この本に出会った
『ブッタのことば』中村元訳(岩波文庫)
 人生を決定づけた一冊を選べといわれたら、私は中村元さんの訳された『ブッダのことばースッタニパータ』を避ぶ。これが私に深い影響を与えた一冊である。
 二十三歳の私は、人生に迷いに迷っていた。小説を書いて生きていきたいと願っていたのだが、なかなかそうもいかず、人生の方向を転換して就職でもしなければならないかと悩んでいたのだ。定職がないのに、妻がいて、子供が生まれようとしていたのである。
 悩んだあげく、結諭もでないまま、私はインドにいくことにした。インドに青春を捨てにいくのだと格好をつけてはみたが、要するに逃げたのだ。ザックを担いでいくバックパッカーの旅で、一冊だけ文庫本を持っていくことにした。何度も読める本で、しかし、まったく歯が立たないというのでも困る。書店で迷いに迷ったあげくに一冊選んだのが、この木であった。
 朝目覚めたインドの安ホテルのベッドの上で、街の食堂の汚れたテーブルで、私はジーンズのポケットにいれていた本を取り出しては、ページを開いた。
 「五六 貪る(むさぼる)ことねく、詐る(いつわる)ことなく、渇望(かつぼう)することねく、(見せかけで)覆う(おおう)ことねく、濁りと迷妄 (めいもう)とを除き去り、全世界において妄執のないものとなって、犀(さい)の角のようにただ独り歩め。」
 たとえば短い文章でこのように書かれている。ブッダが身のまわりの弟子に語った言葉で、原始仏典である。実際のブッダの言葉に最も近いとされている。それを中村元さんが美しい日本語に直したのである。
 平易な言葉なのだが、意味は限りなく深い。私はブッダと、その教えである仏教と出会ったのだ。インドから帰ってからも、三十四年たった現在も、私はこの本を読みつづけている。汲(く)んでも尽きない泉の水は、今も私には新鮮だ。
産經新聞平成17年10月2日