とうとうアメリカ軍とイギリス軍がイラク攻撃に踏み切り、イラク兵が何百人死に何千人投降したとか、バグダット市民が何百人負傷したとか、アメリカ兵が十数人捕虜になったとか、新聞テレビで連日連夜報道がつづく。これは湾岸戦争の時にも、ベトナム戦争の時にも感じたのだが、人間がただの数字になっている。この雰囲気が、戦争や大規模災害における文体というものである。
 今回の戦争は、圧倒的な火力に勝るアメリカ軍イギリス軍の、圧倒的な勝利に終わるだろう。予想などということではなくて、誰にでも明白なことだ。イラク軍がどこまで頑張れるかということでしかい。最初から勝ち敗けが決まっているのだから、これは勝負ではない。常識の世界でいえば、これをいたぷりという。
 アメリカの論理でいえば、テロの温床となる可能性のある国家を、相手が力を持つ前に叩いてしまえということである。このことだけが開戦の根拠といえるものだが、これは一方的なアメリカの論理であって、誰もが納得できるというようなことではない。
何もしていない人間を、いかにも何かやりそうだしやる可能性があるから、先制してこらしめてしまえということである。これを常識の世界でいえば、自己中心の考え過ぎということである。こんな根拠で相手を殴ったら、みんなに糾弾されるだろう。
 相手がかかってきそうだから、かかってくる前にやっつけてしまえという。相手が武器を持ってかかってきてからでは、遅いのだという。こんな根拠で暴力をふるうのは、私たち市民一般の生きている常識の世界では、あまりにも自己中心的な精神障害者とみなされるのではないだろうか。
 ニューヨークの同時多発テロと、独裁国家イラクと、その関係が明確ではない。底流で関係があるかもしれない。きっとあるはすだと連想的な思い込みはあっても、明確な証拠はない。本稿を書いている二〇〇三年三月二七日一八時の時点でも、イラクに生物化学兵器などの大量破壊兵器は見つかっていない。はっきりした証拠はないのだから、戦争をはじめる理由は薄弱といわなければならない。
 そうではあるのだが、兵士たちは戦場に駆り出され、殺人破壊マシンとなるよう命令を受ける。独裁者からの解放軍と謳(うた)っても、イラク国内から解放を望む声はほとんど聞こえてこない。そして、兵士たちは戦場で死んでいく。兵士よりももっと多くの市民たちが、巻き添えになって死んでいく。どんなに薄弱な理由からはじめられた戦争でも、戦争だけが自動的に展開していき、数多くの人が死んで横たわる。自動展開していった戦争は、行き着く果てまでいかなければ止まることができない。
 戦争が通り過ぎていったあとには、激しい憎悪が残るであろう。公然たる武器を持つことを禁じられた敗者の取るべき道は、心を捨てて勝者に順応していくか、究極的な最後の手段としてのテロである。身と心と分けて、いざとなれば人間は心だけで生きようとするものだ。身は従属しても心は反逆し、憎悪とともに最終的な自爆テロに走るのは、これまで歴史が見せてくれた人間の真実というものではないか。
 アメリカはアメリカと世界観を共有するものしか、この地球での生存を許さないのではないかと思えてくる。この地球は本来、さまざまな歴史を刻んできたさまざまな民族が、戦争で傷ついたりもしながら、なんとか英智を絞って共同世界をつくってきたのではないのか。異なるものの存在を認める寛容の精神を、人は昔から英智と呼んできたのだ。
 違うものがともに生きられるのは、長い歴史を積み重ねてきた結果の英智がどこかにはたらくからである。国際社会でいえば、それが国連なのである。異なる世界観を持つ者同士が、さまぎまな思惑を秘めながら、同じ一つのテーブルにつく。そこで話し合って一つの道筋を見つけるには、そもそもが違うもの同士なのだから、お互いに辛抱強い忍耐が必要である。待てないといって相手の土地に爆弾を落として、よいはずはないのではないか。
 私が危惧するのは、世界が同じ一つの価値観に統一される方向に、激しい勢いで向かっていることである。歴史も風土も違う土地に生きてきたもの同士が、まったく同じ価値観を共有るというのは、本末不可能なのである。
 私たちはもっと多様でなければならないし、もっと寛容でなければならない。アメリカ的民主主義が最善だと思う人がいる一方、イスラム的世界が最善だと思う人がいてもいい。他者に寛容になるということは、どの世界も認め、尊敬することである。どの国も認め、どの地方も尊敬し、誰でも受け入れる。そうしておいて、自分を失わない。そうすれば、相手の存在を認めず殺してしまうという戦争などは、絶対に起こらないのである。
Fooga「像に乗って帰ろう」