1700年変わらぬたたずまい
 朝霧の中に、森の緑が静謐(せいひつ)のうちに浮かび上がってくる。森をかたちづくっている樹木は、カシ、シイ、クス、ツバキなどの照葉樹であり、一年中深い禄の色をたたえている。無数の木の葉の一枚一
枚が、霜の銀の粉にまぶされている。太古のままの森が、ここにある。
 やっと夜明けをむかえたばかりだというのに、宇治橋の手前にはたくさんのアマチュアカメラマンが、三脚を立ててその瞬間を待っている。森の日の出であるから、少し遅い。透明な空はますます青く澄み渡っていき、森の向こうに太陽がわずかに姿を見せる。
 宇治橋をおおっている霜がきらきらと輝く。その瞬間、いっせいにカメラのシャッター音がする。毎日くり返される日の出にすぎないのであるが、神宮の空気の中を透(とお)ってくる光は、何か違うような気もしてくるのである。

 何事のおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぽるる

 平安時代の歌人西行法師はこう詠んだ。仏教者でありながらも、伊勢神宮を拝した西行は、素朴な情熱を表現している。「何事のおはしますかは知らねども」という感情こそが、伊勢神宮を訪ねる多くの日本人の今日にもつながる態度なのではないだろうか。
 お伊勢参りで知られる伊勢は、江戸時代には参詣者であふれ返った。伊勢へ伊勢へと人々は取り憑(つ)かれたように参り、まるでブラックホールのような強力な磁場となった。
 明治時代になって国家神道と結びつき、お伊勢参りの猥雑(わいざつ)ともいうべき庶民の熱気からは切り離された。
 戦後になり、国家神道の消長とともに、伊勢は運命をともにしてきた感がある。私は北関東の宇都宮に生まれ育った人間だが、中学校三年生の時に京都や奈良を巡る修学旅行のコースに組み込まれ、伊勢にやってきた。外宮の門前には木造三階建ての旅館がならび、全国からの参詣者を集め、お伊勢参りの盛時の賑わいをわずかに感じさせた。だが今は、その面影はまったくない。修学旅行の子供たちは、伊勢から遠ざかってしまった。
 伊勢市観光課の統計によれば、修学旅行の参拝人員は1987(昭和六十二)年には二八万三〇七五人であった。その後毎年減りつづけ、増加した年はまったくなくて、2001(平成十三)年は四万五一六六人である。この十五年間でここまで激減した。これは教育の現場から伊勢が消えていったことを意味している。教育が国家神道を敬遠していると考えるべきであろう。一般の参宮者はどうか。交通機関の発達していなかった1895(明治二十八)年は一三六万五九三二人で、その後増減をくり返し、昭和にはいり増加の一途をたどる。大政翼賛会が発会した1940(昭和十五)年は七九八万二五三三人で、日本軍が米海軍をハワイの真珠湾に攻撃して太平洋戦争が開戦になった41
(昭和十六)年は、七四五万一〇七七人である。敗戦の45(昭和二十)年には、一五七万一〇二五人と激減するの国家における伊勢神宮の立場と、参宮者数とは、深い関係がある。
 それでは、戦後は減少の一途をたどったかというと、そうではないのである。47(昭和二十二)年の八三万五六三六人を底として、その後は確実に増加していく。ピークは93(平成五)年の八三八万七一二四人で、この年には遷宮があった。バスを連ねて史上あり、特に目立つ変化はない。
 これは何を意味すると考えるべきであろうか。二十年に一度の遷宮を文化事業と考え、旅行業者やマスコミの宣伝もあって、人々は祭りを見物にでかけたのだ。変わらない伊勢神宮より、人々は伊勢神宮
の一新する建物と遷宮される過程を楽しみにいったのである。これは伊勢神宮の読み換えであり、国家神道からの脱却と考えるべきである。今日の人々が伊勢神宮に何を求めているかが、これでわかろうというものだ。
 2001(平成十三)年の参宮客は五八八万一三ニ〇二人で、この三十年余をみても毎年六百万人が伊勢神宮にお参りしている。これは少ない数ではない。修学旅行の生徒たちはディズニーランドやユニバーサル・スタジオにいってしまうのだか、一般には伊勢神宮の人気はなお高いといえるのである。
 江戸時代の庶民が伊勢へ伊勢へとやってきたおかげ参りの最高潮は1830(文政十三年)で年間約四百五〇万人とされている。当時の日本の全人口の五人に一人が伊勢にきたのだ。現在の人口に換算すると、一億二千万人の五分の一は二千四百万人ということになる。驚異的な数字である。
 伊勢神宮はまことに有名であるか、さて伊勢神宮について説明しようとすると、言葉につまってしまう。日本全国には神社は約十万あるといわれ、その中では代表的なお宮である。御祭神は天照大御神で、御神体は三種の神器の一つの八咫(やた)の鏡で、とここまでいえても、先がつづかない。
 こういって間違いではないが、あまりに雑駁にすぎるであろう。伊勢神宮とは、皇大神宮、豊受大神宮の二つの正宮を中心として、別宮、摂社、末社、所管社のすべての総称である。皇大神宮は内宮といわれ、天照大御神であり、豊受大神宮は外宮といわれ、度会宮とも呼ばれ、御祭神は豊受大御神である。この二つの神社が鎖座されたのは、二百年の差があるといわれている。
 皇大神宮の鎮座は第十一代垂仁天皇の時代とされ、諸説はあるものの三世紀末から四世紀はじめ頃といわれる。ほぼ千七百年の歳月がたっても、あたりの風景はなんら変わらないのである。こんなところはほかにない。私は心して伊勢の旅をはじめる。
毎日新聞2003年1月10日(金)