私的知床(その2)
心の中の宇登呂
 私が初めて知床に行ったのは、大学に入った最初の夏で、昭和41年のことであった。20日間ほど北海道内の国鉄に自由に乗れる周遊券を持ち、北海道をほぼ一周した。
 テントを持って行き、日が暮れたらその地に泊まる。”ステーションホテル”が一番多かったが、”パークホテル”も”シーサイドホテル”もあった。どれもが野宿である。今ならホームレスかと疑われるだろうが、時代はもっとおおらかだったのだ。
 そんなふうにして知床にも行った。今は知床斜里と駅名を変えたが、国鉄斜里駅でディーゼルカーを降り、斜里バスに乗って知床に行った。先日、その話を知床の地元の人にしたら、道路は宇登呂まで開通して間もなく、ボンネットバスだったろうと言われた。砂利道がよく崩れるので、運転手と女車掌がスコップで修埋しながら走った。時間も正確には運行できていなかったということだ。
 おそらく私の行く数年前まではそんな状況であったはずだ。道路も今の海岸線ではなく、山のほうを通っていたり海岸を埋め立して道路をつくると、山と海との連続性が途切れる。生態系が分断されるのである。
 現在は鉄筋コンクリートの近代的なホテルが並んでいる観光地、宇登呂も、当時は屋根に石をのせた漁師の貧しい家が身を寄せ合った寒村であった。ただ海は魚やウニがよく見え、宝石のような美しさであった。あの海は、心の中にあるだけだ。私たちが大切なものを捨ててしまったのが、ここにくるとわかる。
朝日新聞 2006年2月21日