2002年8月

ダムと離島苦

熊本県の川辺川にいった。源流の五木村の中心地は、ダムが建設されると湖底に沈むことになる、まだ最終的なダム本体工事は決まっていないのだが、役場などの中心的な建設は山の上の方に新しく建設された。小学校が谷の底にあり、今も子どもたちが勉強をしている。小学校の建物や校庭や木立などは落ち着いた雰囲気を残しているものの、まわりは浮き足だった雰囲気だ。ことに上の役場のまわりは住宅が集まり、外観上は立派なつくりなのだが、同じような家が並んでいて、にわかづくりの映画のセットのようなのであった。荒涼として感じられた。
 きっとたくさんの金が動いたのであろう。聞くところによると、八十年に一度の洪水から下流の町を守るためということが主目的で、ダムがつくられるという。下流の町とは、人吉市である。
 ダムができると、水通しが悪くなり、確実に水は汚れる。川辺川は人吉で球磨川に合流する。球磨川は川下りで有名な川であるが、すでに多くのダムがつくられている。ダムのできる前には背中の盛り上がった尺アユがとれた。尺アユとは、一尺すなわち三十センチを越えるアユである。最近では尺アユにもとんとお目にかかれなくなったということだ。
 球磨川の上流に位置する川辺川は、これまで珍しくダムがつくられずに残ってきた数少ない川で、今の日本では貴重だといわなけわばならない。アユは海かち上流までを住みかとして生きているのだが、球磨川がいくつものダムで堰き止められても、川辺川には清らかな水が流れている。
 流域の農家のほとんどは、水は足りているといっている。昔からの用水が完備しているのである。利水目的で巨大なダムがつくられ、もし受益者負担を求められたらとんでもないと、多くの人が言っている。
 ダムとは多くの場合、つくる側の都合でつくられる。土地を手放してしまった人は、つくる都合のある人の側にはいってしまう。こうしてダムがやってきたために、地域は引き裂かれ、対立が起こる。親兄弟さえもが、骨肉の争いを演じることになる。どうしてこんなものをつくるのかと、川辺川流域を歩いていると、怒りの感情が湧き上がってきて、悲しくなってくる。
 故郷が破壊されるのはたまらない。お上から既定の事実を押しっけられるのではなく、いらないものはいらないとはっきり言える世の中であるべきだろう。
 そんなことを思いつつ、私は熊本で講演をした。熊本大学の小松裕教授に呼ばれて行ったのである。小松さんは少壮気鋭の田中正造研究家で、田中正造が明治天皇に直訴して百年目を記念するシンポジュウムが開かれた二〇〇一年秋に、佐野で会った。 その縁で川辺川についての講演会を開きたいという相談を受けたのである。田中正造の思想が熊本で生きていると知り、私は頼もしく思ったのであった。
 その翌朝、私は沖縄の那覇に飛んだ、夏の暑い日差しの中を出発し、熊本よりももっと暑い那覇に着いたのである。私は那覇に一泊するのだが、台風が遥か南方海上に発生していた。だがまだ遠いから影響はないと思った。
 その夜、沖縄文学を切り拓いてきた大城立裕さんの全集の出版記念パーティがあり、編集委員に名を連ねている私は、パーティに先立ち大城さんと三十分づつの講演をすることになっていたのだ。
 沖縄には沖縄文学があり、栃木には栃木文学といえるものはない、それだけ沖縄の文学にははっきりとした特徴がある。風土が独自なのだ。東京からいえば辺境に位置する沖縄の文学の存在証明をし、日本文学に合流させたのは、大城立裕さんの功績なのである。
 その夜のお祝いの会では、旧知の沖縄の人と久しぶりに合ったりして、泡盛を痛飲し、大いに盛り上がった。次会でホテルの外に出ると、生暖かい風が吹き始めていた。台風が急に速度を早めて北上中ということである。でも明日の昼過ぎすぐの飛行機なので、問題はあるまいと判断したのである。
 翌朝目覚め、ホテルの十階の部屋のカーテンをめくると、少々風はある様子だが空は晴れていた。ロビーに降りていくと、那覇空港発着便は全面欠航の案内がでていた。私は翌日名古屋で講演がある。あわてて切符予約の電話を入れるがつながらず、やっとつながっても満席だといわれた。陸つづきのところならどこでもいいのだが、すべて満席だった。
 ホテルも出なければならず、その日と翌日と私は難民となった。翌日やっとこさっとこ名古屋の講演会場に、一時間近く遅れてはいることができたのだが、那覇空港は避難場所と化してごったがえし、私は久しぷりにシマチャビをたっぷりと味わった。シマチャビとは.離島苦のことである。
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