船は人を抒情する
連載 第1回 まず青函連絡船
 青函連絡船が私にとってはじめてのクルーズだったのではないかと、昔のことを振り返りつつ思っている。大学一年生の夏休み、私は大学の同級生四人で北海道一周の旅に出た。国鉄の均一周遊券を買えば、東京から北海道の行き帰りと北海道内のバスや船や鉄道に、国鉄経営である限り急行までなら二十日間乗り放題であった。
 幹線なら、途中東北地方のどの駅でも乗り降りができたが、一番遠くに行くことこそ価値があると思い込んでいたので、一直線に北海道に向かった。上野から青森行きの急行に乗ると、何時に上野駅を出発したのか定かではないながら、早朝に青森駅に着いた。寝台列車などではなく、四人掛けの椅子に座っていくのが普通であった。それでも座れれば幸運で、座れなければ油臭い床に新聞紙を敷いて横になった。実際にはこのほうが楽なのではあった。
 鉄輪がレールのつなぎ目を乗り越していくガタンゴトンという規則的な振動を、全身で感じていた。それはそれで眠りに誘われていく心地良さがあった。トイレに起きていく人に、よく踏まれた。乗りあわせた客に、握り飯を一個分けてもらったこともある。
 青森駅に着くなり、みんな大荷物を抱えて走る。慣れない私たちはつい出遅れてしまい、ホームの先の棧橋に停泊している青函連絡船のよい席をとれなかったものだ。
 よい席とは、座席というより横になれるかどうかということだ。どうせ二等にしか乗らないから、船底に近い大部屋である。そこに寝る場所を確保できなかったら、船内をうろうろして時間を潰さなければならない。たいていの人は夜汽車できて疲れているから、眠りたいのである。
 場所がまだ完全に固定する前に、その場所を離れたりすると、いくら荷物を置いていても、席を取られてしまっていたりする。当時の旅は体力を消耗するようになっていたから、少しでも楽をしたかったのである。楽をしなければ体がもたなかった。
 私が大学一年生といえば昭和四十一(一九六六)年で、東京オリンピックの二年後である。日本は景気がぐんぐん良くなっていく時代で、人はものに憑かれたように動きまわりはじめていた。汽車やバスや船に乗る多くの人は、持ちきれないほどたくさんの荷物を持っていた。その荷物が乗物の中をいっそう窮屈にした。小さなリュック一つを背負った旅行者の私たちは、その大荷物の間でやっと場所を見つけるという具合であったのだ。
 船が動き出す頃には、おおむね席は固定される。ぐらりぐらりと、席が傾きはじめる。船の錨を巻き上げる音がして、どうやら連絡船は青森港を出港したようである。
 私たちはリュックをその場に置き、鉄の階段を踏みしめて甲板に出ていく。船と岸壁の間には海があり、その向こうに青森の街が見える。ああこれから本州を離れるのだなと思うと、いい知れぬ旅情がやってきた。私は一歩いくごとに、自分の中で遠くにいく記録の更新を続けていたのだ。そういえば列車を降りてから人の勢いに呑まれ、風景を味わう余裕などあまりなくて、青森の街をほとんど見ていないのだった。これから見る一つ一つの風景をすべて胸に焼きつけておこうと思い、遠ざかりゆく青森の街を真剣に眺めていた。
 津軽海峡に出ると風が吹いてきて、夏なのに寒くなり、とてもその場にはいられなかった。船倉の自分の席に降りていく。ほとんどの人は横になり、貪るように眠っていた。旅をしながら眠れるのは効率がよいなどと思い、私たちも横になる。
 眠った感触はあるのだが、目が覚めた。どれほどの時間がたったのかはわからない。神経が粒立つように興奮しているので、眠り込むことができないのだ。これからのことを考えた。まず、北海道に着く。それなら函館の風景を見逃すわけにはいかない。貪欲にそう思った私は、もう寝ていることはできずに起きていく。通路には汚れた靴がたくさん脱ぎ散らしてあった。
 甲板に出るなり、風に吹かれた。風には濃い潮の香りがあった。海の向こうに家がならんでいる。その手前の港には漁船がたくさん舫ってある。ぐんぐん近づいてくる函館の街に、私は目を奪われている。四十四年も前のことで、海から見える函館がどんなたたずまいだったのか、私は忘れてしまった。
 その後函館には何度もいき、函館がどんな街並みなのかある程度は語ることができるのだが、はっきりと覚えているのは、遠くまで来たなあという自分自身を誇るような感情である。
 船の旅には旅情がある。今では私は北海道にはしばしば訪れるのだが、百パーセント飛行機で行く。空港から空港へと移動しているだけで、同じような空間をいったりきたりしてるにすぎない。現在の私の生活ではこのような高速の移動がふさわしいのだが、本当の旅は若き日のあの青函連絡船にあったのではないかと懐かしく思う。青函連絡船は廃止されて久しいが、船旅が日本人の旅情を形づくってきたと確信する。
 船は人を抒情する。
 岸壁に立って見上げると、驚くべき大きな船だった。まるで鉄のビルのようである。この巨大な乗り物で目の前の海を超えてきたことに、私は自分自身を誇るような気持ちになった。
 船を離れてからの記憶は、飛び飛びにしか残っていない。函館の駅前広場の向こうに漁市場があり、毛ガニやタラバガニや新巻鮭を売っていた。旅ははじまったばかりだし、そもそも買う気もないので、ただ見てまわるだけである。売物を見て、北海道だなあと感動した。毛ガニもタラバガニも荒巻鮭も今は何処にでもあるが、当時はそれらの色彩を見ただけで嬉しかった。
 船の揺れが身体の中に残っていた。全身の血液がゆっくりと右にいったり左にいったりする。器の中に液体をいれて揺すぶると、器を置いても液体の動きはいつまでもおさまらないものだが、そんな感じなのかもしれない。それが船に乗ったという実感で、これから私はこの感触を何度も何度も味わうことになる。
 函館ではユースホステルに泊まった。これから先は、どこにいくかぐらいはおおまかに考えているが、いちいちユースホステルを予約しているわけではなかった。泊まれなかったら、駅にいって寝るつもりである。それが私のステーションホテルだ。夏だから、、なんとかなるだろう。どうしてもいる場所がなければ、汽車に乗ればよいのだ。それは均一周遊券を持っているから可能だった。
 函館の記憶は、函館山の夜景と、トラピスト修道院である。それから大沼越しに駒ヶ岳を見た。よく絵はがきなどにある有名な風景で、誰かがそこにいってみたいといったから、汽車を大沼公園で降りたのだ。函館本線の次の急行を待って乗っていったのだろう。
 遠い記憶は破線のようである。次に船に乗ったのは稚内から利尻島までの利尻航路で、その印象はあまりに鮮明である。
 温泉をまわるのが楽しみだった。当時の北海道の温泉の多くは、男女別の脱衣場をくぐり抜けると、その先の大浴場は男女混浴が多いと先に北海道旅行をした人から聞いていた。そういう場所だけでもまず選んでいかなければならないと、若い私たちは考えていたのだ。それが北海道にいこうとする気分の一つの大きな要素だったのである。
 胸をときめかして登別で降り、クマ牧場などにはいかずに、登別温泉にいった。当時のユースホステルは、専門の経営もあったが、大きな旅館が片隅に併設しているところも案外多かった。若者たちが率先して旅に出るようになった時代で、特に北海道に若者の多くが向かった。大きなリュックを担いでいき、混雑した車内で蟹のように身体を横にしなければ通ることができないから、カニ族と呼ばれていた。そのカニ族は野宿をするかユースホステル泊まりだったから、急速にユースホステルの整備をした結果、大きな旅館が併設するようになったのだろう。そんなユースホステルには旅館の設備がそのまま使えた。
 果たして登別温泉のユースホステルは、大温泉旅館の併設だった。部屋は見知らぬ人との相部屋と決まっていて、荷物を部屋に置くと、さっさと私たちは大浴場にいった。
 脱衣室で裸になり、タオル一本持って大浴場にいく。真昼間でガランとしていた。男の姿がちらほら見えるばかりで、男女混浴かどうかわからない。私たちは女子脱衣室の出入り口正面とおぼしき位置にある浴槽に、首まで湯に漬かってならんで待っていた。胸はどきどきしていたのである。  

(つづく)
ボン・ボヤージ 2010年1月号

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