上質の夢から醒めた喜び
小栗康平監督作品「埋もれ木」
 静かな夢を見ているような作品である。
 どことも知れない山に近い町には、時代の底に捨てられたようなマーケットがあり、豆腐屋や魚屋がめったにこない客を待って商売をしている。時間は止まったようで、たまに人がくるたびまたわずかに動くかのようだ。
 そんな街で、大人は過去と結びつきながらそれなりの生き方をしているのだが、少女たちは自分の居場所がよくわかっていない。そこで現在から未来に向かって静かに流れていく時間に向かって手をのばすように、物語を夢のように紡ぎだす。
「ある日町のペット屋さんがらくだを買って、町にらくだがやってきました」
 語ったとたん、本当にらくだがやってくるのである。少女たちは尻とり遊びをするように、空想をお話にしている。するとたちまち湖の底に捨てられたような現実の中に、膜が破れて水が流れ込むようにして、夢がやってくるのである。夢が現実の中に溶けていくような物語が、小栗康平監督ならではの丹念な描写によって綴られていく。
 世捨て人のようなマーケットの大人たちにも夢があり、彼らの夢は過去と結びついている。滅びを約束されたようなマーケットで商売をしていながら、不安などという現実性からはほど速く、ここに存在しているというだけで満足している。それは夢だからだ。夢がつながっているのは、過去現在未来という時間軸ではなく、こことは違うほかの世界である。夢とは、他界へと誘う力のことだ。
 少女と少年とは廃屋になった写真館にいき、全員が同じくこちらを向いている記念写真を見る。過去にこの場所にならんだ人たちが見つづけているのは、現実の向こう側の世界である。
 夜の学校、途中で工事が終ってしまった道路、それらは異界への入口なのである。それら一つ一つをていねいに描き、映画を観ることは夢を見るのと同じだと感じさせるのが、小栗康平の手法だ。私たちは夢を見るように映画の中に遊べばよい。
 少年少女と大人たちが出会うのは、大雨のあとで地中から姿を現した太古の埋蔵林(埋もれ木)においてである。らくだも鯨も象も、この場に存在することが喜びだというように集まってきて、カーニバルになつた。賑わう人々のうちに、間違いなく私たちがはいっている。
 いつの間にか私たちは小栗康平の夢の中に生きているのである。見終わってから、上質のよい夢から醒めたような爽快な喜びに満たされた。
下野新聞 平成17年9月13日(火曜日)