はじめての老い「スタートとゴール」
 老いといわれて、正直、我ながら驚くところがあった。私は表面では老いという自覚はほとんどない。この原稿も、那覇のホテルでの朝に書きはじめた。昨夜は沖縄料理の宴会をし、うまい泡盛や沖縄そばの議論になり、私が那覇にくるとなんとなくいく国際通りのそば屋にいき、閉めかけている店を開けてもらった。その前日は高知にいた。その日、有機農業をやっている人の畑を見学し、その晩みんなが高知の酒場に集まって四万十川の栗焼酎を飲んだ。高知で彼らのグループ主催の講演をし、那覇でも日本ペンクラブ関係の講演をすることになっている。間に一日移動日があり、予定を立てた時に高知から那覇への直行便があったのだが、この月から廃止になっていた。仕方がないので福岡経由でやってきた。
 羽田空港の待合室から連載小説の原稿を書きはじめた。私は相変わらず万年筆で書いている。職人として生きているつもりなのだが、編集のシステムもパソコンで入稿するようになっていて、手書き原稿は編集者に手間をかけることになることは、よくわかっている。少しでも時間があれば、学生時代から愛用している市販のB5判の横書き用の原稿用紙を縦にして文字を書いている。飛行機の狭いテーブルではちょうどよい大きさだ。日本国中たいていどこでも買える原稿用紙のはずだが、原稿用紙そのものが消滅しかかっているので、死ぬまでの分とまではいかないが大量に買い込んである。万年筆そのものが少数派の道具になったので、インクがなかなか手にはいらない。したがって旅先にはインク壜を持っていくということになる。
 それに旅には必ず電気スタンドを持参していく。最近のホテルの多くはくつろぐためだけに設計されていて、全体的に暗いのだ。高級ホテルならば電気スタンドは貸してもらえるが、ビジネスホテルではありませんといわれる。昔田舎の民宿で電気スタントを所望したら、小学生が勉強用に使うものを持ってきた。使っていた最中だったかもしれない。もちろん返したが、こりて、それ以来小型電気スタンドをザックにいれて旅するようになった。クリップライトで、魔法壜を台とすれば、立派なライティング・ライトになる。会津若松のパチンコ屋の景品でとったクリップライトが使い心地がよく二十年使ってぼこぼこになっていたがことのほか気にいっていた。それか最近なくしてしまい、ホームセンターで新しいものを買って使っている。
 そんな道具を持って旅をし、わずかな時間でも見つければ原稿用紙をひろげて万年筆を走らせ、宴会がはじまる前の那覇のホテルで今月分の連載小説を一本仕上げたのだった。タイトルは「良寛」で資料も必要なので分厚い本を何冊かザックにいれて持っていく。
 三十歳代の半ば以降も、四十歳代も五十歳代も、国の内外を問わず私はこんな生活をしてきたのである。外国にいく時は、クリップライトの電源に小型変圧器さえも持っていく。わずかな時間も惜しいのである。
 三十歳代と外見はあまり変わらない生活をしているつもりの私は、老いたのだろうか?
 そう自問してみる。窓の外には那覇の街が広がっている。沖縄がアメリカ軍政下にあり、ベトナム戦争の後方基地になっていた沖縄に、私は十代の終り頃からやってきている。アメリカ兵相手のナイトクラブで働いたり、離島の砂糖キビ畑で働いたりしてきて、四十年以上の歳月がたった。その四十年が私の身の上に加算されるのだから、当然のこと老いたというほかはない。
 私は昭和二十二(一九四七)年十二月十五日生まれで、平成二十一(二〇〇九)年二月十日この連載を書きはじめた時点では、当年とって六十一歳である。六十一という数字を書き、年をとったなと思わないわけにはいかないが、たとえばあと五年たったら、あの時は若かったなと思うのであろう。「はじめての老い」という連載を頼まれることか、老いはもちろん誰にもはじめてやってくるのであろうが、老いた証拠だ。ちなみにこのタイトルは私がつけた。この文字を実際に書いてみて、私はまだまだ若いぞという未練のようなにおいを感じないわけではない。
 「昔と同じ気持ちでいるでしょう。昔と同じような生活スタイルは、もうやめたら。自分の年を考えなさいよ。病気になってからでは遅いわよ」
 妻に週に四度も五度もいわれている言葉である。自由業の私は、妻から引退勧告を受けているのだ。それもそうだなとは思う。
 「お前、急に楽をしようと思うとボケるぞ。無理をしろとはいわないが、健康でいられて、できるなら、できなくなるまでつづければいいじゃないか」
 冗談めかした形ではあるにせよ友人に相談すると、こんな答えが返ってくる。
 妻は私の健康を案じてくれて、男性である友人は社会性を重んじているのだろう。私の現実にいくべき道は、きっとその中間にあるのだと私自身は思うのである。
 老いとは自分のいくべき道を変更することかもしれない。外的条件で無理に変えられるより、自覚して変えていければよいのである。だがその自覚するということまでの距離が遠い。
 およそ十年前のことである。私は五十歳を出るか出ないかの頃であった。自分白身に老いなどまったく感じない時代のことだ。もちろん青年からも遠く隔たっている。
 大学の同級会の案内が届いた。私が在籍したのは早稲田大学第一政治経済学部経済学科で、私自身は経済人の道からは大きくはずれてしまったが、同級生たちはほとんど企業人として働いていた。沸騰するようなバブル経済は膨らみすぎてはじけていたが、そのバブル経済の先兵として世界中を駆けまわった活力は失ってはいなかった。私たちは壮年まっしぐらという感じであった。
 大学内のある施設に集まったのだが、私は少し遅れていった。遠くの席に二十人ほどの団体がいて、それは私の同級生ではないと思った。全体の印象でいえば、白髪かハゲで、腹が出ている人が多かったからだ。十歳ぐらいは年上に見えた。私はそこを避けていき、係員に問いあわせて、またその場所に戻っていった。改めてよくよく見ると、二十年ぶりぐらいで見る同級生たちの顔があったのだった。
 私は自分の姿をしみじみと見たことがない。老人と見えるその団体にまじって、なんの違和感もなかった。老いに対する私の自意識と、実態との差を、しみじみと知ったのであった。老いに関する自意識とはそんなものであろう。そして、そのことは今もまったく変わらない。
 あの当時、友人の多くにはまだ脂ぎったような気分が残っていた。今どんな仕事をし、どんな立場にあり、その仕事はうまくいっているのかと、探るような気配に満ちていた。また収入はどのくらいあり、どのような環境で仕事をしているのかと、興味津津であったのだ。競争心でギラつくほどであった。
「どうもX Xは役員になりそうだという噂じゃないか。実際のところどうなんだ」
 こんな言葉があっちでもこっちでも聞かれた。五十歳ともなればサラリーマンとしでは晩年で、定年も視野にはいってくる。六十歳定年になれば嫌でも応でも会社を去らなければならない。役員になれば、それからまだ数年は会社にいることができるというわけだ。つまり、最終ゴールに向かってのスタートが切られていたのだった。
 小説家で、原稿を一枚いくらかで売って生活している私は、一般のサラリーマンの競争のらち外にいる。定年というものもない。時がくれは、一人で静かに去っていくだけのことである。年齢で示される時がこなくても、書くことがなくなれば黙って去っていく覚悟はできている。
 つまり、まったく違う世界で生きている私には、同級生たちの話はつまらなかったのである。彼らにとってそのことがいかに切実であったとしてもである。趣味の話とか、夢の話とか、せめて家族の話でもできないのかと思ったのだった。
「今度みんなでゴルフをやろう。ゴルフ場でクラス会をやろう」
 趣味の話には違いないが、こんな提案もでた。私はゴルフはまったくやらないので、そんなプランに乗るつもりもなかった。
 それから毎年一度ぐらいは同級会をやっていたことは、案内をもらうので私も知っていた。私はいつも欠席の返事を出した。
 そして、十年がたち、私は六十歳になったのである。私は十二月生まれだから、間もなく六十一歳になろうとする十一月であった。同級生たちは浪人を経験してはいってくるものがほとんどで、中には三浪もいる。現役ではいったのは二人か三人である。そのうちの一人が私であった。熱心に誘ってくれる同級生があって、私は顔を出してみることにしたのだった。
 白髪、ハゲ、デブは前と同じで、当然前よりも進んでいる。私は白髪が増えたことは間違いないが、全白髪というほどではない。ハゲではないし、標準体重をかろうじて保ってもいる。もちろん同級生の間にいてなんら違和感もない。それなりの外見ということだ。
 同級生たちの半数は、定年を迎えてリタイアしていた。中には重役になったものもいるし、トップになったものもいる。階段をあと一つか二つか登りそうなものもいたし、海外駐在をして休暇で帰ってきたものもいた。それでも全体の雰囲気は明らかに変わっていたのだ。
 競争心がなくなっていた。まわりをいたわる親愛の気分に満ちていた。年をとるということは、角がとれて柔和になることだと私は思ったのだった。
 話の内容も昔と違っていた。子供たちが結婚しないで家にいて困っているというのだ。お互いにちょうどよい息子か娘がいないかと、冗談半分でいって笑いを誘った。
 三十歳半ばを過ぎ、四十歳近くになっても結婚しない子供たちが、私たち団塊の世代の大きな悩みだ。しかも、親のもとで生活し、家から職場に通う。生活費は親がかりだから貯金があり、時々海外旅行にいって楽しんでくる。結婚しても子供をつくらず、夫婦で人生を楽しんでいる。
 子供をつくらず、刹那的な楽しみに溺れていたのでは、将来のこの国はどうなるのかと心配するのは、年寄りの冷水(ひやみず)というものである。年寄り自身も、孫を抱きたいのである。ところがそれ以前で止まっているのが現実なのだ。
 もちろん同級会でそんな相談を受けたところで、どうなるものでもない。だが多くの友が同じことを訴えるので、驚いた。ちなみに私たち夫婦には一男一女がいて、それぞれが結婚し、兄は四人、妹は一人子供をつくっている。五人の孫がいるのだ。そんなことをいえる会の雰囲気ではなかった。
 競争心を捨てて穏やかになった、もっといえば好々爺(こうこうや)になった同級生たちを見て、私はある感慨を持った。大学を卒業して同じスタートラインに立ち、四十年間激しい競争に明け暮れ、また同じゴールラインにはいってきたのだ。結局のところ、人間は皆同じだということだ。役員になったとか、給料が高いとか、そんなのはたいしたことではない。こうして同じゴールにはいった、もしくははいりつつあるということが、大事なのである。同じならば、お互いに親密の感情を持つのは当然だ。
 仏教に同事(どうじ)という言葉がある。勝鬘経(しょうまんぎょう)に出てくる、人が生きる上で大切な四つのこと(四摂事(ししょうじ))は、布施、愛語、利行、同事である。この四番目の同事は、どんなに自我を持って自分だけは別格だと思ってみても、結局のところ人はみな同じだというのだ。かの釈迦は人間として悩み、どのようにしてその苦しみを越えるかというその道を示してくれるため、人間として他の人間とまったく同じように生きて死んだという。その生き方と死に方を見せてくれたのが、同事の参学という。
 みんな同事を生きているということだ。それはつまり、みんな同じように年をとり、同じように死んでいくということである。老いとはそのようなものだ。例外はない。
 老いの自覚がなくても、確実に老いているということである。それが同事なのだ。

「年金時代」2009.4月号