叔父と出かけた一度限りの行列見物
 私が子供の頃、叔父が日光でパン屋をやっていた。私の暮らしている宇都宮のパン工場から毎朝パンを仕入れ、普通車のトラックを運転して日光市内ばかりでなく奥日光の中宮詞(ちゅうぐし)のあたりまで配達した。日光市内では、叔母が店を開いてパンを売っていたのである。
 日光東照宮へ至る表の道から一本奥に入った通りに、叔母のパン屋はあった。そのパン屋に、私はよく泊めてもらった。また叔父が運転する配達のトラックに、よく乗せてもらった。当時の日光街道は砂利道で、杉並木の下を走っていったのである。
「千人行列と紅葉の季節は困るよ。宇都宮から日光まで車がずっとつながって、八時間もかかるときがあるんだから」
 叔父の口癖であった。
 毎日宇都宮と日光を往復し、市内を走り回らなければならない叔父にとっては、祭りと紅葉で観光客があふれる季節は、困ったものだったのだるう。
しかし、観光客で身動きもつかなくなるのは観光地日光にとっては繁栄の象徴であった。
 思いきって商売を休みにした叔父と叔母に連れられて、子供の私は春季例大祭の百物揃(ひやくものそろえ)千人行列の見物にでかけた。観光客の群集の中で東照宮の参道にいると、旧日光神領(しんりょう)の産子(うぶこ)千余人におよぷ行列供奉がある。先頭の神輿が二荒山神社を進発し、上新道(かみしんみち)、石鳥居、表参道を経て、神橋(しんきよう)のほとりにある御旅所(おたびしょ)にやってくる。そこで数々の神事をした後、行列を整えて東照宮に還(かえ)っていく。
 もちるん子供の頃は、目の前を途切れることなくいつまでもいつまでも通っていくさまざまな扮装の行列に、目を奪われていた。
 御鉄砲持(おてつぼうちち)、御槍持(おやりもち)、鎧武者(よろいむしゃ)などの中に知った顔がまじっていて、よく叔父と挨拶を交わしていた。行列の中にいる人はずいぷんと誇らしそうに見えたものだ。
 宇都宮から日光は三〇キロで、現在は高速道路ができたので、車をとばせば三〇分もかからずに着いてしまう。気持ちとしても日光はすぐ隣りという感覚である。
 奥日光の山々には数限りなく足跡を残してきたのに、私は子供の頃のその一度しか百物揃(ひやくものそろえ)千人行列を見ていない。交通渋滞を極度に恐れていた叔父のことが、記憶の中にインプットされているからかもしれない。
 日光東照宮は徳川家康を祀(まっ)り、豊臣秀吉と源頼朝を配祀(はいし)する。いわば天下(てんか)人(ぴと)が鎮座している。家康は元和(けんな)二 (一六一六)年四月十七日駿府(静岡)にて七十五歳で死去した。その直前の病床で、次のような意味の遺言をしている。
 「先づ、駿河の久能山(くのうさん)に葬り、一周年を経て後、日光山に移せ。神霊ここに留まって永く国家を擁護し、子孫を守るべし」
 朝廷では家康の神号を大明神にするか大権現にするか議論に沸いたが、東照大権現という神号が宣下(せんげ)され、あの豪華な社殿が造営された後、東照宮という宮号(ぐうごう)が宣下された。
 こうして駿府の久能山から東照大権現の神霊を奉遷(ほうせん)してきた際の行列を再現したのが、渡御祭(とぎよさい)の百物揃千人行列と伝えられる。
 なぜ家康は神となって日光にきたのだろうか。風水の思想によれば、丑寅(うしとら)(北東)は鬼門として忌む。悪いものがそこから入ってくるのである。京都の北東には比叡山延暦寺があり、江戸の北東には東の比叡山である東叡山寛永寺(とうえいさんかんえいじ)が建立された。駿府の北東は、日光である。家康はここに鎮座して悪いものを防ぎ、徳川家の末代までの安泰を願ったのではないかというのが、私の仮説である。
「祭りと旅する」2003,一月号(日之出出版(株))