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第九回裏千家青年の船に招かれ、天津から大連まで商船三井の豪華客船ふじ丸に一晩だけ乗った。夕方近くに天津港を出港し、翌朝九時半に大連港に接岸する。その前夜に私は北京で宿泊し、二泊三日のあわただしい中国旅行である。
茶道の裏千家と中国との交流の歴史は、一九七九年十一月に千宗室お家元が親書文化親善文化使節として北京を訪問し、と会見したことにはじまる。その後さまぎまな交流をし、天津線大学裏千家茶道短期大学を設立したりして、今回の青年の船か交流のちょうど百回目になる。
私は船中で講話をするために呼ばれたのである。
初日、早朝に起きてパスで成田空港にいき、北京に飛んだ。北京空港では中国人ガイドが待っていて、人民大会堂に連れていかれた。式典のはじまる牛後三時の三十分前に着いた。人民大会堂は天井か高く、いかにも国家的な重厚な建物である。中国の要人を招いて式典が行われた。
その後は友好茶会であった。大ホールに中国各地の裏千家の支部や同好会がそれぞれに茶席をもうけ、茶会を開いた。水屋をつくり、畳を敷いて、本格的な趣好である。私はまず上海同好会でお手前をいただいた。お菓子とお茶いただいたのだが、三つもまわれば腹はいっばいになるであろう。次に香港支部と大連同好会に行く。着物を着てお茶を立てる若い女性が中国人だといわれ、誰が日本人で中国人でというようなことは無意味だなと思った。紋付袴の白人の青年がお茶を運んでくれたりする。茶道は世界的なのである。大連同好会、天津商科大学裏千家茶道短期大学などの席にいった。どこでもていねいにもてなされ、楽しかった。
宴会場へと移動する。巨大なテーブルがいくつもいくつもならび、数えてはいないのだか千人からの人が一堂に会して飲みかつ食べるのは、壮大としかいいようがない。巨大な胃袋である。ここにもたくさんの中国の要人がいた。最近の中国の宴会では乾杯をくり返して無理やり強い酒を飲まされることはなくなつた。人民大会堂のスタッフはこの千人の宴会を渋滞もなくさばいてしまうのだから、それはもう見事というほかはない。
北京市内のホテルに宿泊し、翌朝中国政府を表敬訪問することになっていた。中国側からでてくる要人は、なんと国家第一主席の江澤民であるとのことだ。北京の中心地にある中南海の門は、正確な時間に通過しなければならない。湖があり、岸辺には柳が植えられている。深山幽谷の雰囲気のある風景が、北京のと真中にあるのだ。要所要所に警備の警官が立っていた。制服の警官も、私服の警官もいる。パトカーに先導された車の列は、速度を緩めずに走っていく。
着いたところは、規模は小さいのだが、故宮と同じ建物の配置である。すべての建物は極彩色に塗られている。そのひとつに案内されて待つ。やがて人に呼ばれ、迎賓館に移動した。そこにあの江澤民が立って待っているではないか。団長千宗之若宗匠を先頭にして、一人一人が国家主席と握手を交わし、席につくのである。
ふわりとした手によって私は手を握られ、顔を上げると、あの江澤民の顔がある。白い鼻毛がのびていた。
「茶道は中国から伝来したもので、おそらく宋の時代です。ひとつの国で発生したものが、おうおうにして他の国で発達します。世界の文化は交流し、あい通じるものです。私が好きな中国の詩人の本当の名前は、日本人阿部仲麻呂です。奈良にもまいりましたが、私の故郷の楊州の鑑真和上が入寂したところです。中日交流には長い歴史ありますが、不幸な時期もありました。歴史に学ぶこが大切です。お父上の千宗室さんは確か一九二三年生まれだと思いますが、一九九五年に大阪で茶をたてていただきました。お茶の源は中国です。中国語でチャといいますが、福建省ではチーといい、これが海外に伝わつてティーとなりました。茶道は宋代に中国から日本に伝わりましたが、現在は日本から学んでおります。日本のほうが茶道は発達しています。長江は後ろの波が前に押していきます。新しい人は古い人にとってかわっていきます。中日友好は新しい人の手にしだいにかわっていくのです」
国家主席の挨拶の要旨はこのようであった。終始おだやかに話す国家主席は、まことにもって教育の深い人物であると見うけられた。別れの時にも−人一人と握手をし、いつまでも立って見送ってくれた。ニ十分の会見の予定が、四十分になったということである。中国の人たちは信義に厚く、古い友人をことのほか大切にしてくれるのである。
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