法昌寺の寒行
 東京都台東区下谷にある法昌寺は、日光街道がはじまる鴬谷界隈にある。創建は慶安元年 (一六四八)という古い寺で、山号は日照山といい、宗名は法帝丁宗である。
 住職は高名な歌人であり、我が畏友である福島泰樹だ。毎月三日に毘沙門講が開かれ、私と妻はそこに行くのを楽しみにしている。夜の七時に法華経を読誦し、かつてはその後に落話家を呼んで下谷落語会をし、その後に精進落としと称して酒飲み会をした。今は落語はなくなり、行いの後に宴会が行われるのみである。その宴会を楽しみにくる人も多い。
 福島住職と私が出会ったのは、文学者としてであった。早稲田文学の編集を学生として手伝っていた私は、福島秦樹に短歌を書いてくれるよう依頼にいったのだ。そこで酒を飲み、たちまち意気投合してしまった。その時まで、私は彼が僧籍にあるということを知らなかった。
 やがて彼は静岡県沼津市柳沢という小さな集落の小さな寺、妙蓮寺の住職になり、東京を去っていた。彼にとって私は、その寺を訪問した最初の客であった。三十二年前のことである。
 夕方になると、近所の人たちが本堂に集まり、お題目を唱題しながら大太鼓をたたきはじめた。檀家というわけではなく、その小さな集落にいるほとんどのお年寄りがやってきていて、お上人が本堂にでてくるのを催促していたのだ。私と彼とは庫裏で酒を飲んでいたのだが、さてそろそろでかけるかという感じで彼は立ち上がった。
 その時は寒行の最中だったのである。彼は本堂でしばらくお年寄りたちとお軽を読誦すると、外にでていった。お題目を唱え団扇太鼓を叩きながら、お年寄りをしたがえて集落の隅々までをまわるのである。
一回りして寺に婦ると、彼は白い襦袢一枚になり、庭にあるわき水の井戸の前にしゃがんだ。そして、セルロイドの洗面器で頭から水をかぶったのだった。何杯も何杯もかぶった。お爺さんもお婆さんも、自分たちのか わりに若いお上人が苦行をしているのだと知っているので、まわりを取り囲んで一生懸命に団扇太鼓を叩くのだった。
「六十歳になった記念に、久しぶりで水行(みずぎょう)をやるよ」
 福島がこういう電話を、私は受けていた。還暦をむかえて無茶なことをするものだと私は思ったが、本人はやる気なのでとめても仕方がない。苦行とは、そもそもが無茶なものなのである。
 法昌寺は下谷七福神のうちの毘沙門天をお祀りする寺で、先の秋には救世観音をお祀りする観音堂を落成したばかりである。住職が活動的なので檀家に限らず人がよく集まり、活気のある寺だ。毘沙門講というのは、毘沙門天を奉じる講である。下町の習慣というわけでもないのだが、いかにも江戸の下町らしい風慣が残っている。
 寒行とは冬の一番寒い時の行いで、かつては寒念仏などもあり、経文をとなえながら近所を歩いて無病息災を祈願するのである.毎年の例なのだが、法華の太鼓でドンツクドンツク行列していくと、冷笑したり怪しんで指差したりする人がいる。スナックのドアを開けて、一斉に不信の顔がのぞいたりする。吉原のソープランド街をいく時は、ボンビキの兄さんたちが太鼓のリズムにあわせて跳んだりはねたりしてからかってくる。そうかと思えば、合掌して頭を下げてくる人もいるし、走ってきて千円札を握らせてくれる人もいる。精進落としに一杯やってくれということである。
 かつては江戸の下町では季節の風物詩で、俳句の季語にもなっているのだが、最近寒行はは珍しいことになっている。少し前までは同門の寺の前で寒行の太鼓を叩くと、大黒さんがあわてて本堂の屏を開けお燈明を点け、あげくの果てにお金を持ってきた。何だかゆすりでもしているみたいなことになってしまった。こんな時、住職は奥に引っ込んで姿を見せない。本当は寒行をするのが何百年ものならわしなのであるから、恥じているのだ。
 その晩、寒行の列が出発する前、福島秦樹住職はふんどし一挺になり、本堂の前になみなみとくんであるポリバケツから手桶で水をくみ、経典を読誦しながら何杯も何杯も頭から水をかぶった。白い肌が、なんだか寒そうだった。私は三十二年前を思い出しながら、団扇太鼓を叩いて夜の街にでていった。住職の気合いが乗り移り、さすがに講中の面々はその晩気合いがはいっていた。
 その夜、いつもの通り吉原遊女の慰霊碑をまわり、浅草の隅田公園にでて、暗い隅田川に向かって祈ってきた。一時間半の寒行をすると、寺に戻って本堂でずっと観音経を唱えていた住職と合流し、近所の酒場に場所をかえ、午前一時過ぎまで精進落としの大宴会をやったのであった。もちろん盛り上がった。