流氷 神々しい営み
 一晩中、海が荒れ騒いでいることがある。風と波の音の中に、氷と氷とがぶつかち合う騒然とした重厚な音がまじっている。夜中に目覚め、鈍いその音を聞くと、いよいよ流氷が前の海までやってきていたのだなあと厳粛な気持ちになる。知床での冬の体験である。
 朝起きると、外にでてまず海の見えるところにいく。そこは夕日が沈む時壮大な風景を見せてくれるところなのだが、その朝もまた自然のあまらにも荘厳な営みに私は沈黙する。海がなくなち、見渡すかぎち一面の大氷原となっているのだ。本のページをめくったかのように、風景はまったく変わっている。流氷はそんなふうにして知床にやってくる。
 流氷に私が学んだことは多い。流氷は力に満ちあふれて美しいというだけではない。はじめの流氷はアムール川河口から沖にでき、アイスアルジーという植物プランクトンを閉じ込める。春に溶けると、それを餌に動物プランクトンが大繁殖し、サケやマスやスケソウダラの稚魚や多くの海の生物を養うのだ。オホーツク海は流氷のおかげで豊かである。流氷ができる際、塩分を排除する。濃塩分の重い水が海底に沈んでいき、それが深海水となるとも、最近の研究で究明されてきた。
 かつては人に畏(おそ)れられていた流氷だが、知床の自然の豊饒さの根底を支えているのだ。自然にはまったく無駄がない。流氷のことを知れば知るほど、神々しい営みが感じられてくる。だから流氷は美しいのである。
週刊ポスト 2006年3月10日