消える都市景観の魅力 top
 相変わらずあちらこちらと旅をして暮らしている私であるが、最近は旅の楽しみがずいぶんと失われてきたように思う。車で走っていて、今どこにいるのだったか分からなくなることが、しばしばある。つまり、全国どこに行っても景色がたいして変わらないのである。
 ことに郊外に行くと、全国チェーンの大型店が派手な看板を掲げて並び、全国同け風景を形成している。街の中心部に行けば、商店衛は駐車場がないためかさびれ、シャッターを閉めてシャッター通りと言われているところが少なくない。
 地方都市が全国で似たり寄ったりになったのは、第二次世界大戦でアメリカ軍の焦土作戦により空襲を受け、街が灰じんに帰したことが大きな要因であろう。それまで何百年もかかって積み上げてきた地方の中核都市のほとんどの街並みが燃えてしまったのである。戦後取りあえず急いで復興したために、全国どこも似たようになった。あの戦争さえなければ、日本中のたいていの都市が、京都や金沢のような風情を多かれ少なかれ残していたはずなのである。

なくなった路地
 それでは日光はどうだろうか。二社一寺があるため空襲を免れたにもかかわらず、街には門前町らしい風情はほとんど残っていない。東武日光駅から神橋までのゆるい上り坂の参道は、私が子供のころにはそれなりの趣があったように思うのだが、無秩序な開発のために見る影もなくなってしまった。
 日光に観光客が減少しているのは、街の魅力のなさも大きいのではないだろうか。散策をするような街ではないから、どうしても素通りしてしまいがちになる。宇都宮に帰るたびに感じるのは、街の中に空き地が多くなったため、風が吹き通るような涼しさである。古い建物が壊され、相続税の関係やら何やらかにやら事情はあるのだろうが、新しい建物は建てられず駐車場になる。駐車場が取りあえず経済的な役割を果たすからであろう。
 前橋でも、水戸でも、山形でも、秋田でも、盛岡でも最近、私は同じように感じた。空き地ばかりで、身を隠すような路地もなくなった。都市の魅力とは、長い歳月人が暮らして森の奥のような路地が自然にできていくことだと思うが、都市の闇もどんどん薄く淡くなっていくばかりである。

衝の歴史大切に
 都市計画とは、人がよりよく暮らせる都市をつくることである。車が通り抜けることのできる広い道路を、古い街並みを壊して通すことばかりではない。その街がたどってきた歴史を大切にしなければ、全国どこでも金太郎飴(あめ)のような街ができるばかりで、旅人にはおもしろくない。住んでいる人も、自分の暮らす街に愛着を持つこともできなくなるであろう。
 私の勘によれば、新幹線が通って以降、利便さの恩恵は十分に受けているものの、宇都宮のにおいというものが日に日に薄れていった。宇都宮はとりたてて特徴というもののない街になっていった。
 これから新しいものが多くはつくれなくなった時代状況なら、例えば県庁の建物など、古いものをやすやすと壊さない方がよいのではないか。都市の景観を守ることは、そこに住むことの自信にもつながるはずなのである。
下野新聞2002年12月1日(日)

島酒、島魚、島唄 top
黒糖焼酎こそが奄美そのものである
 その自然を観察し、解読して、人が豊かになるものを生み出す −。それが文化である。
 土から最もよいものを取り出そうとするのが″農″だ。そして、農の心を生かすのが、酒づくりである。よい酒があるということは、自然も人間もよいということだ。
 よい土地で、よい人が暮らすならば、必ずよい酒がある。それは必然というものだ。だから地酒を巡る旅は楽しい。
 「尊いという字には、『酒』が入っています。酒に関わる人は尊い人なのだと思いながら、酵母が発酵するのにいちばんいい環境をつくつています。酒は生き物だから、できる酒はその都度違うという人もいますが、管理ができれば、生き物だからその通りになります」
 もろみの発酵タンクの前で、町田酒造研究開発室長の槻木敏さんは言う。
 生きている酵母の泡は、まるで風が走るように水面を騒然とさせ、呼吸し、一刻も休まずに酒を醸(かも)し続ける。微生物の活動によつて生まれる酒は、命そのものである。この世に酒というものがあって、人生はどんなに豊かになることであろうか。
 黒糖焼酎は、鹿児島県奄美都でしかつくることはできない。法律でそう決められている。原料は国産米と黒糖で、日本でつくられる酒類で最も高価な原材料が使われているといってよいだろう。
 土の豊かさを感じさせる黒糖の甘い香りか焼酎全体をまろやかにしているのであるが、味に黒糖の甘さが入っているわけではなく、糖分はゼロだ。土の豊潤さを、うまくすくいとった酒である、ということができる。
 奄美の風土の神髄が、一杯のグラスの中にたくわえられているといってよい。黒糖焼酎こそが奄美そのものである、と私は思う。
 歴史は古い。元禄(げんろく)時代からつくられているせいなのか、味は円熟している。押しっけがましさとか、くどさといったところはない。強靱(きょうじん)なのだが、さらっとして切れがよい。奄美大島のような亜熱帯の湿つた空気の中から生まれてきたのであるが、ところは選ばない。暑いところでは氷を入れて水で割って飲めばいいのだし、寒い冬ならばお湯割りにすればよい。切れはよくとも、線の細さはない。しなやかなのである。

酒、料理、唄、思美人の四拍子揃った『かずみ』
 奄美大島で、島魚の料理を食べ、唄者(うたしゃ)の弾き語りで島唄を聞きながら……というのが、地酒『里の曙」(あけぼの)の飲み方では最高のかたちであろう。しかし、そんな贅沢なことができるか、と疑いの向きもあるだろう。
 できるのである。
 私は何度もやっている。何度も何度もやつて、私は『里の曙』と島料理と島唄のファンになった。つまり、奄美が大好きなのである。
 奄美大島の中心都市、名瀬の繁華街に『小料理屋かずみ』がある。
 女将の西和美さんは奄美を代表する唄者で、この店を訪ねれば、″酒″と″料理″と”唄″と″島美人″という理想の形が、おのずとできてしまう。
 島美人とは、もちろん西和美さんのことである。唄が入って盛り上がるから、勢いどんちゃん騒ぎになる。汗をかけば、また焼酎がうまくなる。かくして私は名瀬にいくと、夜になるのが待ち遠しく、夜な夜な『かずみ』にくり出すのである。
 奄美大島は海に囲まれているので、もちろん魚がうまい。いつだったか私は、島の漁師たちと″追い込み漁”をしたことがある。沖縄の糸満の海人が伝えた漁法であ思。
 奄美は鹿児島であり、その前は薩摩藩に組み込まれた。だが本来は琉球王国の北部に位置していた。そして、海の中の魚の種類も沖縄とほほ同じなのである。海の中に張った網に向かって海人が泳いで魚を追うのが追い込み漁で、アカウルメやブタイをとる。沖縄や奄美の呼び方でアカウルメはグルクン、ブタイをエラプチという。亜熱帯の魚はまるで宝石のようである。
 『かずみ』の魚はいつも活きがいい。もちろん天然のものなので、その日によって種類が違う。
 いつも安定して入り、いつ食べてもうまいのは、アカウルメ(グルクン)である。これは刺身にしても焼いても煮てもよいのだが、さっと切れのよい「里の曙」の肴ならば、唐揚げがよい。この魚が持つそもそもの淡泊(たんぱく)さと、揚げものの油の重さとが、絶妙のバランスをつくる。アカウルメ(グルクン)の唐揚げはディープフライなので、頭からばりばりと食べる。酒盛りの早いうちに唐揚げを食べると、胃の内側に粘膜ができるからなのかどうか、黒糖焼酎をたくさん飲むことができ、飲んでも悪酔いしないようである。

亜熟帯のカラフルな魚の刺身が強い黒糖焼酎とマッチする
 島の料理には、もちろん刺身は欠かせない。追い込み漁をした後も、魚をその場でさばいて刺身をつくり、黒糖焼酎をたくさん用意し、浜で宴会をした。いつしか唄者がやってきて、三味線の音が沸き立つような雰囲気をつくるのだ。
 黒糖焼酎を飲むのに、刺身はよい相棒である。その日、手に入った魚ならば、なんでもよい。
 この日『かずみ』 の女将が吟味したのは、アオブタイ、オナガダイ、夜光貝、サザエで、もちろん冷凍などしておらず、今日まで生きていたもので、しかも量が多い。アオプダイもオナガダイも亜熱帯のカラフルな魚で、北の魚と違って脂分がなく淡泊である。これがまた本来強い黒糖焼酎とよくマッチする。
 夜光貝は貴重である。夜の漁で貝殻が海の底で微光を放つから、この名がある。韓国の螺鈿(らでん)の材料で、よく買付けの人がくるのだが、品薄で値段が高騰(こうとう)している。身は刺身にすると、こりこりと噛ごたえがあって甘い。焼酎の強さを受けとめる。
 ゴーヤは、沖縄では地の野菜や豆腐とを混ぜて炒め、チャンプルーをつくるのだが、奄美では粒味噌油炒めにすることが多いようである。ちょっぴり苦いゴーヤも、黒糖焼酎の香りと対照的であるがゆえに、よく引き立てあう。
 焼酎はストレートで飲むか水か湯で割るしかないので、肴で強弱をつけるのがよい。まあそれは『かずみ』にまかせればよいことである。
 料理はいつも豪勢である。伊勢海老の味噌汁、ゆでたノコギリガザミ(カニの一種)、アサヒ蟹のサラダ、ブタイのあんかけ、キンメダイの煮付け、これらを食べながら、『里の曙』を心ゆくまで飲み、女将の島唄を聞く・・・。
 これ以上の贅沢があったら教えてほしい。
遊歩人2002年9月号

北見のタマネギ畑 top
 北海道網走管内の北見は、大農業地帯である。かつて北海道にはいった開拓者たちは、とにかく米をつくりたいと願った。オホ−ツク海に面した紋別のあたりまで、かつては水田がひろがっていた。しかし、熱帯作物である米は低温に弱く、日照時間が少ないことも栽培の条件としては悪かった。
 北見の周辺は、今でも水田がひろがっている。北見は夏の日照時間が日本でも最長のところなのである。しかし、現在ある水田でつくられているのは、モチ米がほとんどである。モチ米は低温に強い。今年の夏は冷夏で、さすがの北見でも日照時間が不足し、普通の年の半作だという。ここ数年、気候が不順なのが、もう決まり切った形になってしまったような感じさえある。
 米と対照的なのが、タマネギである。北見の周辺はタマネギの大産地で、見渡すかぎりにつづく畑に、機械化された作付けがおこなわれている。
 今年は春に雨が降らず、旱魃気味であった。スプリンクラーで懸命に水をまき、ようやく作柄は盛り返した。気候は毎年毎年違うから、農業というのは毎年一年生になったつもりで取り組まなけれぼならない。作物に根を張らせるか、葉をひろげさせるか、背を高くさせるかで、肥料の組み立て方が変わる。天と他の微妙な変化を読んでいかなければならない。まことに繊細な仕事なのである。
 努力のかいあってタマネギの作柄は盛り返していき、結果的に史上空前の大豊作になった。そうするとまた別の問題が発生する。今度は値崩れがはじまったのである。タマネギの市場価格の生産ラインはキロ七十五円から八十円ということであるか、五十円まで落ち込んだという。この値段ならば、働かないほうがよいということになってしまう。
 二〇〇二年度の北海道産タマネギは六十九万九千トンである。これでは消費するより生産のほうか大幅に上まわってしまう。そこで全生産量の六・八パーセントにあたる四万八千トンを、産地廃葉することに農協は決定した。収穫せず、畑の土の中に鋤(す)き込んでしまうのである。
 昨年も大豊作で、七千五百トンを産地廃棄し、生産量は四十九万九千トンになった。このところ質のよいタマネギができているということなのである。それを収穫することもできず、無惨にも土の中で腐らせようというのだ。正直に働いてもむくわれず、天然自然から罰をあたえられるようで恐ろしい。
 価格維持のためにタマネギを捨てるのだが、それよりももっと安いタマネギが外国からはいってくる。この国では農業をするなといわれているようで、農業者ではない私でも怒りを禁じ得ない。
 北見の畑ではあっちでもこっちでも大型トラクターが動きまわり、タマネギを土に戻している。こうしてキロ五十円の値段び、五十五円になったと新聞には書かれていた。
知恩2002年12月号

津軽の流儀 top
 津軽といえば太宰治の紀行作品『津軽』を思い浮かべる。三十六歳の太宰治は昭和十九年五月敗戦色の濃い津軽を旅し、自分が生まれてきた風土を探る。
 東海岸の蟹田(かにた)では物資のない時代に、Sさんによる家中のもの一切合切持ち出しての疾風怒涛の饗応を受ける。愛情の過度の露出のために、抑制がきかなくなってしまうのが津軽人なのだ。津軽人共通のこの気質について、太宰治も『津軽』の中で書いている。
 「友あり遠方より来た場合には、どうしたらいいかわからなくなってしまうのである。ただ胸がわくわくして意味も無く右往左往し、そうして電燈に頭をぶつけて電燈の笠(かさ)を割ったりなどした経験さえ私にはある。」
 私がこんなことを思い出したのは、我が友鈴木秀次が津軽からりんごを送ってくれたからだ。りんごは彼自身がつくったものである。彼はねぷた絵師で、私は弘前で彼が描いたねぷたを引いたことがあ。新宿花園神社や宇都宮の大谷地下採石場跡で、私が台本を書いた芝居公演に壮大なねぷた絵を描いてくれた。五所川原で街を引いて歩くことのできない巨大な立ちねぷたを彼らが複活するのに、私は立ち合ったこともある。立ちねぷたは岩木川の河原を引いてまわり、最後は河原で燃やした。彼は根っからの津軽人である。
 以前はよく新宿あたりでいっしょに飲んだものだが、この頃は故郷の岩木町でりんごづくりに没頭する友を、私は薪ストーブを焚く頃に訪ねたことがあった。部屋はりんごの木の薪を燃やして暖めてあった。りんごの木は燃やしても微(かす)かに甘酸っぱいりんごの香りがする。会えば、当然のごとく一升壜の酒宴になる。
 「この頃津軽がいとおしくてな。津軽のことをうんと知りたいと思ってんだよ。病気になったり雪に折れたりしたりんごの木で炭を焼いたり、真っ赤なりんごつくったり、田んぼやったりするのが楽しくてな。ねぶた絵はしばらく描いてねえ。春になったら軽トラック買って、あっちこつち寝泊まりしながら岩木山をスケッチしようと思ってな」
 野の道を歩きはじめて心が満足している友と、ひさかたぶりに語り合うのは楽しい。新宿の劇団で女優をやっていた兵庫生まれの恵子夫人は、すっかり津軽人になっていた。言葉が託っているのはもとより、ホタテ貝の貝殻を鍋にするカヤキ、七種類の野菜をサイコロ形に切って煮しめたケノシル、タラの白子のジャッパ汁など数々の津軽料理を、山のようにつくって待っていてくれた。
ドランヴェール2002年11月号

日常生活の大切さ/自分と他人は別ではない top
 この世を私たちがどのように生きればよいかという具体的な態度として、「正法眠蔵」七十五拳本外の拾遺に「菩提薩捶四摂法」が説かれている。四摂事とは、菩薩が人々をさとりにみちびくための四つの方法のことである。摂とは衆生の心をとらえる方法ということであり、布施・愛語・利行・同時が説かれている。
 「布施とは、貪(むさぼ)らないことである。貪らないとは、世の中にへつらわないことである」
貪るということは、人に何か施しをしたとして、その見返りを求めるということだ。布施は一方的にするもので、援助をすることによって相手に対して支配力を持とうと意図するのは、布施とはいわない。この世の中には、布施の形をした布施でないことがあまりに多い。布施とは利害の関係ではない。
 天は森に雨を布施し、森は川に水を布施し、川は大地や海に水を布施する。海はまた天に水を布施する。天が惜しまず、地が惜しまずという言葉があるとおり、布施は自然の循環の麗しい関係である。
 ボランティア精神の基本は、この布施でなければならない。自分の持っている力を惜しげもなく与え、相手から何も欲しがらない。道を教えるのも、老人に重い荷を持ってやるのも、自分の力を自在に使う布施である。
 「愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子とせり。愛語よく廻天のちからあることを学すべきなり」
 愛語は慈悲心から起こり、天をも動かす力がある。道のために己を忘れ、その上で自然に言葉が口をついてでれば、はじめて人に教えを説くことができる。
 道元の中国の天童寺での修行は、眠る間も不足がちな苛酷なものであった。師の如浄禅師は僧堂で坐禅中の衆僧が居眠りをすると、物で打ったり、強い言葉で叱り責めた。だが僧はみな打たれることを喜び、師の慈悲行をほめたたえた。師はいつもこのようにおっしゃるのであった。
「自分はもう年をとったから、山内の庵にでも住んで老後を養っていればよいのであるが、お前さんがたの迷いを破って仏道を助けるために、叱り責め、物で打ったりする。これはまことに慎むべきことである。ではあるのだが、仏にかわってお前さんがたを導いているのであるから、どうか慈悲を持って許してくだされ」
 これを聞いた衆僧はみな涙を流したことが、「正法眼蔵随聞記」に書かれている。これこそが愛語である。文章書いたり人に語ったりを職業とする著述家の私などは、特に心しなければならないことである。
 利行とは、どんな人にも人生で最高の利益となる仏道を学ぶ道をすすめ、安心解脱に導くという意味なのであるが、もっと広い意味にとることができる。道元は説く。
 ー愚かな人は、他人の利益をはかると、自分の利益がなくなると考える。だがそうではない。利行は自分と他人と対立をみない一法則である。あまねく自分と他人とに利益を与えるのである」
 人のことばかり考えよといっているのではなくて、自分が自分として住みよい世界をつくるのである。自分と他人と別のものではないというのが、同時だ。釈尊は人間と同じ姿でこの世を生き、同じ生活をし、同じょうに死んでいった。人間と違わないから、人間を救うことができる。人は人を友とし、天は天を友とする。これが同時の参学である。何も特別のことをする必要はないのである。
 政治であれ産業であれ、もとより布施でないものはない。花を風にまかせ、鳥を時にまかせることも、布施の行いであると、道元は説く。当たり前の生活をしていくことが、何より大切だということである。道元の思想はつきつめるところ、日常の暮らしの大切さに行き着く。
日中新聞2002年9月29日(日)

一人と宇宙は同等/自然に調和して生きよう top
 「現成公案」(げんじょうこうあん)と道元がいう時、私たちが生きているこの一瞬には現在も過去も未来もあり、絶対の真実がいま目の前に実現しているという意味になる。
 因と縁、つまり原因と条件によって生起するのがこの現象世界で、私たちの生活はたえず生成しては消滅していく無常にさらされているということが、仏教の根本認識である。この無常の世は頼みにならないとみなすのが旧来の仏教であったが、生まれては消えていくこの世で私たちは生きていかねばならないのだから、その現象世界を積極的に肯定していこうというのが、道元の新しい立場であった。現象世界はすべて活(い)きた仏道であり、絶対の真実はそのへんにいくらでも転がっている。だが私たちは「我」というものから離れることができず、自己を先に立ててこの世に流れる真理を明らかにしようとしがちなのだ。それは迷いである。方法の側から自己を照らそうとするのが、さとりなのだ。この世はもともとさとりそのものであるはずなのに、その上で迷っているのが私たちなのである。
 道元のこの根本認識の底には、人間を肯定しようとする楽観主義がある。時には迷妄の中に陥りやすい私たちの生を、方法の立場から積極的に肯定し、道元は私たちに生きる励ましを与えようとする。難解とも思われる思想に少しずつ分け入っていくと、清清(すがすが)しい現実主義に彩られているために、道元その人の肉声が聞こえてくるような気がする瞬間がある。
 「正法眼蔵」のうちの「現成公案の巻」には、有名なさとりのイメージが語られている。
 「人がさとりを得るということは、水に月が宿るようなものです。月は濡れず、水は破れません。用は広く大きな光なのですが、小さな水にも宿り、月の全体も宇宙全体も、草の露にも宿り、一滴の水にも宿るのです。さとりが人を破らないことは、月が水に穴をあけないことと同じです。人がさとりのさまたげにならないことは、一滴の露が天の月を写すさまたげにならないと同じことです」
 認識者の力量と感性を感じさせる言葉である。草の露であり、一滴の水である人間は、月全体も字宙の全体も含んでしまうといっている。宇宙全体を呑んでも、心はなお余りある。
 人間の精神生活の偉大さについて道元は語っているのだ。用は水に宿るのだが、その月は濡れず、水は破れないとは、現代の私たちの生き方をさとしているということにもなる。
 心の中に月を宿すとは、認識することであり、たとえばロケットで月に降り立って国旗を立ててくるようなことではない。水に写っている月のように、人間と月とは心において深く関わりあうのだが、所有したり壊したり欲望の対象にするということではない。
 月とはさとりのことである。月光が地に満ちている光景を思い描くなら、この月光とはそのへんのいたるところに満ちている真理のことだ。掌で器をつくれば、確かに月光は掌の中に満ちる。だが掴もうとすると、指の間から逃げてしまう。掴んだところで、なんの意味もない。ただここに真理が満ちていることを知るなら、その真理の中に円(まどか)かに存在するように生きなければならないことがわかる。
 「一箇半箇」(いっこはんこ)といういい方を好む道元は、一人の存在を宇宙全体と同等に語る。これは究極の人間肯定である。つまり、一人の心を清浄にすれば、世界は変わるということなのである。一箇半箇が真理を認識し、自然の調和の中に己も調和して円かに存在すれば、環境問題や戦争や今日の私たちを苦しめている諸問題は、何ひとつ起こらないということだ。
 法華経を出典とする「少欲知足」という言葉を、私は道元の生き方とともに考える。欲望を組織するのが現代の資本主義経済の在り方であるが、欲望を無限解放するのではなく、足るを知る心がなければ私たちに未来はないということは、誰でも気づいているだろう。欲望とは、道元のいう「現成公案」と対極に位置している。
中日新聞2002年9月22日(日)

無常迅速、生死事大/時を失わず学道に励め top
 学ぶとは、なんと素晴らしいことであるか。学びへの情熱の深さは、現代に生きる私たちが道元から学ばねばならないことである。
 孤雲懐奘(こうんえじょう)は二歳年下の道元に師事し、生涯を道元のもとで学んだ。道元がはじめて建てた寺院興聖寺最初の首座に懐奘が任じられた時、道元は「重雲堂式」で次のように説示している。
 「堂中の衆は乳水の如くに和合して、互いに道業を一興すべし。」
 この道場で修行中の僧は乳と水のように和合して、互いに学道に励まなければならない。いましばらくは弟子と師という関係にあるのだが、いずれはすべて仏祖になる。お互いにこの世でめったに会う機会はないはずなのにこうして会っているのであるから、行い難いことを行っているのだという思いを忘れてはならない。すでに家を離れ里を離れ、雲をたのみとした、水をたのみとした生き方をしている。身を助けあい、道を助けあうお互いの恩は、父母の恩よりもすぐれている。父母はしばらく生死の中の親であるが、修行をともにしたものは生死も超えた永遠の真理の友である。
 説示はこのようにつづく。懐奘は道元が病を得て永平寺を退住すると、永平専二世になり、道元の教えを守りつづけた。道元滅後にも、あたかも生ける人に仕えるかのようであったという。懐奘が師道元の言葉を折にふれ記録したのが、「正法眼蔵随聞記」である。ここに道元の姿が生き生きと活写されていて、感動的である。
「衣食(えじき)の事は兼てより思いあてがふことなかれ。若(も)し失食絶煙(しつじきぜつえん)せば、其の時に臨(のぞん)で乞食(こつじき)せん。」
 衣食のことなどに思いわずらってはいけない。もし食べるものがなくなったら、乞食をすればよい。そもそも人間というものは、めいめいに持って生まれた食分と命分というものがあり、走り回らなくとも、天地がこれを授けてくれる。食べるものなど、それぞれが持ってこの世に生まれてきたのだ。生まれてきたからには、この世でやるべきことがある。米が足りなければ粥にすればよいのだし、粥にも足りなければ重湯にすればよい。重湯にもできなければ、湯を飲んで坐禅をしていればよいと、道元は語る。これこそが究極の楽観主義である。深い欲望のために何が大切なのかわからなくなり、行くあてもなく迷走をつづける私たちを照らす言葉である。
 「衲子(のっす)は雲の如く定(さだま)れる住所もなく、水の如くに流れゆきて、よる処もなきをこそ僧とは云ふなり。」
 僧というのは雲のように一箇所に執着することなく風に吹かれ、水のように流れつづけ、よるべなき暮らしをするもののことなのである。行雲流水、すなわち雲水という修行僧をいう言葉はここからきた。たとえ衣鉢のほかに何も持っていなくとも、いろんな束縛があって世間のことで走り回らなければならないとしたら、本当の修行をすることはできないではないか。
 この道元の言葉は、欲望に振り回されて気が動転し、限られた時間しかない人生にあって何をしたらよいのかわからなくなって迷いの中にいる私たちに向けて放たれたようにも思える。私たちはこの時代の中で、生き方を整え直さねばならないのではないか。
「無常迅速生死事大というなら、返す返すもこの道理を心に忘れずして、ただ今日今時ばかりと思ふて時光を失はず、学道に心をいるべきなり。」
 時はたちまち過ぎていくから、生死を究めることが人生の最大のなすべきことである。このことは絶対に忘れてはならず、今日のこの時に何をなすべきかと考えて、時を失ってはならない。なすべきは、学びをして道をおさめることである。身に染みる言葉である。
 道元はいつも本質しか語らない。
中日新聞2002年9月15日(日)

真理は隠されていない/目前のすべてが修業対象 top
 道元は明州慶元府(寧波)の港に着いたが、手続きの関係で三カ月船中に留まっていなければならなかった。その時、阿育王寺から老僧が日本の椎茸を買いにきた。老僧は食事を司る役職の典座であり、山内の雲水に麺汁を供養するのだという。
 道元とすれば、大宋国ではじめて会った修行僧である。少しお話を伺いたいと申し出たのだが、典座はどうしても帰るという。道元はあなたほどの老僧が食事の支度をしなくても、ほかにやってくれる若い人もおるでしょうという。それよりも「坐禅修行をしたり、先人の仏道修行の話を読んだりしたほうが、よほどためになるでしょう。こういった道元に対し、老典座は大芙いして答える。
 「外国からいらしたお若いお方よ、あなたは修行のなんたるかも、文字のなんたるかも、おわかりになってはおられんようだ」
 老典座はこうして去っていってしまうのだが、後に天童寺で修行をしている道元のところに訪ねてきてくれた。老僧は年をとったので、典座の職を退いて故郷に帰るのだという。道元は喜び、さっそく修行について文字について質問した。
 「文字を学ぶものは、文字の真実の意味を知ろうとするものだ。修行につとめるものは、修行の真実の意味を知ろうとするものだ」
 こういった老僧に斬り込むように道元が問い、老僧が答える。この問答の中には道元が求めてやまなかった真実があった。
「文字とはなんでしょう」
「一二三四五」
「修行とはなんでしょう」
「遍界(へんかい)曾て藏(かく)さず(あまねくこの世界は何もかくすところはない)」
斬れば血がでるような問答である。文字は表面的には一つ一つの言葉であるが、その一つ一つは独自であり、一二三四五のように他に置き換えられない絶対的なものである。またそのように言葉は使わなくてはならない。ものごとをこちらから見たり、あちらから見たり、ていねいにていねいに真実の修行をしたならば、この世界はすべてに実理が行きわたっていると見えるだろう。何も隠されていない。真理が目の前にあるのに、それがわからないとは、哀れむべきことなのである。
 人間の本性はもともとさとったものであるはずなのに、本来仏性をそなえている我々がどうして修行をしなければならないのか。道元の若き日の疑問に対し、真理はいたるところにあって何も隠さていないと、かの老僧は短いい言葉で説いた。月が皎々(こうこう)と夜空に輝けば、月光は大海にもはいり、そこいら中が月一色の世界になる。修行とは、その月光を認識することである。
 打てば何倍にもなって響く。この典座は、道元の大宋国における最初の師となったのだ。これまでの道元はどちらかといえば、静かに坐禅修行をし、古人の語録を読み、経典を学ぶことが、学道であると思っていた。今ここで、目の前にあるすべてのものが修行の対象であると、目が開かれたのである。
 天童寺の境内で真夏の日中、敷き瓦に苔(きのこ)を汗だくになって干している六十八歳の老典座がいた。炎熱の中で役僧がやらなくても、人を使えばよいではないかと道元はいう。老典座の答えはこうだ。
 「更に何の時を待たん」
 それならいつ修行をすればよいのだという意味である。仏道修行は、どこか遠いところに、特別にあるものではない。料理をつくることも、きのこを干すことも「草むしりをすることも、すべてが尊い修行なのである。何故ならば、真理は特別にしかる場所に鎮座しているのではないからだ。そこいら中いたるところにあって、何も隠されていないからである。
 これは究極の現実肯定の思想だ。現実社会に生きていかなければならない私たちへの、生きる励ましなのである。
中日新聞2002年9月1日(日)

真理は隠されていない/修業せずに命ながらえても・・・ top
 道元の青年期について私が抱くイメージは、学びたくて学びたくて常に充たされずに身を焦がしている、若々しい煩悶(はんもん)の婆である。
 少年道元は比叡山での修学に深刻な疑義を持つになる。それは本来本法性(ほんらいほんほっしょう)、天然自性身(てんねんじしょうしん)という本覚思想への本質的な疑問である。人間の本性はもともとさとったものであるのに、本来仏性をそなえている我々がどうして修行をしなければならないのか、ということである。この疑義を解決するために、青年となった道元は正しい教えをくれる師を渇望していた。
 結論からいってしまえば、中国の天童寺で如浄(にょじょう)のもとに参じ、あらゆるはからいも執着もなくなった身心脱落(しんじんだつらく)の境地に至り、修証一如(しゅしょういちにょ)として疑問は氷解する。人間とは本来仏であり、さとりの中にある。人々の上には真理が豊かに流れているのであるが、それは修行をすることによって実現する。坐禅修行は証(さとり)りへの単なる道すじではない。修行がそのまま証りであり、他のものではないということだ。そうであるから、只管打坐(しかんたざ)、ただひたすらに坐禅をすることが大切である。
 こうして書いてしまえば、あまりに原初的な問いから結論へと一気に跳び超えてしまうのだが、若き道元は一歩一歩と自分の足で歩き、海を渡って入宋求法の旅をし、確実に認識を深めていったのである。叡山を出て、栄西の開いた京都の建仁寺にいき、明全(みょうぜん)に師事した。
 明全も入宋求法の志を抱いていた。明全はある日弟子たちを集め、意見を求めた。本師明融阿闍梨が病重く死の床につき、弟子の明全に入宋を延期して自分を看病し、死後を弔ってから本意をとげてくれと要望したのである。明全は師の願いをきくほうに傾いていたが、なお迷いがあって、弟子たちに尋ねたのだ。その時、末席にあった道元はが大声を上げた。「正法眼蔵髄聞記」によれば、次のように書かれている。私の現代語訳である。
 「仏法の悟りが、今はこのままでよろしいとお考えなら、おとどまりなされればよろしいでしょう」
 明全和尚はおっしゃった。「そのとおりである。仏法修行の道は、このあたりまでくればよろしいと思う。死ぬまでこのように修行していけば、生死の迷いを離れられないということもないであろう」
 私は申し上げた。「そういうことなら、おとどまりなされればよろしい」
最も若い弟子道元にこうして本質をつかれ、明全は目を開かれたのである。老病に苦しむ師を看病したところで、苦から離れることはできない。師は自分のいうことを聞いてくれたと、喜んでくれるまでのことだ。師として弟子の求法の思いをさまたげれば、罪業の因縁ともなろう。道を得て仏の心にかなうなら、師への恩返しとなるのではないか。こうして明全は二十四歳の若き弟子道元に導かれるかたちで、入宋する。
 道元は五年間の修行の後、ついに身心脱落の境地に至り、大悟徹底する。一方、ほぽ同時期に明全は病を得て、異国で四十二年の生涯を閉じるのである。難儀な渡海や、身命を惜しまぬ修行は、苛酷にも生と死とを分けたのだ。「正法眼蔵随聞記」には次のような意味のことが書かれている。
 自分は昼夜の区別もなく坐禅した。極暑厳寒のおりには、多くの僧が病気になりそうだと坐禅をやめてしまったが、たとえ病気になって死のうとも坐禅をやり抜こうと自分は考えた。現に病気でもないのに修行しないのは、この身を労して宋まできたかいがないではないか。修行もしないで命をながらえても、仕方がないではないか。道元のこのやむにやまれぬ切実な求道心こそが、私たちの時代で最も不足しているものではないかと、私は考える。
中日新聞2002年9月1日(日)

ホテル斜里館 top
 ホテルというとなぜか私は、ホテル斜里館を思い出す。今は知床斜里という名になった駅の前の、なんとなくいつもがらんとした広場に画して、旧式のそのホテルは建っている。
 最近は町内にも洒落たビジネスホテルなどができた。同じ町の観光地字登呂にいけば、高層ビルのホテルがならんで都市的な景観をこしらえている。知床は掘れば温泉がでるところで、宇登呂のホテルはいうにおよばず、斜里町内にも温泉が引かれた。ホテル斜里館はどうも分が悪い。
 それでも私は知床にいくと、ホテル斜里館に泊まるのである。ここは開拓の拠点となったところである。北海道の東部地区は最近開基百年をむかえたところが多くて、それ以前は原野であった。原始林はどこまでもつづき、木が終らずに明るいところがあると思えば、泥炭地帯であった。
 斜里館のあたりは、斜里でも最も早く拓けたところである。
木を伐り、泥炭地帯の水を抜くことから人の暮らしがはじまつたのだ。鉄道がくる前には駅逓があり、道路らしい道路があるのはそこまでだった。荷馬車や郵便馬車はここまでしかこず、馬や人の宿泊施設が建てられていた。駅逓は少しずつ奥地につくられていったのだが、そこから先は人はほとんど歩くしかなかった。馬のある人はめったになかったから、荷も人の背に担っていくしかなかった。
 私はホテル斜里館に泊まり、そんなに遠い昔というわけではない人の労苦を、しみじみと考えるのだ。ただ居心地のよい旅館やホテルなどいくらでもあるが、名前からして北海道開拓の香りを浅しているホテルが、知床における私の定宿なのである。知床に山小屋を持っている私の定宿というのもおかしいが、深夜に着いたり、厳冬期に一、二泊しかしなかったり、便利なのでつい定宿にはいってしまうのである。
 斜里は北海道では最も新しくまで開拓が行われたところである。ここに明治四十四年生まれの舟生サダさんの手記がある。
 「昭和二十四年岩尾別サ入ったの。ほんとの荒地、開拓するのひどかった−。笹深くて根張っていて。じいさん木切って、皆んなで火入れして焼跡に穴っこ掘って芋植えたよ。麦落としはナ、むしろびしゃびしゃに濡らして、そこサ麦の穂に火つけてボトポト落としたもんだ。
 うちのばあちゃんが麦おとししながら「行男、もう死ぬことないゾ、麦とれたからな。腹いっばい食べられるぞ」って笑っていったら、行男喜んで走りまわつていたナー。そでも、やっとこすっとこ食べるだけ。芋はうまがったナ。着るもん何んも無いから、ポロっこ着せて、そっちこっちつぎサして。無いないづくしの暮しだつたナー。
 あん頃、馬、まんだいながったから、全部じいさん手作業だったヨ。開拓サ入った時、家もなんもないんだ。家こさえたけんと、笹の家だもナ。丸太で骨っこ作って、壁は笹束ねたの並べてナ、屋根はよしを厚っく重ねたナ。雨、もらんかったんだ。」(斜里女性史をつくる会編「語り継ぐ女の歴史」)
 こんな開拓の物語が、知床には当たり前に伝わっている。ホテル斜里館に泊まっても、父さんから古い物語をいろいろ聞くことができる。それが私には楽しみなのだ。
 ホテル斜里館は、小きな日本間が中心の、ビジネス旅館といったほうがよい木造の建物である。建物も少々古くなってきたようだが、それがまた質素な開拓時代の雰囲気をかもしだしているのである。いわゆる、味があるというやつだ。だがその味は感じられる人にだけ感じられるので、華美な雰囲気好みの人には、田舎っぼく思われるかもしれない。それは感じ方の問題なので、私は好きだということなのである。
 斜里市街地のメインストリートが拡張されることになり、そのためホテル斜里館は建物を削られるようである。その前にも駅前広場の拡張工事に玄関がかかり、取り壊しにあったということだ。古い玄関の写真を見せてもらったが、開拓モダン様式とでもいうような洒落たものであった。開拓時代の様式がどんどん捨てられることは、淋しい。
 先日ホテル斜里館に泊まったら、父さんが幾つか矢尻をくれた。北海道東部には縄文時代、続縄文時代、擦文(さつもん)時代と、オホーツク文化が鎌倉時代あたりまでつづいたのである。父さんが子供の頃には石器や土器がそのへんにいくらでも落ちていて、石の矢尻はその頃に拾ったものだという。
 すべての宿泊客に、父さんは記念品をくれる。斜里の前浜で拾ったホッキ貝の貝殻に目鼻と髭とを書くと、アザラシになる。余白に歌の一首なりと書きつけりると、旅の記念品となる。私は父さん手製の貝のアザラシを、何枚も持っている。もちろん、ものをくれるからこのホテルが好きなのではない。
遊歩人2002年9月号

一万五千の死 top
 知床半島のルシヤ川のほとりにある番屋にいき、御馳走になった。ざっと書くと、パフンウニ、キンキの煮つけ、トキシラズのバター焼きとルイベ、ツプ貝の刺身、ホッケ、まだほかにあったような気もするが、思いつかない。どれもが前の海からたった今とったばかりの、新鮮なものである。
 ウニはいくらでもとれるが、剥(む)くのが大仕事である。一個一個包丁で割り、スプーンで中の身をすくいとる。ウニはうどんを食べる丼にとり、カレーライスを食べるスプーンですくって口に運ぶ。キンキの煮つけは、刺し網漁の漁船と物々交換をしたのである。このへんでは最も美味とされるキンキは、百五十メートルほどの深さに刺し網を沈めてとる。
 トキシラズはちょうど漁がはじまった頃である。トキシラズは腹に卵がはいっていなくて、若いマスだという人もあれば、若いサケだという人もある。魚のことはよくわからない部分があるものだ。若い魚であることに間違いはない。栄養が卵のほうにはとられず、身のほうにまわる。焼いても、刺身にしても、サケとマスの中では最もうまい。
 夏が盛んになるにつれ、カラフトマス漁がさかんになる。長い□−プを浜から沖に向かって三箇所に三本張り、それぞれの□ープに三つ定置網を張る。一つの番屋で九箇所に定置網が仕掛けてある。
 早朝、宇登呂漁港から運搬船が出港する。番屋から出港した漁師たちは、沖で運搬船に乗り込む。運搬船が港を出る時、一メートル四方で一トンの氷を三個か四個積んでいく。漁場まで三十分とかからず、全部網上げをしても一時問半、帰路をいれても二時間半の仕事である。そんな短い時間なのだから、氷を積んで魚を冷やす必要もないではないか。そんな疑問を、私は漁師にぶつけてみた。
 「魚は網から上げると、暴れるんだわ。どうしてかというと、水から離れて、恐ろしいんだんべ。
恐怖のために暴れるんだ。暴れると、筋肉を使って身体(からだ)に熱を持つ。熱くなって、身が焼けるんだ。焼けると鮮度が落ちる。だから鮮度が落ちないようにと、氷で強制的に冷やすんだな」
 漁師はこう答えてくれた。人間というものは酷いなと私は思った。
 知床の海は豊かである。春はホッケ、初夏になるとトキシラズ、夏はカラフトマス、時にはイカ、夏が終わりになる頃には俗にアキアジと呼ぶシロサケがとれる。カラフトマスなどは、九箇所の定置網で一日に一万五千匹がとれる。こうして人は豊かな暮らしができるのであるが、魚にとっては毎日毎日一万五千匹の死があるということなのだ。
 生と死とは裏返しのことである。定置網が絞られ、クレーンで動くたも網にすくわれたカラフトマスの群れが、船倉で暴れる。そんな場面を何度も見ているうち、私には見る意味が百八十度変わってきたのである。
知恩2002年9月号

我が青春の聖地波の上 top
<上>
ニライカナイを幻視寛容の心が時代を救う
 那覇にいき、一時間でも自由時間ができると、私には必ず足を運ぶところがある。
波上宮である。ここは私にとっては青春の聖地といってい。
 社殿に拝礼し、なにがしかの賽銭をそなえ、海上安全祈願の御礼なとを買い、日頃の旅の安全を祈る。それから裏の崖にでて、茫々遥かな大海原を眺める。最近は高架橋の自動車道路が通り、埋め立て地が増えリゾート施設などもできて、海はずいぶんと狭くなった。この風景の変化が、私にとっては私の個人史としての沖縄の現代史なのである。
 昔から波上宮のまわりは写真館がならび、結婚式が行われる晴れがましいところなのである。今回私がいったのは七月で、暑い上になお熱したような濃い光が人を押さえつけ、息苦しいほどに境内にたまっていた。人は涼しくなってから出てくるのか、さすがに人影はない。本殿にお参りしてから私は社務所にいき、所在なさそうにしている巫女さんに話しかけて御礼を買い、波上宮の略記をもらった。御由緒にはこのように書かれている。
「当宮の創始年は不詳であるが、遥か昔の人々は洋々たる海の後方、海神の国(ニライカナイ〕の神々に日々風雨順和にして豊漁と豊穣に恵まれた平穏な生活を祈った。その霊応の地、祈りの聖地の一つがこの波の上の崖端であり、ここを聖地、拝所として日々の祈りを捧げたのに始まる」
 人々はここからニライカナイを幻視していたのである。
この眺望のよい崖の上から、苦しい現実生活の裏返しの理想世界を思い猫くのは、わかりやすい光景だ。琉球古来のアニミズムの神々と、ヤマトの神道の同様にアニミズムの神々との交通について、御由緒では次のように語られる。
 その昔、南風原村の崎山に里主なるものがいて、毎日釣りをして暮らしていた。ある日、海で”もの言う石”を拾った。それからは彼は光を放つこの石に祈って豊漁を得ることができた。諸神がこの石を奪おうとするので、里主は花城と呼ばれた現在の波上宮の崖の上に逃げてきた。その時、神託があった。
「吾は熊野権現なり。この地に社を建てまつれ。然らは国家を鎮護すべし」
 そこで里主は王府に奏上し、王府は社殿を建てて篤く石を祀った。以後、琉球王朝の経済基盤をなす中国、東南アジア、朝鮮、大和との交易のために那覇港を出入りする船は、高い崖とその上の社殿を望み、航路の平安を祈ったという。琉球王府の信仰も篤く、毎年正月には王自ら参拝した。
 権現とは、仏菩薩が人々を救うための方便として、権に種々の姿に化して現われることであり、仏教と神道の融合である。この本地垂迹思想は、神と仏とどちらが上で、どちらが従属するというものではない。世界宗教である仏が、土着の神と助け合い、共生するというものである。補完の関係といってもよい。ここに沖縄の土着のアニミズムが加わったのが、波上宮なのである。
 「琉球国由来記」所伝によると、倭僧日秀上人は一五二二(尚真四十六〕年、阿弥陀如来、薬師如来、千手観音の三像を自ら刻み、熊野三所権現の本地として堂内に安置したという。波上宮の神宮寺として護国寺が連立され、三像はそちらに遷座された。
 この波上宮が国家神道の系列化の中で、官幣小社に列格されたのは、一八九〇〔明治二十三〕年のことである。それまでの波上宮はまことにおおらかで、遠くインドの仏から、大和の神々、琉球古来の神々と、融和し同居していたのだ。大和の竈神は、琉球の火神といっしょになり、区別がつかなくなった。
 精神性として大和にもいえることであり、琉球にもまったく同様に伝わっていることとして、寛容ということがある。排除ではない。この限りない寛容の心が、対決に苦しむ私たちの時代を救うのではないかと、私は考えている。
琉球新聞2002年8月26日(月)
<中>
強い土着に魅かれ辻町で見つけた仕事
 波上宮が私の青春の聖地という理由は、それなりの体験があるからだ。
 私がはじめて沖縄にいったのは、一九六七(昭和四十二)年のことである。私は十九歳で、大学二年生であった。港で酒を買おうとしても身分証明書のチェックを受け、買えなかったことを覚えている。当時の沖縄は日本復帰前で、東京の大学に通っていた私が渡航するには、日本政府総理府発行の身分証明書が必要であった。
 栃木で生まれ育った私にとって、光あふれる沖縄は竜宮城のようで、まさに異文化の地であった。人々は親切で、ヒッチハイクは楽で、浜や港にいけば野宿も簡単であった。当時ベトナム戦争下で、アメリカ兵の姿もやたら目につき、そのことの問題意識も強く持ってはいた。そうではあっても、私は魂の古層ともいうべき沖縄の土着性に、強く魅(ひ)かれていた。あれから三十五年という歳月がたっているのに、そのことは今も変わらない。
 沖縄に何度も渡航をくり返し、考えることが多くはあったが楽しい旅をくり返して、もともと少なかった路銀が尽き果ててしまった。それなら働けばよいのである。
 ちょうどヒッチハイクで知り合った人に問うと、砂糖キピ畑にいはば人手が不足しているから雇ってくれるはずだといわれ、畑に連れていってくれたのだ。五、六人が畑にはいり、ばさばさと砂糖キビを倒していた。その人が話してくれたので、主人らしい人が鎌を持ってキビの間からでてきた。私は働かせてほしいと頼み、しばらく無音の時が流れ、主人は顔をゆっくり横に振った。困惑の表情だった。人の手は喉から手がでるほどにほしいのだが、お前を信用することができないという感じだったのだ。沖縄で砂糖キビづくりをする男と、東京からやってきた得体の知れない大学生と、挨拶程度のつきあいはできるが、雇用関係を結ぶことはできないということである。精神の交通を拒絶されたのである。わかりあえそうでわかりあえない、遠い関係であった。
 あれから十五年後、私は援農隊の一人として与那国島にいき、三カ月農家に住み込んで砂糖キビ刈りをした。その時本島の砂糖キビ畑で働くことを断られたなと何度も思い出したりした。
 ヒッチハイクで乗せてくれた人は心から親切で、旅費が尽きそうな私を心配し、ナンミンにいったら仕事はあるのではないかといってくれた。
ナンミンといわれて、私にはわからなかった。そこは那覇の歓楽街で、人の交通の激しいところだから、何処からやってきたかなど問われないであろう。
 波上宮に至る波上大通りから西の地区が波之上で、かつては辻(チージ)と呼ばれた遊郭街であった。そんなことは知らない私は、書いてもらった簡単な地図のとおりに歩き、西武門(にしんじょう)交番を通り過ぎた。路地を一ついったところから、派手なネオンサインをあげたナイトクラブがならんでいた。昼間だったので、ネオンも乾いた骨のようであったのだが、想像していたと違う街の風情だった。私は圧倒されていた。
 私は一番端の店にはいった。「ビアホール清水港」と看板がでていた。ドアを開けて中にはいり、働きたいので使ってくださいといったら、即座にオーケーだった。昼間は店には誰もいないのでシートを四つならべればベッドにたり、自分の寝袋で眠る。食事はみんなが食べるものをいっしょに食べて、賃金は一日一ドルである。当時は一ドル三百六十円で、あまりにも安いとは思ったが、やっと見つけた仕事なので私は了解した。
 アメリカ軍公認のナイトクラブは、Aと書いた看板を入口に掲げるので、「Aサイン」と呼ばれた。しかし午前○時には閉店しなければならない。「ピアホール清水港」はそれから開店する、アンダーグランド営業のナイトクラブであった。
琉球新報2002年8月27日(火)
ベトナム戦争の銃後で逞しい生を紡ぐ人たち
<下>
 砂糖キビ畑の泥の中で働いているほうがまだ似合う普通の大学生が、アメリカ兵相手の潜り営業のナイトクラブの従業員になった。午後十時になると店の掃除をはじめ、グラスを洗う。カウンターの下に泡盛をいれる瓶(かめ)があり、中にはいっているウイスキーを、ホワイトホースやジョニ赤やジョニ黒の壜に詰めかえた。瓶のウイスキーはびりっと舌を刺す安物で、何処から持ってきたのか今もってわからない。
 午前十二時になると、裏の戸がとんとんと叩(たた)かれる。戸についている小窓を開けて、誰かを確かめる。「Aサイン」で働くホステスが、客のアメリカ兵を連れてくるのだ。
 私はボーイであった。売っているのは、ウイスキーをコーラで割ったウイスキーコークと、セブンアップで割ったウイスキーセブンが五十セント、オリオンビールが一ドルである。ウイスキーは瓶から詰めかえたものを使う。みんな相当に酔っているし、本当の目的はホステスであった。たまに沖縄の紳士がやってきてジョニ黒のストレートなどを注文すると、ボーイはバーテンにそっと耳打ちする。
「ほ、ん、も、の」
 飲み物は金と交換に渡す。それからホステスにそっとプラスチックのチップを渡す。あとでママが金と交換するのである。私のジーパンのポケットはたちまちドル札でいっばいになるのだが、すぐにマスターに全部出すようにといわれた。
 なにしろアンダーグランド営業なので、MPと警察が恐かった。三人のボーイは交代で外に出て、見張りをした。植木の植木鉢の陰にスイッチがあり、琉球警察の巡回などがあると、何気ないふりをして切る。すると店内のジュークボックスの電気が消え、まわりは水を打ったように静かになる。外の見張りは退屈なので、危険でもないのにスイッチを切ったこともあった。
 ベトナム戦争の真最中で、自分の明日の命をも知らないアメリカ兵たちは、一分一秒が惜しいというように一生懸命遊ぶのだった。明け方の客の少なくなった時間、私はカウンターで兵士から苦しい胸の内を打ち明けられたこともあった。彼らは私と同じ年頃で、学生や会社員や農民として平凡な暮らしをしていたのだった。青春の苦悩がないわけではないが、自由自在に旅をしている私と、明日ベトナムのジャングルで殺されるかもしれない彼らと、同じ時代を生きていたのだ。
 私は昼間から夕方にかけて、当時激しかった復帰協のデモにゴムゾウリで参加しゾウリをなくして足の生爪を剥がしたりした。靴を持っていなかったのである。夜は裸足でナンミンに帰り、店の掃除をし、夜中から客相手の仕事をした。
 まわりにはヤクザと呼ばれる人たちも多くいたが、中にはいればみんなやさしかった。男も女も逞しく生を紡いでいた。私は東京に戻り、またナンミンに働きにきたりした。マスターが東京にやってきて、私の貧しい下宿を宿としたこともあった。ごく平凡な学生が、ベトナム戦争の銃後の前線ともいうべき境界線上に、いつの間にか立っていたのだ。その体験をなんとか表現しようと思い、私は処女作といってもよい作品「途方にくれて」を書いた。ナンミンの深さと激しさとが、私を文学の道にはいらせたといってもよいのである。
 かくして波之上は、私にとっては青春の聖地なのである。「ビアホール清水港」のママが食事をくれるのをよく忘れ、私は磯でタコをとってきて、カウンターの中でゆでて食べた。その磯は埋め立てられ、完全に姿を消した。今回いってみると、横が人工ビーチとして海水浴場に生まれ変わっていた。
 この三十年、私は波之上の変化を見てきた。「ピアホール清水港」は雑居ビルになり、テナント募集の貼り紙がでていた。ステーキハウスのジャッキーも引っ越してしまった。守礼の門と同じ型の門があった料亭は姿を消し、ただの丘になっていた。そこは御嶽(うたき)で、婦人が何人か集まって祈りごとをしているのだった。ほかには派手派手しいソープランドばかりになった。我が聖地は激しく変わってしまったのである。
琉球新報2002年8月28日(水)

自然を守る底力 top
 日本のどの場所でもよいのだが、たとえば私の場合には知床である。
遊んだり、食べたり、眺めたり、知床の恩恵を受けてきた。海も山も大地も、それは素晴らしい景色である。この自然をいつまでも守りたいものだと、考えた。思っているだけではなく、そうするにはどうしたらよいのだろう。
 この海を守っているのは、漁師である。漁期を決め、乱獲をしないようにと自分たちを律する。サケやマスの親をとり、卵をとって精子をかけ、稚魚をつくって放流する。孵化(ふか)事業である。
 この大地を守っているのは農業者だ。水が湧(わ)いてくる水源の森を整え、水路をつくり、畑に導く。畑には雑草が生えないように、絶えざる努力をする。かつてこのあたりのすべての大地は森林だった。開拓者が樹を一本切り倒せば、その分空が広がった。一本ずつ空と大地を広げていき、広大な農地をつくったのである。ここには開拓者たちの汗と涙が染みついている。一度畑にしてしまうと、ここにはそのように自然のメカニズムが働く。かつては寒冷地の知床でも人は米をつくろうとした。よく見れば大地に水路や畦がつくられた跡が残っている。今はジャガイモ、小麦、ビート、それに野菜類がつくられている。
 林業の面が一番弱いのであるが、一度人の手がはいった森には、ずっと人は手を加えなければならない。きちんと向きあえば森は、水や材木や山莱や精神の慰謝や、たくさんの恵みをくれるのである。
 第一次産業業が元気でなくなったら、自然は活力をなくし、たちまち荒廃していくだろう。知床の自然を守っていくには、農業や漁業が元気でなければいけないというのが、私の結論であった。
 知床の私の友人の多くは、農業者と漁師である。農業は一戸で三十ヘクタールから五十ヘクタールを耕作するという大規模経営で、どうしても機械に頼ることが多い。ジャガイモと小麦とビートを転がしていく三作の経営が主体で、それには基本として手をつけることはできないのだが、その上に心が豊かになるような農業はできないかと考えた。
 「アウトドア遊びの究極は農園だよ」
 すでに農家である若い仲間たちに、私はこんなことをいったりした。そして、ソバをつくったり、水産物を加工したり、それを販売する小さな会社をつくり、「知床ジャニー」と名づけた。大観光地である知床のホテルが、朝注文してくれたら、有機栽培したトマト、キャベツ、ネギ、ダイコンなどを昼過ぎまでに配送する。そんなシステムをつくり、漁業を巻き込んだ楽しい農業ができないかと考えた。楽しい第一次産業であり、こうして経済的にも潤い、精神的にも満ち足りた農業と漁業ができれば、連作障害も乱獲もなくなり、おのずから自然が守られるのではないかと、夢のように私は考えているのである。
日本農業新聞2002年8月1日

芝川海苔のこと top
 富土山の湧水としては、忍野八海(おしのはっかい)や柿田川ほど有名ではないのだが、富士山の西麓に猪之頭(いのかしら)湧水群がある。かつては井之頭といい、その名のとおり水に恵まれた土地である。明治の頃、井之頭というといかにも恵まれたという感じがすることから、税金がたくさんかかるのを恐れ、猪之頭という名に変えたのだそうである。水の湧く美しい名前が、なんとなく貧しそうな名になってしまった。そうではあっても、水が豊かなことに変わりはないのである。
 芝川はこの水をそのまま流してしまっては惜しいほどに、美しい川だ。富士山の湧水があふれて流れて去っていく。
 この芝川の流域には、いくつもわさび農園がある。その一つの田丸屋わさび園を訪ねると、ちょうど法事の後の宴会ということで、酔ったたくさんの人が集まっていた。
 主人にわさび田に案内してもらった。谷底の渓谷に生えるわさびは太陽の光をあまり好まず、若い時には上に黒い網をかぷせて育てる。大きくなったら植え換えて、一年半たつと出荷できる。
 わさげが生育する絶対的な条件は、年間水温がさほど変わらない清流が流れることである。またこのあたりの土壌は富士山の噴火でできた溶岩質が多く、栄養分を多く含んでいない。それがわさびにはよいのである。
 主人に一本引き抜いてもらった。まさか辛い根のところをかじるわけにはいかない。生き生きしたわさびは、葉を食べるとまことに美味で、清流の精髄というべきものである。私はその一本を譲りうけ、芝川のあと少し下流で、芝川海苔保存会の人たちと待ち合わせたのであった。
 かつて芝川海苔はこの一帯の名物であった。川海苔が、芝川の川底の溶岩にたくさんついたのである。芝川は年間を通じて水温が九度から十度で、これが川海苔の生育にはまことによろしい。しかし、ここも他の河川の例と違わず護岸堤ができ、溶岩がコンクリートで覆われてしまった。芝川は見た目はよいものの、魚や螢もめっきり減った。自然の岸が少なくなって自浄能力が弱くなり、生活雑排水が流れ込んで、水が汚れた。このままでは芝川海苔が消滅してしまうと恐れた人たちが、保存会をつくつたのだ。
 保存会の人たちに案内されたのは、田んばに水を導くU字溝の水路だった。U字溝のコンクリートに破砕された富士山の溶岩がまじつていて、芝川海苔はその熔岩に心細い感じでちょぼちょぽと生えている。海苔は夏によく育ち、秋に摘む。それを集めて坂海苔に乾燥させたのだから、貴重なことこの上ない。
 富士の名水で育ったコシヒカリを炊き、静岡茶で茶漬けをつくり、わさびをすりおろし、芝川海苔を千切っていれる。名づけて富士山茶漬けである。贅沢なことこの上ない。芝川海苔は香りがよい、最高の茶漬けになるのだが、いつまで食べることができるであろうか。
年金時代2002年8月号

カレーとシチュー top
 母は小さな食料品店をやっていた。近くに同じような店がないことはなかったが、母の店ははやっていた。近所の主婦たちのおしゃべりの場ともなっていたのである。
 夕方になると、母は練炭のコンロに鍋をかけ、ジャガイモと人参と玉ネギと豚肉少々を煮ておく。そして客のいなくなった合間に、子供の私に聞くのだった。
 「カレーがいいかい、シチューがいいかい」カレーならば店の商品のカレールウを割っていれ、シチューならば同じく店の商品の牛乳をいれる。ただそれだけの違いなのであった。私はカレーのほうが好きだったが、無理矢理シチューになることもあった。牛乳が売れ残ったからである。普通は牛乳は一本なのだが、豪華に二本いれることもあった。
 食料品を売っていたから、どうしても余ってしまうものもある。固くなったアンパンやクリームパンやメロンパンを蒸し器で蒸す。当然水が染みて、べちゃべちゃになるところがでる。それでも熱いうちならなんとか食べられた。捨てるのはもったいないのである。食料品店の息子の私は、そんなものを食べて育ってきたのである。
東埼玉資源環境組合02年7月1日 「子供の記憶」

援助やボランティア top
 援助やボランティアという言葉を前にして、必ず考えなけれはならないことがある。それは誰のためにするかということである。それは利益を受ける人のためだということは簡単なのたが、それではそれをして誰が利益を受けるかと考えていくと、ことは案外に複雑なのである。
 まず援助を受ける人がすなわち利益を受ける人となるはずであるが、本当に利益を受けているかと考えると、そう単純にはいえないと思う。間違いなく利益を受けるのは、援助をするために行動する人である。援助をするという善行を施すことがその人の心を豊かにし、豊かということで利益を受けるのだ。そのことをまず忘れてはいけないと私は思っている。
 そう考えるのは、自分の心のはたらきと実際の行為を除外して、援助やボランティアはできないからである。ちょっと難しい議論になるのだが、鎌倉時代の禅僧、道元が著した「正法眠蔵」のうちの「菩
提薩捶四摂法」の巻に、このような文章がある。私の現代語訳である。
「布施というのは、貪(むさぼ)らないことである。貪らないということは、世の中にへつらわないことである」
 他人を意識したり、自分に執着したりして、人のために援助をしたりボランティアをしたりしても、それは世の中にへつらったり、貪ったりすることである。道元のいう布施とは、こうしてやるから援助を受けたほうはこうなるべきだとか、打算を働かせてはならないということだ。
 いまの時代にこんなことをいうと、浮き世離れしたことをいうなと思われるかもしれないか、本来の布施とは計算を超えたものなのだ。私たちが陥りがちになるのは、自分たちの世界観が絶対に正しいと思いこみ、その世界を他者につくらせることが援助であるとすることではないだろうか。援助は難しい。
国際協力事業団02年6月21日

沖縄復帰三十年で変化したもの top
 沖縄が日本国に復帰して三十年である。那覇では首相や知事が列席し、盛大な式典が行なわれたようである。
 復帰前から私は沖縄へ何度も行っているが、何が変わり、何が変わらなかったのであろうか。二十年前はアメリカ軍政下にあったため、ドルが貨幣として使われていたし、車は左側通行だった。それらはすっかり変わり、英語の看板もアメリカ人の姿も減った。
 復帰の前後は、ベトナムで激しい戦争が行なわれていた。アメリカ軍の作戦で北ベトナムのハノイやハイフォンに空爆が行なわれ、沖縄の基地から爆撃機が連日連夜、飛び立っていった。沖縄復帰の三年後には南ベトナム軍が無条件降伏し、爆撃は行なわれなくなった。それは変わった。
 ソビエト体制の崩壊によって冷戦構造はなくなったものの、沖縄が「太平洋のカナメ石」であることに変わりはなく、アメリカ軍政下の基地の存在はまったく変わっていない。基地のある風景に変化はないということになる。
 那覇から嘉手納や名護へ行く幹線道路を、かつては1号線といったのだが、今は国道58号線である。国道の基点辺りの那覇市内は、道路の両側のビルに本土の大企業の支店の看板が並んでいる。これも復帰前と大きく変わったことである。
 変わらないのは太陽の光だが、永遠であるはずの海の風景が変わっていないかといえば、もちろん、そうではない。海はど変わったところもないかもしれない。那覇空港を発着する時、いつも私は海が汚れたことを感じる。港湾工事や埋め立て工事のため、珊瑚礁は破壊され、海水はすっかり濁っている。
 三十年以上前、私は、もっばら船で沖縄にやってきて、帰りももちろん船であった。那覇港に入っていく時も、離島に向けて泊港を出ていく時も、海水が濁っていることなど、台風の最中はともかく、普段は一度も感じたことはない。復帰して沖縄が最も変わったのは、海かもしれないと、私は思うのである。
 リゾート・ビーチでは、人工海浜もできた。よそから砂を運んできてビーチをつくるわけだが、場所によっては砂が波に流されていき、絶えず補充していかなければならない。これは自然の顔をした人工の浜である。これは変わったことだ。
 土地改良工事や道路工事のために赤土が流出し、珊瑚礁が駄目になっていくのを、私は何度も目撃した。機械化農業をしやすくするため、農地を整備するのだが、海を壊してよいというはずはない。
 復帰三十年と聞いて、私はどこまでも透き通っていた麗しい沖縄を思い出すのである。この三十年間で失われたものの大きさを、私は感じないわけにはいかない。
 沖縄の心は、失われずにあるのだろうか。もちろん、あると思いたいのである。風景が変わり、人の心は変わらないとも言いがたいのだが、沖縄の魂は、どっこい昔どおりだと信じたい。
社会新報2002年5月29日(水)

植林で未来に布施をしたい top
 五十代半ばになると、まるで櫛の歯が欠けるように、一人二人と友人たちがこの世から去っていく。ああ彼がいなかったのだなあと思い出し、今そのことを知ったわけでもないのに、突然感傷的になったりする。
 生老病死はこの世のならいとはいうものの、それが実感として身に迫ってくる。やがて確実に私の順番がくる。その時にどんな心持ちでいるだろう。
 この歳になり、私は自分でも心境が変わったことがわかる。あまりガツガツと前に進もうとするのではなく、人のためになることを一つでも二つでもしたいと思うのである。小説家の私は人のためになるような文学作品を残すことが理想なのだが、この移り変わりの激しい時代に、そのことはなんだかとても覚束(おぼつか)なく思える。だが頼りなかろうと、自分の信じる道をいくしかないのである。
 最近、私は「古事の森」構想を提唱し、京都の鞍馬の山に檜を植林してきた。日本の文化は木造であり、その根底には森がなければならない。だが経済活動が前提でありすべてとなってきた森は荒廃し、神社仏閣の補修のための大径木の供給もままならないのである。それならばみんなで檜の苗を植えて、二百年聞から四百年間育てた後に伐採し、古来からの精神の容器である古寺や神社などの補修にあてようという構想だ。
 二百年後四百年後のことなど、誰もわからない。だが、私たちの目には見えなくても、後の世界はあるのである。今苗を植えれば、本当にその木が必要な時に、使うことができる。今何もしなければ、末来はないということである。
 今の時代は、過去の人が私たちに布施してくれたのである。そうであるなら、私は自分の命があろうとなかろうと、未来に布施をしたいのである。
読売新聞2002年5月22日(水)

まよひの雲の晴れたる所(宮本武蔵の幸福) top
 熊本市郊外にある雲厳禅寺の奥の院は、馬頭観音をまつった霊厳洞である。宮本武蔵は六十二歳で亡くなるのだが、死に先立つ二年前、この洞窟に籠もって坐禅をし、正保二(一六四五)年五月十二日、死の七日前、門人の寺尾孫丞勝信に「五輪書」を授ける。「五輪書」は兵法者武蔵の集大成であり、奥義である。一人の人生が完成したことを、後世の人はこんな言葉に見る。「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす。能々吟味有るべきもの也」
「五輪書」の「水之巻」にでてくる武蔵の言葉で、妥協のない自己修練を送ってきた人物の面目躍如である。このように一途な人生を送ってきた兵法者の幸福とは、一体なんであるのか、私は霊厳洞にはいって考えた。
 武蔵は「五輪書」『地之巻』にこのように書いている。私の意訳である。
「我は若年の書から兵法の道に心がけ、十三歳にしてはじめて勝負をした。その相手である新当流有馬喜兵衛という兵法者に打ち勝ち、十六歳にして坦馬国秋山という強力の兵法者に打ち勝つ。二十一歳にして都へ上り、天下の兵法者にあい、数度の勝負を決したのだが、勝利を得ないということはなかった。その後諸国のあちらこちらを巡り、諸法の兵法者に出会って、六十余度まで勝負したのだが、一度も敗れたことはない。その年齢は、十三より二十八、九までのことである。」
 敗れるということは、死を意味した。武蔵は勝ちつづけたのである。自分が勝ったのは、兵法を究めたからではないと、武蔵自身は書いている。生まれつき武芸の才能には恵まれてはいたが、他流武芸が不充分でもあったからである。その後も鍛錬をつづけ、兵法の道にかなうことができるようになったのは、五十歳になった頃であったという。
 このように苛烈な修業の生活をしてきた武蔵が終焉の地肥後熊本にあらわれたのは、亡くなる五年前のことであった。この直前に武蔵は島原の乱に参戦し、一揆勢の放つ石を足に受け、立ち上がれないほどの負傷をしている。おそらく剣によって戦う時代が終わったことを実感したのではないだろうか。
 武蔵は島原の乱にともに参戦した肥後熊本細川藩家老松井興長と知り合い、そのつてを頼りに熊本にきて仕官を願う。組織に似合わず一匹狼をつらぬいてきた男が、晩年に至って気が弱くなったのか、身の落ち着きどころを探している。やがて、藩主細川忠利に、七人扶持、合力米十八石によって召し抱えられることになった。天下に名を響かせた兵法者としては、充分な待遇とはいえない。
 乱世の白刃の下に生き、武蔵はよく天寿をまっと、つしたと思う。武蔵は師を持たず、死の直前まで朝鍛夕錬をしていた。ただひたすらの鍛錬こそが武蔵の生きる道で、そうしていることが幸福だったのである。「五輪書」には、人生の指針としてこのような言葉が見える。
「身にたのしみをたくまず。」
「れんぽ(恋慕〕の道思ひよるこゝろなし。」
「身ひとつに美食をこのまず。」
「老身に財宝所領もちゆる心なし。」
 こうして見てくると、武蔵は人生一般の快楽というものを、徹底して排除してきたようである。武蔵が感じる幸福は、兵法者として自己が高まっていくことにあったのだ。
 死期をさとり、武蔵は雲厳禅寺の奥の院の霊厳洞に籠もったとされる。武蔵はそこで坐禅修行をしっつ、兵法者として自己を総括する「五輪書」の執筆にとりかかる。武蔵はようやく死に場所を得て、幸福な気分になったのではないかと私は推察する。自己が歩んできた道を振り返り、思想化していく作業に、いよいよ取りかかったのである。思想は言葉によって人から人へと伝えられる。その言葉を残す最後の仕事に、武蔵は取りかかったのであった。このように順序を踏み、論理的に人生を閉じていくとは、限りある命しかない一人にとって、何と幸福なことであろうか。
 霊厳洞は今でこそ観光地となったものの、かつては訪れる人も稀であったろう。夏の気配のするある日、私は人影がないのを幸いとし、霊厳洞の中で短い時間坐禅をさせてもらった。もちろんそんなことで武蔵の晩年の心境を理解できるはずもないのだが、私なりに考えたかったのである。
 丘法書「五輪書」は、読み方によっては、人をどのように殺すかというあまりに具体的な実用書である。しかし、武蔵は最後にまことに爽やかな禅味に到達する。
「少しもくもりなく、まよひの雲の晴れたる所こそ、実の空としるべき也。」
 歩む道はさまざまであるが、その道をたゆみなく歩みつづければ、いつか自己と自己以外の世界との間に矛盾はなくなる。そこまでは朝鍛夕錬しか方法はない。「まよひの雲の晴れたる所」にいき、武蔵は幸福だったはずである。
西日本新聞2002年5月20日(月)

悲しさ感じるBSE騒ぎ top
 五月十一日、北海道・音別町の牧場で飼育されていた六歳の雌の乳牛にBSE(牛海綿状脳症、いわゆる狂牛病)が確認された。感染牛の確認は国内で四頭目である。
 せっかく狂牛病騒ぎが収まりつつあるのに、また、あの騒ぎが全国的に広がるのかと心配したが、今回、周りは冷静である。狂牛病になれてしまったのかというとそうではなく、高齢牛の食肉処理と検査が進んだ結果であるということだ。
 高齢牛は発生の可能性が高いとされ、農家は出荷を自粛し、食肉処理場は受け入れを拒否していたので検査が滞っていた。つまり、今回の発見は、新たに感染が広がったということではなく、むしろ検査体制が確立されたということで「食の安全」を取り戻す一つの過程であるということだ。
 世間でも落ち着いた受け止め方をしているようである。四頭の感染牛は一九九六年三月から四月にかけて生まれた雌のホルスタインで、廃用牛である。過去の三頭が共通して餌として食べていたのは、群馬県高崎市内の飼料工場から出荷された代用乳で、これで感染源が特定されると思いたい。
 狂牛病騒ぎで明らかになったことの一つに、餌の問題がある。生乳は保健衛生上、貿易の取り引きをすることができない、すべて国産である。米に次いで日本の農産物の生産額第二位の生乳は、すべて国産ということになっている。
 しかし、今回の狂牛病騒ぎによって、牛が食べる餌の多くは輸入されているということか明らかになった。輸入された餌を食べて出すミルクは、国内で飼育された牛によって生産されている限りは、国産品となる、それはそうなのかもしれないが一抹の割り切れないものが残る。
牧草や濃厚飼料も国産であることが望ましい。減反の田んぼに飼料用めコメを植えるとか、耕作放棄された畑にトウモロコノを植えるとか、飼料を国産化していけば、食糧自給率も高まるのだし、食の安全性も確保される。国産の飼料によって生産されたミルクであってこそ初めて安全な国産の食糧といえる。
 また、今回のことでホルスタインが六歳やそこらで高齢とか廃用牛と言われることについて、驚いた人もいるであろう。
 最近の酪農は、牧草などの粗飼料よりも栄養価の高い穀物などの濃厚飼料を多く与え、効率よくミルクを出させて、生産量が減ったら廃牛にする。乳牛にとっては、定年後の生活や老後などというものはない。
 動物は基本的に身体の大きさによって寿命の良さが決定されると言われる。自然の中にあれは人間は五十年で、馬は七十年と言われる。少なくとも七十年の寿命を持っている牛が、五年しか生きることが許されないのてある。
 最近は牛を長く使もうという酪農家か増えてきたにせよ、牛という命の悲しさが感じられた。今回の狂牛病騒ぎてあった。
社会新報2002年5月22日(水)

減反強制された田植えの季節 top
 五月の連休に私と妻は、私の故郷の宇都宮に行くことにしている。年老いた母の顔を見るためと、友人たちに会うためである。
 かつて私は宇都宮市役所に勤務し、郊外の建売住宅団地に家を買った。二十年ローンはとうに払い終わり、今ではその家を別荘代わりに使っている。自分の本などもどんどん増えていくので、倉庫にもしている。
 その家に妻と行ったのであるが、同じ世代で共に子育てをした人が亡くなっていたりする。久しぷりに顔を合わせた人は、それなりに年を取っている。もちろん、それはこちらも同様で、かつてこの団地で生まれた子どもたちは、それぞれに自立して家を出ている。親が取り残された格好だ。しかもたいてい家を大きく立派に建て替えていて、昔のままの家を残している私たちこそ、タイムスリップの中から現れたような具合である。
 およそ二十年前、私は、この団地に住んでいた頃、私の代表作となった長縮小説「遠雷」を書いた。農村地域に新興の団地が押し寄せ、親が田畑を売ってしまった後、ビニールハウスでトマト栽培をする若者を描いた作品である。その若者の行為こそが、その時代への異議申し立てであった。
 その小説のモデルとなった増淵君が、相変わらず専業農家として頑張っていることは、私にとってはうれしい限りである。彼は植木屋などをやって精神の遍歴をした後、今は少数となってしまった専業農家として生きようと決意したのである。
 毎週金曜日の牛後一時から彼と仲間たちが、田んぽにつくったビニールハウスで農産品の即売会を開く。ほぼ三年前からやっているのだが、宣伝活動もしないので、品物はいいのに客が集まらないという印象があった。そこで少しでも助けてやろうという気持ちがあり、十二時半頃に行った。
 車がどんどん集まっていて、搬入の最中のフキノトウやタラノ芽やシロキなどの珍しいものから争うように売れていく。キャベツ、フキ、タケノコなど、今収穫したばかりの野菜が百円である。ウコンもあるし、近所の蘭園で栽培した花などもある。
 「きょうはいい方だよ。自分が横に置いていたのにって喧嘩をはじめる客もいるんだから。いつも初めだけは人が来るよ」
 久しぶりに会った増淵君は、忙しく立ち働きながら言う。この場は彼らにとっては、社会との接点なのである。翌日、北から順々に水路に水が流れてきて彼らの田んぼにも灌水された。増淵夫妻は田んぼで働いていた。春は大地への信頼感が満ちて、いい季節である。
 この地にも減反は三割八分ほども割り当てらねている。強制的に米の生産調整をされている一方、米が外国から輸入されるという、理不尽な時代である。それでも思いっきり働けるということは、幸福なのである。
社会新報2002年5月15日(水)

永平寺 高祖道元禅師七百五十回大遠忌記念 top
 高祖道元禅師七百五十回大遠忌記念の歌舞伎「道元の月」が千秋楽を終え、二日目である。歌舞伎座から赤い大入り袋が郵送されてきた。中には百円玉が一個はいっていた。金額の多寡ではない。縁起物で、大成功であつたというメッセージが、何より嬉しい。私は深い安堵を覚え、快い虚脱感にひたっている。
 大遠忌めざして歌舞伎座で道元禅師の芝居をやろうという企画が持ち上がったのは、およそ三年前である。日本の伝統的な芝居の中心地ともいうべき歌舞伎座での公演なら、道元禅師の人となりをたくさんの人に見てもらえる。劇場として不足はないのである。
 私は永平寺発行の月刊誌『傘松』に、「月--小説道元禅師」を連載中である。文学者として簡単な仕事であるはずはない。なにしろ道元禅師は一途に修行をされてきた方で、女性の影もなく、権力者と緊張関係を持ったこともない。ひたすらに仏道を究めてきた方だ。このような隙のない人物に、小説家のペンがどのようにおよぶことができるのであろう。
 とにかく連載ははじまり、毎月四音字詰原稿用紙二十枚ずつ書いて、次に書くのが四十五回目である。毎月二十枚ずつの修行をしているのと同じだつた。これは私の修行なのだと、書きはじめて間もなく気づいた。苦行でもあるし、限りない喜びでもある。私はよい修行をさせてもらつているのである。
 連載四十五回目で身心脱落のところまでペンが至り、大遠忌中にここまで出版しようということで、現在編集作業にとりかかつている。この小説の執筆が、私にとつては本道の仕事である。そこに舞い込んできたのが、歌舞伎台本執筆の話なのであった。
 歌舞伎座の公演を本当にやるのかどうかすぐには決まらなかったのだが、台本は執筆しておかなければならない。どれだけ時間がかかるかわからないからである。しかも只管打坐の道元禅師と、華やかな大衆演劇である歌舞伎と、どのようにクロスオーバーするのか。
 道元禅師は峨々たる山脈である。その教えは深遠で、難解にも感じられる。四百年の歴史を持つ庶民芸術である歌舞伎は、なんでも取り込んでしまう貪欲な胃袋を持つが、すべてを放下せよと説く道元禅師とは、もしかすると対極に位置するのではないだろうか。歌舞伎は歌舞伎で確固たる世界があり、私の力でみんなが納得する台本を書き上げることができるであろうか。
 悩みは深かつた。道元禅師七百五十回大遠忌記念の公演であるから、もしかすると禅師をはじめ深い修行をされた老師方もこられるだろうし、歌舞伎座にはじめて足を運ぶ檀家のおじちゃんおばちゃんも顔を見せるだろうし、歌舞伎ファンの口うるさく手厳しいおばちゃんも道元禅師役の坂東三津五郎を見にやってくるだろう。この三者を、台本作者はどのように納得させるのか。
 「正法眼蔵」を読むのは日常のことであるが、この二年間、私は歌舞伎座にかかるほぼすべての演目を見た。描くのは、道元禅師が執権北条時頼のところにいった鎌倉下向と決めた。では鎌倉下向をどのように考えるのか。悩んでいる私に、傘松編集長熊谷忠興師が権力に近づいたのではないとして、見事な示唆をくださった。
 波多野義重が永平寺に鎌倉執権の北条時頼を因果の苦海から救い出してくれと懇願にきて、それを受ける道元禅師の科白ができた。
 「波多野どの、わしは執権北条時頼どのに会いにいくのではない。生きながら地獄におちた一人の人間を救いにいくのだ。懐奘、わしとともに地獄におりてゆくか」
 この科白ができてから、私の中で芝居が動きだしたのだつた。熊谷忠興師にはどんなに感謝しても足りないのである。しかし、それで台本が完成したかというと、そう簡単にはいかない。私は十回書き直した。小説ならどんな大長篇でも一回しか書かないという修練を積んでいる、と自負している小説家なのにである。
 歌舞伎「道元の月」は連日大入りで、あとから頼まれても切符は買えなかった。ひどい芝居を書いたら一ヵ月は地獄ですよと歌舞伎座の人にいわれていたが、極楽だったのである。千秋楽の最後の幕が下りたその晩、私のところに包みが届けられた。開いてみると坂東三津五郎が舞台で着けていた大袈裟の衣裳で、出演者全員のサインがいれてあつた。みんなの気持ちが届いた。
永平寺、高祖道元禅師七百五十回大遠忌「遠忌日報」平成14年4月26日

足尾の植樹が終わった top
 
 「足尾に緑を育てる会」をつくり、鉱山開発にって表土さえも流失し、荒廃しきった足尾の山に植林活動を始めてから早や七年の歳月か流れた。私たちは、毎年四月の第四日曜日に植林を呼びかけてきたのである。
 その呼びかけとは「苗を持ってきてください」「土を持ってきてください」「スコップや唐クワや雨がっぱや弁当を持ってきてください」「来てくれた人全員から千円をいただきます」というものである。こんな呼びかけにもかかわらず、今年は六百五十人もの人が来てくれ、岩だらけの急斜面にへばりついて木を植えた。
 そもそもの出発点は、平成七年に桜の苗木を構えて花見でもしようかということであった。私の母は足尾出身の家に生まれ、私は子供の頃から樹木のない赤茶化た山をよく見知っている。
 足尾は明治時代以来の日本の富国強兵策を支えてきたところで、日霜戦争の砲弾・銃弾などの材料の鋼を供給してきた鉱山だ。
 光があれは、必ず影というものはある。過度の生産に追いまくられてきた鉱山は、周りの樹木を無計画に伐採し、山林を荒廃させてきた。源流域が荒廃すれは保水力がなくなり、鉄砲水が出る。下流一帯にたびたぴ洪水か出て源流域の鉱毒がまき散らされたのが、世に言う足尾鉱帯事件であった。
 日本の公害第一号の足尾鉱毒事件と対峙したのが田中正造であり、その主張は治山治水ということであった。洪水を起こさないためには、堤防の嵩上げ(かさあげ)などをすることよりも、源流域の山を保全することである。
 田中正道は当時、衆議院議員であったが、その主張は受け入れられず、議員を辞して明治天皇に直訴した。自らの命を捨てて世論を目覚めさせようとしたのである。しかし、すでに老年であった田中正造は、天皇の馬車まで行く着く前に転倒してしまい、死ぬことはかなわなかった。だが、世論は大いに盛り上がった。
 田中正道が死を賭して直訴してから今年で百一年日である。足尾の風景には、かなり緑が回復してきたとはいえ、表土がないので自然な回復は見込めず、基本的な風景は田中正造の時代のままであるといえる。
 平成七年に花見をしようと冗談のごとく植えた十本の桜の苗木は、あっけなく枯れてしまった。その反省もあり、苗の根の周りには、しつかりと土でくるまなけれはならない。
 田中正道が治山治水を訴えて立ち、百年の歳月が流れ、こうして足尾に植林活動をするボランティア活動が根づいている。これも田中正道か蒔いた種なのだ、と私は考えている。
 これまで土砂降りに見舞われ、危険な時もないわけではなかったが、今年は気持ちのよい晴天であった。いつもはちょうど山桜か美しい季節なのに、今年は暖かい日がつづきすでに散ってしまった。毎年、季節の流れは少しずつ変わる。今年も足尾の植樹が終わって、ほっとしている。
社会新報2002年5月2日(木)

雨降る「古事の森」での植林 top
 その日の天気予報は、前線が移動してきて気圧の谷間に入り、関西地方は雨であった。四月二十一日(日)、京都のホテルで目覚めた時、私が最初に聞いたのは、雨の音であった。窓のカーテンを開くと、間違いなく雨が降っていた。
 天気予報がはずれれはよいのに、こんな時に限って当たってしまう。きょうは「古事の森」の最初の植林の日である。雨の中での植林を覚悟して、私は合羽を用意はしてきていた。
 駅前ホテルに迎えに来てくれた京都営林署の人に尋ねると、長靴を貸してもらえるという。山に大勢の人が集まって歩き回れば、その辺りは泥田のようになるだろう。普通の靴ならば、ひとたまりもない。
 京都駅から岩船神社前の鞍馬の森までは、車でおよそ四十分の距離である。道路が細いのでマイカーが集まると、身動きがつかなくなる。植林ボランティアの参加者は、近くの駅から営林署のマイクロバスでピストン輸送する手はずだ。
 京都につくられる「古事の森」第一号のボランティア募集に応募してきたのは、三百名をはるかに超えたのだそうである。
 〇・五ヘクタールしかない森に三百名以上もの人が集まったら、植林作業どころではなくなる。はがきで応募してもらい、百五十名に来てもらうことにしていた。だが、実際には二百名になった。
 集合時間の九時の十分前に現場に着くと、すでにたくさんの人が集まっていた。雨降りにもかかわらず、百八十名以上の人が来た。営林署のスタッフも入れれば、三百名ぐらいにはなっていたのではないか。
 京都や奈良には、神社仏閣などの大型建造物がたくさんつくられてきた。法隆寺、金閣寺、銀閣寺などで、日本文化は木造文化である。これらの歴史的建造物が今日残っているのは、絶え間なく修復されてきたからである。
 修復には資材が必要だ。樹齢二百年木から、時としては四百年木が必要なのだがそのような良質の大径木(だいけいぼく)の確保が困難になっている。
 檜材を使った建築物ならば、同じ檜材を使って修復されるのが望ましい。外国産の材木を使うなど、論外である。だが、日本には伐採可能な良質の大径木が少なくなってしまった。
 「古事の森」とは、神社仏閣、城郭、橋などの文化財の修復用に大径木を育てようという試みである。ボランティアの力を合わせ、国有林にまず檜を植林し、二百年から四百年後に伐採する。国の森林で文化財を保護しようという試みは、もしかすると世界で初めてのことかもしれない。
 京都「古事の森」は、杉を伐採した跡で、樹齢百年の檜がかなり残っている急斜面である。雨のためにぬかるみがひどく、足場が悪いので、作業も簡単ではなかった。手も靴も、泥だらけになった。転ぶ人もいた。そんな中で木の苗を植えた人は、未来へと夢を紡いだのであった。
社会新報2002年5月1日

五十年の杉と大根一本 top
 花祭りの日、静岡県天竜市でお寺の集まりに呼ばれ、泊まっていきなさいというのを断り、遠州鉄道の最終電車で浜松に向かった。始発の岩水(がんすい)から乗ってまもなく、私の両脇に二人の男がす座った。私は挟まれたような具合であったが、怖いという感じではなかった。一人が声をかけてくる。
「お話してもいいですか」
「どうぞ」
 こうして話しはじめることは、たまにテレビなどに顔をさらしているので、時折あるのだ。男たちの息は酒臭かった。いいご機嫌である。
「職場の新人の歓迎会がありましてね、車には乗れないですから、電車に乗ったんですよ。珍しい人に会えてよかったな。こちらにはよく来るんですか。天竜川の方に」
 そう言われ、初めてですと私は答える。日本は広いので、旅をしている私にとっても初めての土地は多い。彼らは農業関係の行政機関に勤めていて、一人は農業改良普及委員であった。
「日本の農業は、このままいくと駄目になりますよ。このあたりは転作作物はお茶があるからまだいいんですが、それも高齢化してきて、茶づくりもしんどくなっていますよ。農家に農業を続けてもらうことが、私たちの仕事です」
 農業改良普及員は、こんなふうに言う。より良い農業を目指すという本来の仕事からはずれ、農業をやめさせないように転作作物をすすめ、技術を指導しているということである。
 これが日本の農業の現場の感覚であろう。つまり、現状維持が精一杯で、自然減にさらされている。新しい血を入れるなど、夢のまた夢である。実際に農業をしている人の年齢を見ると、みんな一斉に現場を離れ、ある日突然、食糧が生産できないということになるかもしれない。消費者から見れば、ある日突然、食べ物がないということに気づかされるのである。そうなったら、この国は、もうやっていけないのではないか。
「林業の方が、もっとひどいよ。だれも山に入らないんだから」
 もう一人が、少々酒臭い息をはきながら言う。
「中山間部は、林業と同時に農業もやっているんじゃないですか」
私が言うと、身を乗り出して語りはじめる。
「五十年もかかって山に杉を育ててさ、人に頼んで伐採してもらい、売ると大根一本の値段だよ。手間賃を引いて残った金額は、大根一本分あればいい方で、手間賃の方が高いこともある。材木の値段と人件費とがアンバランスなんだ。大根は三ヶ月で育つけど、杉は、五十年だ」
「大根は百円ぐらいだ」
私が言うと、男は気色ばんでくる。
「せっかく育ててきたのに、今伐ったら赤字なんだよ。じっと我慢の時だよ。間伐なんて、とてもじゃないけどできない。間伐しなかったら、山は駄目になるだろう。祖先は美林を残してくれたけど、我々は子孫に金のならない山を残す。十年経ったら山は駄目になるんじゃないか。我慢もできない時代なんだ」
社会新報2002年4月24日(水)

快進撃の阪神タイガースよ top
 世の中の流れが、いつも決まった方にいくのでは、おもしろくない。そんなことを思うのは、今、大阪にいて阪神タイガースのことを考えているからである。
 四月八日(月)の朝の時点で、阪神タイガースは七勝一敗である。開幕から七連勝したのは六十四年ぶり、開幕戦で勝利したのでさえ十二年ぶりとのことだ。
 昨日の四月七日(日)、私は四天王寺へ行った。午後四時半の開門の五分前に行き、結局、お参りできなかった。その日一日あわただしく過ごして昼食を取りそびれ、参道入り口のうどん屋に入った。そこでちょうどテレビでヤクルト・阪神戦の中継放送をしていた。店内では、みんな息をのんで画面を見ていて、私が入っていっても注文も取らない。仕方なく私も片隅に腰かけてテレビを見た。
 七回表、マウンドには遠山投手がいて、ランナーは一・三塁、二アウト、バッターは三番・強打者の稲葉である。息をのむ場面だ。
 遠山は外側に変化球を投げ続けた。逃げているようにも見えた。結局、ストレートの四球で、満塁にしてしまった。
 次は、四番・ペタジーニである。阪神とすれば、絶体絶命のピンチである。四球続けてボールだったので、遠山にはストレートを取ろうという意識が強かったようだ。力のない球が真ん中に入っていき、ペタジーニがバットを一振りすると、ボールは高々と舞い上がって外野スタンドに吸い込まれた。阪神が敗戦を決定づけられた瞬間だった。
 「一度ぐらい敗けておかなあかん。プレッシャーかかるよってな」
 うどん屋の主人がポツリとこう言い、他の人たちは黙っている。タイガースが永遠に勝ち続けるとは思わないだろうが、毎年と同じように夢がさめることを、みんなが恐れているとさえ、たった一つのホームランで思えるのだった。大阪中が無言のうちに悲鳴を上げたようにさえ、私には感じられた。私は、やっと注文を取ってもらえた。
 その夜、新世界に行って五百円でお釣りがきて腹一杯になる定食屋に入った。私がカウンターで飯を食べていると、隣りに若い男がやってきて、中で調埋している男に間う。
 「タイガース、きょうも勝ちましたやろか」
一瞬の間を置いてから、調理人は下を向いたままボツリと言った。
 「敗けた……」
 それ以上は話したくないという態度がありありで、若い男も重苦しそうに黙った。感情を表に出すことの上手な大阪人が、ハラハラしながら黙ってタイガースを応援しているようである。それは心から応援しているということなのだ。
 時の流れは変わるべきなのである。阪神タイガースが快進撃を続ければ日本も立ち直ると、根拠などまったくないながら、私は思ってみるのであった。
社会新報2002年4月17日(水)

誰が負担、原発の後処理費 top
 二〇〇二年三月三十一日(日)付の『朝日新聞』には、このような記事が出た。
 「原子力発電所で発電をした後の放射性廃棄物処分や発電所撤去、核燃料再処理などのいわゆるバックエンド(後処理)費用が、電気事業連合会による初の長期試算で、2045年までに全国で約30兆円にのぼることが明らかになった。」
 原子力発電は現在、五十二基が商業運転中である。原発の稼働期間は四十年と想定し、一定の増設を見込んで解体と撤去の積み立て費用、高レベルと低レベルの放射性廃棄物の貯蔵と処分など、一連の費用を織り込んだ数字であるという。この数字を知らされ、原子力発電のコストの高さに改めて驚いてしまう。
 原発の技術というのは、一般には実に分かりにくい。専門家が技術を専有し、安全だという説明が一般には行なわれてきた。そうしていながら、現実にはあり得ないはずの事故が起こり、被爆した人が死んだりもした。
 原発を建設しようとした土地には必ず反対運動が起こり、住民を二つに引き裂き、取り返しのつかなむ形で住民を分断してきた。それでも建設を強行してきたのは、火力発電のように大量の二酸化炭素を放出しないことと、一度建設してしまえば、その施設は、ほぼ永久に使うことができる。つまり、コストが安いということではなかったか。
 原発ができると、その市町村、ならびに周りの市町村にいろんな名目の補助金が下り、市民会館やらスポ−ツセンターがどんどん出来る。それを目当てに市町村は、経済の活性化という名目で原発を誘致する。つまり、あめをたくさんばらまいてきて、やっと原発を建設してきたというのが実情である。そのあめのコストも大変なことだ。
 しかし、後処理にこんなにコストがかかるのだとしたら、実際にその費用を負担しなければならない電力業界には、原発への見直しの機運ができても当然なのである。そうでなければ電気事業連合会が原発のコストを発表する理由はない。
 ここで思い出すのは、香川県の豊島(てしま)のことである。豊島に持てられた主な産業廃棄物は、車のプラスチックの部分を粉砕したシュレッダーダストである。産廃の処理業者は、ミミズの養殖の材料という名目でシュレダーダストを持ち込み、小さな島に不法投棄してきた。そして、何十億円だか河百億円だかを儲けたのである。
 その業者は儲けるだけ儲けたのだが、不法投棄が社会問題になると、再処理する責任能力がない。そこで香川県が公金によって処理することで問題を解決することになったのである。原発の三十兆円の後処理の費用というのは、誰が負担するということになるのだろう。電力業界だけで処理しきれるのだろうか。
社会新報 2002年4月10日(水)

気を許せる友との語らい top
 三ヵ月に一度ぐらい、私は大学時代の親しい仲間と会い、都内の酒場て談論風発したり、温泉旅行に一泊して夜を徹して語り合ったりしている。私にとっては気を許せる友との、楽しいひとときなのだ。
 今回、仲間の一人が栄転になり、名古屋へ行くことになった。彼は新聞社で働いていて、仲間のうちでは珍しいきちんとした勤め人である。そめ仲間の送別会のために集まった。
 会場となった寿司屋も仲間の一人が経営していた。その寿司屋の友は、数年前に病死していた。私たちはその友を忘れないために、集まる時には、かの寿司屋をよく使うのてある。
 五十歳を過ぎると、亡くなった友もいる。それが年を取るということなのだろう。これからは一人去り二人去りしていき、やがては私の番がくる。その時にはじたばたせず、静かに向こう岸に行きたい。
 私たちが学生の時代は学生運動が激しく、まともに卒業しなかった、もしくはできなかった人が多い新聞社に勤めるのは例外で、弁護士、別の大学に入り直して医者、労働組合の役員、映画監督、小説家など、自由な職業を選んだ人が多い。皆若い頃には貧乏だったが、年齢を重ねてそれなりにものになってきたのである。昔の貧乏時代も共に生きてきたから、友の成功は率直に喜びたいのである。
 今回の集まりで初めてのことは、赤ん坊が二人いたことである。一人は医者の友が仕事て出席できないので、娘夫婦をよこしたのだ。私たちは孫を持つようになったのてある。
 もう一人の生後三ヵ月の男の子は、癌で死んだ別の友の孫である。顔に友の面影が濃くあって、軽い赤ん坊を恐る恐る抱いていると、時の流れを超えて友を膝に乗せているような気がした。なんだか不思議な気分であった。友は死んだのに遺伝子は間違いなく伝わっている友がいないのは寂しくてたまらないのであるが、忘れ形見がこうしているのだ。
 未亡人も、子を産んだその娘も来ていて 私たちは亡き友をしのび、過ぎ云った青春時代を思うのであった。こうして生涯付き合うことのできる友がいるのが幸せということなのだろう。
 私には、もう一つの同窓会がある。クラスの同窓会は一年前に初めて出席したのだが、三十年ぶりで見る友は、当たり前のことだか、年を取っていて驚いた。自分の顔は毎日見ているから、老けていることに気がづかない。定年がすぐ背後に見える年で、誰が役員になったとかならないとかの話で、私は議論に加われなかった。生きてきた道が違ってしまっているのだろう。
 いつも会っている仲間は、会っているだけて楽しい。寿司屋が閉店になり、私たちは近くの九段の桜の下に移動する。桜は満開であった 冷たいカップ酒と熱いおでんを買い、ちびちびと飲(や)る。いい夜桜だった。
社会新報2002年4月3日(水)

地球温暖化と狂い咲き top
 日に日に春らしくなってくると言いたいところなのだが、急に暖かくなり、一気に春めいてきた。桜のつぼみもふくらんで、ちらはらと花が咲き始めたようである。今年の桜の開花は、十数日早いという。
 春は喜びなのであるが、いつもの春とは違うようにも感じられ、不安な気がしないでもない。三寒四温といって、寒い日が三日続いたら四日目には暖かくなるというふうに、本来はゆっくりと季節が変わっていくはずなのてある。
 一気に幕が上がって春になっている。今年の春は花粉症がひどいという予報であったのだが、春の速度があまりに速いので、杉め花粉も思う存分飛び回るということがないほどなのである。
 このままの勢いで季節が移ろつていったとしたら、早く咲いた桜は、たちまちに散ってしまい、季節の変化は激しくなっていくのであるう。そして、暑い夏がやってくる。
 季節の循環というのは、時間のバランスのことである。少し狂ったのならは、どこかで調整をするのがバランスといっことだが、春が早くきたのなら、春か夏か秋のどれかが長くなければならない。つまり、猛暑になるか、秋の気配が早くきて冷夏になるかである。一度狂いだしたバランスは、どこかて調整を取ろうとして無理がはいりまた狂ってくる。
 今回の冬は寒いという予想であったが、結果的には暖冬であった。楽に冬をやり過ごすことができ、たちまち春になった。これを喜んでいいのだろうか。異常気象に不安を覚える人も多いのではないだろうか。
 人間の感覚だけて異常と感じられるのは、よほど異常が進んだということである。季節の変わり目の様子が、毎年違う、つまり、安定していない。そして、全体に温暖化の傾向がある。この先にイメージするのは、地球温暖化ということである。
 何事も急激に変わるということはあまりなく、異変とも言われる小幅な変化が長く続き、全体では大きな変化を遂げているのである。地珠温暖化現象というのは、小さな異変の繰り返しが間断なく続き、その異変をトータルすれば温感化に向かっているということなのであろう。
 だからこそ、小さな異変に慣れて見過ごしてはいけないのだと思うのである。小さな異変は生活に影響も少ないのだがそれが重なると、地球変化という取り返しのつかない異常となるのだ。
 ここまて書いたところで三組の来客があった。来る入の誰もが、下の道路の桜が満開に近いと口々に言う。今日は三月十九日(火)である。桜は嬉しいのであるが、この時期に満開になるのは明らかに異常ではないか。こうして咲くことを、日本語ては狂い咲きという。今年の花見はあわただしいことになりそうである。
社会新報2002年3月27日(水)

連合赤軍事件の闇 映画「光の雨」に寄せて
表現者は事件を語れ
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 十四人の同志を投害した連合赤軍事件が、なぜ起こってしまったのか。この事件が社会に与えた衝撃はあまりに大きく戦前の左翼運動に根を持ち、戦後うねるようにつづいてきた学生運動は、一気に萎んでしまった。
 革命運動とは、本来は理想の追求であったはずなのである。すべての人が平等で、差別はなく、能力を百パーセント発揮することのできる理想の社会をつくろうと、多くの若者が夢を見ていた時代があった。その夢は多くの若者たちの心をとらえ、試行錯誤の連続ではあったのだが、たくさんの人を巻き込んでいた。
 革命運動は、その歴史が教えているとおり、最終的には暴力と暴力のぶつかり合いの様相を呈してくる。連合赤軍事件は、栃木県の銃砲店を襲って銃という暴力装置を獲得したところから展開がはじまった。彼らは銃を持って北海道に逃れ、一冬を札幌のアパートで息をつめて送ったこともあった。そうして大切にしていた銃が、やがて彼らにものをいいはじめたのである。
 この銃を使っで革命闘争をする革命主体には、どんな矛盾も一切あってはならず、完全無欠な兵士とならなければならない。しかし、完璧な人間など存在するだろうか。おいしいものがあれば食べたいし、そばに異性があれば恋愛もしたい。身を美しい衣で飾りたい。父母への思いもある。兄弟の絆も絶ちがたい。それらは人間感情の自然な発露であるが、革命運動の側からすれば人間の矛盾点であり、すべて反革命とされた。
 人間的なものを反革命というのなら、誰にも反革命の要素がないはずはない。その反革命の要素を克明に洗い出し、内的外的に止揚しようとした。そういってしまえばいかにも簡単なようではあるが、どう止揚するのか、止揚してどうなるべきなのか、あるべきビジョンはまったくなかった。
 そうではあるのだが、とにかく理想の革命戦士をつくり上げようとした。そうするために残された時間は、たとえば一カ月というようは短期間であった。短い時間のうちに、この世に存在しない人間、いまだかつてない人間像をつくり上げようとしたのである。
 方法論は、総括である。まず自分自身の矛盾点を自分で洗い出し、自己批判する。そうやって自己総括をするのだが、まわりの人間にたちまち論破され、あらためてまた自己批判する。自分でできなければ、総括援助がおこなわれる。殴るとか、縛るとか、真冬の戸外に放置するとかの暴力が、心の内側を見つめるための総括援助であった。
 誰一人として総括を完成することはできず、彼らの考える完璧な革命戦士にはなることができなかった。総括援助はいくところまでに至り、ついに同志を殺すところまでいったのである。矛盾がおおいがたく噴出してくる形で、アイスピックで刺されたり、首を絞められたりして、死刑になるものまででてきた。
 はじめは理想社会をつくるための純粋な気持ちの運動だったはずなのに、同志を校すところまでいってしまったのである。なぜなのか、誰も明解に答えることはできない。理論で語ることもできないのに、とにかく十四人の同志殺害という現実ばかりがある。
 ここまで私が書いたことは、連合赤軍事件の一面でしかない。このような恐ろしいことは過去にも起こらなかったし、未来にも起こしてはならない。そうであればこそ、表現者はその事件に、総括とまではいかなくとも、自分の場所から取り組むべきではないのか。小説家として、私はそう思いつづけてきた。
 死んだ一人一人への鎮魂の思いとともに、私は私なりの苦心惨憺はあったものの、小説「光の雨」を書いた。そうしてもう一人の表現者高橋伴明が、映画「光の雨」を撮った。北海道の知床で主に撮影したのである。
 少しずつ、ようやく語りはじめた。
北海道新聞 2002年3月20日

多い飛行機の遅れ top
 最近、飛行機に乗っていて感じることがある 先日,講演を頼まれて羽田から福岡に飛んだ。市内の天神のホテルが講演の会場である。 講演は午後の十二時三十分からだ。タクシーに乗れば二十分ほどかかるが、地下鉄なら十分間みれば充分である。主催者がつくってきた予定は、一時間前に福岡空港に着くというものてあった。
 これで問題はないのである。問題はないはずであった。ところが、その日、出発する飛行機に電気系統のトラブルが発生したということで、羽田空港の出発は大幅に遅れたのであった。
 もちろん。安全は第一にしなければならない。トラブルを抱えての離陸などあり得ないことである。飛行機は遅れはしたが、福岡まで飛び、私は地下鉄に飛び乗ってホテルに急ぎ、講演会は、たった五分間遅れただけで始まった。
走ったので息が切れたが、問題はなかったのである。
 これで忘れればよいのだろうが、こんなことが多いのである。機械的なトラブルはもとより、理由がよく分からない遅れがなんだか多いような気がするのである。最近、航空会杜のスタッフに「産れても当然だ」というような空気があるのではないだろうか。
 私の手元に二月の時刻表がある。例えば福岡から羽田に向かう早朝の便は、七時十分発が日本航空と全日空と日本エアシステムと三便あり、五分後の七時十五分発にスカイマーク・エアラインズがある。福岡空港の滑走路の構造は、私にはよく分からないのであるが、五分間で四便が同じ東京に向かって飛び立てるのであろうか。
 この時間はビジネスマンが東京に出張して仕事をするためには便利である。つまり、需要が多いので、航空会社としては、ぜひとも確保しておきたい便なのであろう。
 それで便をつくるのであろうが、滑走路に三機が同時に入ることはできないから、突入競争になるのかもしれない。つまり、必ず出発が遅れるようにできているスケジュールなのである。遅れたならば、アナウスをして乗客に謝ればよい。そんなふうに安易に考えてタイムスナジユールをつくっているということがなければよいのだが。
 もう一度言うが、機械のトラブルは、とうしようもないことである。それは別にしても、遅れるということに罪悪感がなくなっているのが、ひいては大事故につながらなければよいがと思ってしまう。
 塵久島でラジオの生放送をするため、飛行機に乗ったことがあった。ところが、鹿児島到者が遅れ、乗り継ぎができなかった。ラジオでは、私のことを、今、鹿児島空港にいて次の便で来る、と放送してした。番組の終わり頃にどうにか着いたことがあった。
 余裕をもって行動すれはよいということなのであるが、飛行機には、いろんな経験をさせられる。
社会新報2002年3月20日

道元の思想を歌舞伎で top
 三月三日(日)、三月大歌舞伎の初日の幕が上がって、ほっとしているところである。昼の部の最初の出も物「道元の月」は、私が台本を書いた。この二年間ほど、この台本のためにどれほどの時間を費やしたことであろうか。この間、歌舞伎座に通い続け、はとんどの芝居を見た。
 苦労したと言ったら、なんだか回顧的ではあるが、十回書き直した。私は、小説について三十年以上も修練を積んてきて職人的な技術はつかんでいるつもりである。どんな大長編小説でも、計算し、構成しながら書くために、ほとんど一回しか書くことはない、それが、台本は十回なのである。
 道元は、ただひたすらに座禅修行をした人である。権力と鋭く対立したり、女性問題で苦悩したり、ということではまったくない。道元をドラマにすること自体が、困難極まりないのである。
 また、歌舞伎には独特のセリフ回しや構成のやり方がある。歌舞枝の世界を新作で描くのは、生易しいことではない。例え歌舞伎が新しいものをどんどん取り入れ、絶えず革新してきたものであっても、歌舞伎的な世界というものは、絶対的にあるのだ。
 今年は、中国より日本に曹洞禅を伝えた道元が亡くなって七百五十年である。七百五十年大遠忌に、道元をしのぶため、法要をはじめさまざまな行事をしようという、その一環てある。鎌倉時代の禅僧、道元の思想は、深遠である。主著の『正法眼蔵』は難解極まりなく、しかも長大だ。その道元の思想を、大衆演劇の歌舞伎て描こうという試みである。台本作者の感じで言えば、初日の幕が上がって観客の反応も確かめ、相当にやれたのではないかと思っている。
道元の思想は、誠に今日的である。道元が好んで使った言葉に「少欲知足」がある。もともと法華経に出てくる言葉なのだが、欲を少なくして足るを知るということだ。これができれば、今日の地球上に生起している問題は、ほとんど解決してしまうのではないだろうか。
 資本主義とは、人の欲望を刺激して消費を沸き起こすシステムである。欲望を際限なく拡大していくことによって経済活動が成立する。そのためにすべての分野で生産の拡大と効率化が求められ、自然は消費されていく。その結果引き起こされたのが、今日の環境問題だ。道元は、その欲を少なくして、わずかなことで喜びを感じ、満足する心を育てろという。
 欲望を無限に展開すると、何を食べても、何を消費して満足できなくなる。もっと欲しい、もっと欲しいということになるのである。地球を食べている。
 七百五十年も前に亡くなった思想家が、今日の時代で混迷を深めている私たちに大きな示唆を与えてくれているのである。
社会新報2002年3月13日(水)

畑を森に還す中国 top
 中年・四川省の成都の空港で上海行きの飛行機を待ちながら、本稿を書いている。成都は雰の都で、上海から来る時、飛行機は四時間半遅れた。飛行場で時間を過ごしたのだが、遅れても出てくれるのが、中国のよさだ。
 私は、西昌というところから成都に着いた。西昌のあたりは長江の一つの源流域なのだが、山に木はなく、行っても行っても赤茶けたハゲ山が続く。食糧増産のため、人は山の木を伐って畑をつくった。人の営みの、その行き着く果ての光景である。
 一九九八年に揚子江大水害があり、すさまじい被害をもたらした。源流域が荒廃し、保水力がまったくなくなったため、水かさがどんどん増していく。あまけに大量の土砂を流すので、その被害も膨大だ、洪水がおさまっても土砂は流れ続げ、長江は泥の河といってもよい。
 源流域のハゲ山を見れば、森が消滅してしまったのだから保水力はゼロだと、すぐ納得でぎる。そ源流域に木を植えて森を回復させようという政策が中国て打ち立てられ、強力に実行されている。
 その政策のスローガンは、退耕環林(たいこうかんりん)という。かつて開拓した畑に木を植え、森に還(かえ)そうというのである。日本で聞いた時には絵空事のようにさえ感じたのだが、現実にそれが着々と実行されている。西昌市は、山の耕地の一四%に木が植えられた。
 山の村を出た場合には、三千元(約四万八千円)払えば、下の平地に田んぼと家がもらえるのである。山の畑にクルミや山椒などの成りものの木を植えた場合、若干の資金と米が支給され、八年間は生活が保証される。最初に退耕還林の政策を聞かされた時には、山の住民は、わが耳を疑ったということだが、政府の宣伝が行き届いてきて、大方の賛同は得られてきたようである。
 もちろん、この大政策に問題がないわけではない。退耕還林の予定地は、少数民族イ族の生活圏で、一九五〇年代に食糧増産の政策のために山に入り、森を開墾したといういきさつがある。政策の百八十度の転換により、今度は山から出るようにというのだ。政治に振り回される側では、やり切れない気持ちにもなるであろう。
 しかし、あの源流のハゲ山を見たならは 今、森を回復させなければ、いつまた大災害が振りかかるか分からない。そうではあっても人々の生活を壊さないように退耕還林をするのは、誠に困難であろう。
 中国では畑を森にするという大プロジェクトに、現実に取りかかったのである。もしかすると、これは人類で初めての取り組みかもしれない。食糧危機が叫ばれる中、畑を森に還すというのである。
 これは百年後、千年後の、国家の計である。日本の政治家に、これだけの発想ができる人物がいるだろうか。
社会新報2002年3月6日

今年の流氷は拍子抜け top
 今年のオホーツク海の流氷は、十二月中にやってきた。こんなことはめったにないのである。今年の冬は寒く、だから、しつかりと根性のはいった流氷がやってきたのだと思っていた。
 この十年ほど、去年を除いてのことだが、たいした流氷はやってこなくなっていた。一面、大氷原などという光景はまずなくて、接岸してもすべて氷で埋め尽くされることなどない。流氷が破れたかのように、あっちこっち黒い海が見えていた。かつてのように重なり合って浜に乗り上げ、春まで溶けずに残るというようなことはなかった。地球温暖化の影響がはっきりと表れていると、深刻な気持ちになったりした。
 流氷は、海が一年間働くための量要なメカニズムを担っている。シベリアのアムール川の水がオホーツク海に流れ込み、その淡水を核としてできたのが流氷である。この流氷の中にはたくさんの植物プランクトンが含まれている。春になって氷が溶けて植物プランクトンが放たれた海中は、ミルクのように栄養が豊かな状態になる。この植物プランクトンを食べて大量の動物プランクトンが発生し、魚の餌となる。この流氷があるからこそ、オホーツク海は豊かな海として保たれ
ているのである。
 自然というのは、すべてが連関し、循環し、つながりあっている。無駄なものは、何一つないのである。もし流氷がこなかったら、自然への影響は計り知れない。
 二月といえば、流氷は海を埋め尽くし、大氷原となっている。固く締まった氷の上を、人は歩いて渡ったのである。今年の二月は、流氷の上に乗るどころでは
なかった。流氷が消えてしまったのだ。
 私が行った二月十二、十三日は、網走の海岸に流氷は接岸していなかった。よくよく見れば遥かな水平線は白く、流氷は沖合いにとどまっているようだ。風が吹いてくると、流氷は再び接岸するだろう。
 去年の流氷は久しぶりに見事であった。今年、早ばやとやってきた流氷も根性がはいっていて、再び存在感をしたたかに見せてくれるのかと思ったのだが、どうも拍子抜けだ。
 最近、流氷は観光客をたくさん連れてくる。網走には観光のための砕氷船があり、大変な人気だ。私も群集の一人として砕氷船に乗った。流氷は接岸していない。去年はバリバリと氷を割って道み、それは雄壮なものだったのである。
今年は帯状のバラ氷があるばかりで、砕氷船は大海に引かれた白い線のような心細い流氷の中に入り、潮の流れでせっかく集まった氷をバラパにしないよう、そろそろと注意深く走る。
 これが地球温暖化の影響でなくて、なんであろう。私たちが五感によって知ることができるのだから、地球温暖化は確実に進展しているということである。
社会新報2002年2月27日(水)

多い地方都市の空き地
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 故郷の宇都宮に帰り、いつも気になることがある。宇都宮ばかりではなく、他の地方都市でも、私は同じような感想を持つ。
 それは地方都市の市内に空き地が多くなっていることである。車社会となり、たいてい車主体の都市づくりが行なわれている。古い家並みを壊して立派な自動車道路が通る。朝晩の交通渋滞を防ぐたぬだが、朝晩はともかく、昼間は、その道路はガラガラであったりする。
 道路が通って立ち退きの関連ばかりでなく、老朽化したり、お年寄りが亡くなったりして古い家が取り壊しになる。その後で新しい家が建てられるかといえば、駐車場になるのはいい方で、バラ綿のフェンスに脇まれ、更地のままで置かれたりする。
 街が、風が吹き通るように空疎な感じがするのは、このためである。古いものは壊され、新しいものは建てられない。これでは街は奥行きがなく、特徴もなくなるのである。
 車が街を完全に変えてしまった。駐車場のない旧市街地の商店は立ちゆかなくなり、買い物は郊外の大型店でする。市街地の空洞化である。活気のない街を歩いても、寂しい気分になるばかりである。旅の暮らしをしている私は、地方都市が、どこも同じ表情になっていることが、どうにも寂しいのである。
 郊外の大型店は、全国どこへ行っても似たようなものである。東京や大阪に本社を持つチェーン店が出店しているのだから、当然のことなのである。かくして日本中は同じ顔になり、旅の楽しみはなくなってしまった。
 空き地ばかりになった地方都市の衰微には、はなはだしいものがある。
駐車場などを見ても、おもしろいはずはない。古い建物を維持する力はなく、まして新しい建物をつくる力などあるはずもない。 
 どうしてこんなことになってしまったのか。不況や空洞化現象などという言葉だけでは説明できないことがある。ある人は、私にこんなふうに説明してくれた。
 「それは税制の問題だよ。親が死んで家を相続したけど相続税が払えずに土地を現物で納めたんだよ。
もうすぐ競売にかけられるんだけど、景気が冷えきっているから買い手は現われない。国民を国がいじめて、どうするのだろう」
 怒りを持った言葉であった。相続税など只にすべきだと、その人は言う。コツコツと蓄財した国民の財産を、どんな理由があれ国が取って、どうするというのだ。
 厳しい税金を課せられ、街並みまでもが破壊されている私たちは、その税金が多く浪費されていることも知っている。なんだかやり切れない気持ちにもなってこようというものだ。
 街というものは、それぞれに刻んできた長い歴史があり、特徴というものがある。それは文化という貴重なものだと、私は思う。
社会新報2002年2月20日(水)

不自由ない生活実感が不況の原因
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 世は不況不況の大合唱で、明日への不安があり、買おうとしたものもやめておこうかなということになる。その結果、モノが売れず、また不況ということになる。悪循環である。私たちの生活実感からいって、これはもうなくてはならないというものはない。食料品など毎白必要なものはともかく、これがなければ生活できないというものは、とりあえずないのではなかろうか。
 しかしながら人の欲望は、際限のないものである。新しい欲望が需要をつくり出すというのは、近代経済学の限界効用学説だが、人の欲望は底なしであるにせよ、モノを消費するにもパワーがいる。そのパワーがもう限界だという実感を持っている人は、多いのではないだろうか。
 モノをたくさん消費すれば消費した分だけ人は幸福になれると、長いこと信じられてきた。モノをどれだけ消費するかというのが富の証しであり、幸福は、その富によってもたらされると考え、私たちは、がむしゃらに働いてきた。
 しかし、一見、その豊かな消費生活は、富の片寄りによってもたらされていると、私たちは知ってしまった。飽食と飢餓とが同居する世界に、私たちは生きているのである。それで本当に幸福だと言えるのだろうか。
 腹が減っていれば、何を食べてもおいしい。腹がいっばいだったり、病気だったりすれば、食欲はない。無理に食べたところで、おいしいはずはない。
 消費が右肩上がりに伸びていき、所得も同じように伸びて、社会はますます潤沢になっていくというこは、限りある社会の中では考えられない。
 私たちの部屋の中は、これまで買いあさってきたゴミでいっばいで新しいモノをいれる余裕はない。社会がこのまま順調に拡大していくとは、どうしても考えられない。
 私の家では、車は十年以上も前のものだが、とりあえずあるし、テレビもビデオデッキもDVDもある。冬物の衣類は、今年は買わなかった。古いものでもなんの不自由もなかったのである。こんな生活実感が、不況の原因なのではあるまいか。
 何年も前、リゾート法なるものができ、社会が豊かになったのだから、みんなゆとりを持って遊ぶようにと、各地でリゾート開発が行なわれた。その実態は土木工事や建築工学の創出であって、たいていが自然破壊に向かったのであった。
 言ってしまえば、つくる方の都合ばかりがあり、使う方の必然性はまったくなかった。
 滞在型のリゾートをつくるといっても、滞在すべき客の方は、実際には休日も取れなかったのである。その結果としてバブル経済が引き起こされ、破たんした。
 ふくれ上がった社会を、私たちの身の丈に合った大きさに戻すための産みの苦しみだと、私は、この不況のことを考えたい。
社会新報2002年2月13日(水)


我が家の猫事情
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 我が家には三匹の猫かいる。どれも妻が拾ってきた野良である。
 五年前の初夏、我が家の車庫の車のタイヤにしかみついている雉子虎の子猫がいた。すでに二匹いた家の猫に威嚇されているところを、買物から帰ってきた妻にひょいと抱きとられた。妻はきっとこんな風にいったに違いない。
「まあまあ、こんな可愛い子を、誰がお弁当つきで捨てていったかしらねえ」
 こうしてその子猫は家にはいることになった。すでに二匹いるうちの一匹は、前の病院で働いている人たちが、隠れて外飼いをしていたのだ。
病院が建て換えられることになり、妻が引き取って、顔立ちがハンサムだからサムと名付けた。
 もう一匹のブーは、隣りの私の事務所の陰からしきりにブーブーいっては、ピンクの鼻のある白い顔を出し、用心深くおどしながら妻に餌をもらっていた。人に心を許さないプーに引っかかれて腕など傷だらけになりつつ、妻は強引に家猫にしたのだった。
 新しくやってきた子猫は、チムと名前がつけられた。先にいる二匹とうまくいかない場合、隣りの事務所で飼うことにして、ジムと名をつけようとした。だが子猫で可愛いいということで、チムになった。もちろん猫を偏愛している妻の命名である。
 三匹とも雄であった。サムはチムを実によく面倒みた。チムの身体をびしょびしょになるまでなめまわし、身体をぴったり寄せて箱の中で眠り、まるで保護者のようであった。
 やがてサムは長年の野良暮らしの疲れがでたのか、徐々に弱っていき、三年前妻に見守られて死んでいった。十数年生きたはずである。近所には猫を偏愛する猫おばさんのグループがあり、妻は電話をして通夜にきてもらつた。猫談義を一晩しても話は尽きないようである。
「やることはやったから、後悔はないわ」
 猫おばさんの行き着くところは、結局このようである。我が家の小さな庭に穴を掘ってサムを埋め、上に白い花を
置く。一体我が家の庭に何匹の猫が埋っているのか、私は知らない。
 ブーとチムはどうもうまがあわない。チムがそばを通ると、ブーははじめて会った時のようににらみつけて無言で威嚇する。今ではチムのほうが一キロも体重は多く、若くて見かけも強そうなのに、どうも負けの姿勢をとる。耳が下がり、身体が低くなるのだ。
 二年前の梅雨時、突然妻は猫が二匹では物足りなくなった。我か事務所で働いている姪に、妻はこういった。
「マンションのまわりにいる野良猫で、一番かわいそうな子をうちに連れてきて」
 妻の妹の子である姪も、伯母に負けずに猫偏愛者なのである。近所の野良猫に餌をやつている姪が見ていられないとして連れてきたのは、掌の中で震えているみじめな痩せた三毛の子猫だった。目脂(めやに)で目も開かず、一目見た私は三日ともたないと思ったものだ。
三匹目の猫にはならないと私は感じた。
 ところが弱々しい子猫を、妻は数か月で丸々と太らせた。それなりに美しい元気な雄猫に成長させた。妻はこの猫を抱っこしている自分の姿を思い描いていたようだが、ナナと名前をもらったその猫は人の腕の中にいることなど好まない。引き戸を全身を使って開け、家にはいるなり一目散に餌の皿に向かい、また跳び出していってしまう元気者である。
 フーとナナは寒くなると、小さな籠にいっしょに丸まって眠る。チムはなんとなく孤独である。体重五・八キロもの大猫になったチムを妻は幸福そうな顔をして抱き、頭を撫で、足裏の肉球をさする。
「チムチムが一番可愛いわよねえ」
 妻はチムに顔を寄せてこんなふうにいう。するとチムは喉をぐるぐる鳴らし、舌を口から半分ほどだしてだらしのない顔をしている。
 これが当面の我が家の猫事情である。私は留守がちだから、我が家は猫のおかげでどうやら平穏が保たれているのだ。
月刊ねこ新聞2002年2月12日(火)

「雪印」という看板
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 雪印食品がオーストラリア産の牛肉を国産と偽り、箱を詰め替え、焼却処分する分として申請し、政府から補助金を得ていた。
しかも、トン数も水増ししていたらしい。
 このニュースを聞いた時、この国の行く末が案じられるという気分になった人も多いのではないだろうか。会社のモラルが低下し、人が見ていなければ何をやってもいいという風潮になっているのだ。しかも、たくさんの人の命を預かる大手の食品会社が犯した犯罪は、深く憂うべきである。
 人に分からなければ、何をやってもいいというものではない。まずこの社会で生きていく人としての共同性に対するモラルがある。人には良心というものがあり、良心を守るためのプライドがある。そんなものは経済価値がないとでも言うのだろうか。
 神様が見ている、仏様が見ている、死んだ父親がどこかで見ているから、人が本当に困るような悪いことはしないというのが、普通の人の感覚である。
見えるもの、形のあるものしか信じられないのなめば、精神生活などないではないか。
 そもそも雪印という会社は、黒澤酉蔵という理想主義者によって創業された、開拓精神にみなぎる会社ではなかったのか。黒澤酉蔵は、田中正造の書生として学生時代に足尾鉱毒事件に身を挺した人物である。田中正造の人間愛にあふれる理想主義に共鳴し、北海道という開拓地に渡ってリヤカーを自ら引きながら共同組合運動をおこした。それが雪印の前身なのだ。
 人材養成のため、北海道の江別に酪農学園を開校し、日本の酪農をはじめ畜産に大いなる貢献を果たしたのである。日本の畜産を担う多くの人材が、この学校から巣立っていったのだ。その人たちが、今回の狂牛病問題や、先の雪印乳業食中毒事件により、どれはどの苦しみを味あわさせられたか。行き詰まり、離農した人もいるはずである。
 私のことを言えば、先の雪印乳業食中毒事件の時には、田中正造や黒澤酉蔵の理想を守るためだと高ぶった気持ちもあり、雪印の製品をスーパーの柵に見つければ買ったのである。私ごときが牛乳やチーズを買ったところでたいしたことはないのだが、私のような気持ちでいた人も多少は存在しているはずである。
 雪印食品による今回の事件は、精神が腐ってしまったことを痛いほどに物語っている。雪印食品と雪印乳業とは別会社であろうが、消費者は雪印の名において信頼してきたのである。食中毒事件の時は、こんなミスもあるさと大目に見る気分だったのであるが、今回はどうもいけない。
 創業者の理想、その創業者に思想的影響を与えた人物の大いなる理想に、雪印はもう一度、立ち戻るべきであろう。もしかすると、この国全体に言えることではないだろうか。
社会新報2002年2月6日(水)