私的知床(その4)
エゾシカ
 知床に行って、エゾシカを見ないで帰ることは不可能である。雌ジカはほぼ毎年6月に1頭の子を産む。爆発的な繁殖力で、シカの群れは毎年ほぼ倍になる計算だ。エゾシカは強い雄1頭に雌10頭以上がハーレムを作って暮らす。強い遺伝子だけを残そうと言うのである。
 岩尾別の開拓地跡は、エゾシカをよく見ることのできる場所だ。大正3年に開拓者が入植し、森を伐採して豆やジャガイモを植えた。結局、農業には不向きな土地だと知って、昭和41年に離農した。現在、その場所を森林に戻そうという活動がある。
 昨秋、倒壊した家を眺めて感慨にふけっていると、エゾシカの群れがバリッバリッと草を引きちぎる音を立てて近づいてきた。私はこのシカの群れにどこまで接近できるかと、実験をしてみることにした。
 自分が立ち木になったつもりで、じっと立っていた。一番近くには、小柄な雌ジカがいた。
力の弱いものが、最も危険な所にいるようになっているのだろう。私も横ざまに歩き、じりじりと距離を詰めていく。3mまで近づくと、エゾシカはいかにも面倒な様子で顔を上げないまま遠ざかり、5mぼど間隔をあけた。私は再び近づいていく。3m以内に入るや、群れは私を見ずにまた距離をとる。群れの中央の雄だけが一頭、顔を上げて私の出方をうかがっていた。
 国立公園内は禁猟区のため、エゾシカは撃たれることはない。感情の交換ができるほどに近いこの距離が、エゾシカにとって絶対安全の距離なのだ。
朝日新聞 2006年2月24日