猫のひげ「雑草は強く美しい」
 雑草と呼ばれ、人に踏みつけになる草が、私は美しいと思っている。そのおかげで、東京の都心にある私の家は草ぼうぽうである。そのあたりはかつて山だったという記憶を残して、笹が生える。刈っても刈っても地中に根が残るので、間もなくしてまた生えてくる。そんな自然の記憶は残しておいたほうがよいではないかと、私は思うのである。
 つるをのばして背が高い建物を這いのぼっていく蔦草もあり、気がつくと電柱にのぼり、電話線は草の線となる。それでもよいではないかと、私は思う。都会に植物が繁るということは、二酸化炭素を吸収することにもなる。砂漠化するヒートアイランド現象に対しても、一定の防御になるだろう。だいいち、緑は美しい。人工的な街路樹や花壇よりも、雑草は生命力があふれていいものだ。
 自然がなくなってしまった都会だからこそ、こんなこともいっていられるのだろう。草の種が四方八方に飛んでも、発芽できる場所は限られている。追い詰められた空間で精一杯に生きている草を見ると、なんだか涙ぐましい気分になる。
 もちろん田んぼに囲まれた空き地を草ぼうほうにしたのでは、まわりに種が飛んでいって迷惑をかけることになる。だが都会ではこの旺盛な草の生命力は、そこで暮らす人には、生きる励ましとさえなるのである。
 そういえば宇都宮で暮らしていた時に拾った野良犬のポチは、東京に連れてきて散歩せすると、道端にわずかに生えた雑草や、草が繁りに繁った建築前の空き地などに、私を懸命に引っばっていったものだ。そこは都会に残されているなけなしの自然だったのである。都会にも小さな自然がしぶとく生きていることを、私はポチに教えてもらったのだ。
 庭に気持ちよく繁った雑草を見ているうちに、私は死んでしまったポチのことを思い出した。
絵:山中桃子
BIOS 04.6.20