函館旅情
「函館にでもいくかい」
 知床にいっている時、知床で自動車ディーラーを経営する佐野さんがいった。知床で最も近い空港は女満別(めまんべつ)空港なのだが、そこから函館空港には直行便がでている。それでも東京からいくほうが、むしろ便利なのである。

青函連絡船
 東京に暮らす私にとって、函館は北海道の玄関口であり、独特の歴史のある町である。そういえば、昔、東北本線で北海道にいった時のことを思い出した。
 青森駅に着くと、我先にと汽車を降りて大桟橋を走っていく。大荷物を持った人も、老人や子供を連れた人も、気ばかりが焦ったようにして駆けていく。たいてい私はリュックを担いだ旅行者で、両手があいているから、因っている人の荷物を持ってやったりした。
 大桟橋はそのまま青函連絡船の船内に導かれている。大方の人が二等船客で、どうせざこ寝なのだが、少しでもよい席をとろうというのである。青函から行く時も、函青からいく時も、状況は同じだ。どちらの港でも、出港したり接岸したりすると、遠くまできたなあと感傷的になったものである。
 飛行機でどこにでも瞬時にいってしまう現代とは、旅情の質が違っていたのだ。

墓 参
 東京にいる私にとっても函館は遠い地方であり、同じ北海道でも知床に住む佐野さんにとっても、北海道東部の知床からみれば函館は対角線上にあるから、やはり遠いのである。佐野夫人も私の妻も函館にはいったことがないから、夫婦でいこうといぅことになった。その場にいたもう一人の友人が映画監督の高橋伴明で、彼の夫人にも声をかけようということになった。夫人は女優の高橋恵子さんで、八月の末になれば舞台と舞台の隙間に休暇がとれるとのことである。こうして日程は決まった。
 高橋夫婦と私ども夫婦は羽田空港から、佐野夫妻は女満別からきて函館空港で合流する手はずだった。ところが、佐野夫人の顔がない。歯が痛くてどうにもならなくなってしまったのだそうである。
 空港でレンタカーを借り、さっそく函館市内にはいる。ことしはどうも寒い夏で、もちろん北海道も例外ではなく、農産物の出来が心配されている。八月の二十日頃で、夏の気配がまだ十分に残っていてもよいはずなのに、どうも寒いのであった。雲が晴れ、抜けるような青空になる日は、ついぞないそうである。だが全体に霧に煙ったようなほうが、函館の一般的な雰囲気はあう。
 監督と私との共通の友人の墓が、外人墓地のその先の市民共同墓地にあるので、ともかくもお参りした。この墓参が函館にくるための一つの口実ではあった。
 佐野さんが手配してくれた函館国際ホテルにチェックインした。私はこれまで何度も函館にきているのだが、こんなにいいホテルに泊まるのははじめてである。窓からは函館港がよく見えた。

五稜郭
 どこを見物しようという気も特にないのだが、時間もあるし、レンタカーもあるので、五稜郭にでもいってみることにした。なれない街でどっちに向かって走りだしたらよいかわからないものだが、そんな時はナビが便利である。走りだしてすぐ、五稜郭の方向を示す看板はあっちこっちに出ていることに気づいた。大型観光バスも集まっている。五稜郭にいかないほうが難しいほどであった。
 列にならんで、五稜郭タワーに上がった。夕方の空気が澄んでいて、函館山と函館市街と、その反対側の蝦夷松山の山々がまるで洗ったばかりのようによく見えた。
 当初、私はレンタカーを借りて、妻と二人で大沼公園か松前あたりにまで足を伸ばそうかとも考えていた。しかし、佐野さんが函館に一泊したあとは知床にきてくれというので、そうするのだ。日本という国はたいていどこにもレンタカーがあり、見物すべき場所がある。ドライブをするところには事欠かない。それは素晴らしいことではないかと私は思うのである。
 星の形をした五稜郭は、どこから攻撃されても守りに死角のない形をしている。包囲する軍がよく見える。この近代的砦の五稜郭は、小さな半島の形をなした函館の根元にあり、函館を防備するにはまことに適格な場所にあることがわかる。
 函館戦争は、幕末の幕府軍と新政府軍との最終戦争である幕府軍は補給路も断たれて追いつめられていたが、新政府軍は援軍が後から後からあって圧倒的に優勢であった。新撰組の土方歳三も、今のJR駅前に出陣して戦死している。幕府軍についたフランス軍の軍事顧問は、本国からの出国命令を拒否し、負けていく幕府軍とともに最後まで戦ったということである。これは幕末秘話である。

函館山
 夕食は函館市内で実にうまい寿司屋にはいった。珍しく市場にニシンがはいっていたとかで、ニシンの握り寿司を賞味する。函館は魚ならば何を食べてもうまいところだ。
 夕食後、函館山の夜景を見物することにした。佐野さんは酒を飲まないので、いっしょにいると何かと助けてくれる人である。私を含めて他の四人は相当酔っていた。
 函館山は夜霧に匂まれて、下から見上げてもあるのかないのかよくわからない。それでも護国神社の坂を登っていくと、渋滞していた。標高三三二メートルの低い山だが、項上までいったいどのくらいの時間がかかるのだろうと思っていると、いきなりクルマの列は動きだす。そのまま走りつづけて、山頂に着いた。霧は流れていて、霧の隙間にレースをかけたような夜景が見えた。まことに有名な夜景であるが、何度見ても感動する。街には街の灯が、海にはイカ釣りの漁火が、お互いに呼吸をはかりあうようにして輝いている。
 遠い昔の旅情が、よみがえってくるようにも感じるのであった。
カーイオ2003年12月号