毘沙門天の夢
 知床に私は勧進元として、毘沙門天を祀った。斜里川の河口を浚渫(しゅんせつ)していた際に海底の泥の中からでてきたハルニレの木を運び、東京の仏師に毘沙門天を彫ってもらった。東京下谷の下谷七福神のうちの毘沙門天を祀る法昌寺で和尚に魂をいれてもらい、知床でみんなで手づくりしたお堂にお祀りした。
 やがて隣りに奈良の法隆寺から聖徳太子像をいただいてきて聖徳太子殿をつくり、またその隣りに法隆寺から観音像をいただいて観音殿ができた。毘沙門天が聖徳太子と観音菩薩を呼び寄せたのである。
 法華経の観世音菩薩普門品(観音経)によると、観音は
毘沙門天を信仰するものには毘沙門天の姿をして現われると書かれている。また法隆寺では聖徳太子は観音の化身としてこの世に現われたので、上宮化身観音菩薩との呼び方をする。したがって、毘沙門天を祀つたことは、観音を祀ったと同じことだともいえる。
 御利益をいただこうとして毘沙門天を祀るお堂をこしらえたのではないにせよ、私にとって毘沙門天はなんとなく親しい存在である。七福神の乗った宝船でやってきた毘沙門天にひょいと手を引かれ、私は宝船に乗った。
 なんだか幸福な気持ちになったのは、大黒天と恵比寿天の福々しい笑顔を見た時である。海を見ている時でも、空を見ている時でも、またお互いの顔を見ている時でも、笑顔を絶やさない。他の諸天も同様である。よくもこんなに笑顔をつくつていられるなと、私は感心した。
 弁財天は可愛かった。美人の笑顔もよいものだなと思って見とれていると、毘沙門天が声をかけてきた。
「どこかいきたいところがあるか。この宝船のいくところ、どんな嵐でもおさまる。したがって、まったく揺れない。どんなに遠くでも、ひと飛びだ」
 毘沙門天にいわれて気づいたのだが、本当にこの宝船はまったく揺れない。夢の中をふわふわと漂っているようなのである。私はどこにいきたいのだろうと自分自身考えていた。できたら家でごろごろしていたいのだが、そんなことをいおうものなら毘沙門天に叱られそうだった。
「そうか、わからないのか。それならわしが連れていってやろう」
 毘沙門天はこういうのだが、宝船は向きを変えた様子もないし、速度を上げた様子もない。七福神たちは日だまりのようなところで、相変わらず笑顔を交わしあっているばかふりである。
 ところが宝船はどんどん走っていく。水のないところは、空を飛んでいく。宝船は街の上にいた。なんだか見たことのある街だなと思っていると、私の家があった。小さな家だったが、自分の家は見間違いないものである。宝船はどんどん小さくなり、猫の通り道としていつも開けてある窓から中にはいった。自由自在な宝船に乗っていると、私の身体も大きさが自由になる。これならどこにいくのも自由自在だなと思う。
 見慣れた女性が、台所に立って包丁で野菜を刻んでいた。私の妻だった。二十五歳は若くて、三十歳代の前半ぐらいだった。この女に恋をして結婚したのだなと、私は思い出した。なんとなく幸福な気分が甦ってくるのであった。
 ふと気がつくと、ここは今暮らしている東京の家ではなくて、昔住んでいた宇都宮郊外の家だった。そばに小さな子供がいた。積木で一人遊びをしている。全体の姿がどこかで見たことがあるなと思っていると、自分の娘ではないか。積木を積んでは崩して飽きない娘の姿を、私はしばらく見ていた。
 庭にでると、幼稚園生ぐらいの息子が、近所の子供と泥遊びをしていた。頭から泥だらけであ。妻はまだ気づいていないのだが、このことを知ったら怒るだろう。息子をつかまえて裸にし、着ていたものを洗濯機に放り込む。妻のその手つきが見えるような気がするのであった。
 私は北向きの四畳半にいってみた。そこが私の書斎だ。机に私がついて、なにやら真面目な顔をして書きものをしている。まわりには見たことのある本が積んである。一生懸命にペンを動かしている自分の姿を、私は黙って見ていた。
「どうした。見たか。お前が一番幸福だった時代だよ。自分では不遇をかこっていたろうが、ひたむきだった。子供たちもそばにいて、お前のことを尊敬していた」
 毘沙門天の声がした。本当にそのとおりだなと私は思った。小さな幸せが、確かに身のまわりにあった。毘沙門天はじめ七福神は、過去の私たち家族をにこにこして見ていた。私はもうしばらくの間、ここにいたいと思った。
「遊歩人」2006年1月号