風 景 は 壊 れ た
インタビュー「立松和平 日本を歩く」全7巻をめぐって
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生涯かかって旅してきたことの記録

 ■立松さんはこれまで小説作品を多数発表されて来られたと同時に、旅のエッセイの量も膨大です。それが今回の全7巻刊行に繋がったのだと思いますが、立松さんにとって文章を書かれることと旅との関係はどのようなものですか。

立松 そもそも、ものを書き始めるより、旅の方が早いのです。身体の方が先に動いていました。なんとなく旅に出て日が暮れたらその日の宿を探す、そんな感じです。ステーションホテル、パークホテル、シーサイドホテル、リバーサイドホテル……と格好良く言っていましたが、野宿して全国を歩いていた(笑)。それが十代、意識的にものを書き始める前です。21歳で最初の小説『途方にくれて』を書いたのも旅先の沖縄で金が無くなり、アメリカ兵相手のナイトクラブで働いた体験からですから。
 まだ死んだわけではないけれど、この本は生涯かかって旅してきたことの記録で、僕にとっても思いが深いです。全部克明に、業のように覚えています。何にこだわって生きてきたのか、も滲み出している。また本に出てくるおじいやおばあが亡くなったなんて聞くと、無常を感じますしね。人が亡くなるのは仕方ないにしても、海岸や風景がなくなる。以前行ったときと同じっもりでそこへ立つと、あまりの変りように呆然とすることがあります。
 旅をすることと文章を書くことは、僕が空気を吸うようにごく自然にやってきたことなんです。この全7巻をまとめるにあたって、黒古一夫さんが「全都道府県を歩いている」というまで、自分でも気がつきませんでした。「そんなことないだろう」と思ったけど、本当にあるんですね。行ったことは間違いなく覚えているのですが、そこでの文章を全部を書いていたかは自信がなかった。

 ■書き始められて、もう四十年になりますか。

立松 そういうことになりますね。歩いてきたなあ、というか。日本が変ってきたなあ、と思います。

 ■その辺りをお聞きしたいのです。四十年で日本の風景はまさに変ってきたと思いますが、歩き続けてこられた立松さんの実感はどのようなものですか。

立松 まず一つは、地方都市がみんな同じになりました。町の中心部がさびれてシャッター通りになってしまい、郊外型になりましたね。市町村は一生懸命活性化を、ということで再開発をするんですが、それは道を作ることなんです。すると片側の町並みが壊れる。そこに何が出来るかというと、駐車場です。一番金がかからないし経済効率がいいのでしょうね。車は走りやすくなるけれど、町並みは破壊されていく。郊外へいくと、スーパーと全国チェーン店ばかりでしょう。どこへ行っても大量生産の同じものが消費でき、確かにコスト的にはそれが安いのでしょう。しかしそのことによって町並みが全国どこへ行っても同じになりました。これが一番変ったことだなあ。特徴が無くなりましたね。
 もう一つは、地方の風景が絶滅危惧種みたいな感じで壊れていますよ。それが積もり積もってきている感じです。かつての農村風景では、ポツンと家があると、家の周りに野菜畑があり、日当たりの良い南側には花壇が作ってあって、家を一回りするだけで生活の用が全部足りた。仏壇の菊の花はその辺で咲いているものを切ってくればいいし、今晩のおかずの野菜は畑を一回りすればいい。イケスがあって魚がいてね、鶏も放し飼いしてあったり……。少し散歩の足をのばせば田んぼがあって、米が採れる。あぜ道には枝豆がある。山に入れば山菜や椎茸もある。家を建てるときの木材も採れるわけですね。そうした生活から出てきた風景、使い勝手のよい風景だと思いますが、それがどんどん無くなってきてしまった。僕は今東京の都心で暮らしていますが、仏壇の花を買おうと思っても手に入らないんです。最近それを痛切に感じます。外国のしゃれた名前の花は簡単に買えますが、古風な菊の花は買えない。田舎の使い勝手のいい風景の中に、生活が滲み出ていた。生活が風景を作っていたのではないでしょうか。この本をまとめるにあたって、絶滅していく、消えていく風景というものに哀切な思いを抱きました。生活が変りみんな高齢化して、田んぼも耕作放棄地が増えてしまって、日本の風景が変わりました。風景が壊れるということは、そこに住む人間も壊れるということです。共同性、生活の形、精神が壊れていく。
 何でこんなに変ったかというと、根本はコストの問題だと思います。コスト至上主義の時代は、安いものに価値があるんです。生活から風景を作っていき、その中から生み出す産物というのは手がかかるしコストが高くなる。機械と農薬と広い土地でつくった安いものを、外国からポッと持ってきた方がいいという考えになってしまう。コスト至上主義になって日本の風土は底が非常に浅くなったと思います。特徴を消していった。日本全国よくここまで同じ町を作ったな、と感心さえします。車で走っていて居眠りをし、フッと起きて風景を見てもそこがどこなのか、よく考えないとわからない。グローバルスタンダードの根本に流れているのは、コスト意識でしょう。日本の農業が立ち行かなくなるのは、コストによってです。手間がかかるものは、無くてもいいもの、になってしまうからね。文学やそれにまつわる活字の世界もそうなっているでしょう。図書新聞も身に沁みるんじゃないですか(笑)。コストのかかるものはみな、グローバルスタンダードの渦に呑み込まれました。

遊行しているという認識

 ■一年のうち、ご自宅にいらっしゃるのはどのくらいですか。

立松 放っておくと三分の二はどこかへ行ってます。昨日も実は津軽へ行っていました。雑誌「家の光」の取材ですが、長芋生産の農家の方たちと、ヤマセの寒風のなか会ってきました。でも最近反省しているんです。やはり旅ばかりしていると、小説が書けないので(笑)。いま書き下ろしと、歌舞伎の台本を書いています。それから雑誌「大法輪」で長年コツコツ書いてきた「救世−聖徳太子御口伝」が千百枚くらいかな、ほとんど終わるところです。あと、永平寺の機関誌「傘松(さんしょう)」に書きつづけてきた「月−小説道元禅師」が二千枚、今年中に書き上げる予定です。これは足かけ九年かかりました。
 旅をしながら書いてきたわけだけど、いま五八歳になって、やっぱりちょっと「書きたい」という気持ちが猛然と湧いています。旅をしないわけではないけれど、旅に囚われていくよりは内側を向いて生きていこう、と考えているとてもいい機会にこの本が出せました。
 
 ■ある時期から、書かれるものに仏陀や木喰など、仏教に関したものが多くなられたと思います。それはどのような契機からですか。

立松 四十歳半ばくらいからだと思います。でも昔からそういう傾向があったし、旅も遊行しているという認識があった。だから自分では特別変わったとは思っていない。ただ心をあからさまに書いていこう、とは思いました。それは道元に関する連載を始めたことが大きいです。永平寺の機関誌ですから、一般の方たちの目に触れる機会はなかなかないのですが、一回二十枚をコツコツ九年近くやっていて、もうすぐ百回です。
 
 ■旅に資料なども持って行かれるんですか。

立松 道元に関しては出来ないですね。『正法眼蔵』とか厚い本をリュックに担いで持ち歩くことはしょっちゅうですが。雑誌「岳人」で″百霊峰巡礼″の連載をしていて、それで山にも登っているので、旅はしないなんて言いながらそうもいかないかな。山岳信仰の盛んだった山を訪ねるわけですが、百というと甘くないですよ。富士山から槍ヶ岳、剣岳、去年は白山とか立山、御嶽山を登りました。三十は既に登りましたが、まだ七十残っています。

 ■三十〜四十年の間でご病気になられたときもあったのではないですか。

立松 それはありますよ。疲労からくる病気もね。そろそろガタがきているんじゃないでしょうか(笑)。ただ道元を書くと決めてからは一回も休んでいない。聖徳太子も休んでいません。″百霊峰巡礼″も25回分でそろそろその本にまとまることになっています。全部走破すると四巻本になる予定です。
 旅をしていくと見えてくる世界があることは確かですね。山に関しても、日本の山はみな霊峰、修行の山だと思います。神仏と一体となり自分を高めるために山に入って修行する。このところ体験的に感じることが多いのですが、西洋における登山は″征服″です。自分も元気に強くなって登る。でも日本の山登りは精進潔斎で五穀断ちをしたり、眠らなかったり、体をわざわざ弱くして登る。弱くすることで神仏と感応する、そういう世界です。別に高い山に登るだけが偉くないしね。その辺にある山に登っても感応し、自然を感じるという方法ですね。ついこの間は鹿児島の開聞岳に登りましたが、日本の文化は明治維新直後に出た神仏分離令によって廃仏毀釈が起こり、神仏習合の調和が本当に壊れましたね。仏教が排斥されてずたずたになってしまい、その後遺症があまりにも強いと感じるのです。富士山もそうです。日光はまだ少し残っています。麓の二荒山神社中宮祠から奥社までの登山道は本来は直線コースですよ。横に迂回して楽をする発想がない。自分の修行のためですからね。だから男体山は非常にきつい。二荒山を素材にした書きおろし小説を、現在ただ今執筆中です。これに集中しています。明治の神仏分離令が古くからつくってきた日本人の精神構造を壊したね。立山とか白山とか、神仏分離令がなかったら、熊野古道のようで、いわゆる世界遺産になるでしょう。思想の破壊は怖い、とつくづく感じます。

想像力を超えた世界が待っている

 ■山ほどではないにしても、日本人の生活の底を流れるそうした精神が崩れてくる、従って風景も壊れる、ということでしょうかね。まあ嘆いても仕方がないのですが。

立松 旅は嘆くために行くのではなく、一種快楽であり、かつ求道なんです。前向きにしていないと、旅は進まない。

 ■立松さんの文章は、自分だけでなく会ったひとも輝くように書いていらっしゃいますからね。

立松 ええ。やはりそこで会った人に影響を受けますからね。そこに暮らしている人の生き方を面白いと感じるのは、人生を味わわせてくれるからです。旅では快楽に偏って、グルメ紀行のように美味しいものを食べて温泉にも浸かるけれど、本来の旅は人生の遊行、探求ですね。芭蕉の旅も、50年しか生きない時代に45歳で「奥の細道」の旅に出ているんですから。最終的に蕉風俳諧の完成を求めて行った、生涯に残された五年に賭けた求道の旅ですね。誰も芭蕉がうまいものを食いに行ったとは思わないでしょうが。精神的にも物質的にもぎりぎりの旅ですね。木喰や円空も、人々を救うために旅している。それが大乗仏教の理想です。
 実際にあちこちに木喰仏や円空仏があって、今も人々を救い続けています。本にも書きましたが宮崎の西都では、木喰仏の木を削って飲んでしまうんです(「宮崎の木喰」本シリーズ第4巻)。仏様を彫って置いておいて、それを削って飲むというのは、近代意識では出来ない。薬も手にはいらなかったのでしょう。でもそれで多分本当に病気が治ってしまうのでしょう。北海道の熊石町というところで見た円空仏は、軽いんです。流れ灌頂(かんじょう)といって流行病など悪いものがあったところを引き摺りまわしていき、海に一緒に流し込む。それがまた漁師の網にかかって戻ってくる(「木喰の影」本シリーズ第1巻)。木喰や円空なんかの生き方は、現場に行かないとわからないことが多いです。現場で、自分の目で見て確かめることで、想像を超えることの方が多いのです。流れ灌頂も仏教理論では説明できなくても、実際に見ると納得できる。江差では知り合いもできて「木喰のことを調べてるんだ」と言うと、「家の仏壇のなかにあるよ」と言う。「嘘だろう?」と行ってみると本当にあるんです。「おばあちゃんが大切にしていたものだ」と言って見せてくれるんです。我々は木喰や円空というと、つい文化財のように思ってしまいますが、現場ではそれを超えている。認識するということを考えても、旅をする必要はあります。旅の良さは、自分の想像力を超えた現実が待っていることです。小説家の言葉ではないと思われるかもしれないけれど、それをさらに超えた言葉を小説の中で作りたい。書斎の想像力を超えた世界に旅で出会うと、その後の小説への構想力が違ってくるのです。
 日本の風土は南北に長いので、風景に幅があって面白い。東京がまだ冬で桜が咲いていない時期に鹿児島の開聞岳に行ったら、すでに菜の花も、桜さえも終わっていた。昨日津軽に行ったらまだ冬で、持って行ったオーバーを着てもまだ寒かった。知らないで行くわけではないんですが、体がついていかないところがある。食べ物もやはり旅先では美味しいね。僕はグルメではないですが、ただ漁師と付き合っているから、野性的だけどいろんな美味しいものは食べた。ハタハタ汁もそう。はんとはいけないのだろうけど、トラフグをとってきて漁師が家で作る料理とかね。愛媛県の佐田岬の突端では、イセエビの出荷調整池の堤防の波除けにあいている穴から稚魚が入ってくる。鯛とかアジとか、勝手に入ってきて餌を食べて太って出られなくなる。邪魔だから釣って食べていいよ、とか。焚き火を焚いて漁師にもらったイセエビといっしょにそこに投げて食べたり。知床でもしょっちゅうそんなことをしています。カニの花といって、タブバの足を切って真水を入れると花が咲くように白くなる。この『知床に生きる』(新潮新書)に出てくる話だけど。
 
 ■立松さんはよく外国へも行かれますが、日本は外国の旅ともまた違うんですか。

立松 日本の旅の方が深いです。でも外国のほうが広い。まだ計画段階ですが、外国の旅もこのようにして出す予定はあるんです。ただ日本は津々浦々行っていますが、外国はやはり津々浦々というわけにはいかないです。

 ■沖縄と知床が多いですね。日本の南と北とで文化的に似ている、というようなことは感じられますか。

立松 日本の風土の中に澱のように深く沈んでいるものがあります。時間が経って混ざりに混ざっているので分りにくいのですが、いま自分たちも生きている過程でそうした攪拌の作業を繰り返しているんだと思います。沖縄にいくと琉球の深みがあり、自分はヤマトンチュだと感じざるを得ない。その感じは大切だと思います。僕は宇都宮で生まれて東京に出てきたというアイデンティティがある。みんなそれぞれのアイデンティティが、濃い人生の綾を作っているわけですから、僕はただその中をスッと通り過ぎていった、ということではないでしょうか。この本は地理的配置で分けてあるけれど、いろんな時間が入っている。そのときそのときの人生の層が重なっている。沖縄だとやはり僕の青春の時期です。その沖縄も変わってきているけれどね。波之上宮のハス向かいの歓楽街″ナンミン″で働いていましたが、そこもかつては辻(チージ)という遊里で、時代とともにアメリカ兵相手のラスベガスみたいなネオン街になり、自衛隊が入ってきたり、ベトナム戦争が終わることで米軍が顔を見せなくなり、今は風俗街になった。街の変遷は激しいです。でもいつも危険なにおいはあります。

人生の時間と交差する記録

 ■最後に立松さんの故郷、栃木県足尾での植林についてお聞かせください。

立松 毎年、四月の第4日曜日にやっています。ことしで12回目になります。最初は十数人の仲間と始めたんだけど、今は千五百人以上がやって来て、すごいイベントになっちゃった。山が人で真っ黒になるんです。
 僕の曾祖父は兵庫県の生野から足尾へ渡ってきた渡り坑夫で、足尾銅山の開拓者といえば開拓者ですね。そのことは小説『恩寵の谷』(九七年、新潮社)を書くために二十五年くらいかかって調べました。もちろん子供の頃から足尾には通っていて、田中正造がやり残した治山治水(参照『毒・風聞田中正造』九七年、東京書籍)をやろうと地元の仲間と話して、渡良瀬川源流のハゲ山に植林をしようということになったんです。その仲間も僕が宇都宮市役所に勤めている頃からの付き合いだから三十年になるかな。足尾の山はまだまだハゲ山で、表土まで無くなってきたから山は自然の力では回復しません。植林も、ほかの山ならただ穴を掘って植えればいいのですが、穴を掘る土が無い。土を担いで運ぶんです。

 ■それは何と言ってもきついですね。

立松 足尾独特でね。そうやっていかないと植えられないんです。これも旅といえば旅ですが、僕にとっては古い因縁から始まったものです。
 そうした意味でも、この本はただどこかへ行ったという記録だけではないですね。自分の人生の時間と交差しているし、こだわってきた場所−知床と砂糖キビ畑で働いた与那国と栃木−の文章はやはり多くなっていますね。あとは満遍なく、という感じですが。
 足尾の山のようにとにかく緑にしよう、というだけでなく「古事の森」と言って、いい森を作っていく活動もしています。文化財と言われる神社仏閣に使う直径一メートル以上の大径木をとるため、樹齢三百〜四百年の良い檜の森を作ろう、という趣旨でね。先月も法隆寺の斑鳩の森を作るために行ってきました。鞍馬山、筑波山、若草山、高野山、江差、裏木曾の、伊勢神宮の神宮備林の植林をしてきました。まずは全国十箇所で行おうと思っています。日本は木造文化なのに森が荒廃し切っています。これも全国を歩いてきた成果というか、知ってしまった現実というか。経済大国といっても、森ひとつ保持できない。もう法隆寺を作れる技術も木材も日本には無いですよ。
 旅をすると、日本のすばらしさを知ると同時に問題も知るんだよね。人間もそうじゃないですか。恋愛して、遠くから見てるといいけれど、いっしょに暮らすと、もっといいことと同時に問題も知ってしまうじゃない。心の病を得ているかもしれないし、体の病もあるかもしれない。人間関係の難しさがあるかもしれない。何かそういう感じだね。日本という風土のなかに分け入ってきて、最初は珍しくてキョロキョロし、恋人と会っているように楽しいことばかりだったけど、だんだん相手の病気や苦しみを知って、こちらもいっしょに苦しむ感じがあります。それはまさに探求の旅なんだけど、恋人が病気になったような感じを抱いています。ただ、まだ致命傷ではない、まだ恋愛を楽しむことは出来るかな、と感じています。
編集部・井出彰、佐藤美奈子
図書新聞 2006年5月27日(土曜)