2002年10月

有珠善光専の円空仏

 円空仏を見たくて、北海道伊達市の有珠善光寺にお参りした。円空が彫った観音像は、洞爺湖に浮かぶ観音島に祀られていたのだが、盗難にあい、何箇所か転々として、今は有珠善光寺に安置されている。変転があったわりには保存のよい観音像で、墨書された背銘の文字がはっきりと残っている。
 「うすおくのいん小島 江州伊吹山平等岩僧内 寛文六年丙午 七月廿八日 始山登 円空(花押)」
 このように読める。「うすおくのいん小島」とは、洞爺湖中島のうちの一つ観音島のことである。これは円空か礼文華(れぶんげ)という海岸にある洞窟にこもり、五体の仏を彫った。それぞれの背銘に、「いわうのたけのごんげん」「くすりのたけごんげん」「たろまえごんげん」と記したのである。当時は蝦夷地であり、遊行者といえど自由に旅をすることはできなかった。そこで背銘でその仏が安置されるべき場所を書いたのである。
 「いわうのたけ」は不明であるが、「くすり」とは釧路であり、「たろまえ」とは樽前である。「うすおくのいん小島」は有珠奥の院小島で、これも明白だ。
 礼文華岩屋は急な崖を下りていくか、船でいくしかない、難所である。円空がここで作仏をしたのは寛文六(一六六六)年で、松田伝十郎という人物によって円空仏が背銘に記されたとおりのそれぞれの場所に運ばれたのは寛政十一(一七九九)年である。百三十三年後に、円空は本懐をとげたということだ。
 その五年後の文化元(一八〇四)年に幕府は蝦夷を直轄地とし、有珠善光寺、様似等樹院、厚岸国泰寺を三宮寺と定めた。だが有珠善光寺は慈覚大師によって開基されたと伝えられる古刹で、それより遥か昔からそこにある。官寺になる百三十八年前には、本尊が傷んだので円空がこれを模刻したと伝えられている。だがこの仏は後の火災で焼けてしまった。
 その二年前には有珠山の大噴火があって大勢が死に、またこの三年後にはシヤクシャインの反乱があって三百人近い和人が殺された。つまり、この時期の蝦夷はまことに危険だったのである。遊行聖のうちには、災害や戦争によって非業の死をとげたものもあったであろう。
 有珠善光寺はその名のとおりに、本尊は信州善光寺と同じ一光三寺仏である。善光寺信仰を伝えたのは、浄土宗の聖であり、有珠善光寺は浄土宗に属している。その上で円空のような天台系の聖も足跡を残しているから、このあたりが仏教布教の最前線だったのだ。有珠善光寺には、アイヌ語がそえられた和讃、「念仏上人子引歌(カモイポボウンケイナ)」が木版で残っている。
 円空の彫った観音の化仏は、阿弥陀如来である。これも浄土宗の聖に敬意を表してのことかもしれない。一体の仏像から、想像は限りなくひろがってくる。
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