足尾の植林
 桜が散り、新緑が鮮やかになってくると、私は足尾への思いを強くする。私の母方の曽祖父は金掘りさんであった。おそらく明治十年代に、兵庫県の生野銀山から、栃木県の足尾銅山に技術と労働力を求められて渡ってきたのだ。
 私は子供の頃、閉山前の足尾の叔父の家に、夏休みとなると遊びにいっていた。足尾の山には木がなく、累累と茶褐色の岩肌が剥き出しになっている。そんな風景が当たり前だと、子供の知識で思っていた。
 樹木の乱伐や精錬所の排出する有毒ガスによって草木が枯れ、表土が流出し、保水力が失われ、足尾鉱毒事件が起こった歴史は、ずっと後になって学校で学んだ知識だ。治山治水のため、源流域を保全しなければならないと明治期に主張したのは田中正造だが、今を生きる私たちが田中正造のやり残した植林をはじめたのは、約十三年前のことだ。今日では「NPO法人足尾に緑を育てる会」のもとに、毎年千五百人以上のボランティアが植林にきてくれる。私はその会の最初からのメンバーで、毎年植林に参加している。
 昨年私が最も感動したことの一つが、私たちが試行錯誤のうちに最初の頃に植林した木が十一メートルにも育ち、秋にいくと赤や黄に見事に紅葉していたことだ。まわりの山々は相変わらず茶褐色の単彩だから、この自然の錦繍(きんしゅう)はいよいよあでやかに見える。正直にいえば主催者の一人のメンバーとして、私は木がこんなにも順調に育つのは遥かに予想を越えていたのだ。
 東京のソメイヨシノが散って山桜が咲く頃、四月二十六日(土)と二十七日(日)に今年も植林をする。誰でもきてよいのである。もちろん私もいく。き上がってきた。こうして親しい人と毎年花見ができるといいものである。

日本経済新聞(夕刊)2008年4月23日(水)

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