線路のある高校 |
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我が母校、宇都宮高校は男子校である。パンカラの気風が強く、高下駄をはいて登校した。高下駄は歩きにくいのて、普段は普通の下駄をはいた。学生服を着て下駄をはいた男子の姿を見れば、宇都宮高校の学生であることはまず間違いなかった。バンカラとは、不潔で、痩せ我慢をすることである。真冬でも素足に下駄をはき、足の指にひびやあかぎれをつくっていた。腰のベルトから手拭いをぶらさげて歩いた。そんなことで意気がっていたのである。 教室の掃除はいいかげんで、授業が終ると私は窓から下駄を持って跳び出し、弓道場へと走った。私は弓道部にはいっていた。弓道場では床をていねいに雑巾がけをし、空拭きで仕上げた。床はいつもぴかぴかで、顔が映るほどであった。これは大袈裟にいっているのではない。弓を引く姿が、水面に映るように板の床に映ったのだ。勉強をする校舎でのバンカラぶりとは、対照的であった。 男子校とはつまり、女子がいないということだ。妄想はいくらでも持ったが、身近に女子がいないので、本心は淋しいのである。同時に勉学にとっては余分ともいえるエネルギーを使わないですんだ。 宇都宮高校は旧制中学の流れをくむ古い高校で、敷地も広かった。なにしろ校庭の真中を鉄道が通っていたのだ。今はしっかりと土手がつくられているが、当時の土手は低くて、校庭から草の中の道を歩いて線路を渡り、第二グラウンドにいくという感じであったのだ。 その鉄道は当時の国鉄日光線で、近くに鶴田というローカル駅があり、臨時列車がポイントの切り換えのためよく止められていた。線路を横切って第二グラウンドにいく時、その列車に邪魔されたのである。 そんな時は迂回していくか、列車の中を通り抜けていくかである。当時の列車は手動ドアだったので、たとえ列車が動き出したとしても、跳び降りればよかった。 列車の中にはいると、女子高生ばかりのことかあった。そんな時には尻尾を巻いて逃げ帰ることが多かったが、級友で蛮勇をふるったものがいて、車内で挨拶をはじめたのだ。 「ようこそ、宇都宮高校へ。右を見ても、左を見ても、宇都宮高校のグラウンドです。つまり、この場所は宇都宮高校ということなのです。これから日光にいかれるのでしょうが、どうか宇都宮高校の敷地の中を通っていったことを忘れないでいただきたい…」 たわいもない挨拶を大声でして、お菓子をもらってきた級友がいた。それからは何人かが同じことを試み、成功したり相手にされなかったりした。私はどうしても蛮勇をふるうことができず、せいせいが車内を通り抜けていくくらいであった。私は気の弱い硬派の学生だったのだ。 弓道部では初段をとり、日光の中禅寺湖畔にあるニ荒山神社中宮祠の扇の的弓道大会に出場したりした。日光と赤城の神が戦い、豪弓を射った日光の神が勝利をおさめたという古い伝説がある。また源平合戦で郷土の那須与一が沖に浮かべた小舟に立てた帆柱の上の扇を射ち抜いたという故事にもとづき、その両者が合わさって、中禅寺湖沖の小舟の帆柱の扇を射る。もちろん船上に女官がいるわけではない。会場の中禅寺湖までは遅れるといけないのでバスでいったが、帰りは時間の制約もないので、弓を担いで高下駄でいろは坂を歩いて帰った。もちろん遠くの的には誰も命中できなかった。 弓道部は一年生の終わり頃に辞めた。自分の中にどうしても才能を認められなかったからた。私は写真部にはいった。市内のデパートのバーゲンコーナーや、観光地の日光東照宮にいき、人が夢中の表情をしたスナップを撮るのを得意とした。撮影したフィルムは自分で現像し、自分で印画紙に焼いた。私は写真部の部長になり、宇都宮市や栃木県の芸術祭に出品して何度も賞をとった。私はカメラマンになりたいと夢見るようになった。 その頃、私は校内の図書館にいっては、小説をよく読んだ。夏目漱石、森鴎外、島崎藤村、ドストエフスキー、バルサック、カフカ等々、内外の古典を書架から手当たりしだいにつかみ、なんとなく読んでいた。なんとなく心ひかれるものを感していたからた。このなんとなくという感じが、大切なのである。これを読んだから、教養がついたり、友人との議題が豊富になったり、現代国語の力がついたりという、はっきりした目的意識に基づいているのではない。読書というものは、自然と血や肉になっていくもので、すぐに何かの効果があるということではない。 そうではあるのだが、いつしか人生の豊かな素養になっている。弓道部や写真部にはいったりというように現実的かつ具体的な目的のためではなく、なんとなく読みつづけるということが大切なのだ。結局私はカメラマンになるという夢は果たせなかったが、読みつづけてきた本が、まったく別の道に導いてくれたのである。 「読売への招待」 2007年5月号 |
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