豆腐売りのラッパ
 先日家にいたら、懐かしい豆腐売りのラッパが響いてきた。突然だったので買いそこねてしまい、今度聞こえたら買いにいこうとひそかに心の中で思っていた。
 次に豆腐売りのラッパを聞いたのは、犬を散歩させている時だった。鍋も持っていないし、そもそも財布も持っていなかったから、買いようはなかった。すれちがったのだが、どこか遠いところの豆腐屋が、小さな車を引いて売りにきていた。売る男は、どうも学生アルバイトのような風体であった。おそらく車をそのへんに駐(と)めていて、こんな手の込んだ売り方をするのは、豆腐に自信があるのかもしれない。今度ラッパを聞いたら買おうと思っているのだが、それきりなのである。
 どうも売れゆきが悪かったのかもしれない。東京の都心に近い住宅街で、豆腐をラッパを吹きながら売るなど、今時の若い人には想像もつかないであろう。いいアイディアだと実行をしたものの、結局失敗してしまったのかもしれないのだ。
 私の子供の頃は、豆腐がほしければ豆腐屋に買いにいくか、豆腐屋がラッパを吹きながら自転車でやってくるのを待つかだった。ラッパの音は、今思うとなんとなくものさびしく、派手なところはなかった。それが豆腐の食卓に占める位置に、なんとなくぴったりした。
 豆腐屋にいくにしろ、豆腐売りの自転車を待つにしろ、鍋が必要だった。豆腐屋の大きな水槽には白い豆腐が沈んでいて、腕まくりした豆腐屋が水中からつかんでくれた。大きなかたまりの時は、四角形の包丁で一個分を切ってくれたりした。それを水を汲んだ鍋の中にいれてくれるのだ。他の豆腐はまた深い水槽の底にゆっくりと沈んでいく。
 自転車の場合は、荷台に木製の箱がしばってあり、そこに水がいれてあった。水に沈んだ豆腐はすでに一個分に切ってある。壊れやすい豆腐は、水にいれなければ運ぶことはできない。豆腐自身が水でできているからなのである。  鍋を持って豆腐を買いにいくとは、ごみを出さない暮らしであった。包装紙は、水である。水の中でゆらゆら揺れる豆腐を眺めながら、いい気分で家に帰ったものだ。豆腐はその日にできた分はすべて売り切ってしまい、いつも新鮮だった。
 そういえば小さい車を引いて最近売りにきた豆腐屋は、どのようにして豆腐を渡すのだろうか。まさか鍋を持ってこなければ売らないというのではなく、プラスチックの容器にいれてくれるのだろう。近頃の暮らしは、どうもごみが出るようになっている。

「御堂さん」2009年3月号