幸福だった日
 正月になると、父と母と過ごした子供の頃を思い出す。私の両親は旧満州からの引揚げ者で、戦中と戦後とを時代とともに生きてきたといえる。父が無事に故郷に復員してきて、宇都宮空襲を生きのびた母と再会をはたし小さな家庭をこしらえた時、働いたことが全都自分のものになるという当たり前の喜びを、深く感じたに違いない。そして、前途の希望としてまず生まれた子供が私だったのである。
 私が子供の頃、父は小さな電気工事会社に勤め、母は宇都宮のはずれで小さな食料品店をやっていた。そこは父と母とがやっと建てた家で、座敷は六畳一間しかなかったが、同じ広さの店が表通りに面してつくられていたのだった。
 他に食べものを売る店もないので、母の店は一年中繁昌していた。ことに年末は正月用品を売るので忙しかった。パン屋もやっていたためクリスマスケーキからはじまり、おせち料理用の昆布や寒天や黒豆や飴などが毎日仕入れ先から届けられ、いつもは母と店先でのんびりおしゃべりをしている近所の主婦たちが、顔色を変えて買いにきた。これらの客は夜遅くまでやってきて母は客が去ってからおおせち料理の仕度などにかかるのだった。もちろん弟や私は放っておかれた。夕食を食べさせてもらえず、店に向かった敷居の上に立って客たちをうらめしく見ながら、空腹のあまり私は弟とならんで泣きだしたことを覚えている。
「あら、お宅のお子さん、二人いっしょに泣いてる」
 客の誰かがいい、母がこちらえお向いて他人事のようにいう。
「おや、恥ずかしい」
 母は弟と私のそれぞれの手に、売れ残った菓子パンなどを持たせてくれた。それを食べて弟と私は大人たちがその日の仕事を終わらせ、夕食にしてくれるまで、なんとか我慢することができたのであった。
 父も会社からなかなか帰ってこなかった。自転車えお店の中に仕舞う音がすると、私は安心した。大人たちは年末はどうしてあんなに忙しかったのだろう。
 そのかわり、正月はのんびりした。元旦こそ一年中で一番よい日であった。母が雑煮をつくってくれる。父は宇都宮の人だったのて、元旦には野菜がたくさんはいった醤油味の雑煮がでた。二日は母の祖父が兵庫県の出身なので、昆布を鍋底に敷いて餅をゆで、味噌仕立ての雑煮がでた。
 元旦にでる母のおせち料理は、店で売っているものが多かったが、煮しめや水羊羹などをいつの間にかつくっていた。ふだんと違う御馳走が嬉しかった。
 よそ行きの服を着た私と弟とは、父と母の前にかしこまって正座をしている。
「新年おめでとう」
 父が改まった様子でいい、私と弟は同時に頭を下げる。掌を前に突き出しそうになるのだが、こらえている。
「新年おめでとうございます」
 弟と私とが声を揃えて頭を下げると、父は小さな紙袋に入ったお年玉をそれぞれに渡してくれる。これが子供たちの最大の楽しみであった。
 元旦は父と母とが少々屠蘇を飲み、子供たちも思う存分おせち料理を食べると、宇都宮の繁華街にバスで出かけていった。二日以降は親戚が年賀まわりにくるからである。
 街の中心の小高い丘には二荒山神社があり、人がごった返す中で列をつくって初詣をした後、映画を観る。小さなうちはよかったが、何を観るかで、弟と私はいつももめた。結局は父と母とが別れて付き添ってくれ、弟と私の主張はどちらもかなえられることになる。映画館の中も人でごった返していて、たいてい立って観ることになった。
 映画が終わるとデパートの売り場で待ち合わせをし、そのままデパートの食堂にいった。母は大体着物を着て父もふたん着ない背広を着ていた。夏休みにも一度映画と食事に家族でいったのだが、これらの日が子供たちには最大の楽しみであった。注文するのは、さんざん迷ったあげくに、たいていオムライスであった。
 あれから五十年ほどもたった。父はとうに鬼籍にはいり、今母は病床にある。枕元に立ってもこちらを識別できなくなった母を見舞うたび、私は父と母か生きた満州の小説にそろそろ着手せねばならないなと思っのだ。私には最後の長大な作品になるだろう。
 父と母には、いやその時代を生きたすべての人には、先の見えない暗い時代であった。父はごく普通のサラリーマンだったのたが、徴兵されて日本軍の兵隊になり、上官にはさんざん殴られて人間性をなくし、よくわからないまま酸鼻の戦場に駆り出されていく。多くの死者を目撃し、自らも死線をさまよい、ソ連軍に武装解除される。シベリアに抑留される途中、脱走してくるのだ。どうにかこうにか故郷の母のもとまで逃げてきた。そんな父母の物語を書き上げたい。

図書新聞2009年1月1日(木)

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