中上健次、初対面から
 中上健次とはじめて会ったのは、新宿の風月堂であつた。私は河出書房新社の編集者金田太郎から、同時代に才能豊かな作家がいるから会って、おいたほうがいいだろうといわれ、お互いの知っている場所として選んだのが風月堂だったのだ。今思えば風月堂は、フーテンの溜まり場といわれ、前衛芸術家の議論の場として当時の世相を表わした有名な場所であった。いわば思わせぶりな場所であったのだ。
 中上健次にしろ私にしろ、初対面にそのような場所を選ぶのは、他の場所を知らないということはあるにせよ、お互いに一種の見栄を張っていたのだろう。後に中上のエッセイを読んで、新宿のジャズ喫茶「ピットイン」や「ビレッジベンガード」あたりに出入りしていることを知るのだが、私もまた山下洋輔トリオの早稲田大学のバリケード内での演奏を、マイナーレーベルでレコードにしたりしていた。同時代を生きているそんなにおいを感じていたから、お互いに風月堂で待ち合わせたのだろう。
 遠い私の印象では、彼は立って私を待っていた。膝の抜けたズボンと、汚れたバックスキンの靴をはいていた。上着もよれよれのブレザーで、どう見ても裏ぶれた姿なのだが、顔はにこにこしていた。笑うと目が細くなる人なつっこい表情が印象的であった。私もジーンズにジャンパーを着て、どのみちよれた格好をしていた。
 私は中上の「日本語について」や「灰色のコカコーラ」や「鳩どもの家」を読んでいて、これがあの作品の作者なのかと思うと、自分の世界観を楯に世の中のことを斜に構えていなすのではなく、彼なりに正面からぶつかって満身創痍になつていく主人公たちと重なって見えた。格好だけのいかがわしい連中がたむろする新宿の風月堂で、本当のものがここに裸で立っていると思え、痛々しいような気分になったことを、いまは微かに思い出すことができる。
 その後何度も会い、お互いの作品を読むにおよんで、当然彼のことを深く知る。昼間、彼は羽田空港のフライング・タイガー社という航空貨物会社でフォークリフトの運転手をやり、私は時折寄せ場の山谷にいき、身体から火の出るような肉体労働をしていた。中上は「文藝首都」に拠って小説を書き、私は「早稲田文学」に拠っていた。つまり、似たような生活をして言葉の表現をしたいという同じ強い思いを抱いていたのだ。
 そんな雰囲気を編集者金田太郎はよく察知し、二人にまともな原稿を書かそうとしていた。お互いを紹介するというのも、刺激を与えようとする編集者なりの考えによるのであろう。だが編集者の引き合わせ以前に、同時代にものを書き出した中上健次という男に、私は同志的な思いを抱いていた。そんな空気が根底にあったからこそ、新宿の風月堂での初対面という設定は、それなりに意味があったのだとも思える。
 その時に何を話したのだったかは、まったく覚えていない。どんなことを話すかというより、あの時が初対面だったなという印象が生々ましい。
 それからは何度も会う機会があった。編集者が間にいる時もあったし、いない時もあった。いわば、その時が彼との蜜月の時代だったのだ。会えば、お互いの作品の批評をしあった。彼の批評家としての資質は天賦のもので、数行読んだだけで全体を掌握してしまうというようなものである。そのたび私は彼と酒場の片隅で批評をしあったりしたが、百戦百敗である。彼のための文章を書いているから、こういうのではない。本当にそうなのである。
 二十歳代半ばの時、私は生活を建て直すために、故郷の宇都宮に帰ることにした。小説を盛んに書いてはいたものの、生活を支えることなどとてもできなかったのだ。私には女房がいて、子供までもできていた。もちろん彼も同様である。文学を捨てるという気持ちはまったくなくて、田舎暮らしをしながらでも小説は書けるだろうという気持ちであった。
 その時、彼は田舎になど帰るなとはっきりいった。その声が今でも耳に残っている。立松は駄目になると、人にいったことが私に聞えてきたりした。文学至上主義者の彼にすれば、生活の手段を求めるため故郷に帰るという私の生き方が、安易で生ぬるく見えたのだろう。私とすれば、文学はどの場所からでもできる自由自在なものだと思えていたのである。
 私は妻のつくつた弁当を持ち、毎朝歩いて宇都宮市役所に通うという平凡な勤め人の生活をはじめた。書いてはいたのだがなかなか発表することができず、鬱屈した日々を送った。そんな時に、私は彼の「枯木灘」を読み、衝撃を受けた。担当した金田太郎から私も怠けている場合ではないだろうという意味のアジテーションをもらった。私は五年九カ月間勤めた市役所を辞め、長年あたためていたモチーフで小説を書きはじめ、出来た原稿を金田太郎に渡した。それが「遠雷」である。
 中上健次も金田太郎も、いまは亡き人である。私とすれば一人生き延びているなあという忸怩たる思いがないわけではない。
「牛王」4号 2006年7月
熊野JKプロジェクト