すり減った顔の下の微笑 | |||
北海道の西海岸は円空仏や木喰仏の多いところである。 日本の仏教には大きく分けて二つの流れがあると、私はかねがね考えている。法隆寺や東大寺に代表され、天皇や貴族や武士や国家などの権力者によって建てられた大伽藍を擁する国家仏教と、もう一つは行基に代表される聖(ひしり)の系譜である。聖は身一つで民衆の中を遊行し、一人一人が名を残したわけではないが、人々の間に深い影響を残している。 遊行聖(ゆぎょうひしり)の中で、作仏聖と(さぷつひしり)呼ばれる廻国聖(かいこくひしり)たちがいた。その代表が生涯一万二千体の仏像を刻んだ円空てあり、微笑仏の木喰行道(もくじきぎょうどう)だ。彼らはそのへんの木っ端に仏を刻んでは旅をつづけたので、残された仏によって、彼らの遊行の行程が明らかになる。私は二人の作仏聖の跡を追って何度も旅をした。 円空が蝦夷地渡りをしたのは、三十五歳から三十七歳の頃で、人生のうちで最も力のみなぎっている時代であった。だがその寛文六(一六六六)年から寛文八(一六六八)年の頃は、作仏聖としてはまだ初期である。 私がその地にいったのは、円空の時代からは四百五十年近くも後のことである。かつてこのあたりが和人のはいることのできる北限であり、そこから先は蝦夷地であった。円空は東海岸の熊石(くまいし)にも、西の天涯である有珠(うす)にも足跡を残し、そこに仏を安置している。 熊石歴史記念館にいった時、私は衝撃的ともいうべき体験をした。ガラスケースの中に、ぼろぼろになった木彫の仏像が納めてあり、来迎観音と札が出ていた。顔などすり減って表情はまったくわからなくなっているが、衣紋や蓮台などは刻んだ筋がわずかにわかり、円空仏であるとの判断がつく。 館長の厚意により、私はその観音像を持たせてもらった。乾き切った観音像は骨のように軽かった。その軽さも、触感として私には衝撃だったのだ。 顔はすり減ってのっぺらぼうである。胸にも無数の傷がついている。本来ならもう打ち捨ててしまってもいいようなものだ。 そうではあっても円空仏であることには誰も疑いをいれることはできない。 何故ここまでぼろぼろになってしまったのか。この仏は一身に人の苦しみを背負ったのである。それが円空自身にとっては生き方の上での望みでもあった。 円空が訪れた時代のその場所は、海岸線に鰊場(にしんば)が開かれて間もなかった。一攫千金(いっかくせんきん)を求め、 内地から人々が殺到したのてある。鰊が産卵のため浜に寄せてくる春の群来(くき)の季節には、人も浜に押し寄せ、海岸線には鰊場が開かれた。その鰊は食料ばかりでなく、乾燥されて乾健(ほしか)に加工され、肥料となった。全国的に篤農家によって農業の改善が行われ、藍や木綿や麻などの特産物がつくられ、乾鰊はその根底となる金肥(きんび)とされた。遠い蝦夷地の鰊漁が、全国の農業生産を根底から支えていたのである。 漁民がたくさん集まれば、鰊蔵(にしんぐら)ばかりでなく、鰊売屋や泊り宿などもならび、銭が飛び交う。三味線の音なども鳴り響いたであろう。その中心が熊石よりやや南に下った江差であった。 鰊は季節のものだから、漁民たちは出稼ぎ人が多い。幼子を含めた家族ぐるみでくる人もあっただろう。銭が動けば商人が集まり、掛売屋という一杯呑屋がならぶ。そこには遊女もいたから、血気盛んな漁師たちの間では喧嘩もおこり、刃傷沙汰もしばしばであったろう。 衛生状態がよいはずもないから、当然伝染病が発生する。記録によればチフスと麻疹(はしか)が大流行し、子供を先頭にして人がどんどん死んでいった。医療もなかったろうから、人は祈るよりほかに方法はなかった。 子供が列をなして死んでいく地獄絵の中に、廻国聖の円空も、その約九十年後に訪れた木喰行道も、自らすすんで旅をしていったのだ。彼らのできることは、木っ端に仏を刻んで人々の中に残していき、あとは仏におまかせすることだ。ことに木喰行道は、この土地にきて六十一歳で突然仏を彫りはじめている。 熊石の隣りのせたな町には太田権現という岩窟になった霊場があり、円空が彫って納めておいた仏たちを、木喰行道が見て大いなる衝撃を受けたのだといわれている。木喰行道は太田権現から江差への街道沿いの寺に、はじめて彫った子安地蔵を残している。それは技術もない稚拙といってもよい素朴なつくりなのだが、切実さが籠っている。彫っているのはすべて死んだ子供を阿弥陀如来のもとに連れていくという、子安地蔵である。地蔵菩薩は阿弥陀のように如来にもなれるのだが、救っても救っても救いきれない衆生を救いつづけようと、菩薩として地獄にとどまろうと誓願した仏である。ことに子供を救う子安地蔵をつくりつづけた木喰行道は、死んで地獄にいく子供をたくさん目撃し、なんとか救いたいとの誓願のために作仏をしたのだと私には思える。 江戸時代の旅行家菅江真澄は、太田権現の岩窟にたくさんの円空仏があったことを記録している。木喰行道に深い感銘を与えた後、その円空仏は消滅している。石窟で修行をした行者が、厳しい冬の暖をとるために薪木として燃やしてしまったのかもしれない。円空にとっては、そうされることも衆生への功徳だと考えるのではないだろうか。 円空の旅も、熊石歴史記念館ののっぺらぼうの来迎観音によって想像することができる。円空は鉈(なた)を握って、いとも簡単に木の中から仏を彫り出し、惜し気もなく人々に与えたに違いない。そうして彫られた観音菩薩や地蔵菩薩は、若衆たちによって小舟にのせられる。その小舟はベンザイと呼ぶ帆前船をめぐり、小銭を強制的に奉納させたかもしれない。もちろんその銭は若衆たちの酒代に消えたことであろう。本人たちは乞食(こつじき)の風体であっても、作仏聖たちのつくり出す仏はそれはそれで畏敬されたはずである。 円空が彫った観音菩薩にも、深い意味が籠っていると考えられる。円空はこの時期、蝦夷地でたくさんの観音像を残している。この観音は、阿弥陀如来の脇侍で、勢至菩薩とともに三尊仏のうちの一つだ。人が死んで極楽往生する時、三尊が来迎する。観音が死者に近づいていき、蓮台を寄せていく。これが来迎観音である。勢至は手をさしのべ、死者の頭を撫ぜて蓮台へと導く。すると観音が蓮台の上に死者をすくい上げるのである。蓮台は死者をのせていく乗物で、こうして死者は阿弥陀如来に導かれて極楽浄土へと向うのだ。 円空がこの地に観音をたくさん残しているのは、まわりに死にゆく多数の人がいたからではないだろうか。その人々を救うには、三尊仏にお願いして死後に浄土に導いてもらうしかない。作仏聖として、できることを精一杯にやったということである。 来迎観音とは、人々を最終的に救う菩薩である。顔がすり減ってぼろぼろになっているのは、病人や死人をだした家の前を観音像に紐をつけて引っぱりまわし、悪いものを持っていってもらおうとしたからではないだろうか。きっと大勢で観音経を唱え、また御詠歌などを唱えて、村中を引きまわし、最終的には河原から川に流す。円空の彫った仏たちは、苦難を自らの身に背負って流し去る役割を果たしたのである。 川に流された仏は、海に流れ込み、鰊網などにかかる。その仏は、海難事故で亡くなった死者、つまり戎(えびす)さんの身替わりにも見える。戎さんを見ると大漁だとされ、この世に残された人間に福をもたらすとされているのである。戎さんはねんごろに葬られなくてはならない。こうして悪いものを背負って流された来迎観音は、陸地に戻されてもとの神社に納められる。このことを何度も繰り返さなければ、あんな苦難の姿は出来上がらない。 あのすり減った顔は、微笑んでいるかのように見える。私には至上の美と感じられるのだ。 藝術文化雑誌「紫明」第24號 2009.4 |
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