栃木弁の微妙さ
お国ことば/栃木弁
  関西から西のほうにいった時、お生まれはどちらですかとよく聞かれる。
「栃木です」
 力んでというわけではないが、私は胸を張ってこう答える。私の言葉遣いを不思議に感じたから質問したのだ。相手は、わかったようなわからないような表情ながら、なるほどと小声でいってたいていそれで終りである。
 いったいに栃木というところは、関西から西の地方の人には、よくわからない地域であるようだ。栃木ばかりでなく、埼玉、茨城、群馬の北関東は、県境もよくわからないところのようである。
 北関東から見て県境のあたりがよくわからないのは、広島、山口、島根、鳥取あたりであろうか。遠近法で見るとあまりに遠いために、くっついて見えるのである。
 北関東の言葉は、べえべえ言葉だ。伊勢では関東の人間は江戸も含めて「関東べえ」と呼び、人がよくて金離れがよいので喜ばれたようである。このべえべえ言葉も、案外に奥が深い。県単位で区切れないほど、微妙なのである。
「だんべい」「べい」「だペ」「だっぺ」、思いつくままにならべると、接尾語はそれなりに多様である。最後に「だんべ」とつけただけで、関東弁になる。
 言語学者と雑談していて、こんな話を聞いた。関東の片田舎の漁村だった江戸に、徳川家康が大工事をして都をつくり上げた。江戸というところは本来は湿地で、水抜き工事をするところからはじまったのである。その江戸の言葉はそもそもがベえべえ言葉で、三河や尾張や京都から人がたくさんやってきて、べえべえ言葉を話す人を東や北に追いやったというのだ。追いやられた場所が千葉あたり栃木あたりで、だから千葉や栃木に正当な江戸弁は残っているというのである。
 江戸弁は「す」と「つ」の区別がつかず、「まっすぐ」を「まっつぐ」という。この江戸弁は、関東のべえべえ言葉と名古屋弁・関西弁がまじってできたというのである。どのようにまじったらべえべえ言葉になるのかよくわからないのだが、そういわれているのである。
 表面的に関東弁は簡単だという。接尾語に「べえ」をつければよいからだ。 「いきましょう」は「いくべ」となる。「ベ」がつくと、私などには急に説得力が増して、今すぐにでも出かけなければならないような気になる。
「いくべ」「いくっペ」「いくだんベい」など微妙とはいえない変化によって、関東のどの場所か特定することができる。だが外部から見れば、べえべえ言葉は一種しかないということになる。
 栃木弁の話をしよう。 「いきましょう」と誘うのは、「いくけ」、「いくかい」、もしくは「いくべ」ということになる。これらの間には微妙なニュアンスの違いというものがある。この一言の「け」に深い意味を込めるのである。感情の襞というものが、ここにはあるのだ。
「いくけ」といえば、「いっしょにいきましょう」が一般の意味だが、「いくんけ」といえば「あなたもいくんですか」「とうとう出発するんですか」と複雑な意味が混在する。相手の気持を確かめているところがある。
「見たんけ」といえば、「とうとう見てしまったんですね」という深い意味も込められる。この「け」の使い方が、栃木弁では独特である。
「まだ書いてないんけ」といわれれば、「(締切りがきたのに原稿を)まだ書いてなくて、(あなたは本当に困った人だ)」という意味が含まれる。
「け」を使い切ったなら、栃木弁をあやつることができるということだ。

星座 2010年 初霜号

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