四百三十四人の名前
 阪神大震災から十四年たつ神戸にいった。神戸市役所の近くにある中央区の泉遊園地に、どうしてもここは見ておくべきだと地元の人にいわれていったのである。煉瓦でつくられているモニュメントは、インドの祇園精舎やナーランダ大学などの仏跡の雰囲気があった。おそらくそのことを意識してつくられたのだろう。
 その公園の地下の部屋に、震災で亡くなった人の名前が刻んである。六千四百三十四人一人一人である。その名前の列を見て、私は声を失った。
 私はその名前を持った人物を知っているわけではないのだが、壁を埋めつくす六千四百三十四人の名前に、いい知れぬ強い力を感じたのだった。
 私は十四年前の一月十七日を思い出す。今もつづいている法隆寺参籠をした最初の年で、十六日に帰ってさて、十七日は少し遅くまで寝ていた。その日は久しぶりに東京の自宅にいる日だったので、これからの仕事の打ち合わせなど数組の来客があり、テレビは見なかった。あの地震を知ったのは夕方近くであった。どのチャンネルを点けても、テレビは地震の報道であった。新聞の夕刊も地震報道一色だ。私はあの大惨事を知らなかったことを一人恥じた。
 正直にあの時のことをいうなら、この世の出来事とは思えなかった。深夜まで茫然としてテレビを見ていた。深夜のテレビでは、犠牲者の名前が次から次へと流れていた。それぞれの人生の流れがあったろうに、それを突然断ち切られた人々のことを考えた。
 テレビに流れる名前は無味乾燥で沈黙に包まれていたのだが、その分リアリティーがあった。悲しみにあふれた名前の力に圧倒され、テレビのチャンネルを消すことができず、いつまでも見ていた。
 東遊園地にいき、六千四百三十四人の名前を見て、私はあの時のことを思い出したのであった。
 あの時のことを忘れたいと思っている人も、記憶していかねばならないと思っている人もいるだろうが、名前に記憶がついてきている。名前の力はあまりにも強い。
 あの地震から一年後に、私はテレビの番組をつくるため被災地を歩いた。どの公園にもそれぞれが勝手に設営したテントや小屋がたくさんあった。電柱から電線を引き込み、テレビや冷蔵庫を置き、応接セットなどもならべて、永住しようとしているかのような人もあった。道路の緑地帯に張ったテントには、家業だった骨董店の商品が仕舞われていた。その商品も雨がはいってきて駄目になっていたのだが、再起を夢のように語る人の話を頷きながら聞いた。番組をつくるという意識はとうに逸脱し、聞くのが人間としてやるべきことのように思えた。
 被害の激甚地をまわると、建物だけはプレハブで復興しているものの、商品がわずかにしかならべていない商店が軒を連ねていた。サンダル等の加工工場再開にそなえ、新品のミシンを家の中に一台だけ購入して準備している人がいた。雄弁に語る人も、話しかけてすぐ沈黙してしまう人も、問いかけると怒りだす人もいた。私は言葉には耳を傾け、沈黙には沈黙をもって向き合っているよりほかになかったのだった。
 今回私が神戸の泉遊園地にいったのは、法隆寺での行いを終えた翌日の二〇〇九年一月十五日の夕刻であった。犠牲者の名が刻まれている部屋は池の下にあり、天井は池の底から透明板で隔てられている。すでに夕闇が寄せていたので池の水を通して天井から降りてくる光の量は少なかったが、その分幽玄な雰囲気をたたえていた。
 私はその名前の一人一人を読んでいった。名前が墓碑名と見えた。深い悲しみに、突然襲われた。

「100万人のふるさと」2009年 新春

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