父祖の地への訪問
 宇都宮で一人暮らしをする母に、どこか旅行でもいこうかと持ちかけた。母の返事はこうだった。
 「死ぬまでに一度でいいから生野にいってみたい。帰りに広島にも寄ってみたい」
 そのくらいの望みをかなえるのは、子供の義務というものであろう。つまり、遠くに旅ができるほどに母は回復してきたということだ。ほぽ一年前、母は脳梗塞(こうそく)で倒れた。自宅で植木鉢の手入れか何かをしていて倒れ、なんとか弟に緊急の電話をかけた。宇都宮で建築設計事務所を営んでいる弟は、遠くから車をとばして駆けつけ、家で一人倒れていた母を救急病院に運んだ。
 もう少し遅かったら、どうなっていたかわからない。親の介護では、どうしても近くに暮らしているものに負担がかかる。弟のおかげで母は一命をとりとめ、リハビリをし、介護保険の認定を受け、ヘルパーさんの力を借りて一人暮らしができるところまで回復したのである。
 生きるとは、薄氷を踏んで歩いているようなものである。一歩踏み出したその先はどうなるかわからないのに、私たちは歩いていかなければならない。遠くに暮らしている長男の私は、母のために何かをしてやろうとすると、どうしてもことさらのことになってしまう。
 母の家はそもそも足尾にあったのだが、母の父、私にとっての祖父が宇都宮にでてきてお茶の卸業をはじめた。足尾では坑夫の組頭の家で、身ひとつで世渡りをする荒くれた男たちを束ねたりもしなければならないのに、祖父は目が片方見えなかった。今となっては詳しい事情はわからないものの、曾祖父は祖父に穏やかに生きられる道を選んでやったのだと思う。
 曾祖父は兵庫県の生野からやってきた。奈良時代に開かれた日本で最も古い生野銀山で坑夫をしていた曾祖父は、明治十年代だと私は推察するのだが、十代の仲間と語らい合って三人で足尾にやってきた。開拓精神あふれ、一旗接げるためにきたのであろう。まさに山師ということであるが、関西のはずれから関東のはずれの山中まで、途中伊勢や横浜を通り、それは長い道中であったろう。
 小説家にとって、自分の血の来歴をたどろうとするのは、ごく普通の感情である。私はまだ小説家ともいえない二十歳代前半からその大長篇小説の構想を持ち、幾度となく生野に通った。鉱山を見物し、菩提寺を訪ね、いつしか人間関係ができていた。
 それから二十五年はどもたってしまったのだが、私は長篇小説「恩寵の谷」を仕上げた。新聞連載小説で、生野の地元の神戸新聞にも掲載された。ちょうど神戸で大震災があった年の話である。
 生野銀山は足尾銅山と同じ、昭和四十八年に閉山になった。その後、街はさびれる一方である。わが一族の菩提寺大用寺も無住になっていたのであるが、ある時生野の人から電話がはいった。兼務ではあるのだが若い住職がくることになったので、みんな喜んでいる。老朽化した本堂を建て直すことにした。ついては、二人で折半にして、鐘と鐘つき堂を寄進しないか。
 その後時がたってから生野にいくと、本望の新築はなり、横に鐘と鐘つき掌が建っていた。もちろん私はいわれるままに寄進したのである。その鐘は「恩寵の鐘」と名づけられ、鐘の音をこれまで鉱山で死んだ多くの人の慰霊にしようということである。思ったよりも大きな鐘で、頼まれるままに私が揮毫した「無常迅速 生死事大」の道元の言葉が側面に鋳造してあった。時はたちまち過ぎていくから、生き死にを究めることこそ人生の大事であるという意味だ。
 その鐘つき堂の横に石が立てられ、「恩寵の谷」の最後の一節が刻まれていた。つまり文学稗ということになる。私はその場にいくまで聞かされていなかったので、感激した。ちなみに私の作品を刻んだ文学碑は、もう一つある。静岡県裾野市の寺の境内に、「遠雷」の冒頭の一節が刻まれた自然の大石が据えられている。
 晩秋、宇都宮を発ってきた母と叔父夫妻と従妹と、私は東京駅の新幹線の車内で待ち合わせた。東京組は、私のほかには妻と娘である。東北新幹線から東海道新幹線への乗り換えも、問題はなかったようである。母は手足に少々麻痺が残っているので、急がせることはできない。
 宇都宮からきた人たちはみんな元気そうで、にこにこしている。途中富士山が新幹線の車中からよく見えた。天気も秋晴れが続くようである。姫路で、播但線のローカル電車に乗り換えた。山の中を電車は走っていくのだが、紅葉は終わっていた。「但馬の国、兵庫県朝来郡生野町奥銀答・・・」
 母と叔父とが声を揃えて楽しそうにいう。子供の頃の本籍を覚えているのである。今は新幹線でひとっ飛びであるが、我が曾祖父はこの距離をよくやってきたものである。
 生野に着くと、和尚や見慣れた人のにこにこした顔がならんでいた。私以外には、お互いにはじめて見る顔なのだった。
 「これはこれは、遠路ようこられましたな」
 歓迎の言葉がまず向けられる。私たちは車中の人となり、抗内観光施設のシルバー生野を見物する。足尾銅山の坑内観光と同じような施設である。そのそばにある大用寺にいくと、大勢の人が待っていた。永代供養した立派な墓が裏にあり、さっそくにお参りをする。私が一人この墓を訪ねたところから、今につながることがはじまったのだ。
 「恩寵の鐘」を一人一人がついた。人は交通をして生きている。私たちが今ここにいるのは、祖父たちの交通の果てなのである。広島には祖父の妹の子供たちがいる。広島の親戚はみな原爆の被爆者なのである。
下野新聞(2003年1月7日(火)