筑波山めざして | ||||
「ふたがみやま」の歴史 栃木県宇都宮市で育った私は、山を眺めて暮らしてきた。西に目を向けると、男体山をはじめとする日光連山がそびえ立ち、これが最も親しい山々であった。小学生の頃から、日光の山にはよく登った。北に目を転じると、那須連山があった。那須岳や三本槍岳などは、私にはごく小さい頃からのお馴染みだ。 南東のほうを見ると、関東平野の真中にぽつんと筑波山が立っていた。正確にいえば筑波山は単独峰ではないが、ただ一つだけ山が立っているようにも見えた。 筑波山は二上山(ふたがみやま)だ。二つ峰があるということで、男体山と女峰山という。低いほうの男体山の頂には、筑波男ノ神としてイサナギノミコトが、高いほうの女峰山の頂には、筑波女ノ神としてイザナミノミコトが祀(まつ)られている。 「古事記」と「日本書紀」には、ヤマトタケルの歌がのっている。 「にひばり つくばをすぎて いくよかねつる」 ヤマトタケルがこう問うと、件(とも)の一人がこのように返す。 「かがなべて よにはここのよ ひにはとをかを」 新治、筑波を過ぎて、幾夜寝たことであろうかとヤマトタケルが問うと、伴のものは、日にちをならべてみますと、夜は九夜、日には十日を数えますと応えている。大和朝廷の政権が大和を中心にようやく固まってきた頃、景行天皇の皇太子のヤマトタケルは軍隊を導いて東征をした。東国を大和朝廷の政権下に置くために、軍隊としてやってきたのである。野宿を重ねて旅をした、その時の歌である。 ヤマトタケルが軍隊としてやってきたということは、このあたりに別の権力があったということだ。どの程度の集団が住んでいたのかはわからないが、関東平野の稲作をする民の文化が成立していたのである。その当時、どこからでも雄姿の見える筑波山に神威を感じるのは、ごく自然な感情の吐露である。 また農耕民にとって、山頂が二つある筑波山は、男ノ神と女ノ神がいるまことに調和のとれた山と感じられたことだろう。稲をはじめすべての農作物は、おしべとめしべがなければ実りをもたらさない。筑波山は誰が見ても豊饒の山ということであったのだろう。 二峰を、男ノ紳と女ノ神といっただけで、特別の名前があったのかどうかわからない。とにかくヤマトタケルが攻めてくる以前に、独自の文化を持った人たちがすでに生活していたということである。ヤマトタケルに占領され、大和文化に吸収された後は、男ノ神や女ノ神という抽象的ないい方ではなく、イザナギノミコトとイザナミノミコトが祭神とされた。つまり、筑波山は大和化されていったのである。 筑波山上には、高天原(たかまがはら)と呼ばれる大きな岩があり、高天原と呼ばれている。天孫降臨はまず筑波山にあり、高天原から降りてきた人たちは筑波山から宮崎の高千穂に移動し、それから大和盆地にいったのだと主張する人も、少なからずいる。 神仏のそばにいく登山 その古代の山、筑波山にいくことにした。東京から筑波山にいくには、首都高速道路から常磐自動車道を通っていく。谷田部を過ぎると、筑波山はくっきりと見える。山というのは自分の住んでいる土地から見える姿が一番よいというのが一般ではあるのだが、私はやっぱり栃木県の側から見たほうが美しいと思う。これは昔から思ってきたことである。筑波山は茨城県に位置しているにもかかわらず、つくば市あたりから眺めると、まわりの山がバランス悪くくっついていたり、肝心の筑波山を半分以上も隠してしまったりしている。 そこにいくと、関東平野の北西の側から見る筑波山は、単独峰の風格がそなわっている。しかし、男体山と女峰山が二つながら鮮明に見えるのである。だが私のいっていることは、自分の暮らす土地から見る筑波山が、最も美しいといっているに過ぎないのである。茨城県の人が聞いたら、当然異論を挟んでくるだろう。 つくば市から下舘に向かう国道14号線を右折すると、急に勾配のついた山道になる。まわりには家が散らばり、畑があり、雑木林があって、ガマ園やら梅林の案内が出ている。筑波山神社大鳥居のあたりにクルマをとめ、旅館や土産物屋が両側にならんだ道を歩いていく。 登山とは、かつては神仏のそばにいくことであった。明治以降ヨーロッパ思想がはいってくると、登山は信仰体験ではなく、スポーツになった。スポーツは快い汗を流して気持ちよくなることであり、困難を克服して、山に勝利することである。古い信仰の山である筑波山は、昔の人の気持ちで登りたい。 筑波山神社にお参りすると、分かれ道になった。右にいけば古い登山道で、山項までは1時間半かかる。左にいけばケーブルカーで、坐っているだけで8分で山頂駅である。そこから男体山頂まで15分、女峰山項まで15分だ。 さて、どっちの道をいったらよいだろう。ちなみに登山道は、ケーブルカーの道と平行してつくってある。地図で見ると急勾配で、苦しい思いで歩いているすぐ横を、ケーブルカーが苦しみなどまったく見せないでいってしまうのだ。 少し迷ったが、私はケーブルカーのほうを選んでしまった。帰りは奇岩巡りなどをしつつ、歩いて帰ってくるつもりだ。ケーブルカーの車内はガラガラというはどでもなかったが、込んでもいなかった。 山頂駅の横には、回転展望レストランがあった。その2階に上がり、座ったまま360度の関東平野のパノラマを楽しみつつ、カツ丼を食べた。それからまず男体山頂に登るのである。
カーイオ2004年3月号
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