人のいる風景を旅する
インタビュー
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 ■この「立松和平 日本を歩く」は約三十年にわたって書かれてきた紀行文をまとめたものですね。

 立松 よく調たなと思うけど、編者の黒古一夫氏に全都道府県についての文章があると言われたんです。我ながら驚きでした。ただやっぱり、その土地との縁とか自分の気持ちがあるから、多いところと少ないところはありますね。一番多い場所は知床でした。

 ■知床だけで一巻になっていますね。

 立松 大体一巻に千二、三百枚入っているんですよ。あとは沖縄が多かったなあ。沖縄は昔から若い時から行っていた青春の地ですから、触発され、書きたくなって書いているのでしょう。文章を読むと自分がそれぞれの土地に啓発されて生きてきたかたちというのがよく分かります。土地によって書かされたというか、そんな様子が改めて分かりますね。
 
 ■これを読んでいると、日本は北から南まで気候だけでけなく人の暮らし方もまったく変わってくるというのがよく分かります。

 立松 観光とも違って農家に住み込んだりとか、あと知床では漁師と船に乗ったり番屋に止めてもらったりとか、そういうことをやってきたんですね。自分でどう生きてきたのかがよく分かりました。土地の魂に触れた時に言葉が生まれてくるというか書きたくなるんですね。与那国島の砂糖キビ畑の農家に住み込んだりもしました。去年は援農隊三十周年記念だというので呼ばれて行ったのだけど、しばらくぶりだったのでみんな喜んでくれてね。ただ南の親と思いなさいと言ってくれた僕が世話になった大嵩のオジーが亡くなってしまった。そのあと一ヶ月後にもう一度行ったら、今度はオバーがオジーを追うように亡くなっていた。諸行無常というか、時間が経つといろんなことがあっていいことばかりではないんですね。悲しみもありますよ。

 ■場所も人も変化していくという実感はありますか。

 立松 僕が盛んに旅していた二十代三十代ぐらいの肉体的にも一番元気な頃と、五十代の後半となった今では地方のあり方が変わりましたね。「日本を歩く」を校正していて、自分も元気だけど地方もこんなに元気だったんだと思いました。地方はどんどん過疎になっているんですね。たとえば与那国はわりと元気なほうだと願うのだけど、やっぱり過疎化は進んでます。島には高校が無いから子どもが高校生になると島を出てしまうんですよ。キビを作って畜産をやって、それで食えるぐらいになんとかみんながんばってやってるのだけど、構造的に人口減になって行くんです。
 あとしやっぱり風景が変わりましたね、本当に変わった。昔は沖縄らしいサンゴ礁の石を積んだ石垣で、ワラの屋根もあったんですけど、今は鉄筋コンクリートの家が並ぶようになりました。

 ■それは沖縄に限らずですか。

 立松 全国いたるところです。僕が良く行っている福島県の舘岩村があるんです。今度合併で館岩という名は消えました。南会津町です。そこに曲屋(まがりや)集落があるんです。この会津の曲屋集落というのは、馬が非常に大切にされていて、人と馬が一緒に暮らした形なんですよ。

 ■曲屋というのは母屋と厩がつながってひとつの建物になっているものですよね。

 立松 そうです。館岩村が八八年に国土省の農村アメニティコンクールの住みよい農村の第一位になったので取材に行った時、そこで当時役場に勤めていた僕の舎弟分みたいな男と親しくなった。村に残っていた長男と長女が結婚すると、一方の家が消えてしまう。そこで彼はムコになって彼女の家にはいった。そこが前沢という曲屋の集落だったんです。また同じ村にある水引という集落も、曲屋が集まっています。水引にはしっかりした木材で作ったカヤ葺きの曲屋が並んでいたのですが、今は歯が抜けたような状態になりました。カヤ屋根は本来の村の暮らしには必要な生活形態だったんです。囲炉裏を切って中で薪を燃やしてカヤ屋根を燻れば虫もいなくなるし、暖かいし涼しいんですね。このカヤ屋根を十年かそれぐらいで定期的に修復しなければいけないのだけど、村のみんなの共同作業でするんです。それを「結」(ゆい)というんですけど、貨幣経済と違って物々交換みたいに労働力を貸し借りするわけです。でもこの集落に残っている人はみんな高齢化して、自分では労働力を返せなくなっているから人から借りられない。労働力が返せればいくらでも借りられるのだけど、返す当てが無くなってしまったので「結」が崩壊してしまったわけです。大体舘岩村が合併で南会津町となるのを機に、財政難だということで、今までカヤ葺きにする時に村から出ていた補助金が切られました。業者に頼めば何百万もかかるのに、村の補助金も出なくなったら維持するのは無理です。
 そうやって生活形態が変わって行くことによって景観もどんどん変わっていった。僕が三十年かかって歩いてきた前半の風景と後半の風景はずいぶん違います。あともう一つ変わったといえば、地方都市の郊外はどこも一緒になりましたね。

 ■確かにそうですね。
 
 立松 今の時代はコストが一番大切なんですよ。国際競争もコスト、生活の利便性もコストで競争するわけです。そうすると工場で大出生産したコストが安いものを大量販売するようになって本当に均質になりました。建物も工場でつくられています。街が激しい勢いで均質化していますね。まあはっきり言うとどこの風景も同じになった。

 ■どこの地方の風景も同じようになってしまったことで、人間も変わってきたと思われますか。

 立松 地方で個性を持って生きてきた人たちのその個作は当然無くなりますよ。生活はみんなおんなじで個性だけ持てと言ったってそれは不可能だよね。そういう意味では日本は急速に縮んでいる印象があります。僕は日本を記録しようなんて思っていなかったけど、こうやって自然のなりゆきで文章を書かせてもらって写真も撮影したものが、たった三十年ぐらいの間に懐かしい風景になってしまいました。
 
 ■記録しておかないと次に行った時にはまったく変わってしまうのでしょうね。

 立松 そうですね。風土の中で生きて行くそこにしかない生活形態というものがだんだん薄れてくる。曲屋は曲屋の生活形態があったわけです。それは沖縄なんかもそうですね。僕は沖縄へは復帰前の十八歳ぐらいから行ってますが、僕が十八で行ったその沖縄というのは、日本復帰前のドルが流通している沖縄です。アメリカの軍政下にあって非常に問題も多かったんですけど、しかし今から思うとすべての風土が沖縄らしかったなあと思うわけ。沖縄が沖縄を生きていた。その時は金がなくなって波之土という歓楽街で働いたんです。東京で言えば歌舞伎町みたいなところですよ。かつては辻(チージ)という遊里があり、その当時はベトナム戦争中のアメリカ兵を相手に商売をしていたナイトクラブ街でした。古い料亭があって、三線の音がこぼれてくると思えば、ハードロックのギターが響いていました。そういうところに飛び込んで行ってナイトクラブのボーイとして働きました。「途方にくれて」という僕が初めて書いた作品は、波之土を舞台にした小説です。その波之土には今も沖縄に行くたびに青春の思い出を探りにちょっと行ってみるんだけど、もうあれから四十年も経ったて変わりました。その後アメリカ兵のかわりに自衛隊がやってきて、今は風俗街です。土地の変化を痛みとして感じなければいけない時代になりましたね。

 ■この中のエッセイでも、自然だけに限らず生活がどんどん壊れていくことに対する憤りのようなものを書かれていらっしゃいますね。

 立松 最初は戸惑いだったりするんですけどね。風土の中でそれに合わせた生き方をしていくのが自然だと思うのだけど、自然環境が壊れるというのはエコロジーにかなった生き方が壊れることですよ。それを嫌というはど見せられてきた。最近の旅というのは、そういう傾向にありますよね。たとえば綺麗な海岸だったなあと思い出して行きますでしょう。でも、水が汚れて砂も汚れてしまっているんですね。もっと言えば浜が無くなっている。テトラポットが投げ込まれ堤防が作られて砂浜が無くなっている場所が多いです。魚もとれなくなっている。外国から魚を買えば、とりあえずの食卓には間にあう。その意味では「日本を歩く」は、なにか日本列島が奪われていく記録みたいな感じもしないではない。そんなつもりで旅行して書いたわけじゃないんですけど。

 ■結果的にまとめてみるとそういう記録になってしまわざるをえなかった。

 立松 はい。僕はどちらかというと第一次産業の農民とか漁民とかがいるところに行くことが多いから自然にそうなるのだけど、自然の上に立っている生活が立ち行かなくなっている場面が多いですね。いつもそんなに怒ったりしているわけではないのだけど、こうやってあらためて自分が現地に足を運んで書いた文書を一気に校正してみると、これはもう無いじゃないかと思ったりして愕然とするようなことがしばしばあります。

 ■立松さんはそこの土地に暮す人と関係を深めていくことが多いような気がします。

 立松 旅していちいち関係を結ぶというのは正直そう簡単にはいかないのだけ
れども、でも深く関係を結んでしまうところもあります。でも、深く知ったところほど風景が変わっていくことを感じざるを得ません。そのことを痛いように感じます。風景が変わるとそこに住んでいる人の暮らしも変わったことが分かります。風土性が気薄になってきています。それは日本全体に言えるし、もしかすると世界全体に言えるんじゃないですか。それがグローバルスタンダードの実態です。

 ■さっきもちょつとおっしゃっていましたけれども、立松さんの視線は主に農業や漁業などといった生きることに直結するなりわいをしている方たちに向けられていますね。

 立松 いちおう今は都会に暮らしていますけれど、どちらかというと自分が地方で生きてきたから農村漁村を向く傾向が強いですね。はっきりしているんじゃないですか、それは。別に都市が嫌いなわけでもないんですけど。

 ■エッセイの中でも時々書かれていますけれども、自然の恵みを享受するということは、同時にいくつもの死がそこにあるのだといったことを書かれています。

 立松 それは自分の認識ですね。仏教的な世界観から自然を見ていくようにもなったし。
 新潮新書の「知床に生きる」にも書いたけど、知床は孵化事業をやっているから昭利三十年代の十倍ぐらいサケが獲れているんですよ。それで本当にあまりにもたくさん獲れるので、僕は豊かな海だとそういう意識ばかりが強かったんです。実際それは間違いではないのだけれど、ただたんに豊かなのだとは見えなくなりましたね。
 漁に出る時、船は漁港で二、三トンの氷を積んでいくんです。すぐそこが漁場なのにいらないべって言ったら、魚が暴れるから冷さなくちゃなんねえって。それは魚が暴れて熱が出るからなんですね。熱で身が焼けるから、それを冷ますために氷が必要になるわけです。じゃあなんで魚が暴れるかといえは、死が恐いからですよ。船の甲板が波に沈むほどに獲れた魚が一匹一匹全身全霊でもがき暴れる世界を見ていると、死というものを当然考えるようになりますね。それは僕の年齢にもよるのでしょうけど、今はどこに行っても何を見てもそれを感じます。
 この本はわりと林業漁業の記録みたいな部分もあるけど、人間のやっていることの片隅には野生動物がいっぱいいるんだという視点も出て来ました。人間ばっかりじゃない、植物を含めた大きな曼荼羅の上にあらゆる生物は存在する。そんなふうに思いますよ。つまり、死というものの上に我々は生きているわけです。今、道元について書いているから、そういった言葉を道元からたくさんもらうんですね。「自己に無量の法ある中に、生あり死あるなり」。自分の中に無限の真理が流れていて、その中に生があり死もあるのだと道元は言っています。これは『正法眼蔵』の中にある言葉なのだけど、我々が生きていくなかに当然のことながら死もあるわけです。そこのところをだんだん感じるようになりました。当然風景にも死があるんですよ。生の光景の中に死も内在しているという気持らが非常に強くなりました。若い時には生の世界しか見ないけれど、だんだんと死が見えてくる。特に知床なんかで生きものたちの生と死をずっと見てきたなという感じがあってね。生物体系の上に人の生活があるんですよ。それを食物連鎖ともいいます。漁師が野生にあふれた絶景の中で漁をしているそこに生と死があるわけです。そういう風景を僕なんかは見てきたわけですね。つまり、ただ自然が良いだけじゃなくて、そこに人が生きていることに価値がある。人もまた風景を作っていきながら、そこで生と死を繰り返していく。やっぱりそういう生と死の曼荼羅が見えてくるね。人間を排除して自然だけ守ってどうするんだと思うんです。知床について、僕は自然の生態系があって、その上に人間がいるから価値があるんだと思います。結局のところ知床という自然でさえも、ただあるがままにあるのではなくて人が作ってきた自然なんですよ。ルールを保って決めただけしか獲らないし、孵化事業をやってきたおかげで昭和三十年代の十倍ぐらいの漁獲高が挙がっているんです。そのサケマスが川を溯上し、ヒグマや多くの野生動物を養います。ヒグマはサケマスを森にも運び、それで森が養われる。人の営みが基本にあります。日本の自然というのは全部そうです。田んぼなんかがいい例じゃないですか。人間というのは矛盾だらけですよ。しかし矛盾だからいけないというんじゃなくて、矛盾をはらんで生さていかなくちゃいけないわけ。矛盾を超えて成功して美しく生きている人は滅多にいないです。僕自身も矛盾だらけだけどね。だからそういう山河の中で生きている人たちに僕は会いに行くわけです。

 ■そこに暮らしている人がいるからこそ、その場所に行く喜びがあるのでしょうね。

 立松 結局、人の精神に映る風景の中に旅してるんですね。人が良くなければその心の中に映る風景はやっばり良くないと感じます。ただ外にある風景だけではないんです。人間に向かって旅しているという感じですね。だから僕の書いたものはほとんど人間が出てくる文章ばっかりでしょう。あっちに行ってこういう人に会ったという人間紀行行ですよ。ともかく、この本は歩きまわって実感でものを言うといった方法です。実感しか書いてないわけだから。でもそこで時の風化に耐えて人間の暮らしの跡を残すことが出来るのはやっばり文学でしょう。文学には強い力がありますからね。そういうところで文学者として、やっていきたいなとは思うんですけど、風景が変わって人の暮らしが変わったぞという悲しい認識は強いですね。

 ■日本かこれ以上変わらないで風景を保っていけるかどうかというのは今が正念場なんでしょうか。

 立松 歴史は絶えず正念場なんだけど、地方の疲弊は極に達しているように感じます。やっぱり過疎と高齢化です。特に中山間地が暮らしにくくなっていますね。中山間地というのは人間の生態系にとってはもっとも重要なところですよ。
森があって家があって、周りに棚田が作ってあって、家の周りには菜園があって自分で食べるものを作っていて、鶏を放し飼いにし、鯉の池もあって、一回りしただけで大体生活の用が足りる使い勝手のいい生活があったわけです。裏山には家の材木をとる森もあります。勤勉な生活をしていないとそういう風景は出来ないけれども、こういう風景を見ると豊かな生活をしているというのが分かります。それは貨幣経済とは違う満ち足りたごく当たり前の暮らしなのだけど、そういう平凡な風景がものすごい勢いで壊れているね。自給自足的な生活は今あまり求められてないし、自分でやれといっても簡単に出来ませんよ。そこに暮らすためには力量がいるのね。
 でもね、日本は南北に本当に長いでしょう。島尾敏雄さんはこの日本列島をヤポネシアという詩的な美しい表現をしたけれども、地球儀で稚内から与那国島まで指を当ててその幅をヨーロッパに持っていって、稚内に置いた人差し指をヘルシンキに当てると、親指は大体サハラ砂漠まで届くんです。地中海をぐっと回すとギリシアからブルガリア、トルコに到らんとしますよ。日本列島の幅というのは全ヨーロッパを含むほど広くて南北に長いために、気候の変化が激しく風土の幅がある住んでいて楽しいところです。だから旅をしなさいと言いたいね。特に若者には温泉へ行って人の作った旨いものを食べるんじゃなくて、そこの風土の中で生きている人たちと会って、その生活にふれる旅をしてもらいたい。自分のことを言えば野宿の旅から始まって旅ばっかりしてきて、今度の出版はまあ放浪の跡の記録ですが、そうやって歩いてきた痕跡を自分自身で改めてたどってみると、旅をして他者を認識し、そして自分の生き方を探していく探求の旅をしてきたなという感じがします。旅はまだまだ続くのだけど、しばらくは座って大きい作品を書きたいという気持ちも強いですね。
「立松和平 日本を歩く」に寄せて 三田誠広
週間読売人 2,006年6月16日(金)