寝るのが極楽
  福島県二本松市の安達太良山に登ってきた。月刊雑誌「岳人」に連載中の「百霊峰巡礼」の取材のためである。安達太良山の麓にあるのが岳温泉であるが、本来は安達太良山とならぶ鉄山の山頂のすぐ下にあり、湯日温泉と呼ばれていた。湯屋があり遊女がいて、たいそう栄えた温泉場であった。
 文政7(1824)年8月15日に豪雨のため、鉄山の一角が崩壊し、湯小屋11軒が流され、二百数十人の死傷者をだすという大惨事になった。別の場所に再建され、そこも大火にみまわれ、現在の場所に岳温泉が再建されたのは明治39年のことであった。
 その日は素晴らしい秋晴れで、気持ちのよい登山であった。前の晩は温泉宿に泊まったのだから、いつもなら湯で汗を流して帰るのが普通である。だがその日は、私は宇都宮に一刻も早く寄りたかった。新幹線が宇都宮を通るので、黙って乗っていることはできない。母が脳内出血で入院しているのである。
 福島に出て新幹線で宇都宮までくる。駅前でタクシーを拾って市内の病院に着いた時には、あたりは真暗である。外来の病棟に人影はなく、入院棟は看護帥たちが忙しそうに動きまわっている。
 母はいつもの病室に、いつもの通りにいた。私がそばにいっても、こちらを認識しているかどうかわからない。脳内出血で倒れ、もう8ヵ月にもなる。洗濯など普段の世話は地元に暮らしている弟夫婦がやってくれるし、完全看護体制なので、私にはやるべきことはない。母の名を呼び、ベッドの横に椅子をだして座り、母の手を握っているだけだ。
 そうして弱り切った母を見ていると、若くて元気だった頃の様々なことが浮かんでくる。街はずれに小さな食料品店を開き、朝から晩までよく身体を動かして働いていた。夜布団にはいると、寝るのが極楽、寝るのが極楽といっていた。その声が耳元に蘇ってくる。
絵:山中桃子
BIOS Vol.60 06.11.20