを降りてから、露岩の上を二十分ほど歩くと、生臭いにおいが流れてきて、白と黒のアデリーペンギンの数百羽の群れがいた。夏はペンギンには子育ての季節で、卵を抱いて腹ばっていたり、海にいって餌のオキアミをせっせと運んでくる親もいた。野生のペンギンには、五メートル以内に近づいてはいけないことになっている。まったく警戒心を持たないペンギンは、平気で近づいてくる。近づきすぎると、私たちが逃げる。
 ペンギンは何千年何万年とまったく変わらない暮らしをしているのだろう。先へ先へと急ぎすぎている私たちに向かってこの場所で平和な暮らしができればそれでいいじゃないかといっているようだった。屈託のないペンギンの様子はいくら見ても飽きなかった。
下野新聞2007年(平成19年)2月16日(金)

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荒あらしく圧倒的な地球
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 南極の圧倒的な風景を前にして、地球46億年の歴史を考えた。私はこの地球の上にかろうじて生存を許されている一分子なのだと、切ないほど実感した。
 南極は全体が氷で覆われていて、その氷を氷床という。日本の南極観測隊は氷床の深層コアを3035.22mまで掘削した。氷に閉じ込められている大気を分析すると、地球は10万年ごとに大きな気候変動にみまわれ、そのたび生物は絶滅したり生きるチャンスを獲得したりしてきた。この2000年間、つまり産業改革以降、二酸化炭素の量が急激に増えているということだ。二酸化炭素は、もちろん地球温暖化の主たる要因である。
 南極の荒あらしい風景を見ていると、どんな事態になっても、地球は生きのびていくのだろうなと感じる。生命が滅びても、地球そのものには何ともないことだ。ただ絶滅する生物の悲劇というに過ぎないのである。
 地球温暖化ができるだけ進行しないようにと努めるのは、人類とその周辺の生物のためなのだ。 地球は人類にやさしいわけでは絶対にない。

毎日新聞(夕刊)2007年2月15日(木)

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遠野にいった柳田國男
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 前回につづいて柳田國男のことを書く。柳田が『遠野物語』で、日本人の失われていく姿を活写した明治40年代が、物質偏重の消費文明に目が眩んで足元が見失われている現代と、時代相が似ていると感じるからである。
 明治期にはいって、日本は西洋列強に追いつくため、急速な近代化を押し進めた。富国強兵の政策のもとに産業革命が起こり、紡績や製鉄などの大量生産がおこなわれた。各地に鉄道がのびていき、街並みも少しずつではあるが西洋化していった。人々は華やかな消費生活を送ろうとしていた。明治38年に日露戦争に勝利した日本は、近代国家の仲間入りを果たす。三等国民が急に一等国民に格上げになったのである。
 農政官僚の柳田は九州を視察し、近代化とはまったく相い入れない昔ながらの常民の暮らしを発見した。柳田が『後狩詞記(のちのかりのことばのき)』を書いたのは、明治42年3月のことである。柳田が驚いたのは、自動車や電信の文明と平行して、なんらゆらぐことなく常民の暮らしが太古のままの様子でつづいていることであった。それは跡切れることはなかったのだ。
 つづいて柳田は岩手県遠野出身で、妻のため早稲田大学で学んでいた佐々木喜善と知り合う。佐々木は遠野に昔から伝承されてきた、山の神、家の神、山男、山女、天狗、かっぱの話などを、いままさに存在するものとして語った。佐々木が誇るのはつくり話ではなくて、柳田風にいうなら「現在の事実」である。自動車が走る近代に、かっぱや天狗が人間と交渉し、物語を生み出していたのである。柳田はそこに日本全体に共通する普遍性があると信じ、佐々木の語る遠野の伝承を聞き書きしていく。
 明治42年8月23日、柳田は実際に遠野にいってみた。明治40年代になると日本全国に鉄道網が広がっていき、東北本線も開通した。柳田は花巻まで汽車でいき、花巻から遠野までは人力馬車に乗っていった。現在にくらべたらずいぶん遠かったであろうが、郵便も電報も新聞もあって遠野にも近代化の波は間違いなく押し寄せていた。『遠野物語』の序文に柳田は書く。
「花巻より十余里の路上には町場三ヵ所あり。其他は唯青き山と原野なり。人煙の稀少なること北海道石狩の平野よりも甚だし。遠野の城下は即ち煙花の街なり。」
 遠野まで途中はさみしいが、街の中にはいると人の姿がたくさんあって賑やかであるというのだ。こうして柳田の日本再発見の学問である民俗学がはじまろうとしていたのである。
 そこには柳田の深い危機感があった。西洋列強と互すためには、画一的で急激な近代化を押し進めることが手っ取り早い。だがそのことで、農村や山村の昔ながらの生活様式は打ち捨てられていく。遅れたものとして捨てられていくものの中に、昔から育ててきた日本人の魂がある。この古い生活様式や民間伝承にこそ、庶民の歴史がひそんでいるのであって、それを捨てたら日本人は何ものであるかもわからなくなる。誰も彼もが近代化に驀進する時代であるからこそ、本当に大切なものを時代の底から拾い上げなければならない。
 それが柳田の民俗家の主旨である。明治43年8月14日に出版した『遠野物語』に、柳田國男はこのように書いている。
「国内の山村にして遠野より更に物深き処には又無数の山神山人の伝説あるぺし。願わくは之を語りで平地人を戦慄せしめよ。」
 『遠野物語』は今日読んでも鮮烈で、時代の意味を鋭く問うてくる。私たちはどこにいこうとしているのだろうか。私は折々に『遠野物語』を読み、そのことを考えるのである。
100万人のふるさと 2007年春号

南極への旅
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地球規模の時間に思い馳せ

 昭和基地から三十kmのところに、大氷原を滑走路にしている飛行場のS17がある。氷にはどうしても起伏があるので、滑走路はしょっ中雪上車を走らせて平らに保たなければならない。管理棟が一棟あり、発電機が動き、食堂とトイレがある。氷床の上に建っているので、毎年床の柱を上へ上へと伸ばしていかなければ、建物はどんどん沈んでいく。
 テントが幾張りかと雪上車が幾台か止まっていて、そこを宿舎として寝袋で寝る。夏の南極では、一日中太陽が沈まない。夜中もかんかん照りなのである。太陽は上空をぐるぐる回っている。私がS17にいる時、太陽が左に転がっていき、雪の地平線に向かっていったことがあった。光は確かに夕日の赤く火照るような色だった。

●転がる太陽
 太陽が沈みかけた時、地平線が燃えるように輝いた。だが太陽は地平線の向こうに隠れてしまうのではなく、思い直したようにして左に転がりながら再び昇ってきたのである。その時、朝日が昇る透明感のある光に包まれていた。
「昭和基地は大都会だからなあ。埃っぽいから、いきたくないなあ」
 S17で食事係をし、ブルで雪を水槽に落とし込んで飲料水をつくり、雪上車で滑走路を整備しと、なんでもこなしている人がいる。三百六十度白い地平線のS17と違い、第四十八次越冬隊がフル稼動で設営をしている昭和基地は、海に近くて雪がない島もあって埃っぽく、人がたくさんいる大都会である。

●先人の努力
 昭和基地は暖かくて居心地がよい。発電機が二十四時間動き、熱交換システムで裏の貯水池の水を凍らせない。またその熱で風呂も沸かす。第四十七次越冬隊が食べ残した食糧もまだたくさんあるので、うな丼や牛丼やカレーなど日本にいるのと変わらないものが食べられる。持ち込んだものは、全部きれいに持って帰らなければならない。これまで残されていた古い雪上車やドラム缶も、四年がかりですべて撤去する計画の、その三年目である。地球環境の研究にやってきたのに、身のまわりをゴミだらけにするわけにはいかないのだ。
 衛星電話回線がつながっているので、電話はいつでもかけることができる。昭和基地と東京の国立研究所の間は内線だ。おそらく世界で最も長距離の内線であろう。自宅に電話をかけたくなれば、極地研究所と自宅の回線使用料を支払うだけでよいのである。昭和基地がこんなにも使い勝手がよくなったのは、もちろん先人の努力のたまものであり、南極観測五十年の蓄積のおかげである。

●動く昭和基地
 昭和基地のあるオングル島は、かつてはスリランカとくっついていたとされている。その証拠に、昭和基地の周辺ではスリランカで産すると同じサファイヤとルビーが見つかっている。
 つまり、こういうことである。約二億年ほど昔には、南アメリカ、アフリカ、オーストラリア、インド、マダガスカル、南極をあわせた巨大なゴンドワナ起大陸があった。南アメリカ大陸の西の海岸線と、アフリカ大陸の東の海岸線はぴったりと合わさる。約一億八千万年前、大陸の内部に割れ目が生じてマグマが噴出し、大陸が分裂をはじめたとされる。
 約一億六千万年前インド大陸が北上をはじめ、スリランカもついていった。インドはアジア大陸と衝突し、その衝撃で土砂が盛り上がってヒマラヤができた。大陸は今でも移動をつづけている。昭和基地の人工衛星による測量で、はっきり計測されている。一年にニミリほどの動きであるが、遠大な歳月をかければ、大陸も移動するのだ。万物は一箇所にとどまってはいず、流転するということである。
 南極から恐竜の化石も見つかっている。かつて南極は森林に覆われ、温暖だったとされる。南極にいると、四十六億年という地球規模の時間に思いを馳せることができるのである。それが南極を旅するということだ。

下野新聞2007年(平成19年)2月2日(金)

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無垢な生命抱く大地
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 日本の南極観測五十年の歴史で、輝かしい達成の一つにオゾンホールの発見がある。昭和基地での観測値で、一九八〇年からオゾンの全量が急激に減少していた。少し遅れてイギリスのハリー基地でも同様の観測値が発表され、南極の上空は春十月になるとオゾン層に大きな穴ができることが分かった。  オゾン層とは、生物に有害な紫外線をカットし、地球を生命の星とするための大切な自然の仕組みだ。破壊は人工物のフロンによる化学反応に よりで引き起こされるとつきとめられて、フロンの排出は規制された。しかしフロンを分解する方法はなく、五十年間オゾンホールは存在し続ける。  南極は紫外線が強く、用心しないとたちまち肌が赤く焼け、白内障になる。日焼け止めクリームとサングラスが欠かせない。このオゾンホールの発見は、ブリザード(暴風雪)の日も休まずに観測を続けた成果である。  だがまだ地球のことで分からない現象は、あまりに多い。無知のために人が地球を住みにくくしていることもあるだろう。南極は人間をはじめ生物の活動が活発でないので、地球の様子が比較的シンプルに分かる。  一日、私たちはアデリーペンギンのルツカリー(集団繁殖地)に、「しらせ」のヘリで飛んだ。人間という生物の恐ろしさを知らないペンギンは、無防備で寄ってくる。南極もまた生命の大地なのである。この極寒の地で生きる方法を見つけたペンギンは、おそらく何千何万年と同じ生活を続けている。科学技術にとらわれず、進歩をしなくでもよい生き方がある。つねに前進を求められる私たちとどちらが幸福か分からないぞと、私は無垢なペンギンに思った。

東京新聞(夕刊)2007年2月10日(木)

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万物流転 移動する湖
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 ドームふじ基地での氷床深層コアの掘削は、地球のここ七十二万年の歴史を解き明かしながらも、困難な事態を迎えていた。そのことが昭和基地と無線でしばしばやりとりされるので、私にもよく分かった。  全層コアを堀り抜き、基部の岩を掘り出すことを目的としているのだが、氷床の底部は超高圧と地熱のため凍っていないと分かってきたのだ。地底は湖になっていて、湖と湖は水路で結ばれ、しかも湖は移動している。水は海岸の方に動いているから、湖の淡水はいつかは海に出て海水と混じる。あるいはその前に凍結するかもしれない。ここでも万物は流転しているのだ。  地下の淡水の中には、何十万年も生きながらえてきた生物がいるかもしれない。南極では菌類と藻類とが共存して地衣類をつくり、岩の中にまで生育しているのだ。それが驚きだった。彼らにはそこが生きるのに最適の場所なのである。  私たちが南極を去った後の一月二十六日十七時二十一分、ドームふじ基地で掘削中のドリルはシャーベット状の氷に邪魔されて止まった。深さは3,035.22mであった。固い氷は掘れるのだが、水は掘れない。底の岩までは届かなかったものの、約六mmの岩屑が採集された。氷河が削った岩かもしれないのだが、もちろん古い岩であることには違いない。そのまま日本に持ち帰って分析することになっている。  氷床の三千メートル底は、すさまじい圧力であろう。その重みで南極大陸は沈んでいる。南極は氷を盛った巨大な器の形をしている。最低標高はマイナス二、四七六メートルだ。もし氷が全部溶けたら、南極大陸はせり上がり、このことでも地球の気象に大きな影響があるとされている。

東京新聞(夕刊)2007年2月9日(木)

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禅味ある氷雪の「山水」
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 オングル島の昭和基地の向かいの、氷山を浮かべた真白い海を眺めて、私は初めてこの景色を目にするのではないように思った。既視感があるのだ。子供のころより、映画や写真で何度も見てきたからであろう。その景色が目の前にあることが、何とも不思議に思われたのである。
 南極山水という言葉を思いついた。枯山水は岩と砂で構成した日本庭園だが、ここにあるのは氷と雪とでできている風景だ。もちろん人間がつくったのではないが、単純な構成が禅味を感じさせる。
 昭和基地は居心地のよい住空間だ。発電機が二十四時間稼働し、電気をつくるばかりか、その余熱が裏の水源地の凍結を防ぎ、風呂も沸かす。越冬隊の切り替わりの時期で、越冬ピールと呼んでいたが、要するに賞味期限の切れたビールがたくさんあった。
 第四十八次越冬隊は一年分の物資をたくさん持ち込んで越冬の準備の最中で、第四十七次越冬隊は持ち込んだ物資をすべて消費し、すべて持ち掃らねばならない。これまでの南極観測で出たゴミや古い雪上車などの廃棄物も、四年がかりできれいに持ち婦る。
 昭和基地から千`内陸部にあるドームふじ基地に、氷床コアの掘削に行っている隊員の個室を、私は使わせてもらった。燃料のドラム缶を積んだ七台のそりを引き、雪上車でドームふじ基地まで三週間かかる。長旅である。
 二〇〇三年第四十五次越冬隊から三年間掘り続け、地中三千bを超え、七十二万年前の氷を取り出した。氷に含まれている大気を分析すると、地球は十万年ごとに大きな気候変動に見舞われてきた。ことに地球温暖化の要因となる二酸化炭素が、産業革命以降のこの二百年で急激に増えた。

東京新聞(夕刊)2007年2月8日(木)

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気象変動の秘密探究
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 飛行機の窓から、他の世界のどことも違う景色を眺めた。氷床の上から山の頂がわずかにのぞいていた。氷漬けの大陸には二千五百万立方キロメートル、地球上の90%の淡水があるとされる。流転する氷は数十万年かけて海に戻り、大気として降るという循環を繰り返している。この圧倒的な量の氷が、人類の引き起こした地球温暖化により溶けてしまわないかというのが、多くの人の心配だ。もしすべてが溶けたと試算すれば、海面は五十七メートル高くなるとされる。
 日本が管理する飛行場S17に着陸した。エアロゾルと呼ばれる微小な部室と大気の観測が、日本とドイツの共同研究として行われていた。
 エアロゾルはオキアミなどの生物の廃棄物として出される硫黄酸化物と火山の塵等で、雲の核となる微小な物質だ。南極ではエアロゾルが少ないので、息を吐いても白くならない。大気が生物活動の影響をわずかしか受けず、エアロゾルとの関係がシンプルなのである。エアロゾルは大気のシステムに組み込まれ、地球の気象に影響を与える。高度八千メートルまで飛行機で上昇し、エアロゾルと大気のサンプルを採取して、気象変動の秘密を解き明かそうという最先端の研究だ。エアロゾルはオゾンホールの生成とも深く関連していると予測されている。
 私はいきなり南極観測隊の神髄に触れたのである。最先端の研究者は、飛行場のテントの中に寝起きしていた。
 そこから昭和基地までは三十キロで、迎えに来てくれた「しらせ」のヘリでひとっ飛びである。昭和基地のヘリポートには、第四十七次越冬隊の全員が迎えに出てくれ、私たちの荷物を手渡しでたちまち運んでくれた。歓迎の気持ちが強くにじんでいて、私は感動のあまり言葉を失った。
東京新聞(夕刊)2007年2月7日(水)

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眩しい太陽と白砂漠
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 南アフリカのケープタウンから南極にあるノルウェーのトロール基地までは四千三百キロあり、飛行機で七時間かかる。
 茫漠とした白いばかりの大氷原の滑走路に着陸した。眩しい太陽が頭上にあり、景色だけでは時刻はわからない。南極は極度に乾燥した「白い砂漠」なのである。
 飛行場からトロール基地までは、低温で硬い青氷の大氷原を七キロ、雪上車で二十分かかる。氷の上には、氷河が置き忘れていった大岩が点々と散らばっていた。山を超えて流れている氷河が遠くに見えた。氷河は山を削って谷をつくり、岩を運び、やがては海に流れ込む。氷河は雪を水源とする川なのである。
 氷河が通り抜けて露岩になった絶景の中に、プレハブの宿舎が並んでいる。どの建物も高床式の吹き抜けになっている。そうしないと雪が吹き溜まって埋まる。
 二百キロ離れた海に船が着き、雪上車が二日かけて行き、二日かけて戻って七百トンの荷を運ぶ。どれも貴重な物資だが、訪れた人には分け隔てなく食事と、寝る場所のテントを供する。助け合わなければ、極寒の地では生きていけない。
 雪は押し固められて氷床となる。岩のように強固に見える氷床だが、中央部が盛り上がって椀を伏せたような形をしているため、外側に向かってゆっくりと流れ、やがては海に流れ出して氷山となる。万物は流転しているのである。
 この氷は最も厚いところで四千メートル、平均しても千八百五十メートルある。日本列島なら、富士山の頂まですっぽりと氷に覆われているのと同じことなのである。
東京新聞(夕刊)2007年2月6日(火)

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南極への旅
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思いがけず昭和基地に

 私が子供の頃、科学雑誌は人類をバラ色の未来に連れていってくれるものであった。子供たちの描く未来画は、超高層ビルの間を高速道路が行き交い、自動車が空を飛び、人々は太陽の光を浴びて快適に暮らしているというものであった。
 あれから半世紀がたち、ある部分は実現し、ある部分は予想が外れた。予想のはずれた部分というのは、人々が不安もなく快適に暮らしているということだ。最近の子供が絵を描くと、超高層ビルや高速道路はすでに現実のことであり、未来の風景として海は汚染されて魚の死骸が浮かび、酸性雨のために森は白骨林になっていたりする。科学技術は人類をバラ色の未来に連れていってくれるというだけのものではなく、時に深刻な不安をもたらす。夢だったものが、いつしか悪夢となっているのである。

●50年前ここで
 さて、子供の私が胸を踊らせた南極観測隊である。第一次南極観測隊が灯台補給船「宗谷」に乗って東京晴海埠頭を出港したのは昭和三十一(一九五六)年十一月八日のことである。敗戦国である日本は、戦後十年以上たっても深い傷が癒えないでいた。国際社会で日本は孤児であり、人々は自信を持てないでいた。そんな時、日本が国際舞台に復帰すべく試みられたのが南極観測なのであった。人々は夢を南極観測隊に託した。千を超える企業が協力し、全国的に募金活動が展開された。国民的観呼の声の中を送り出された希望に満ちた南極観測隊であった。
 小学校の私は、南極観測隊の記録映画を、授業の一環として見にいった。砕氷能力の低い「宗谷」は、何とか前人未踏のリュツォ・ホルム湾にはいり、オングル島への上陸を果たした。国際舞台に復帰したといっても、観測基地として日本に割り当てられたエンダピーランドは、かつてアメリカが七度上陸を試みて失敗し、接岸不能とまでいわれた難所であったのだ。国際社会の日本に向ける目は、それほどに厳しかったのである。

●心意気に感動
 唯一、上陸可能なオングル島に昭和基地を建設したのは、昭和三十二(一九五七)年一月二十九日でそれから五十年たった。最初の昭和基地は壁パネルを組み合わせて建てる日本初のプレハブが四棟で、日本建築学会の工夫である。今、その当時の建物が一棟だけ記念館の意味を込めて残されている。小さなその建物に入ると、その場で越冬することに決めた十一人の決心の意気が感じられ、涙ぐましいような思いにとらわれる。その建物は現在六十棟近い建物ができた昭和基地の中で永久に残すべきであろう。
 帰路、「宗谷」は氷海に閉じ込められて身動きがつかなくなる。荒々しい南極の自然の前では、悲しいほどに非力な船である。氷海を脱出できないまま冬を迎えれば、死も想定しなければならず、絶望である。だが戦火の旧ソ連の砕氷船「オビ号」が救援に駆けつけてくれ、「宗谷」は無事に脱出することができた。そんな感動のシーンを私が鮮明に覚えているのは、学校で映画館に連れていってくれて観た記録映画のおかげである。当時小学校より上だった世代は、誰も知っている話である。

●世界的発見も
 心に焼きつけられているような昭和基地に、私は思いがけずにいく機会を得た。南極はあくまで観測であり、探検ではない。50年間営々と観測が積み重ねられ、今や南極は不安な未来への覗き窓になっている。この間、たゆみない毎日のオゾン層の観測の結果、オゾンホールを発表した。宇宙からの有害な紫外線を遮断し、地球の生命の存在を許しているオゾン層に、春になると南極上空に大きな穴ができる。このことを突きとめたのが、日本の南極観測隊なのだ。
 自然界にない人工物であるフロンが、成層圏を破壊する。さっそくフロンガスの製造は世界的に中止された。この観測は人類にとってまさに救世主であった。
下野新聞2007年(平成19年)2月2日(金)

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母校にて
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 わが母校は宇都宮市立西原小学校である。昭和二十年代の終わりに入学した頃には、あっちこっちに原っぱが残って遊ぶ場所はいくらでもあった。子供は遊びの天才だから、どんな場所も遊び場にしてしまう。  新川という小さな用水が流れていた。二宮用水ともいい、二宮尊徳が農地開発のためにつくった用水である。だが子供にはそんな歴史のことよりも、学校帰りに笹舟をつくって流し合って競争をするほうが大切であった。時折走り幅跳びをして跳び、跳びきれずに川に落ちたりもした。  土の岸辺だったその小川も、護岸堤がしっかりとつくられ、うかつには跳べなくなった。岸辺の両側には雑草が生えていたのだが、アスファルト舗装され、怪我をするのでますます跳べない。川岸には桜の苗木が植えられ小さい木だという印象が強かったのに、いつしか鬱蒼と繁って桜の名所になっている。  ある日、その新川を昔のように溯って、西原小学校にいった。NHK番組「課外授業ようこそ先輩」の収録のため、授業をしにいったのだ。  西原小学校は私が小学生の時分は、当時小学校で珍しくプールがあった。授業で使うのはもちろん、夏休みなどは市民プールとして大いに賑わったものである。私たちには自慢だったプールはすっかり改装され、学校のためだけの静かなプールになっていた。もっとも季節は三月で、プールはひっそりとしたたたずまいではあった。昔の華やかな記憶と、あまりの落差があった。  戦後のベビーブーマー世代である私たちが入学すると、小学校は教室が足りなくなった。そんなことは前からわかっていたはずなのだが、建設が間にあわなかったのだろう。  一クラスは五十五人で、寿司詰め教室といわれた。最後部は後ろの黒板にくっつきそうで、通路もないほどだった。特別教室などはとれない。理科室はなく、実験なども普段の教室でやった。どうしても必要な図書室は、校舎と校舎を結ぶ廊下をあてた。  西原小学校には自慢の講堂があった。その講堂も四つにカーテンで仕切って、教室にした。どうしても学校の行事で講堂を使う時には、移動式の黒板も、机も椅子も、仕切りのカーテンも外に運び出したのである。  そんな混雑の思い出のある西原小学校に今回いってみて、あんなにも窮屈だつた校舎は新校舎に建て替えられ、新校舎といっても少々くたびれているのに感慨を持った。そして、何よりも変化を感じたのは、その教室が余っていることだった。卒業間近の時期だったので五年生への授業をしたのだが、授業をする隣の教室が空いているので、作文などは生徒一人一人個別に指導ができる。  それがよいことなのかどうかわからないが、時代が変わったことを実感したしだいである。
東京栃木県人会会報 2007年 No.27

現代人も学ぶことある
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 ここまで「地球」を意識した旅はなかった。南極に初めて立った時、青氷の上に大きな岩が転がる光景に驚いた。氷河が谷を刻み、山を越えて運んだものだ。人間がかなわぬ圧倒的な力の差が目の前にある。数万、数十億年…ぼくらが持つ時の流れとはるかに違う裸の地球が見えた。結局のところ万物は流転する。
湖をのぞけばコケが生えている。どんな所でも生きられる場所を探す姿に「生命の星で暮らしているんだ」と、地球に対する尊厳を強く感じた。
 海に浮かぶ氷山は山水の庭に、雪原は砂漠に見えた。「抽象性」を感じさせる風景の中、わき起こる思いに、詩を書いてしまった。都会では欲望を介してしか物事を見られないが、南極はそんなものを拒絶し、生きる力を試される。
 これからは芸術家が行くのもよいのでは。ぼくは南極探検かの白瀬轟(のぶ)を小説で書きたくなった。「胆力」を失ってしまった現代人が学ぶことがきっとある。隊員たちは極寒の地でがんばっている。その根底には今も冒険心がある。
朝日新聞(夕刊)2007年1月27日(土)

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道元禅師の御生涯を書く
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「傘松」前編集長熊谷忠興老師の依頼を受け、道元禅師の全御生涯を見据えた小説を書きはじめて、たちまち不安を感じないわけにはいかなかった。たとえば父母のことである。母は摂政関白家の松殿藤原基房の女伊子とされ、多少の異論はあるものの、可能性は高い。しかし、父に至っては、久我源氏の源通親、もしくはその子の通具とされ、双方には強力な論拠がある。どちらか一方に決めてもらえば、物語作者としてはその通りに言葉を運んでいけばいいのであるが、どちらともいえないということなのだ。父と子とどちらかで書いたとして、人間関係の綾が最後までもつれずにつながらないと困る。最初にボタンをかけちがえれば、小さな矛盾が修復できない大きな矛盾に育ち、やがて決定的につじつまがあわなくなってしまうことはないだろうか。父と母のことが象徴的なのだが、微妙にわからないことがたくさんある。道元禅師の御生涯を書くということは、それを一つ一つクリアしていかなければならないのだ。
 道元禅師というたぐい稀れな、不世出の人物の全生涯にわたる物語を書こうというのだから、父や母についてこの説があるあの説があるという書き方はできない。書こうとしているのは一貫した物語で、エッセイとは違う。どこかで確信を持たなければ、一歩も書き進めていくことはできないのだ。
 毎月二十枚の原稿を書く。今月は調子が悪かったから休みというわけにはいかない。多少経験を積んできた小説家とすれば、二十枚を書くことはそれほど苦しいというわけではないのだが、はじめの頃は一歩一歩世界をこじ開けていくような力術(わざ)が必要で、楽しいということからはほど遠かった。一字一行が私にとっては未知の世界で、苦しいことこの上なかった。それでも締め切りは必ずやってくる。私は自分の状態がどうこうという立場にはない。そして、やがて気づいたのだ。これは私の修行なのだから、苦しいのは当たり前である。むしろ苦しいほうが修行にはよい。その認識にどれほど救われたか知れない。
 「典座教訓」のあまりにも有名な逸話である。道元禅師が大宋国の慶元府の港に着き、船中に留め置かれた時、一人の老典座が倭椹(わじん)(日本産の椎茸もしくは桑の実)を買いにきた。その老典座が後に天童寺に掛錫していた道元禅師のもとに訪ねてきた。道元禅師は前に会った時に生じた疑問、すなわち弁道とは一体何であるかを問う。老典座の答えは明解であった。
 「備界曾て蔵(かく)さず」
 すべての世界はまったく隠れていないということである。迷えるものにきっぱりといい放った言葉に出会い、私も目が開かれた。今自宅の机に向かっている私の前には、現在も過去も未来もあるのであり、すべての真理が流れている。それは寸毫も隠れているわけではない。すべては明らかにされているのに、それに気づかないだけである。私は海や山にいくことが多いのだが、自然という真理は知床や屋久島にいかなければないなどということではなく、私の机の上にも遍在しているのだし、禅寺の禅堂にもあり、いたるところ真理の流れていないところはない。この認織は私にとってこれまでの世界観をまったく変えるほどに強いものであった。このことにおいて、道元禅師に教えをいただき、ほんの一部ではあるのだが世界観を共有したといえる。
 また道元禅師のはじめての著書「普勧坐禅儀」の大意は、真理は本来何不足なく備わり、あらゆるところに通達しているということだ。修行や、修行によって実証をしなければならないというものではない。真理は自在であり、何も修行に苦労して努力するものでもない。真理とはまったくそのまま清浄で穢れたり穢れを拭う明鏡があるというものでもなく、遥かにこれを脱け出している。宇宙の真理はいつでもどこでもあまねく存在し、私たちは常に真理に抱かれている。この真理を仏法という。
 また「正法眼蔵」のうち『現成公按』の巻にはこう書かれている。
 「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは即ち法に証せらるるなり」
 仏道を修行するということは、自己を修行することである。自己を修行するということは、自己を忘れることである。自己を忘れるということは、自己がすべての真理に実証されることである。
 このように学んでくれば 私たちの日常の行い、行・住・坐・臥の中に、真理は隠しようもなく現われているということがわかる。私たちの日常こそがどこにでもある真理のまっただ中に位置しているのである。そうであるなら、人のするどんな行いもおろそかにしてはならない。私にとっては、道元禅師の御生涯を書くという修行の中を、ただひたすらに進んでいけばよいのだ。書いていくことか私の修行なのだと、私は身心で理解したのである。
 それからは、毎月二十枚の原稿を書くことか楽しくなった。その時その時の道元禅師とお会いでき、対話をすることかできるからである。もちろんその坐につくために、一カ月間は真剣に勉強をする。「正法眼蔵」やその他の著作を読み、できれば御修行の地を訪ね。時代は変わったにせよ道元禅師と同じ風景を眺める。そうすることが喜びとなったのだ。
 「正法眼蔵」や「正法眼蔵随聞記」は深淵かつ美しい音葉の宇宙である。難解きわまりない言葉も多いのだが 味わいつくしているうちに、いつしか私の人生が豊かになる。これが修行ということなのだと、私は嬉しい認識とともに実感する。
 『渓声山色』の巻の蘇東坡の偈を味わう。
 「渓声便(すなわ)ち是れ広長舌山色清浄身に非ざること無し。」
 渓流の音はすなわち永遠の釈迦牟尼仏の説法の声である。見渡すかぎりに見える山は、すべて釈迦牟尼仏の清浄心てある。蘇東坡のさとりとは自然そのものか仏だということであり、自然の中にこうしている自分もすなわち仏だとさとったのである。煩悩があるわけでもない自然はそのまま仏の清浄心で、そのことをさとった耳には、渓流の流れもまたすぺての自然の音も釈迦の説法と聞こえる。自然は完璧に調和して微動だにせず、これこそが仏祖の世界だ。とらわれもなく山の中にいることのできる自分は、仏の世界に遊んでいるといえる。もともとさとっている自然が、さとりを開いて自然の中に投入した自己の中に投入してくる。蘇東坡はこのように詩をつくったのだ。私自身はさとりからはほど遠い地点にいるのたが、あるベき世界のことはぼんやりとだが見えはしめた。
『正法眼蔵随聞記』(四・一)には、道元禅師が肉声で語りかけてくれるような言葉が響いている。
「学道の人は心身(しんしん)を放下(ほうげ)して、ただひたすらに仏法の中にはいるベきです。
 古人はいいました。『百尺の竿頭(かんとう)の上にあってなお一歩を進めなさい』
 いかにも百尺の竿頭の上に登って、足を放せば死んでしまうと思って、人はいっそう強くとりついてしまうものです。それを思い切って一歩進めなさいといっているのは、教えにしたがうのだからまさか悪いことにはなるまいと思い切り、すべてを捨ててしまえばよいのです。そうではあるのですが、世渡りの仕事からはじめて、自分の生活の手段に至るまで、どうにも捨てられないものですね。それを捨ててしまわないうちは、髪の毛についた火を払うようにして余裕もなく学道をしていても、道を得ることはできません。思い切り、身も心もともに捨ててしまいなさい。」
私にとっても切実な箇所であるから、その一節を現代語に直させてもらった。道を究めようとする最後のその一歩は困難きわまりなく、その一歩によって世界が開かれると、私は長いこと理解していた。もちろんそれで間違いはないのだろうが、困難な最終的な一歩とはどのようなことであるのか。努力をすれば、なんとか進むことのできる一歩なのか、あまりにも困難きわまりない不可能な一歩であるかということである。長いこと私が考えていたのは、努力が足りないからその−歩を進めることができないという平凡なことであった。そうではないと、やがて考えを改めた。百尺の竿頭の上に立ち、その先には何もない。何もないのだが、なお一歩を進めなさいと説いているのだ。それでは死んでしまうではないかなどと己れを守ることを考えず、思い切って仏の家に身を投げ入れてしまいなさいということだ。用心深く一歩一歩を進めるのではなく、何もない世界に向かって一気に身を投げ入れることによってしか、到達できない世界がある。そこまでいきなさいと、道元禅師は力強く説いているのだ。
 もちろん簡単にできることではないのだが、身心を放下するとはそういうことなのだろう。道元禅師の著作を読み、自分ながらの道をほんの少しずつでも歩いていくうち、自分自身が変わっていることを認織する。そんな瞬間が数限りなくある。それが道元禅師とともに生きるということなのだ。変わるたびに、ほんの少しずつではあるが道元禅師その人に近づいている。道元禅師の小説を喜きつづけていくということは、少しでも道元禅師に寄り添い、その時その場の状況の中で苦悩し、道元禅師の通ってきた道を生き直すことなのだ。
 旅に出かける時も、「正法眼蔵」の何巻かを鞄にいれていき、飛行機や電車の中のわずかな時間もページを開くことが私の習慣になった。御生涯をたどるうち疑問点が生じると、私は「傘松」元編集長熊谷忠興老師や、昌林寺東堂故郡司博道老師を訪ねる。郡司老師は同じ東京に住んでいることもあり、労を惜しまずいつでも私のために充分な時間をとってくださった。郡司老師との対話の中で生じてきたイメージに助けられたことは多い。
一人で「正法眼蔵」に向き合う時間が、私には限りなく豊饒の時となってきた。また小説を書く時も、毎月二十枚分ではあるがこれから道元禅師にお会いするのだという心踊る気持ちにもなってきたのだった。
道元禅師をイメージで語るなら、月である。「正法眼蔵」には豊かな月のイメージがあふれている。
『現成公案』には、人がさとりを得るということは、水に月が宿るようなものであると説かれている。月は濡れず、水は破れない。月は大きな光なのだが、小さな水にも宿り、月の全体も宇宙全体も草の一滴の露にも宿る。一滴は月全体や全宇宙を呑んでも、なお余りある。この一滴とは、私たちのことである。人間存在をここまで根源的に強く認識することが、道元思想の根幹であり、私はそのことに魅入られた。
 『都機』の巻にはこう説かれている。
 「釈迦牟尼仏言(いわ)く、仏の真法身は、なお虚空の若(ごと)し、物に応じて形を現ずることは、水中の月の如し。」
 真理である仏とは、形のない虚空のようなもので、水に写る月のように物に応じて形を現じる。つまり、私たちの心や身にも仏は現じるということだ。そうであるなら、仏が現じるように受け止める側の心も、波風のない澄んだ水面のようでなくてはならない。全宇宙を宿す一滴の露も、それが濁っていれば、全宇宙も曇って見えなくなる。心の水を澄ませるように精進することが、すなわち修行だ。
 「光、万象を呑む。」
 真理である月光が、森羅万象を呑みつくしている。万象は例外なく仏法に柔らかく包摂されていて、たとえそのことを意識していなくても、そのようにしか存在しない。「遍界曾て蔵さず」ということである。月光は太陽光と違って人に意識されることも少ないのではあるが、柔和に包まれたその光の中から逃がれることはできない。仏法もそのようである。真理の形をこれほど美しく見事に語った言葉を、私は他に知らない。人が意識しようとしまいと、月という真理に照らされ、何もかもが隠しようもなく露わになっている。
 月光はすべての森羅万象を呑みつくすと同時に、心の光がすべての森羅万象を心の中に含んでしまう。万象の中には、生もあり死もある。生きて死ぬことが私たちのさとりなのであるが、生も死も隠されているわけではなく露わだ。全宇宙で隠されているものは塵ひとつさえなく、すべてが私たちの目の前にある。過去も過ぎて消えてしまったのではなく、未来はいまだ現われず見えないのではなく、すべてがこの今に現成されている。人が認識しようとしまいと、ここにはすべてが厳然としてある。すべてが露わになっているのに認織できないのは、認識できない私たちの問題に過ぎない。
 「遍界曾て蔵さず」とはこのように、道元禅師の思想の根幹なのである。私はもどかしいほどに認識をわずかずつ一歩一歩と進めて、道元禅師の御生涯を書き進めていったのである。私にとってはまことに尊い御縁であった。
傘松(大本山永平寺機関誌)平成19年1月号

涙出たオニオンスライス
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 「若き日の貧乏物語というのは、現在お前は何をしているのかという存在を問う声がたえず響いてきて、ほろ苦い思いになる。つまり、昔は純粋だったなあということである。 故郷の宇都宮から早稲田大学に入学するため上京した時、私は高校の先輩と四畳半の下宿に二人で住んだ。一人二・二五畳である。下宿では食事がでたが、盛り切り一杯の御飯と、おかずは朝は海苔が少々、夜はサバの味噌煮などが一品ついた。味噌汁は水を足すだけで増やしていくので、少し遅くいくと具が何もはいっていない。
 そんな食事でも、日曜日は下宿のおばさんが休みとなるので、近所の食堂にいく。私は上京してからはじめて一人で食堂にいった。小さな冒険のはじまりだ。ところが想定したよりも値段が高い。仕 送りで暮らす予算があり、困ったなあと思って壁に貼ってあるメニューを凝視し、安いのをみつけた。「オニオンスライス」であった。
 それがどういうものか知らず、私は「オニオンス ライス」と読んだのだ。たまねぎ御飯と勝手に解釈し、私はこれを頼んだ。やがて出てきた料理は、薄切りの生のたまねぎの上に花かつおがかかっているのだった。これをおかずに食事をする東京の人は、なんと貧しい暮らしをしてるのかと、同情を禁じ得なかった。花かつおが人を子馬鹿にしたように揺れていた。
 御飯がいつまでたっても出てこない。御飯はまだですかと女店員に聞けばよいのだが、私は自分の言葉が栃木弁で相当訛っていることを自覚し始めていて、何かいおうとすると喉のあたりがむずむずして痒くなる。
 私は「オニオン スライス」を沈黙のうちに食べてきた。東京暮らしはつらいな。辛くて涙が出て、おなかがいっぱいにならないなと思ったしだいである。  それから私は下宿を何度か変わった。いつも貧乏で、深夜に食べるものがなくなって部屋の中を見回し、新聞紙はそもそも植物繊維だから食べられるはずだと思いつき、試みに煮たことがある。インキの油分をとるため何度も水で洗ったが、ほんのわずか食べて、やめた。とても食料になるものではないと、改めて思い知った。
 これは学生時代のことだから、期間が過ぎれば終わることである。私が本当に貧乏で不安だったのは大学を卒業してからだ。
 四年制の大学が終わる時、人並みに就職試験を受け、合格した。誰でも知っている東京の一流出版社の編集者になることが内定したのだ。その頃私は小説を書きはじめていて、「早稲田文学」にようやく小説を一篇発表した程度であったのだが、どうしてもこの道をいきたいと願った。貧乏生活をしなければならないのはわかっていた、しかし、魂に正直になることが人生には大切だと思ったのだ。
 社内にも私の意思を受けとめてくれる人がいて、たいしてごたごたもせずに私は内定取り消しを受けることができた。会社に挨拶に言ったその足で、私は当時山谷とよばれていた寄せ場にいった。気持ちだけでは生活ができず、日雇いの肉体労働をして金を稼ぐためである。もちろん思い詰めているなどということはまったくなくて、身体が元気ならどこでも生きていけるという楽天的な明るい気分であった。大学の友人たちにも、私と同じような暮らしをしているものが何人もいたので、悲壮さはまったくなかったのだ。
 山谷では、百円で酔う方法を教えてもらった。二十円を自動販売機に入れえると、焼酎のお湯割が盃に一杯でてくる。そばには一味唐辛子の小瓶が置いてあり、盃の中にたっぷりと振りかける。残りの金で焼き鳥を買って肴にしながら、唐辛子入りの焼酎を勢いよく三杯飲む。飲み終わったら、そのあたりを全力疾走する。すると一気に酔いがまわってくる。あまり走り過ぎつと気分が悪くなるので、そのバランスが大切であった。
 その後私は結婚し、最初の年収の確定申告が十九万円だった。どうして申告したかといえば、原稿料は一割があらかじめ源泉徴収されて手元にはいる。その一割り分、一万九千円が、私には実に重要だったのだ。
朝日新聞 2007年1月4日(木)

定年帰農はそれほど簡単なことではない
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 先日、地方へのUターン、Iターン事業をすすめる人と話していたら、住宅の世話しても2種類の人があり、対策に迷っているという話を聞いた。一つは別荘という感覚で、地元に帰属するという意識は薄い。もう一つは、その地域に根ざそうという人たちである。別荘がわりに使おうという人は、地域と融合しないのはこれはもう仕方がない。
 定年帰農とは、それほど簡単なことではない。そもそも農業は天と地の間に位置し、日々刻々変化する気候に向きあう仕事である。気温も日照時間も降雨量も、年ごとに違う。その変化にあわせて種を蒔く時期を考え、肥料の組み立てをし、水の調節をする。この感覚は、一朝一夕で自分のものにはならない。農業とは精緻(せいち)な技術である。
農業に従事している人は、子供の頃よりその感覚を養っている。
 都会で人間関係の中に忙しい
生活をしていた人は、晴耕雨読にあこがれる傾向がある。雨が降ったら野に出ずに書物を読む生活は、実は単調で退屈なものである。とりあえず1年やってみて孤独に陥り、街の趣味のサークルの中に復帰してきた人もいる。
 また都会の人間関係に疲れたから、田舎暮らしを望むという人もいる。だが、田舎のほうが人間関係は濃密なのである。月に一度くらいは道直しや水路の管理があり、一軒で一人は労働力を出すという決まりがあったりする。そのことをしなければ、地域社会に参加することはできない。それがいやで、田舎の自然だけが欲しいという人は、自然の中にの開発された別荘地にいったほうがよいであろう。
 今、地方は過疎に苦しんでいるところが多い。過疎とは、人材がなくてやりたいこともできない状態だ。私たちがつくったNPO「ふるさと回帰支援センター」は、自分の能力を過疎の地方のために使おうと望む人たちへ、情報を提供する組織である。地方自治体からこんな人材が欲しいという要請をもらい、多くの人に広く提供する。定年帰農は簡単なことではないが、地方が本当に欲しいのは、たとえば商品開発の企画力や流通をする力である。それは都会的なセンスといえる。
 丸ごと生活の拠点を移すのは、そう簡単なことではない。夫が定年をむかえ、地方に住みたいと思っても、妻は住みたくないという場合もある。根底にあるのは家族の問題である。これまで夫婦がまったく別の考えで生きてきて、急に妻に夫の考えにあわせるようにといっても、それは無理なことだ。
 そこで提案するのは、たとえば人によって帰農の形は様々であるということだ。1ヵ月のうち10日地方にいってもよいし、夏だけ耕作をしてもよい。もちろん他の季節もなんらかの管理をしなければならないのであるが。その期間、夫婦が別居してもよい。2箇所住居まで柔軟に範囲を広げれば、新規に農村で暮らすことも案外可能ではないかと思える。
農業共済新聞2007年1月1日