ひと紀行「私の聖地」
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 日本ではすでにオオカミを絶滅させた。カワウソがどこかの山河で生息していると信じる人はいるが、ほぼ絶滅したと考えて間違いはないだろう。
 佐渡のトキは、そう遠くはない昔まで田んぼを飛びまわる姿が見られたのだが、中国から同種を移入してかろうじて命脈を保っている。すでに人工孵化は成功したが、放そうにも山河の様子はすっかり変わってしまった。トキが自由に飛んでいた頃には、冬になっても田んぼには水が張られ、ドジョウなどの餌がたくさんいた。いつしか農法が変化し、除草剤や殺虫剤を大量に撒き、冬は水を抜く乾田にするようになった。これではトキの生息環境は失われてしまったのである。農薬は使わず、湿田農法に帰ろうという動きもあるにせよ、ごく少数である。日本の山河もすっかり変わってしまったのである。
 私がこのようなことを考えるようになったのは、知床に足を運ぶようになってからである。学生時代にはバックパッカーて知床にいったことがあるが、本格的に訪れるようになったのは二十代後半、テレビの仕事で流氷の取材にいってからだ。流氷を見にいきませんかと誘われ、それまで見たことのなかった私は心が動いた。その当時は流氷はなんだか恐ろしいものであり、知床観光の拠点である字登呂の街は、流氷の到来とともに観光客の姿は消えた。旅館も増築中の一軒が営業しているだけで、取材チームは頼み込んでやっと泊めてもらったのである。
 はじめて見る流氷は一点の汚れもなく、美しかった。こすれあってギギツと軋むのが、生きているようにも思えた。私の仕事は流氷について語ることだったから、この感動を言葉でどのように伝えるかということであるり私という存在が、自然の側から試されているなと思った。
 その時まず感じたのは、自然と人間の関係である。私がバックパッカーで知床にはじめて訪れたのは十代の後半で、それからでも二十年近くの歳月がたっていた。 斜里の市街から字登呂にいくのは山の上の砂利道を通っていったのだが、海岸を埋め立てた比較的まっすぐな立派な道路になっていた。旅行者としては楽なのだが、山と海とを分けてしまっているのは明らかであった。実際、エゾジカが道路に面した山の斜面に立ち、雪の中からこちらをじっと見ている。シカとすればアスファルト道路が柵の役割になり、海のほうにいくことができない。
 シカは雪の下から笹を掘り出して食べるか、木の皮を剥いて食べる。木の皮をきれいに剥いてしまえばその木は枯れ、シカの食害として人間の側からは問題になる。そうではあるのだが、身動きもつかない深い雪の中にいるのは、いかにも難儀そうであった。シカは除雪された道路にいる私たちのほうをじっと眺めている。無表情なシカの顔は、なんだか私たちにものいいたそうであった。
 「冬はいやだなあ。腹が減って、寒いよ。お前たちはちゃんと食べているのか」
 シカはこんなふうにつらさを訴えているかのようだ。冬になって自然の力が強くなると、人間はそっとうしろにさがる。そのさがった部分に、自然がひそやかにやってくるのである。その自然は思い掛けないほどに近い。その距離の近さこそ、人間が自然に対して謙虚になった分である。
 知床の大自然の中に立ち、私は多くのことを考えた。当地に友人ができ、すすめられて中古のログハウスを持ち、多くの時間を知床の海や山で過ごすようになった。心を謙虚に保つと、自然は多くのことを語りかけてくれる。
 はじめて流氷の前に立ってからでも、二十年近い歳月がたっている。私は山でしばしばヒグマと遭遇する。日本で最大の陸上動物であるヒグマは、これまで開拓者を襲ったこともあり、獰猛な生き物であるとされてきた。姿を見たら反射的に射殺しようとする人もいる。だがクマにはクマから見える世界というものがある。開拓者はクマの生息環境を破壊したのである。
 クマはクマを生きているだけで、私たちは人間を生きているだけだ。クマの姿を見ていると、石をひっくり返して下の蟻をなめ、木に登ってコクワの実を食べ、川を遡上してくるサケやマスをとっている。生きる行為をしている。ただ幸福に生きたいだけなのだ。すべての生きものの幸福とは、腹が減ったら食べものがあり、寒さ暑さに苦しむことなく、命をおびやかすものがないことだ。
<草木国土悉有仏性>
 草、木、虫、魚、鳥、獣、人を見ていると、こんな言葉が自然に浮かんでくる。生きとし生けるものは、己れの年を生きているだけである。そんな当たり前の認識をいくたび与えてくれる知床は、私の生地である。

シカは食うべきか top
 私がいつもいく知床と日光では、ことにエゾシカが繁殖して、山が荒廃している。知床の奥地の番屋のまわりは、かつてイタドリが人の背丈ぐらいまで育ち、ヒグマが二本脚で立ち上がり回りを見回す光景が見られたものである。ところがこのところ、植生が完全に変わってしまった。繁っているのはハンゴンソウとアメリカオニアザミばかりである。いずれエゾシカが食べない草である。エゾシカが食べないくらいだから、ヒグマも寄りつかない。
 どうも荒涼とした風景になってしまった。冬になるとエゾシカは雪の溜まらないところにでてくる。つまりそこは海岸線の風の強く当たるところで、知床ではおおくが海岸際である。道を走ると、エゾシカがよく見られる。冬はエゾシカを見るには最も簡単な季節である。ところが百メートルもいく間に、数百頭のエゾシカの群れが斜面にじっと立ち、黙ってこちらを見ていることがある。そんな時、エゾシカはまったく暴力的ではないのだが、ぞっとすることがある。
 エゾシカにしてみれば、食べものがなくてつらいのである。一本の樹に数頭が群がり、幹まわりの皮を食べている。その樹は遠からずして枯れることになる。そんな樹が山にたくさんある。また秋のうちに下生えの笹をきれいに食べてしまったところもあって冬の食料がなくなっている。
 エゾシカばかりでなく、ニホンカモシカも全国的に異常な増えっぷりである。これは、自然のバランスが狂ったからで、シカについては圧力をかけるものが存在しなくなったことが大きい。つまり、オオカミと人間がある。オオカミは絶滅し、人間は狩猟をすることが少なくなり、保護にまわってからである。保護はもちろん大切だが、その山で生きられるためにはふさわしい数というものがある。このままではシカはなお増えつづけ、結局山に食べるものがなくなり、寒波がくると多量に死ぬことになる。そうならないためにも、適正な数に調整するべきではないかと、私は考えるに至った。
 くりかえすが、保護はすべきである。しかし本当の保護というのは、シカという種族が生きながらえていくことだ。このまま増えつづけて多量死を待っていると、森も荒廃して、他の生物にも影響が出てくる。シカが生きられる環境ではなくなってくる。一頭一頭のシカは愛らしくて美しいのだが、それだからこそ森もシカもクマも人間も共存していく道を考えていかなければならない。そのためには人間は他の動物に対して圧力とならねばならないこともあるのである。全体が不幸にならないために手を打てるのは、人間だけなのだ。
 適正な、つまり最小限の数を狩猟して、その肉は、食料とすべきではないだろうか。現在は法廷で駆除したシカは焼却処分するが個人消費することが許可されているのだが、きちんと食肉として流通させて食べるべきだと私は思うのである。
 それが本当の自然保護であると私は思う。
「滅び行く生き物を救えるか」のための立場

古事の森への思い top
 このところの私の毎年の正月行事として、一月九日の夜から十四日の夜まで、奈良斑鳩の法隆寺にお籠りをしている。
金堂で厳修される法要なので、金堂修正会(しゅうしょうえ)と呼ばれている。
神護景雲二(七六八)年に内裏の太極殿ではじめて勤修(ごんしゅう)されて以来、全国の寺で行われてきた。千二百三十数回つづけられてきて、今日もつづいているのは、法隆寺だけではないだろうか。全国津々浦々の寺々を調べたわけではもちろんないのでわからないのだが、私はそのように思う。
 法要の内容は、悔過(けか)、すなわち懺悔(ざんが)である。吉祥天、多間天を本尊として自らの罪過を懺悔し、そのことによって国家安穏(あんのう)や万民豊楽を祈願する。修行僧のアシスタントの私は承任(じょうじ)と呼ばれ、行の遊行を助けながら、朝昼晩と二時間ずつ金堂の内陣に坐って声明を唱える。毎朝五時に起きて、暗い金堂にはいるのである。
 地味増長や五穀成就や万民豊楽を唱えていると、一瞬天井のあたりに陽光が輝き、夜が明けたことがわかる。決まった法要の次節をすませ、外にでると、伽藍の甍(いらか)も回廊の屋根も土も植木も、銀色の霜におおわれているのである。承任の私が先頭になって列をつくり、伽藍をでて洗心寮と呼ばれるところにいき、精進潔斎の朝食をみんなでとる。
 千二百三十数回も、法隆寺では毎年祈りつづけてきたのである。美しい仏教美術につい目を奪われがちな法隆寺ではあるが、このような祈りが昔から重ねられてきたのである。
 朝も昼も夜も暗い金堂の片端に坐り、仏菩薩をたたえる声明の声を上げながら、私は遠い先祖たちとつながっていることを感じる。法隆寺の建物には、樹齢千年とも千二百年ともいわれる桧の大木が使われている。毎朝金堂にはいる時に鍵を開けてはいる扉ほ、重厚な桧の一枚板なのである。五重塔の心柱も、中門のエンタシスの柱も、今時材としてほとんど見ることのない大径木である。贅沢といったら贅沢な材がふんだんに使われている。
 暗い金堂で、私はこんなことを考えた。法隆寺は聖徳太子が創建してから一度火事にあい、全焼した。その後再建されて千三百年たっている。千二百年前に樹齢千二百年の檜が伐採されたとして、乾燥の期間などもあったろうが、大雑把にいえば二千五百年前に生きていた樹木であるといえる。二千五百年前といえば、釈迦の生きていた時代である。
 檜は地上に立って千二百年、材として使われ寺になって生きて千三百年、なんとも遠大な命ではないか。寺としてていねいに使っていけば、今後何百年も生きるであろう。伽藍は巨大な生命体だということができる。
 法隆寺の大伽藍を守ってきたのは、毎日見回って補修をつづけている大工である。かつて法隆寺大工と呼ばれる修理専門の職人たちが法隆寺のまわりに住み、古建築の修繕にたずさわりながら、自分の腕を上げてきたのである。中門のエンタシスの社などを見れば、なんともていねいに埋木がしてあり、修理自体が芸術品に思える。その日々のメンテナンスが、法隆寺の木造連築を千三百年ももたせてきた根本なのである。
 そこに百年か百五十年に一度、本格的な修理を行う。三百年から四百年に一度は、大修理をする。最近の大修理としては、昭和九(一九三四)年から昭和三十年までかかった「昭和の大修理」の大事業があった。途中、世界大戦があり、出火によって金堂の壁面が消失してしまうなど、事業は困難をきわめた。それでもなんとか金堂や五重塔の解体修理まで終了させることができた。
 昭和の大修理の前は、一六九六年の「元禄の大修理」である。この二つの大修理の間だけでも、二百四十年近い歳月が流れている。人は一世代三十年としたら、八世代にわたるということになる。その間、法隆寺大工の知恵や技は、小さな修理をくり返して技術を伝承しながら、口伝(くでん)として受けつがれていったのである。
 法隆寺にいて、この伽藍を後世に残すための最大の障害は、修理をするための用材がないということではないのかと思えてきた。あちらこちらの山の林にはいることの多い私は、どうしてもそこで立ち止まってしまう。日本の森は荒廃しきっていて、法隆寺の五重塔の心桂に使うような檜材をとることはとてもできない。
 それならば、今から植えれば間に合うのではないかと私は考えた。法隆寺だけのことでいうなら、次の大修理まで二百年以上ある。すぐに植林すれば、直径一メートル以上の大径木をとるのは可能なのである。
 私がその構想を林野庁の友人に話すと、さっそく動きがはじまった。「古事の森」と名づけられた大径木をとるための森が、まず京都の鞍馬の山で、次に関東の筑波山で、北海道の
江差で、奈良の若草山で、ボランティアの人々の手を借りてつくられていったのである。

微笑と甘い香り top
 スリランカは穏やかな仏教国である。古い遺跡に行けば、.釈迦の石像が炎天下に微笑をたたえている。その微笑がこの国のすみずみにまでひろがっているように思える。山の中ではもう二十二年間も戦争がつづいているそうだが、町にいるかぎりそんな気配はまったく感じられない。
 スリランカのホテルで「ぱれっと」を主催する谷口奈保子さんに会った時、一生懸命な人だなというのが第一印象だ。スリランカ全体の印象は、とにかく一生懸命働いている人と、熱帯特有のけだるさの中で心地よく毎日を送っている人とが混在しているなということだった。心地よく生きるのも、もちろん悪いことではない。熱帯地方はどこにいっても植物の生命力が旺盛で、それによって人が生かせられているという感じがある。
 その中で、谷口きんは孤軍奮闘してきた情熱の人である。山の中で民族間の戦争を続けているこの国は、表面は平穏なのであるが、停戦協定がいつ破られるかわからない緊張をはらんでいる。そんな国に一人で飛び込んで、障害者のためのクッキー工房を開設し、クッキーを販発しで知的障害者の自立を助ける施設をつくるとは、なみなみならぬパワーの持ち主といわなければならない。
 「スリランカぱれっと」は、コロンボの中心部から、混雑した道路一時間余りも車で走ったところにある。製陶工場の一画に建っている家に入ると、クッキーの甘い香りがぷう一んど漂ってくる。そこで、十七歳から三十六歳までの知的障害者が、白い布を頭にかぶり白いエプロンをしめて、笑顔とともに働いているのだ。工房に流れているのは、まわりを気遣う親愛の空気というものだ。こんな空気を保っていられるのも、谷口さんをはじめスタッフが世間と真剣に向かいあっているからだろう。
「この国では障害者は布施の対象で、働かなくてもいいという風習がありました。そこで『おかし屋ぱれっと』をつくり、訓練しながら働いてお金をもらえるようにしたいと考えました。訓練だけしても、働く場所がないんです。まず貧しい人の働く場所をつくるべきではないかという意見があって、はじめは売れませんでした。甘くないヘルシーなクッキーをつくったからです。おいしいクッキーをつくるのに一年半かかりました。パッケージも派手にして、アルミ箔を使って賞味期限を六ヵ月に保つようにしました」
 作業場の横で谷口さんは淡々と説明してくれるのだが、もちろん語っても語っても語り尽くせないものがあるといったふうだ。誰もしていないはじめてのことをするのに、谷口さんの持ち前のパワーと粘りが発揮されたのだろう。不屈の闘志といってよいものかと思うのだ。
 「スリランカぱれっと」は製陶工場の敷地の片隅に建てられた。その強力な支援者の製陶工場社長ダヤシリ・ワルナクラスーリアさんが、笑顔を絶やさずに話してくれた。ダヤシリさんは昭和三十五年日本の瀬戸で製陶を学び、故国に帰って窯を開くところからはじめた。今はアメリカやヨーロッパにキッチンセットを輸出する大会社の社長だ。
 「昭和三十五年頃の日本はよかったよ。今の日本で悲しいこと、二つあります。ホームレスがいるでしょう。若い女性がへんなアルバイトしているでしょう。礼儀も知らないし」ダヤシリさんは流暢な日本語で、笑顔ながら悲しそうな表情をたたえていう。だからこそ、献身的な慈悲という日本人の美質を失わない谷口奈保子さんや「ぱれっと」の運動を支援しているのだと、言下に私には感じられた。
 「スリランカぱれっと」の作業場で最も目立つのは、全員の顔にたたえられた微笑だ。
「十七年間、何もしないで家にいました。すぐパニックになって、暴力ふるってました。今は成長して、村の人が変化に驚いています。貯金しでモーターバイク買いました」
 一人の少年は作業の手をとめ、やはり微笑してこう話してくれた。
あーゆぼーわん!
スリランカ便り

子供たちへの手紙 top
 いかがお過ごしですか。この移ろいやすい世の中で、子供の君たちが何を考え、どのように生きようとしているのか、もしくは何も考えないようにしているのかと、すでに五十六年もこの世に生きた私は考えてしまいます。世代の間でものの考え方にどんどん開きができているようで、正直いって私は不安を禁じえません。
 世代間のことだけではありません。地域によって、住んでいる環境によって、ものの考え方とらえ方がますます隔っていくようで、これだけ通信網が発達した時代にあって、むしろ心の交流が疎外されているような気がしてなりません。
 心の交流が疎外されていく究極の行き方は戦争でしょうが、この地球上で戦争が現実に起きているのです。しかもいとも簡単に起こってしまい、ミサイル攻撃をするシーンが、あくまでも発射する側のポジションでですが、テレビで見られたりするのです。爆発した炎の下でたくさんの人が死んでいるのに、テレビ画面の中に写しだされる映像はまさにコンピューター・ゲームのようで、血のにおいはまったくしないのです。
 しかしそのように安閑としていられるのも、テレビ画面のこちら側にいるからで、向こう側にいたとしたら、恐ろしくてどうしていいかわからなくなるでしょう。ミサイルが頭の上に落ちてきたというそれだけのことで、人は死ななければなりません。その国に生まれたから、その地域に生まれたからというだけで、たった一つきりの命を捨てることができますか。
 知らないうちに画面の向こう側に、攻撃を受ける側に立っているのが、今日の私たちの姿なのです。あくまでも知らないうちなので、攻撃されてからはじめて自分の立っているポジションを知るといった具合なのですよ。たぶん、もう、私たちはミサイルの弾頭の下にいるのです。私たちが望んだことでは、絶対にないのに。
  一度だけ、私は爆撃される側にまわったことがあります。テレビの取材で、内戦中のレバノンにはいり、イスラム・ゲリラの基地に泊まり込んでいました。ごく単純化してしまえばイスラム教徒とキリスト教徒の内戦で、私たちがはいった時には各国の大使館も通信社もすべてが国外に
脱出していました。そんな時に報道機関としてはいったものですから、まあ私たちは歓迎されたわけです。
 戦時下の日常生活をレポートするのが私たちの仕事でした。しかし、もともと同じ大地で共存していた彼らが何故いがみ合い、殺し合いをするのか、情報としては知っていても、本当のところはまったくわかりませんでした。苦労して現場にいってみると、確かに戦争がありました。ロケット砲や迫撃砲やマシンガンを撃ち合い、殺し合いをしていました。戦場にいる兵士たちにはもちろん彼らにしかわからない恐怖はあったでしょうが、それ以上に激しい宿命というものがあり、それに基づく正義というものがありました。家族を守る、故郷を守るという以上の正義はありません。実際に彼らは家族を殺され、土地を奪われ、多くの犠牲者をだして土地を取り返しても、オリーブの樹の下には地雷が埋められていました。それでまた何人もが殺されるのです。
 彼らには戦う理由がありましたが、その姿をリポートしにいった私たちには、好奇心や仕事やらは確かにありましたが、自分が死んでもいいと納得できる正義はまったくありませんでした。
もちろん誰にも銃口を向ける理由がない私たちは、カメラとペンしか持っていませんでした。
 イスラム・ゲリラの基地に泊めてもらった時のことです。もともとそこは大金持の別荘で、四階建てでした。四階は砲撃されたら危険なので、使いません。一階も白兵戦で攻撃を受けやすいので、土嚢が積んであるばかりで、人ほ使っていません。二階が兵士たちの留住区で、私たちは三階を使ってよいといわれました。マットレスと毛布を一枚ずつ渡されたのですか、戦場に慣れている人は安全な場所にさっさとマットレスを敷いてしまいます。私はもたもたしてしまって、せめて頭だけは柱の陰にはいれるようなところで眠ることにしました。
 その晩、迫撃砲の攻撃を受けたのですが、あんなに恐ろしいことはありませんでした。敵がどこにいるかわからないのに、私は攻撃をされているのです。ある陣営の側に泊まったために、敵の陣営からは私たちは敵になっているのです。私たちには信念などありませんでしたが、明確な敵になってしまったのでした。
 迫撃砲の攻撃は正確ではないので、いつどこから弾が飛んでくるかわかりません。近くに着弾すると、地面とまわりの空気かビリビリと震えます。私たちはといえばカメラやペンを握りしめ、暗闇の底にはいつくばって、じつとしているほかありません。
 私は恐怖のためにどうしていいかわかりませんでした。私は憎悪にさらされている自分を感じたからです。それがどのような理由で、どのような過程をへてつくられた憎悪なのかわからないのですが、ただ恐ろしい憎悪の現実だけがそこにありました。しかも、私はその底なしの憎悪を、無力で、沈黙して、もっぱら受けとめているしかありませんでした。敵を無差別に殺してしまおうという憎悪ほど、恐ろしいものはありません。その時に、私は、戦争というものがほんの少しわかったような気がしました。
 少し冷静になった私は、迫撃砲の発射音と、着弾する爆発音との関係を感じはじめていました。発射音がして、秒数を数えはじめ、一、二、で爆発するのは敵から近いところが狙われています。
弾がだんだん近づいてきて、一、二、三、でちょうど私のいるところに落ちます。その時には生きた心地はしませんでした。日本に残してきた家族のことを考え、なぜこんな仕事を受けてしまったのだろうと後悔しました。しかし、どう考えようと、どう後悔しょうと、爆発する弾の近くに私がいるのだという事実はどうにもなりませんでした。もし爆弾を受けて死んでしまったら、私の人生はここでサヨナラです。なんとつまらない生涯を送ってしまったかと、私ばかりでなく、誰もが思うでしょう。私は戦死でもなく、ただの犬死です。あのすさまじい憎悪を感じただけで、私はそのまま死んでしまいそうになったのでした。
 そのうち、一、二、三、四、と数えられるようになりました。弾はそれていき、攻撃目標が変わったことがわかったのです。しかし、再度攻撃目標が変わるかもしれず、マットレスにうつぶせにしがみついている同じ姿勢で、神経だけが張りつめていました。
 明け方に、ほんの少し眠り、外で人が騒ぐ声で目覚めました。エンジンの音が聞こえたので窓(もちろんガラスははいっていません)からのぞくと、兵士たちが小さな戦車を乗りまわしていたのです。戦闘があって、そのぷんどり品だったのでしょう。そこでも何人か死んだのに違いありません。
 レバノンではその後も何度か命が危いこともありましたが、私たちは無事に日本に帰ってきました。平穏な日常生活に戻り、もう二十年もたつのですが、時々私はあの憎悪を思い出します。この文章を書いていて、また思い出したのです。思い出しただけで、身の毛がよだちます。しかも、私が全身で感じた見も知らぬ人からの憎悪が増幅されて、この時代を覆っているようにも思えてくるのです。
 私が感じたあの憎悪の濃度を何万倍にも煮詰めて、しかも長時間、生涯の間感じている人が、今日の地球にはたくさんいるに違いありません。なんと恐ろしい人生なのでしょうか。戦争とは、あの憎悪のことです。
 電子戦争になって、敵の姿もわからないのに、あの憎悪だけはまざまざと感じているに違いない。憎悪だけか人間的な感情だとでもいうかのようにです。人が現実的に生きて死ぬという局面には、思想の問題を通過していくにせよ、最後には感情の問題しか残らないのではないでしょうか。死ねば、人間は血まみれの肉になってしまうのです。その人が何を考え、何を学び、どんな家族を持ち、どんな人生を送ってきたのかなど、戦場では、まったく関係ありません。しかも市民生活の場が戦場なのです。
 戦場にある感情とは、何度もいいますが、ただ憎悪だけです。
 そんな生き方死に方を私はしたくない。また子供たちにもしてほしくない。君たちには他人に対して憎悪などという感情を持ってほしくないというのが、ささやかな体験をしてきた私の、本当にささやかな願いです。
 憎悪というのは、すぐ隣りにいる人への感情からはじまるのです。教室で机をならべているクラスメートへのささやかな感情のもつれから、いじめに発展していきます。間はとばしますが、隣りの人を憎いと思う感情が、ずっと増幅していって大きくなり、究極の先には戟争とつながっているのです。そこまでは一見して遠いようなのですが、キイボードーつ押せばよいゲームなのだとしたら、その距離は案外に近いかもしれないのです。
 自分と違う人間を認めなければならない。違うからこそ付き合っているとこちらの世界もひろがるのだし、楽しいのだ。私はそのように思っています。他人を認めるためには、寛容の心がなければなりません。許し合う心といったらいいかもしれません。
 人間は感情の動物なので、憎悪に凝り固まってしまったのでは、なかなか寛容の気持のところに戻っていくことはできません。そこまでいかないようにしなければならないのです。
 ではどうしたらよいのか。私にはいつも身近に置いておく書物があります。二ページでも三ページでも読むと、心の中が清らかになったような気がしてきます。プッダが直接人々に語った言葉に最も近いとされる原始仏典の 「ダンマバグ(法句経)」で、私の尊敬する故中村元先生が原典のパーリ語から直接訳されています。


 三「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には、怨みはついに息(や)むことがない。


 五 実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以ってしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これほ永遠の真理である。

 二千五百年も前に生きたプッダの言葉をこうして味わってみると、人間というものはまったく変わっていないと思ってしまいます。怨みが怨みを呼ぶので、争い事の解決には、怨みを捨てるしかないのです。そのためには、相手のことを理解する寛容の心がなけれぱいけません。困難なのですが、そうできるよう少しでも努力しなければいけないということです。
 また「ダンマパダ」にはこのような言葉もあります。
「一二九 すべての者は暴力におぴえ、すべての者は死をおそれる。己か身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。」
 こんな言葉を噛みしめて、君たちにはおおらかに生きていってほしいと思います。経済も含めて社会の競争は苛烈で落ちこぼれたものは抹殺されるような時代なのですが、だからこそ、君たちには人への慈しみを忘れないでほしい。少しずつでもいいですから、そんな生き方をつらぬいていってほしいと願っています。
 では、また会いましょう。会って、時代のこと、心のこと、いろいろ語り合いたいと思います。
「それでも私は戦争に反対します。」
日本ペングラブ編
平凡社 2003年3月

猫のひげ「多摩川が好き」 top
 中本賢は昔アパッチ賢という芸名を持っていた役者である。浅草生まれながら多摩川をこよなく愛し、一人で観察をつづけ、川遊びの楽しさを子供たちに教えてえている。
 先日ラジオ番組に呼ばれ、彼と対談した。その前に資料として彼が一人で自主制作した多摩川の観察記録のビデオを見て、アユがたくさん遡上し産卵していることを知った。鬼怒川でもどこの川でもアユはさまざまな理由で激減しているが、多摩川では人工放流によらず自然産卵によって増えているのだ。稀有(けう)なことなのである。
「多摩川の水は70パーセントが家庭から出る雑排水なんですよ。そんな川にアユが戻っているんです。日本で真っ先に汚染されたのが多摩川なら、一番先に蘇ってきたのも多摩川なんですよ。人間のあり方で、川はどのようにでも変わるということです」
 彼は明るくこういう。日本で最大の人口密集地を流れる多摩川は、川底にヘドロがたまっているところが多く、石がきれいに洗われている瀬は限られている。つまり、産卵できる場所は決まっているので、そこで辛泡強く待っていると、アユの産卵を見ることができる。しかし、産卵場所を特定して撮影が成功するまで、6年かかったのである。
 彼はドライスーツを着て、カメラを構え浅瀬に貼りついている。その姿がビデオに写っていたのだが、どこか滑稽といえばそういえる。
 「問題は、ドライスーツを着て浅瀬を観察していると、死体と間違われることです。時どき手足を動かして、生きていることを知らせてやるんです」
 彼は多摩川が好きで、家も川の近くに引っ越した。彼のように心から多摩川を楽しんでいる人がいるからこそ、多摩川は自然の力を蘇らせているのである。
絵:山中桃子
BIOS Vol.29 04.4.20

「自己責任」糾弾は違う
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 個人と国家の関係を考えさせられた。確かに今回、人質になった人たちに責任はあるが、だからと言って国家が個人の行動を「自己責任」という形で糾弾するのは違う。人質になった人たちの声は伝わっていないが、みな相当な覚悟をしていたはずだ。私も30代のころ、紛争中のレバノンに行ったことがあり、何かあったら自分の行動が「社会化」されるのだなあと思ったことがある。未熟な行動だと言われるがある程度は仕方がないことで、大人の論理だけで糾弾すべきではないし、今回のことで生き方を変えないでほしい。
朝日新聞 2004年(平成16年)4月18日(日)

淅江省の魅力
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日本の精神文化に影響
 僕はいろんな国を旅していますが、中でも中国に一番多く足を運んでいます。親しい小説家もいて、長い時間をかけながら深い友情を育てています。「遠雷」「途方にくれて」など僕の小説が中国語に翻訳され全3冊の選書として出版されています。
 初めて中国に行ったのは、宇都宮の市民訪中団に参加した時です。 「歓喜の市」(1981年8月出版)の取材を兼ね、ハルピンを訪ねました。その後ハルピンには何度も行っていますが、その変貌ぶりには驚かされます。
 今回、全日空の杭州直行便が就航しますが、年々歳々、中国に行くのは便利になってきていますね。
 中国から日本に曹洞禅を伝えた鎌倉時代の禅僧が道元です。道元によって創建された日本曹洞宗の大本山・永平寺(福井県)の機関誌「傘松」に、僕は6年ほど前から毎月「月〜小説道元禅師」を連載しているんです。
 道元は博多から舟で中国に向かい、浙江省の寧波に着きます。そして寧波に近い天童寺で如浄(にょじょう)を師として修行し、心身(しんじん)脱落の境地に達します。
 道元の足跡を訪ねて、1999年6月に中国を旅しました。昨年3月末には永平寺の「祖道伝東の旅」に同行し、杭州や天台山、寧波、天童寺、普陀山など浙江省を回り、大歓迎を受けてきました。
 世界有数の大都市・上海から杭州までは立派な高速道路を通って2時間半ほどです。バスから眺める風景は菜の花の真っ盛りで、まさに春の色が満ちていました。3階建て、4階建ての新築の家がずらっと並んでいます。これは東京に近い栃木県の農村を描いた「遠雷」の世界と同じだと思いました。
 高層ビルが建ち並ぶ南宋時代の都・抗州は、天下の景勝地の西湖を中心にした美しい都市です。西湖は湖畔の柳が若芽をふき、桃の花が咲いていました。
 西湖のほとりに如浄が住持(住職)をしていた浄慈寺があります。道元は「正師を求めているなら浄慈寺に如浄という和尚がいる」という話をラマ僧から聞きましたが、実際に如浄と会ったのは、如浄が住持として天童寺に入ってからです。
 浄慈寺の鐘は「南屏晩鐘」と呼ばれ、西湖に時を告げてきました。西湖十景の一つですが、鐘が古くなってひびが入り鳴らなくなったため、永平寺が新しい鐘を寄贈したんです。僕も鐘楼の2階に上がり、つかせてもらいました。
 天童寺では、僧堂で座禅させてもらい、素晴らしい精進料理をごちそうになりました。寧波では「道元禅師入宋記念碑」にお参りしました。
 日本の仏教史に密接な関係がある天台山にも行きました。最澄がここで学んで日本に伝えた仏教が天台宗です。天台山には栄西も道元も行っています。
 浙江省は日本の精神文化が根底的に影響を受けたところなんです。僕は浙江省に特別な思いがあります。この地を訪れる日本人観光客には、日本文化の屋台骨をつくったことに思いを馳せてほしいですね。
 「月〜小説道元禅師」を毎月原稿用紙20枝ずつ連載するのは、正直苦しい仕事です。でも、ある時、これは自分の修行だと気が付きました。連載を進めながら、どんどん道元に引き込まれていきます。歌舞伎「道元の月」の台本も執筆し、歌舞伎座で上演されました。
 今は日光の猟師隊の話を歌舞伎の台本に書いています。幕末に兵隊がいず、猟師が戊辰戦争で兵隊になっていく話です。前代未聞の栃木弁の歌舞伎になると思います。(談)
下野新聞2004年3月28日(日)

50歳代の惑い(まどい)
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バブル崩壊の後遺症
 どうも切ないような年の瀬である。私は福岡市のある高層ビルから海を眺めていた。2km以上も海を沖に向かって埋め立て、人工海浜に建てた洒落(しゃれた)たリゾート風レストランが倒産した様子だ。夏はそれでも明るい光が満ちて、海にも浜にも華やいだ気分が漂っていた。しかし、冬の海はどうも淋しくていけない。
 すぐ近くにあるドーム球場と高層リゾートホテルも経営が怪しくなり、経営者が変わるか何かする様子だ。ダイエーホークス球団は日本一になり、人気絶頂というところなのに、企業の基盤が足元の砂が崩れるように揺れている。夢を見たとたん、冷水をかけられた風である。バブル経済崩壊の後潰症は、私たちの社会に壊疽(えそ)を引き起こしているようである。
 「厚生年金とは別にうちの会社は企業内年金を積み立てていたんですよ。定年後は厚生年金と二重にもらうことができてそれで暮らしていけるはずだったんですけど、企業内年金はなくなって、退職金として一時払いになりました。そのかわりに定年延長になりますけど、60歳過ぎると給料は3分の1か4分の1になります。厚生年金も滅茶苦茶だし、将来どうなっていくのか誰にもわからないんじゃないですか。本当にどうなっていくんでしょう」
 大きな会社の幹部であるその人は、溜息とともにいう。彼は57歳で、現在は責任ある仕事を精力的にこなしているのだが、あと3年たてば定年である。定年が延長になったとしても、給料は3分の1以下になり、年金についても不透明だ。ただはっきりあるのは、確実な不安ばかりである。

長年の蓄積が不要に
 先日もタクシーに乗っていて、運転手に身の上話をされた。彼はグラフィックデザイナーでポスターづくりなどに長年の研鎖を積んできた。彼がやってきたのは手書きのデザインなのだが、グラフィックデザインの分野もコンピューター化され、専門学校を出てきたばかりの若者が感性だけで簡単にデザインをしてしまう。研鑽や蓄積など無用の世界となったのである。
 映像もCG(コンピューターグラフィックス)で、たいていどんな画像も処理できる。ビルを爆破することも、人間が空を飛ぶことも、壮大な建造物をつくることも、コンピューターの中では自由自在である。簡単にできてしまう分だけ、こんなもんだと思うだけで、格別に強い感動が残るわけではない。
 「私は手書きにこだわってるんですよ。でも仕事が少なくなったから、思い切ってタクシーの運転手に転身したんです。根が其面白っていうか、なんでも真剣にやりますから、会社でもトップレベルの成績をあげるんですよ。タクシーはタクシーでおもしろくて、細々とですがポスターのデザインもやっているんですよ」
 力むでもなく、運転手はこういうのである。変化の激しい今の時代は、突然世の中で不要なものができてしまうから恐い。私が文筆の仕事にはいった頃は、鉛活字を専門の職人が拾って製版していた。あの活字工たちはどうなったのであろうか。あの活字の味は、今こんなことをいうと年寄りのノスタルジーと思われるだろうが、なかなか捨てがたい。たまに詩集などの印刷に使われることがあり、高級で贅沢な感じがする。
 私は50歳代半ばである。かの会社の幹部も、かつてグラフィックデザイナーだったタクシーの運転手も、ほぼ同世代である。変化の激しい時代に生きる不幸というのは、精進し、研鑽して、蓄積してきた職人的な仕事が、軽んじられることである。技術を個人で抱え込むことはよくないが、誰でも簡単にできてしまうのは、それだけの価値しかないと知るべきだ。

無常の風はさらに強く
 かのタクシーの運転手ではないが、ポスターにしろ本のカバーにしろ、コンピューター処理すればたちまち個性がなくなり、味もにおいも消えてしまう。だがそのことに慣らされてきたのならばそれでいいわけで、コンピューターで処理できないものは余分な部分だということにもなりかねない。
 いやはや大変な時代にきてしまったものである。今日新しいものも、たちまち古びて捨てられる。無常の風はいよいよ激しく強い。かつて定年とは、御苦労さんと祝福されたもので、その後は穏やかな暮らしが保障きれていたからこそ、そこまで無理な頑張りもしてくることができたはずなのに。
聖教新聞 2003年12月25日(木)