私自身の意義
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 NPOふるさと回帰支援センターが全力をあげて取り組んだ「ふるさと回帰フェア二〇〇五」は、大成功をおさめた。日本経済新聞社とJAビルの間の通路には物産ブースがならぴ、休日の土曜日ともあいまって、賑やかな歩行者天国が出現した。
 前夜祭シンポジウム「いま、団塊世代のふるさと暮らしが新しい」で討論をしながら、私自身がふるさと回帰運動に参加する意味などを考えた。
 この運動に私は理事長というポストを与えられてはいるが、完全にボランティアである。もちろんボランティアだから責任がないなどというつもりではなく、内的な必然がなければ参加することはできない。また大義名分をいわれたところで、小説家として比較的自由な道を歩いてきた私としては、働く気にはなれない。心から納得できることがなければならないのである。シンポジウム参加者の意見を聞きながら、私は改めてそのことを書えていた。
 発言者のうち二人は、都会でサラリーマン生活を送った後、ふるさと回帰を実践した人である。二人からはもちろん甘い発言はでず、地域とどのように溶け込んでいったかという体験談になり、そこには当然苦労があった。しかし、壁を乗り越えて立派にふるさと暮らしを実現している。
 つまり、二人は都会生活をした後に、まったく別の暮らしを手にいれたのである。その意味を考えてみる必要がある。
 六十歳定年というのは、入社時の会社との契約とはいえ、理不尽とも本人の側からはいえる。六十歳になって、能力が落ちてしまったとはかぎらず、経験を加えてますます仕事はできるようになっている。だが六十歳になったからその職を退けといわれるのは、誰にでも同様の瞬間が訪れるがゆえに、硬直した社会システムだといっていえなくはない。人間の能力は一人一人違うはずなのである。
 そうはいっても社会に弾力を持たすためには、若い後進に道を譲らなければならないというのも道理である。だからこそそれぞれに個性を持っている個人は、一定の年齢になった時にこれまでの生き方を点検し、修正し、なお新しい生き方を追求するのもよいのではないかと思ったのである。
 定年になったから一切の仕事から身を引き、年金暮らしをするというのは、硬直した考え方であり、全体とすれば硬直した社会になる。六十歳の後まったく新しい生き方が可能だというのは、しなやかで、同時にしたたかでもある社会である。このしなやかさは、サラリーマンとして生きざるを得なかった縦社会ではなく、限りなく横へとひろがってゆく水平の社会である。定年になったからといって、今さら縦社会の底辺からはじめるという気にならないのは当然である。
 横へ横へと無限にひろがっていくとは、コンピューターのウェッブのような世界である。また生物と生物の連鎖も、食物連鎖という縦社会はあるにせよ、相互に補完しあいながら横へ横へとつながっていく世界もある。生物の連鎖は、隣にあるもの同士が影響を与えあうというばかりでなく、遠くの思いがけないものが関連しあっている。
 私たちがめぎすのは、ある一定の年齢がきたからここより去りなさいというような硬直した制度ではなく、ウェッブのようにどこまでも横につながり、補完しあい、誰も心が満足してよりよく生きていける社会である。その中に、私もいる。NPOふるさと回帰支援センター理事長としての私ではなく、小説家として生きてきた私が、個人としての私が、個性を失うことなくきちんといる場所がある。願った人は誰でも生きる場所が得られる社会をつくるのがふるさと回帰支援センターの仕事なのだと、私は思ったしだいである。
100万人のふるさと 2005年秋号

「ふるさと回帰」を支援していきたい
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 当然のことではあるが、定年になったところで、その人生が終わるわけではない。一息ついたというところである。これまでつちかってきた軽験やノウハウを、もう一度生かしてみませんかという呼びかけをする場所として、「ふるさと回帰支援センター」を立ちあげた。
 現在、六十歳というのは、働き盛りの感がある。みんな元気で、やる気がある。そんな人がたくさん、職を失うのである。これは社会にとっては大きな損失といわなければならない。
 その一方、地方は過疎にあえいでいる。過疎ということは、人材がいないということで、やりたいこともできないということである。
 また、一方では、都会は大量の定年退職者を抱え、また若年層の失業者やフリーターも多く、人口が余っているという現状だ。この両極を結びつけ、人の交流をできないかと考えたのが「ふるさと回帰支援センター」で、人の余っている都会と人材の欲しい地方をつなげるのがその仕事である。
 定年帰農の手伝いもするのだが、都会生活者がいきなり農業や漁業をやるといっても、そつ簡単ではない。しかし、都会的な感覚による商品開発や流通などは、都会の住人のほうが能力はまさっている。地方ではそのような人材を求めているのだ。
 三年前、私は理事長になることを求められ、ボランティアで活動している。地方にモデル事業などもできて、しだいに軌道に乗りつつあるのだが、私は最近こんなふうに考えるようになっている。
 大義名分をいっても、人は人生をかけてまで動くはずはない。内発的でなければならないのである。私たちが考えているのは、六十歳になったら自動的にそれまでの職を失うかもしれないが、その技能をまた新たに生かすことのできる柔軟でしなやかな世界である。技能に年齢は関係をい。
 たとえていうなら、インターネットのウェブのような横へ横へつながっていく社会がいい。会社組織は縦社会である。ところがウェブでは隣とだけ関わりがあるのではなく、距離のある思いもかけないところと、複雑な関係が生じる。それらは上下関係のない横のつながりである。
 つまり、定年になったから終わるのではなく、そこからしなやかにしたたかに転職をし、それを受け入れていく社会をめざしたい。
PHP研究所「PHPほんとうの時代」2005年11月号

コウノトリの生息環境を
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 コウノトリでも佐渡のトキでも同じなのだが、人工孵化(ふか)と飼育で増やした個体を自然に帰す場合、最も重要なのは、その鳥が自然の中で生きていくことができるよう環境を整備することである。沼沢地など湿地で生きることが多いコウノトリにとって、餌となるカエルや小魚などが大量に生きられる環境がなければならないということである。
 深山幽谷にコウノトリは生きているのではなく、人間の生活の場に近いところで生きている。つまり、田んぼがなければならない。かつて田んぼは冬でも水を張り、一年中湿地となっていた。ドジョウ、フナなどの生物の多様性があった。しかし、現代の農法は稲刈りの時にコンバインが入るように完全に水を抜いて田んぼを乾かす。すると冬は田んぼは湿地の働きを失い、水棲生物が生きられなくなる。
食物連鎖が途切れてしまう。稲刈りが終わってから、田んぼに水を入れるなどの工夫が必要であろう。
 コウノトリを野に放つ最大の問題は、年間を通じて餌が供給できるかどうかということだ。冬、田んぼから水を抜かれると、コウノトリは野で越冬できなくなる。コウノトリが野生で生きるためには、農業者をはじめ地域の協力がどうしても必要になる。
 生活の風景の中にコウノトリの姿があるということは、小さな生物から大きな生物までの連鎖が成立していると証明されているということで、その上に人が生きることのできる生態系があるということなのだ。
読売新聞2005年9月25日(日)

世界作家浙江文化大会
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 二〇〇五年五月十九日(木)、浙江省にいった。省政府に招かれ、第三回世界作家浙江文学大会に参加したのである。十九ヵ国二十九名の作家やジャーナリストが集まり、日本からの参加者は私一人であった。
 作家たちとの懇談会をすると、共通の問題意識とはつづまるところ環境問題と平和につきる。経済発展の裏面として現れる自然破壊や苛烈な競争社会の出現と、歴史認識としての戦争に目を注がなければならないということである。それならば、どのような文学が現実に可能なのだろうか。そのことについては、一人一人の立場によって違うのである。
 議論の果てに、なんとなくたどり着いた地点というのは、文学は川のような山のようなものでなければならないということだ。山ならば水源となる森を伐りすぎてはいけないし、川なら水を汚してはならないのである。どのような時代であっても、文学は水源の森のようにすべての始原でありつづけねばならず、魂の問題としていつもそこには澄んだ水が流れつづけていなければならないということだ。
 中国の社会は少し旅行をしただけで、激しい変貌にさらされていることがわかる。その時代に、どのような魂を待ったらよいかを示すのが文学である。その中国の中でも最も激しい変化にさらされている浙江省が、世界中の作家の意見を聞こうとするのは当然である。
 杭州の西湖は、昔から文人墨客の往来の地だ。杭州の後に訪問し、作家会議の本会場となった東陽横店は、中国の経済発達の象徴のような街である。そこには北京の故宮を再現した映画の巨大な撮影所がつくられ、明代や清代の街がテーマパークとして建設された。最近の中国人が最も訪れたい観光地が、この東陽横店の影視城、すなわち映画撮影所なのだそうだ。漢代の野外劇場などもつくられ、工事は際限もなくつづけられていきそうな雰囲気である。
 近くの経済特区の義烏には、一万もの店が集まったショッピング・センターがあった。そこで世界各地の経済人と会った。発言をした順番は、パキスタン、香港、セネガル、ロシアであった。日本人もいたらしいのだが、よくわからなかった。みんな経済の熱に浮かれ、一歩分でも人より速く走らなければ、たちまち置いていかれるといったふうであった。
 魯迅の故郷である紹興は、私のいきたいところであった。二千七百年の歴史を持つ古都はあまりにきれいに整備されていて、映画村のような雰囲気がないわけではない。
 中国には私は何度も何度もいっているのであるが、今回の旅も、あまりに激しい変化に溜息をつくばかりであった。
日中文化交流2005年10月1日

極限で磨かれた魂 top
 ラリーは人生である。観戦することも含めたラリーに何らかの関係を持つ一人一人に、沸騰するような物語が生まれる。たとえば三日間の競技ならば、三日間に煮詰まった物語が確かに存在する。それが私には何とも魅力なのだ。
 私がはじめてモーター・ラリーを知ったのは、今から二十三年ほど前のサファリエフリーである。出走にこぎつけるまでには長い長い準備期間があり、世界中からナイロビに集まってきたマシンにも人にも磨きぬかれた高貴さを感じた。それがはじまりであった。
 ケニアのサバンナは、乾けばパウダー状の微粒子の土挨(つちぽこり)が飛んでエアフィルターに詰まり、空気をエンジンに送らなくなる。雨が降れば一瞬にして命を吸う泥濘(でいねい)になる。過酷な自然条件の中を、連続するコーナーを百分の一秒でも早く駆け抜けようと競う。クルマにも人間にも限界を越えた地点のことで、この行為によって磨かれる技術も魂もあるのだと知った。実際、ラリーは実験場の要素があり、ここで獲得された技術はクルマ造りにフィードバックされる。だがそのことよりも私の気を引いたのは、人間のやっているスポーツということだ。
 ラリーのチームには多くの人が参加する。ドライバーとナビゲーターだけではなく、クルマをつくるエンジニア、クルマのメンテナンスをするメカニック、参加者すべてを支援するマネージャーなどがいる。ドラ
イバーがほんの少しブレーキを踏むのが早過ぎたとか、ナビゲーターの指示が一秒遅れたとかいうばかりではない。クラッシュしてサービスステーションに跳び込んできたラリー車が、タイヤ交換をし、たとえば一本かボルトか締力方が甘いだけで、再びクラッシュする。一人が蒔いた困の種は、よくも悪くも拡大されてたいてい激しく報いてくる。全員が全力を尽くしているのに、わずかな心の緩みが、必ず結果となって残酷な形で現れる。まさに人生なのである。ラリー車が完璧に美しいシュプールを描いてコーナーを走り抜ける。ドライバーのそのテクックなどは、ごく表面に現れた現象にすぎない。ラリーはたとえば三日間の総合的な人生そのもので、そのことにまず私は魅入られたのであった。
 気がついたら、私は国際C級ライセンスをとり、ナビゲーターを務めていた。ドライバーにはいくらでも速い人がいる。ナビゲーター志願者はなんとなく少なかったからだ。
 国内ラリーを何戦かした後、国際ラリーでは私は香港−北京自動車ラリーに出た。パリ・ダカール・ラリーには二度出場した。バリからサハラ砂漠を超え、セネガルの首都ダカールまで二十一日間の競技である。最初の年は、リビアの砂丘の砂の深さに敗れてしまった。競技から落ちても生きるためダカールまでは広大にして不毛の砂漠を全身全霊をつくし越えていかねばならず、敗者の悲惨をいやというほど味わいつつ、敗(ま)けるのも人生の上では悪いことではないなと思えもした。二度目のパリ・ダカでは念顧の完走を果たした。サハラ砂漠の美しさと恐ろしさを骨の髄まで思い知らされた、一種の旅ではあった。
 WRCはオーストラリア・ラリーに参戦した。飛騨高山にある高山短大自動車学科の学生の実習のため、私はナビゲーターとして走ったのである。数だけは多数いる学生のメカニックは頼りなかったのだが、車を壊さないようにと心掛け、順位はともかく目標の完走を果たした。
 そんなところが私の戦績で、自慢するほどではとうていないのだが、国際ライセンスは手元に持ちつづけてはいる。毎年更新の時期がくるとどうしようかと悩み、一度破棄すれば二度と取得することは不可能なのだと思いとどまり、更新の手続きをする。もうライセンスを使うことはないだろうなと感じながらも、準備だけはいつもしておこうというわけだ。
 野外でやるラリーは、砂と泥と水との戦いとなる。この砂や泥や水に磨かれるマシンも魂もあるはずである。マシンは限界点を超えた瞬間に壊れ、その限界点に限りなく近づくのがラリーのテクニックだ。それを限界走行という。しかし、人間は限界点だと想定していた線を簡単に越えていることを、越えてから気づく。そんなことを実感する瞬間が、充実してたまらなく楽しい。
毎日新聞 平成17年9月30日(金)

見川鯛山さんを悼む
一つの時代が過ぎていった
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 見川鯛山さんという作家は、澄んだ目をしてまっすぐに那須の山の中で生きていた。見川さんのまわりには、不思議と純粋で善良な人たちが集まったようである。心に邪悪を抱いた人間は、とても見川さんのそばにはくることができなかっこのだ。
 「雪ん子」という掌篇がある。ある吹雪の日、見川医院に二人の男の子が兎のように真白い雪とともにとび込んできた。歩いて大人でも一時間もかかる山道を、炭焼小屋からやってきたのである。
 兄は知的障害者で、二人とも捨て犬のように痩せ、風呂にはいっている様子もない。その二人の卵大に化膿した股の淋巴腺(りんぱせん)を切開して膿を出してやり、ストーブにあて、ラーメンをとって食べさせてやる。二人から治療費を取った形跡もない。翌日パンを買って待っていたのだが、とうとう二人は姿を見せなかったという話である。
 鯛山さんが書くと、山奥からやってきた貧しい二人の子供が、まるで小僧の神様のように見える。見川さんは不意に来訪した神様をもてなすようにして、大切にする。吹雪なのにつぎあてだらけの薄い木綿のズボン1枚で、素足にゴム長靴を突っかけただけでやってきた貧しい子供たちを、尊敬さえしているふうである。医者でもある見川さんは、こんなにもやさしい。
 見川さんは鮎釣りにでかけて、病院をあけることが多かった。もっと一生懸命にやれば病院もはやるのにと世間からさかんに声が聞こえてくるのに、その世間に背を向け、念じるように釣りをしていた。昔は自分もいい医者だったと見川さんはいう。
 かつての那須村は全員が貧乏で、もちろん医者も貧乏だった。治療代ももらえなかったが、往診の帰りにはジャガイモや大根やソバ粉をいっぱい袋に詰めて持たせてくれた。「貧乏だったが心がひとつに結ばれて、美しい時代であった」と見川さんは書く。
 やがて日本中の景気がよくなり、那須には高層ホテルが建ち、山をけずって遊園地や別荘ができ、自然も人の心もすさんできた。
 「金持ちになったぶんだけ、心は貧乏になった。私だけオイテキボリをくったように、オロオロしていた。(『囮アリマス』より)」
 そんな時に、見川さんは鮎釣りをはじめたという。見川さんの鮎釣りも、もちろん小説も、この時代に対する批判なのである。あだやおろそかで釣りをしているのではなく、背中で闘うようにして鮎と戯れているのだ。
 鮎も小説も同じことだ。どちらも自然そのものであり、見川さんの心を呑んでくれる。しかし、鮎は塩焼にでもして食べたらそれで消えてしまうが、見川さんが書いた文学作品はこれからも残る。時代の転換を、鋭く指摘しつづけるだろう。
 時代が過ぎることに私たちの見川さんを憧憬する度合いは強くなり、あの頃に時代が確実に変わったのだと知ることになるだろう。
 どんなに悲しくとも、今は見川鯛山さんの冥福を祈るしかない。
見川さんは平成十七年八月五日死去、八十八歳。
下野新聞 平成17年8月16日(火曜日)

小松啓二軍曹の戦争 top
 小松啓二軍曹はグンツ−、すなわち軍事通信兵である。作戦に従軍すると、通信兵は最前線の歩兵とともに行動し、後方の司令部との通信を確保しなければならない。まことに危険な任務である。
 今度通信兵を主人公とした小説を書くつもりだと私が友人にいうと、彼は最近観た映画の中で通信兵が奮戦する感動的なシーンがあったとして、こう話してくれた。
「兵士の中で最も死亡率の高いのが、通信兵だよ。スターリングラードの戦いでも、通信の電線を張るために、通信兵が武器を持たずに最前線に這っていき、片っ端から撃たれるんだ。撃たれると、次の兵士がいく。また撃たれると、次の兵士がいく。通信線が確保できないと、最前線で戦闘している
兵が、今どこにいて何をしているのか後方の部隊にわからないため、孤立してしまう。通信兵は自己犠牲を恐れてないから、あらゆる兵のうちで最も崇高な兵だ」
 私はその映画は知らないのだが、友人があまりに感動した様子でいうので、へえそんなものかと思ったものだ。後日、実際に通信兵だつた小松啓二元軍曹に会って話をうかがい、自己犠牲を美化するような崇高さというのではなく、別の意味で私は胸を打たれた。小松軍曹にとっての戦争とは、理不尽な状況を生き抜くことで、それはまことに人間的な行為をなしとげたのである。
 戦場に銃など武器を持たずにいくというのは、そのとおりである。日本刀は持っていくのだが、それは精神安定剤ほどのささやかな飾りで、人を斬るためのものではない。完全に丸腰の下士官というのも、戦場で実際に本人は心細いだろう。戦闘をしにきたのではない。小松軍曹の最良にして唯一の武器は、その時その場を生き抜くための才覚と機転である。敵を殺そうなどと、まったく考えていない。主義主張からそんな態度をとるのではなく、軍曹はごく自然に非戦の軍人なのだ。
 この小説の素材を、私は小松啓二軍曹その人に与えられた。手記と、実際の話によってである。読むのも聞くのも楽しく、私のすべきことは、そのおもしろさに浮かれることではないとまず考えた。誇張もなく、自己卑下もなく、小松啓二軍曹とともに六十年前の夏をひたすら生きようと私は思った。行間を想像力で埋めた部分はもちろん多いにせよ、物語を跳ねるようにおもしろくするための誇張はやめようと、作者として私は自分に足枷(あしかせ)をはめた。私のすべきことは、小松啓二軍曹を等身大で描くことだ。
 どのような誤解が生じるかもしれず、また認識の違いがあるかもわからないから、小説の常套手段として匿名で書きはじめたい。私は小松元軍曹と渋谷のアートン社の会議室で会い、そのように基本的態度を話させていただいた。すると即座に小松元軍曹ほ私に注文した。実名で書いて欲しいと。あの時代にこのように生きた人間たちがいたことを、今の時代に書いて伝えて欲しいというのである。私は了承したのだが、その瞬間に事実は逸脱できないということになり、私は誇張も自己卑下もしないときわめて厳格に守らねばならないことになったのである。私は二重の足枷を自分にかけた。
 小松軍曹は庶民として日本の軍隊によく適応し、軍隊が平常なら好きなのだと私は思う。衣食住を与えてくれ、遠くに旅行もさせてくれて、これで戦争がなかったらいうことはない。小松軍曹の理想は、非戦の軍隊である。
 しかし、理想と現実とはまったく違う。闇の中を移動させられるようにして外国の中国に連れていかれ、そこで狂気の戦争を遂行する部品になるよう強いられる。そもそもが徴兵されたのも、この国に生まれた男子は全員がどんな思いを持っていようと軍隊にはいらなければならないという、理不尽な災難みたいなものだ。国の指導者がどんな大義名分をかざそうと、一日一日をやっとこさっとこ精一杯生きている庶民には、視野の外にある他人の野望というものだ。
 放り込まれた軍隊は案外に居心地のよいところだったのだが、いつまでも只の飯を食わせてはもらえない。地獄の戦場に連れていかれて生死の瀬戸際に立たされ、しかも食糧の支給は一切ない。小松元軍曹に聞き、また私が調べたところによると、野戦の前線の兵士に食糧が供給きれないのが日本軍なのだ。戦場で敵の攻撃に怯えながら行軍をし、前線に通信所を開設し、敵機の空襲で何人もの部下を殺され、通信の任務をこなしながら、小松軍曹は兵を飢えさせないために死にもの狂いの努力をする。通信による情報は軍の血液のようなものなのだが、軍という組織は任務の要求はしても、生きていくための食糧を与えない。なんという組織であることか。
 身のまわりからなんとかして食糧をとってくることが、下士官である小松軍曹の戦争である。農民が逃げ去ったあとの
田んぼの稲刈りをし、空っぼの農家に空き巣にはいって食べられそうなものをあさる。要するに泥棒をするのが小松軍曹の戦争なのだ。そんな情けない状態に置かれても、なけなしの誇りはせめて失わないようにする。力むでんなく、自然にそのようにする。盗られる側からすれば盗人の理でしかないが、軍曹にとって人間を生きるのはそのわずかな場所しかない。
 才覚をめぐらせ、全知全能を働かせ、一粒の米を自分のためというより、ただひたすら部下の兵のために得ようとする。それでも兵たちは敵に攻撃され、心と身体の病気になり、ろうそくの火が消えるようにつぎつぎと死んていく。だが小松軍曹には絶望している余裕はないのである。生きていくのが戦いだが、そのためには今日の米か芋を手にしいれなければならないからだ。これではどうして戦場にきたかわからないではないか。戦争とはいったいなんなのだろうか。
 その理不尽さのすべてが、小松啓二軍曹の戦争なのだ。
『あとん』 2005年8月号

私の健康法 top
 僕は原稿を書く仕事が多いものですから、ずっと座りっばなしかと思われるかもしれませんね。ところが、意外と身体を動かす仕事が多いんですよ。
 今、百霊峰巡礼という仕事をしています。日本の霊山と呼ばれる山を毎月一つずつ、全部で百か所を巡って、カメラマンと一緒に登ります。そして原稿を書くという連載の仕事なのですが、ほとんど肉体労働ですよ。百か所の山を巡るとなると、足掛け9
年にもなります。これはもう、私のライフワークですね。
 登山はすごく汗をかきます。これ以上の健康法は無いと思いますよ。つい先日も、白山と越知山という、二つの山に連続して登ってきたのですが、それなりに厳しい山で大変でした。とくに白山を登った時には山の上半分が雪で、おまけに帰りは雨に降られました。カッパを着て歩くので、すごく熱い。まるでウエイトトレーニンクをしているように汗だくになりました。健康的でしょ。
 もう一つ健康法といえば、やっぱり食事ですね。別の連載の仕事で、あちこちの農村地帯を取材で歩いているのですが、すると、どこへ行っても歓迎されて、ご馳走を出してくれるんです。貧乏性なのか、いけないと思いつつ、出されたものはつい全部たいらげてしまいます。二日前に、400gの名物豚肉料理を出されましたが、うまいので全部食べてしまいました。かなりの高カロリーですよ。これはいけませんね。
 だから、普段の食生活は質素なものにしています。外ではどうしても豪快な食事になってしまいますが、そのことを女房がちゃんと分かってくれているんですね。家では雑穀米を食べたり、野菜中心にしたり、油物や脂肪分の多いものなどは控えるようにしています。おかげで、ちょっと痩せたくらいですよ。少しでも体重が落ちれば、登山もその分楽になります。もし、私一人きりだったら、たちまち身体を壊してしまうでしょうね。
 やっぱり、若い頃のように、何でも好きなものを、というわけにはいかないようです。だから、人間ドックもちやんと受診するようにしています。結果は歳なりに出てしまいまして、血圧が高めだった時もありました。それをきっかけに、今では塩分に気をつけています。たとえばサラダを食べる時には何もかけない。刺身を食べるときに、は醤油をつけずに、ちょつとわさびをきかせるだけ。人には驚かれますが、野菜や魚本来が持つ繊細なうまさが楽しめますよ。おかげで今では血圧もだいぶ良くなりました。こうやって、自分自身で気をつけていかないといけませんよね。
(インタビュアー 酒井 悦子)

医療法人社団同友会 第56号


「川ガキ」が増えれば、日本はよくなる top
まず、川を知ろう
「川ガキ」がいなくなって久しいですね。今や絶滅危倶種ですよ。私は栃木県で育ちましたが、鬼怒川でよく遊びました。山ガキも海ガキもいいけど、私は川でいろいろなことを学びました。
 例えば、けんか。昔はいろいろな子が川に集まってきて遊んだから、けんかもよくある。そのときに石や棒で殴るなんてのは最低のことだった。「猫パンチ」といって、こぶしを作った手のひら側で猫みたいに殴り合うんです。当たってもそんなに痛くはないんですよ。その中で殴る痛み、殴られる痛みを学んだ。どこまでやると傷つくかとか、命の弱さも知ったはず。
 川には「川ガキ文化」がありました。兄貴分が弟分に教えていくという構造です。川で遊ぶには、川をよく知らなきゃなりません。複雑な流れに負けずに泳ぐにはどうすればいいか、魚はどこにいるか、釣竿はどう作ればいいか、どこに行ったら危ないか……そういうことを遊びながら身に付けました。頭をゴツンとやられながらね。
ふるさとの川へ行こう
 その文化伝承をよみがえらせよう、川の楽しさを何とか教えてやろう、というのが「川の学校」なんですが、何も知らない子に一つひとつ教えていくのはすごく大変。難しさの理由のひとつに、子どもたちにとっては勉強と違って「川ガキ」になってもどこからも評価されない、ということがあるんでしょうね。
 それでも、河原に子どもたちを集めて「森羅万象に学ぼう」「知識ではなく、やってみよう」などと話をすると、みな熱心に聴いている。立派な川ガキに育って欲しいですね。
 川は全国に約3万本あります。有名じゃなくても、ふるさとの川が大切なんです。そこで自然の楽しさや命の大切さを知って大きくなる子が増えれば、日本はよくなると思います。
おじいちゃんと友だちになろう
 でも、いきなり川に行っても、泳ぐにせよ、魚をとるにせよ、基本技術がないと危険。昔は子ども同士のコミュニティーで、入っちゃいけないとこ、壊しちゃいけないものなんかを伝えていたけど、今は無理ですよね。
 じゃあ、どうすればいいのか。人生の知恵を持った人に聞かなきゃいけません。この夏は、地方のおじいちゃん、おばあちゃんと仲良くなってみよう。川のことも山のこともたくさん教えてもらおう。自分のおじいちゃんでもいいし、よそのおじいちゃんでもいい。きっといろいろなことを教えてくれるよ。
 頭でっかちでなく、心と体で自然の”よさ”を感じて欲しい。そして、自然に対する力を持った人間に育って欲しい。それは子どものころじゃないとできないことなんです。
エース Summer No.208

世界遺産登録によせて top
 知床には道がない上に、あっても車の通行が規制されている場合が多く、容易に自然の貴重さを体験できない。
 斜里町に山荘を構え、足繁く知床に通い続けて20年になる作家の立松和平さんに、見所を聞いた。
「春夏秋冬、いつ来ても楽しめますよ。流氷を見て、ただ呆然とするのもいい。ドライスーツを着て流氷の上を歩くこともできます。夕方、草原に現れるシカの群れを待つもの楽しい。知床峠から見る知床連山とオホーツクも、自然センターの坂道から見える夕日も見事。オンネペソ川に遡上するアキアジ (サケ)の群れにも時を忘れます。誰もはできないけれども、知床連山を縦走できたら素晴らしいですね。
 知床は、ひと言でいってしまえば、山と海と空があるだけ。緻密に連関した生態系は目では見えません。ここでは特別に特徴のある光景が目の前に広がっているわけではないんです。
 逆に、感じる力が試される、あるいは人間としての存在が問われる場所だと思うんです。大きなものを得るかもしれないし、何も感じないかもしれない。知床とはそんなところです」
 さまざまな風景に浸り、自然の貴重さを理解したいものだ。ところが、立松さんは同じ自然遺産でも、知床は外国とは性質が異なるという。
「自然遺産というと、人の手が入っていない本当の自然を想像するでしょうが、知床は生態系に人間が組み込まれた上に完全に成り立っているんです。
 たとえば、秋にアキアジがたくさん戻ってくるのを見て人は自然が豊かだからといいますが、じつはこれは人工孵化・放流したもの。放流前の昭和30年代には何10分の1しか獲れなかったと番屋の船頭はいいます。
 さかのほれば明治のこる、入植した人がエゾオオカミを絶滅させるのですが、アイヌ語で”大地の行き止まり″を意味した知床の姿はそのときから大きく変質したわけです。いま、そこで生計を立てる漁師らの存在は、生態系のなかにあって、もはやその一部になっています。世界遺産になっても彼らは当然そこで生活すべきです」
 世界遺産指定エリアにある番屋の数は、およそ100。夏から秋のフル稼働時に約300人が定置網漁を営む。知床の漁業は、厳格な協定によって、採卵・孵化・放流と一体の事業としてひとつのバランスを保っている。
「いま問題になっているのが、観光で訪れる一部の人たち。生態系保護のために、漁師でさえ立ち入らないようにしている知床岬に、観光客が大勢で上陸しているという話をよく聞きます。キツネを見つけてはバスから人の食べ物を与える様子はもう一般的な光景です。ゴミ問題もあります。エコツーリズムを掲げて客を集めるのですが、真面目なところと商売優先のところといろいろあってそのり名の下に乱暴なことがいっぱい行われているんですよ。
 でも、今回の指定でルールがきびしく見直され、ガイド養成やツアーコースの認定など世界基準のルールが導入されるでしょう。できれば訪れる人も、微妙なバランスの上に成り立っている知床の自然をわかって欲しいですね」
「一個人」2005年8月号

調  和  top
 毎年、4月の第4日曜日に栃木県足尾町で「足尾に緑を育てる会」(NPO法人)の植樹デーが催されている。私もこの会の主催者の一人として、先日、30本の木を植えてきた。
 足尾は母の父親の出身地で、私にとっても子供の頃に過ごしたふるさとである。また足尾鉱毒事件に材を得た、私の文学活動とも密接にかかわってきた土地である。この渡良瀬川の源流域に自然を蘇らせたい。会は今年で10年目になるが、きっかけは、荒れ放題だった彼の地にとにかく木を植えよう、という気持ちで始めたのである。年年歳歳、人が増え、企業の肋成金も得られ、今年は1100人もの人が参加し、4500本の植樹が行われた。
 この時期、ちょうど足尾の辺りは、山桜や山つつじがきれいに咲き誇っている。幸い今年は天候に恵まれたが、10年の間には大雨の日もあった。しかしそんな日でも植樹はやめなかった。まさに継続は力なり。やり続けていけば、間違いなく足尾に緑が戻ってくる。多くの参加者が、毎年、そんな思いで木を植えてきたのである。予定の100万本にはあと何年かかるか分からないが、ひたすら植え続けていこうと思っている。
 排気ガスを減らすとか、ごみの分別収集とか、環境に関わる人間の努力はすべて「貧者の一灯」である。私はこつこつ植えようよと人々に呼びかけ、実践してきた。ただそれだけである。結果として、自然環境との調和につながっていくことを願っている。
 私は現在、もうひとつ植林活動にかかわっている。こちらは足尾とは全く性格を異にしたボランティア活動で、私が林野庁に呼びかけて3年前に始まった。神社、仏閣などの歴史的木造建築物の補修に必要な良質の木を育てる森づくりである。「古事の森」と名づけられたこの大径木を探るための森が、京都の鞍馬の山、関東の筑波山、北海道の江差、奈良の若草山、高野山、裏木曽で、やはり多くのボランティアの人々の手を借りてつくられている。
「週刊新潮」2005年6月9号

「早稲田文学」と貧乏 top
 誰を攻撃するとかそのような気持ちはまったくないのだが、「早稲田文学」のフリーペーパー化は文学の現状を示していて、悲しい話である。フリーペーパーというのは、要するに無料で配る紙のことで、「フリー」とか「ペーパー」とかいう言葉が、「早稲田文学」という言葉にくらべてあまりにも軽い。
 おそらく金がなくて追い込まれたのだろうが、私が学生として「早稲田文学」の編集を手伝っていた時、月給は一万円、書いたら一枚二百円だった。編集委員は何をやってもタダで、やがて私は編集委員になったから、原稿料は、タダになった。物価水準はまったく違うのだが、何もかも安いことに変わりはない。それでも原稿が編集会議を通って掲載になった時には、晴れがましい思いになった。
 金がないのは苦しいことである。だがおそらく「早稲田文学」の歴史上、金があったためしはなかったはずだ。金以外のところに価値を見つけ、それはそれで楽しくやってきたのである。
 私が何をいっても古い時代のことになってしまうが、「早稲田文学」は作品を載せてきたのであり、ジャーナリズムの雑誌ではなかった。暗愚だといわれようと、これと思う作品を載せてきたのだ。そのことが結果的に時代を拓いてきたのである。一雑誌とはいえ、その達成は歴史を見ればわかることだ。
 フリーペーパー化によって、何か新しいことが生まれると期待しなければならない。しかし、それは大変に難しいことである。先細りになって消滅してしまわないことを祈る。
早稲田大学新聞2005年4月28日

足尾緑化の確なる歩み top
 二〇〇五年四月二十四日、「足尾に緑を育てる会」によって、第十回春の植樹がおこなわれた。その日は気持ちのよい春の晴天で、千百人もの人がきて、四千五百本の木が植えられた。
 年々歳々、人が多く集まるようになり、植林するハゲ山の大畑沢緑の砂防ゾーンは人で埋めつくされたような雰囲気である。それとともに、運営も難しくなってきた。
 植林地までは急な階段を上っていかねばならず、しかも一度に人が殺到するので、手にスコップや苗木を持っていたのでは危険である。そこで基盤工事をするために国土交通省が建設したリフトを使うことになり、資材は一度に上げてしまう。スコップには名札を張り、あとで自分のものをピックアップしてもらうのだが、あまりにも人が多いので、人とスコップとが出会わない。結局、誰のかわからないスコップを使い、そのスコップは持ち主がわからないまま置いていかれる。自分のスコップをついに手にすることができず、現場に置いていってしまった人には、おわびをしなければならない。会に残されたスコップは来年ピックアップしてもよいし、会としては無駄にしないことを約束する。そうではあるのだが、本当に申し訳のないことだった。
 会としては、スコップの装備はまだ十分ではない。寄付してくれる人も、どうしても苗のほうに目がいってしまうのである。責任をとるというわけでもないのだが、私は自分でスコップを三百丁ぐらい寄付することにした。

 状況変化、問題次々と

 来年は手ぶらで植林地まで登ってもらうことにしたいのであるが、来年からはリフトが使えなくなる予定だという。苗木やら土やら肥料やらスコップやら、会のメンバーが担ぎ上げるにしても、限界がある。植林活動自体は軌道に乗ってきたとはいえ、状況が変わっていくので、問題が次々と発生する。
 一番怖いのは、滑落などの事故である。老若男女とりまぜた参加者なので、中には上まで登るのが明らかに無理そうな年配の人もいる。その人のためにも別の場所に植林地を確保しなければならないだろう。しかし、植えられるのは基盤整備がすんだ場所でなければならず、どこでもよいというのではない。
 今回の植林では、幸い事故らしい事故はなかった。一度だけ救急車のピイポウを聞いたが、山に登らず下にいた人が貧血で倒れたということであるらしい。

 すべてボランティア

 地元の人が多いスタッフは、前もっての資材の運搬から、当日の交通整理から、昼食のトン汁つくりから、本当によくやっている。当然のことながら、すべてボランティアである。参加する人が多くを学んで帰る一日となっている。
 植林地一帯を管理する国土交通省の小島隆所長が、ニ枚の写真を見せてくれた。一枚は植林活動に取りかかる以前の十年前の大畑沢緑の砂防ゾーンで、草木一本生えていない、保水力ゼロの荒涼としたハゲ山である。足尾の典型的な風景といってよい。もう一枚は、現在の同じ場所だ。山壁の形はそのままで、表面が緑に覆われている。
 この十年の成果は、確実にあるのだ。そもそもその場所は製錬所から排出される亜硫酸ガスで表土が汚染され、永久に草木は生えないだろうと予測されていた山である。私たちがとっている方法は手で一本ずつ木を植えるという人海戦術だが、遅々とはしていても確かに歩んでいるといえるのだ。
下野新聞2005年5月1日(日)

御園座に月を運び込む top
 歌舞伎座にかかる演目をできるかぎり見つづけてきて、その上にどのような新作台本が可能なのかと考えると、絶望的な気分にもなる。その回に観た演目は、これからあるかもしれない新作台本には少なくともはいることはない。すでにある世界を、今さら新作として書いても仕方がないのである。つまり、芝居を観れば観るほど、これからやるべきことは狭くなつていく。追い込んでいくといえば格好いいのではあるが、そうではなくて、妄想の芽を一つ一つ摘み取っていくような具合である。もう一切やることはないのではないかと不安にもなる。
 新作歌舞伎を書こうとする場合の心掛けとして、たった一作しか書いたことないのだが作者としていわせてもらえば、歌舞伎の毒を身中にまわらせないことである。歌舞伎には激しい毒がある。観客からすればそれは華などというのだが、歌舞伎独特の様式にあわせて書こうとするところから、すでに毒が身にまわってしまったということになる。歌舞伎の様式や科白まわしや仕種にかぶれれば、もう毒に触れたということになってしまう。歌舞伎らしいと感じた時は、作家にとってそれはもう毒なのである。形ばかりは歌舞伎に近くなつても実態は形骸というもので、歌舞伎のようなものにしかならないということだ。
 古典歌舞伎のようなものでも、新歌舞伎のようなものでもいけない。今、この劇をやる意味がなければならない。
『義経千本桜』の作者にしても、『仮名手本忠臣蔵』の作者にしても、また『四谷怪談』の作者にしても、そうやってきたのである。歌舞伎はその厳しい峻別によって今日必要な劇を貪欲に取り入れてきたのである。歌舞伎は自らの力でおのずと生まれてきたのだ。
 こうして考えれば考えるほど、台本を書くことは簡単ではなくなる。私が考え込むのは二作目を書こうとしているからで『道元の月』は技術的な苦労は山ほどあったものの、普段考えていることをドラマ仕立てで思考していくうち、自然にできた。私の意識としては、歌舞伎の台本を書こうというより、道元禅師の行動の中におのずから思想が滲んできて、まわりの人を感化していくその姿を描きたいということであった。その影響は、できるだけ観客にまで届かせたい。劇場という日常生活とは異次元空間で、道元禅師その人に空想の中でお会いすることができたなら、私の苦労は報われたということになる。芝居はそもそも虚構であるからこそ、どんなことでも可能なのである。
  •  道元(道元は月に向かって語る)月の光は、万象すべてをわけへだてなく照らしておる。木も花も鳥も魚も、獣も、人も、生きとし生けるものすべてを包んで…。
    (両掌で水を汲むような形をつくり)
    ここには月の光が確かにあるのじゃが、この光はつかもうとしても指の開から逃げる。つかもうともせぬのに、月はどんな水にも宿る。掌の中の水にも、草の葉の露の一滴にも。露の一滴は、月のすべてを呑み込んで、なお余りある。月は水を破らず、水の中で月は濡れず。清らかな月よ。永劫の光よ。
 芝居の一場面だ。月とは仏法のことである。「正法眼蔵」の中の月のイメージをやさしく解いて、道元の科白にしたのである。私はこの月を包みまた月に包まれる自然そのものを、御園座の舞台に運び込みたいのだ。
御園座創立百周年記念
「陽春花形歌舞伎」

書に通っている神通力 top
 なんと自在な筆の運びであろうか。筆を打つところは力強く、そこから流麗に走り、抑制を限りなく控えてあくまでも自由であり、しかも終わりに力むでもなく軽ろやかに筆を打ちつけて一字を描く。全体に醸し出される情感は豊潤ではあるのだが、情に流れているというのではない。太いところと細いところと変化が少なく、強弱をつけるというより、飄々として自在に筆を運んでいく。
 良寛の書を前にして、魂を吸われるような気持ちになった人は多いだろう。独特の境地である。書を書として完成させようとする意思というより修行の果ての人格の中から、さらさらと文字が流れだしたという具合だ。形ばかり真似をしても、このような自在の境地に至れるわけではない。
 豪華な造本に仕上げてある本書のページをくりながら、溜息がでた。筆の運びの強弱、墨の濃淡、かすれ、踏みとどまるように筆を押さえた肚の底に響くような力点と、まるで良寛の息継ぎの気配までが聞こえそうである。印刷の技術もここまできたのかと、私は改めて感心した。
 老境にしてこれだけの芳香を放つ書をものにする良寛その人に、ますます興味を覚えさせる一書である。六十九歳から七十四歳まで、良寛は豪農の木村家に身を寄せた。七十四歳になって六日間しか生きなかったから、実質的には四年間である。木村家は新潟県三島郡和島村大字島崎にあり、幕末から明治時代はじめの戊辰戦争で全焼したが、良寛の遺墨をおさめた土蔵だけは焼けなかったという。『木村家伝来 良寛墨宝』と書名にあるとおり、本書はその土蔵の中に残った良寛の書を集めている。
 良寛の最晩年の書ということになる。ここには若さというものはないかわりに、老境の書境がまるで魂が宿るようにして存在している。老境とはこんなにも美しいものであったのかと、改めて感じ入るのである。絵画や彫刻にしろ、また文学にしろ、老境の中に生命の息吹をますます発揮するのは、至難のことであろう。若さを完全に失いきらず、かつ技術の完成をみる壮年期が多くの場合絶頂期とされるのだが、良寛の書は一般の通説を寄せつけない。書に神通力が通っているようにも感じる。かつて誰も到達しなかった境地を感じさせてくれる摩訶不思議な力を、良寛の書は味わわせてくれるのである。
 本書の解説の加藤僖一氏「良寛と木村家」によれば、良寛は四十七歳で国上寺の五合庵に住みはじめ、六十歳の時に乙子神社草庵に移った。この二つの庵は国上山中にあり、二十年以上も
隠遁生活を送った。子供とまりつきをして無心で遊ぶ「良寛さん」のイメージは、おそらく明治期につくられたものであろうが、すべてを放下して生きてきたのは確かである。私たち現代人は、一枚一校捨てて捨てて捨ててきたあげくに何かを掴んだ良寛の生き方に、深く魅せられる。良寛の掴んだものは何かということが、現代を生きる私たちには重要なテーマであろう。
 そのような放下の生活をした良寛のイメージをつくるにあたって、良寛の書の果たした力は決して少なくない。良寛が孤高の境地にいたことは、漢詩と和歌とこの書が示しているのだ。
 六十九歳は当時とすればかなりの高齢である。標高三一三メートルの国上山の中腹の庵での暮らしは、自分で水を汲み薪をとり、下の村にいって托鉢で食を得るという苛酷な生活である。隠遁の独居生活も、体力があってはじめて可能だ。そこで人のすすめで、島崎百姓代の木村家に移ってきた。はじめは母屋に住むようにと木村家では取りはからったとのことであるが、良寛はそれを固辞し、裏庭の納屋に住んだ。生涯の草庵暮らしを貫いたのである。
 木村家の納屋暮らしをはじめた良寛には、よいことがあった。貞心尼がその草庵に訪ねてきたのである。諸説はあるのだが、加藤僖一氏によれば、良寛六十九歳、貞心尼はそこまでの人生に辛酸を味わってきたものの、二十九歳であった。良寛は七十四歳で息を引き取るまで、貞心尼と歌を交わす。まさに老境の純愛であり、この二人の物語に心を揺すぶられる人も多いだろう。
 「あれは見え見えよ。三十前の女がいけば、いくら良寛さんだってころっとまいるわよ。貞心尼は計算づくで良寛さんに近づいたのよ」
 余談なのであるが、ある女流と良寛について雑談をしていると、こんな風にいわれて私はぴっくりした。これが今風の解釈なのだとしたら、夢がない。誰もわからないことなのだから、ここまでリアリズムの解釈をしなくてもよいだろうと私は思った。反論しようにもできないのではあるが…。
 貞心尼も女性らしい美しい文章と字体で「蓮の露」という書物を残している。貞心尼の文字そのままの復刻版が最近出版され、私もー冊持っていて時々読む。そこからはかの女流のようなリアリズムの解釈は、露ほども出てこない。
 さて本書には、良寛の霊前に捧げた貞心尼の和歌もでてくる。
 「たちそひていましもさらに恋しきはしるしの石に残る面影」
 「しるしの石」とは、良寛の墓石であろうか。私も先日寒い時節に良寛の墓参りをしてきたが、石を思い浮かべたしだいである。
 書を見るかぎり、良寛は、威儀の正しい人であったと思う。威儀即仏法というとおり、立居振舞いに仏道修行の度合いが現れる。この書をしみじみと見ていると、良寛はこの上ないさとりの境地に達した、日本でも指折り数えられる修行僧であると、私には感じられるのだ。
週刊読書人 2005年4月29日(金)

百霊峰巡礼に向かって top
 歩くことは好きである。駅でも、なるべくエスカレーターを使わずに歩くようにしている。エスカレーターを併設されている長い階段で、隣を息を切らせて歩いていると、いいオヤジが意地を張ってやがると思われているように感じる。そんなことはかまわず、歩くのである。これは自分のためなのだ。
 こんなことをするのは、ことに最近からというのでもない。前からなるべく歩くようにしていたのである。野山でも街でもコースを決めて歩くようにすれば、それは楽しいに決っているのだが、普段はなかなかそんな時間はとれない。そこで生活の中に、歩くことをなるべくまぎれ込まそうとしているのだ。
 急いで歩いているわけでもないにせよ、安全第一に設計されたエスカレーターにのんびり運ばれて行くより、自分の足で歩いたほうが速い。もちろん荷物を運んでいる時は別である。
 私はスポーツクラブの会員になっている。ほぼ1日おきにプールに泳ぎにいく妻には、会費だけ払ってもったいないとよくいわれるのだが、時間がないのである。ふっと時間ができると、原稿を書いたり本を読んでいる。スポーツクラブにいけば2時間か3時間はつぶれるし、夜はほとんどそれで終わる。それよりも私は本を読んでいたい。
 もちろん私は健康でいたい。太りたくない。そのために、歩くのである。歩く効用は、もちろん運動になるということと、ものを考えることである。座禅は座っているばかりでなく、経行(きんひん)といって歩く座禅もある。じっと座っていて固まった関節をストレッチするためのものでもあるが、歩くことそのものが座禅である。中国の禅院では経行処(きんひんしょ)という屋根つきの長い廊下があり、いつも誰かが歩く座禅をしていた。
 ゆっくりと規則正しく歩くことは、瞑想なのである。じっと座っているよりも、正直、楽である。
 歩くことは瞑想だとは、私がいつも実感していることだ。スポーツクラブへの足は遠いのだが、私はよく登山に行く。山岳雑誌「岳人」に「百霊峰巡礼」の連載をやっていて、毎月ひとつの山に必ず登らなければならない。登山をしていて原稿を書くのが、私の仕事なのである。
 百霊峰とは、編集部と私とが選んだ日本の聖なる山である。そもそも日本人にとっての登山とは神仏を感得することであり、身体を気持ちよくするためスポーツをすることではなかった。その山岳観を取り戻そうという意図で山登りをしている。
 私たちが知っている登山道は、多くが蛇行して楽に歩けるようになっている。ところが本来の修験の道は、急斜面をまっすぐである。山にきて楽をしようなどと、まったく考えない。なぜなら、ここは修験道場だからだ。登山をする苦しみと喜びの中から、神仏を感じようとするのだ。
 たとえば日光の男体山は、日光二荒山神社の御神体である。神社の裏が登山口になっていて、そこから山頂までほぼまっすぐな道がのびている。崩落したところがあり、迂回路が何筒所かにできているが、古い行者道を歩いていると、山を修験道場とした人々の精神に一歩でも近づくことができる。私の仕事は、現代日本人の山岳観を換え、読み戻していこうということである。
 そのためには、歩かなければならない霊地として低山もないわけではないが、富士山、立山、白山、剣岳、大雪山など、日本を代表する山々がある。先日も3千メートルを超える木曽の御岳山に登ってきた。身体が元気で、精神が緊張していなければ、百霊峰巡礼はできない。 毎月山登りをして百ヶ月、足かけ9年の大仕事である。
 なんとか百霊峰巡礼をなしとげたいと思っている。そのためにこそ、日々のトレーニングと心得て、私はできるだけ歩くことにしている。
「スマイル」Vol.01 2005.4.1
トランスワールドジャパン(株)

子供はアンテナである top
 子供は小さいと、身体がよく動くので安全を保つのが大変なのであるが、大きくなるとなんだかつまらなくなってくる。その理由というのは、子供は小さければ小さいほど大人とは別の生きもので、見える世界も興味を持つ対象もまったく違うからではないだろうか。それが大きくなると、だんだんと大人に似てくるから、やることや、いうことの予想がつき、意表をつかれることもなくなる。つまり、つまらなくなる。大人の常識で多くのことが片付くようになるからである。
 子供というものは、子供という異次元の世界に向けて立てたアンテナなのである。だからすぐそばに小さな子供がいると、子供の頃には感じたのに大人になったらまわりへの配慮ばかりをするようになり、その感受性に直接感じられなくなってきたようなことを、改めて感じさせてくれるのである。子供がそばにいると、自分が子供だつた頃のことを思い出させてくれるので、それは楽しいのだ。
 子供は子供の世界を感じさせてくれるアンテナだけを持ち、子供は子供なりの方法、時にはつたないのだが、感受性がきらきらするような方法で伝えてくれる。自分の子供が小さい時には、どうしても子供のそばにいる時間が多くなり、感じさせてくれることも多い。大人として子供から教えてもらうことがたくさんあると、子供のそばにいると実感するものである。
 だが子供はどんどん大きくなり、大人の感受性になってくる。大人が感じるようなことしか感じなくなると、正直のところおもしろくないのだ。大人がおもしろくないといっても、子供はどんどん大人に近づいてくるという現実はどうしようもない。
 だからこそ、小さな子供との一瞬一瞬を大切にしたい。感度のよいアンテナをそばに置いて感じられることのひとつひとつは、かけがえのないものである。
 それらは、失ってから気づくたぐいのものなのだから、今が大切なのだ。
「ママだいすき」Vol.39 2005年3月発行

法隆寺の願い top
 早朝四時十五分に起床し、衣を改めると、カイロを懐中にいれて外にでる。前夜のうちに鉢に盛りつけておいた粥などの供物を、木箱にいれてリアカーに積み、法隆寺西院伽藍に引いていく。
 月光の残っている夜空が金属の光沢をたたえ、そこに五重塔や金堂が影になって浮かんでいる。美しい風景の中に自分がいることはわかっているのだが、手分けをして必ずしてしまわなければならないことがある。まず真暗な金堂の内部に燈明を灯すことである。素焼きの小皿に菜種油をいれ、燈芯草の茎を沈め、そこに火をつけるのだ。暗闇の中に浮かんだ釈迦三尊や吉祥天や毘沙門天や四天王などの諸仏諸菩薩が、今ここに現われたかのようにしてある。
 私の役目は、修行僧の助手というべき承任である。法要の下働きだ。燈明が点いて明るくなると、決められたとおりに諸仏講菩薩に供物をならべていく。孤独で静かな充実した時間である。堂内に燈明が点ると、壁画も美しく映えてくる。
 午前六時からは鐘をつかねばならないので、鐘楼にはいる。垂らしてある綱を、思い切り体重をかけて横に引くと、ゴーンと鐘が鳴る。力の伝達の方法が難しくて、なかなか思うようにいい音を響かせることができない。一度つくごとに小石を横にどかし、二十一度鳴らす。外からはまったく見えない仕事である。立派な法要であればあるほど、下で支えるたくさんの人がいるものだ。こうしているうちに出仕憎が一人二人とやってきて、法隆寺金堂修正会ははじまるのである。  法隆寺金堂修正会は吉祥悔過で、吉祥天と多聞天(毘沙門天)を本尊として、人々の幸福を祈願し、自らの罪過を懺悔する法会である。声明としてのストーリーができていて、朝と昼と晩と三度吉祥天と多聞天のまつられた金堂にいき、諸如来諸菩薩を讃えて自らを懺悔し、万民豊楽、寺門興隆、国家安穏を祈願する。神護景雲二(七六八)年に太極殿ではじめて厳修され、諸国の寺々でも行われるようになり、今年千二百三十八回目の御行(みおこない)である。他の寺々ではいつの間にかやらなくなってしまったのだが、法隆寺では人知れず祈りを重ねているということだ。
 燈明を点けたり消したりと、私はたいしたことをしているわけではない。だが十年つづき、私個人としては年間の正月行事となっている。干二百三十八年のうちには、この法要にも様々な変化があることだろうが、芯から冷える金堂の闇の底に坐っている私から見えることもある。
 吉祥天に懺悔し、帰依して、「天下安穏・万民豊楽・地味増長・五穀成就」を祈願し、その後に秘儀ともなっている作法を行う。七日間行われる法要の最後の三日間の夜は一般にも公開されているのだが、金堂内陣と一般客との間は白い幕が張られて隔てられる。その時の祈りの文言は恐ろしい。
 寺中寺外の他方世界からやってきて、堂舎宝塔諸坊諸院に乱れ入って、火を点けたり盗んだりの災難をもたらし、日本国家に事を寄せて万民諸人に煩いを与え、山内に違礼をはたらき、山木等を切り盗み、千古の神秘を破壊して非法をなす輩は、このようになれと激しく祈るのである。
「本額太子の御誓文に任て、現世には三災七難をこうむらしめ、後生には無間地獄に堕在して、永遠に出離の期なからしめ給え」
 これを四天王や薬師如来の眷属(けんぞく)である十二神将などに祈願するのである。この文言は法隆寺で発刊された「法隆寺要集」に記載されている。
 ここに法隆寺千四百年の歴史の困難が語られている。吉祥悔過がほじめられた奈良時代と、祈りの文言がまったく同じものなのか、多少の修正が加えられているのか、私にほ確かめようもない。だがおおよその雰囲気というものは伝わっているであろう。
 法隆寺は盗賊などの内外からの災難をもたらす乱入者に苦しんできたのである。法隆寺を建立した聖徳太子の願いは、この国を形づくる王から庶民までの一人一人が慈悲の思いに満ちた菩薩になることであった。だがその願いとは別に、人には権力欲や所有欲があり、我欲があって、なかなかうまくいかないものである。
 そのためにこそ、せめて自らの罪過を懺悔する吉祥悔過は、私自身の生き方にとっても意味があるということである。
 今年の法隆寺金堂修正会も無事に結願をむかえた。
文芸春秋 2005年3月号

法隆寺金堂修正会 top
 今年も私は正月に行われる法隆寺の金堂修正会に出仕し、寺内に七日間籠り精進潔斎をして、無事に結願を迎えたところである。昨年私は体調を崩して参籠することばできなかった。はじめて参加してから今年は十年目にあたる。私の役目は修行僧たちの助手で、承仕と呼ばれる。出家をしているわけではない在家の人間なので、一週間奉仕をし、ついでに自分の行をさせてもらおうという、底辺の立場だ。
 朝五時十五分に起床し、身支度を整えて真暗な金堂にいく。前の晩から用意しておいたお粥などのお供物をリヤカーで運び、決まった位置に供え、お燈明を点けたり消したりする。行の下支えである。お寺には常日頃からお手伝さんと呼ばれる縁の下の力持ちがいて、私たち三人の承仕は寺僧よりずっと早く起きて、彼らとともに支度をはじめる。まだ明けぬ闇の中で、表側の華やかさからは離れた地味な行をする人とともに、私たちも静かに行いをするのだ。
 そんな日々に、少し力んでいるようではあるのだが、私は宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩をひそかに思い浮かべる。
「丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク
決シテ瞋ラズ
一日二玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタ ベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンヂャウニ 入レズニ
ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ」
みんなにデクノボーと呼ばれ、誉められもせず、苦にもされず、そういう者になりたいという理想を、宮沢賢治は実践して死んでいったのであった。これは法華経にでてくる、常不軽菩薩の姿である。常不軽とは、つねに軽蔑されたという意味だ。常不軽は会う人ごと誰にでも同じ言葉をかけて、礼拝行をした。
「私はあなたたちを軽蔑しません。あなたたちは軽蔑されてはいない。その理由は何か。あなたたちはみな例外なく菩薩の修行をされているからです」
 常不軽は誰に対しても尊さを見ていたのに、かえってまわりの人々から軽蔑されていた。うとんじられても死ぬまで礼拝行をつづけ、死ぬ時に大いなる安心の境地に至ったというのが、法華経の物語だ。
 どんなところにも、この常不軽のように無欲な存在の人がいる。本人はことに光を当てられようなど思ってもいず、自分のなすべきことを黙々とつづける。厳寒の早朝にリヤカーを引いてお供えを運び、お燈明を点けたり消したりの行をするのは、ひそかに常不軽菩薩になることではないかと私は念じている。法隆寺の壮麗な大伽藍の片隅での、人知れぬ菩薩行だからこそ、感じることもある。
 法隆寺の金堂修正会は、吉祥天に自分たちの罪過を懺悔する吉祥悔過である。神護景雲二年(七六八年)に大極殿で最初に厳修され、法隆寺をはじめ諸国の寺々で行われるようになったとされる。法隆寺では二〇〇五年正月で干二百三十八回目の法会であるということだ。法隆寺では世間の人々が知ろうと知るまいと、こんなに長い間祈りつづけてきたということである。
 法隆寺は千四百年の歴史を持ち、私が知ることなどごくわずかに過ぎないものの、今回金堂で声明の一端に加わりながら、感じたことがある。
 吉祥悔過のストーリーは、吉祥天をはじめ仏菩薩を讃え、その場にきていただき、自らの罪業を懺悔し、帰依して、願いを聞き届けていただくということだ。その願いとは次のようなものである。 「護持国主・護持伽藍・天下安穏・万民豊楽・地味増長・五穀成就・及以法界・平等利益」  土地に力をもらい、農業生産が上がり、人々が幸福になり、天下は平和で、寺の伽藍が護持され、国王が護持され、この喜びは真理の世界にも及んで、すべての生きとし生けるものに平等に利益がある。このような流れになる。
 勅令によって全国の寺々で行われることとなった吉祥悔過の根底には、天皇制による国家体制を維持しようという以上に、転輪聖王(てんりんじょうおう)への強い憧憬があると、私は燈明の明かりがあるばかりの闇の底に坐りながらはっきり感じていた。すべての生きとし生けるものが幸福にならなければ、王にも庶民にも幸福がこないという、大乗仏教的な思想である。個人だけの解脱を願うのではない。他人の幸福を願うことにおいて、庶民も王も同じ立場なのである。転輪聖王は古代インドの神話上における理想の帝王である。武力を用いず、ただ仏法による慈悲によって政治的な支配者になる。仏法によって世界が統一されるためには、庶民一人一人が菩薩でなければならない。
 いまだ実現しない理想の国家像を求める精神を、私は今年の吉祥悔過で感じた。神護景雲二年は称徳天皇の治世で、道鏡が法王として権勢をふるった時代である。現実は現実として、大乗仏教的な慈悲心にあふれた国家を現世に実現しようとのおおらかで遠い理想を、私は切実に感じることができた。
 干二百三十八回目の理想を遠望する法要に参加するとは、連綿とつづいてきた歴史の末端に連らなることである。お燈明を点けたり消したりの単純きわまりない行をしながら、私は歴史に連らなる至福を感じたのであった。
日本経済新聞2005年1月30日