ふるさと本の旅/小説「遠雷」

 若い肉体と精神の渇きは、どうすればいやされるのか。がむしゃらに働くのか。すてきな異性とデートをするのか。酒を浴びるように飲むのか−。そんなテーマを迫った「遠雷」は、宇都宮市出身の作家・立松和平さんが文壇で脚光を浴びるきっかけとなった。
 舞台は、新興住宅地が迫る農村地帯。二十三歳の主人公・満夫は、残ったわずかな土地で、トマトのハウス栽培に精を出す。満夫のはち切れそうな魂が、変わりゆく農村の姿とともに描かれている。

赤く輝くトマト栽培で自分の城築く
 満夫には、モデルかいた。宇都宮市さるやま町の農業増淵貞雄さん(48)だ。宇都宮市役所に勤務していた立松さんは毎日、増淵さんのハウスの前を通って通勤していた。
 「耳にピアスをして、パンチパーマをかけたお兄ちゃんが、ハウスて働いていたんです。とてもつまらなそうにね」。派手な姿て農作業する青年は、立松さんの目を引いた。
 「ある時、彼女かお嫁さんのような女性か作業に加わってから、彼は、とても楽しそうに作業するようになっを」。立松さんは、そんな農村の一青年の姿から、小説の着想を得た。
 増淵さんの家は、辺り一面に田んばが広がり、古くからある長屋門の民家が立ち並ぶ中にあった。数百。先には、新興住宅のかたまりが見える。
 農家の長男だった増淵さんは、農業を継ぐのが当然という雰囲気の中で育った。新たに始めたハウス栽培は、あらかじめ敷かれていたレールに乗ることへのささやかな反発でもあった。
 <月も星も見えなかった。電源をつないだ。コードに首飾りのようにつなかれた電球と、熟れたおぴただしいトマトが、一斉に赤く照り輝いた。一瞬あたりは華やいだ雰囲気に満ちた。闇の底にひそかに隠されていたものの前に、不意に立ってしまったようだ。>(「遠雷」から)
 濡夫がトマトを育てるハウスも、自分で築き上げた、大切な城のようなものだ。近所が農業をやめていく中で、あえてハウス栽培を手探りで続ける。

農村飲み込む団地、バブル前夜の風景
「遠雷」は、バブル経済前夜の一九八〇年に出版された。満夫の周りには、近代化の象徴のような団地が建ち始め、農村を飲み込んでいく。立松さんは、「これは宇都宮だけじゃない。日本中、世界中どこにでもある風景です」と訴える。
 増淵さんは出版から数年後、ハウス栽倍をやめ、米作りに専念する。土地が連作障害を起こしたのと、コストがかかりすぎたためだ。
 今でもハウスの夢を見る。「トマトの色や、ハウ
スの中の青臭いにおい。夢なのに、トマトはきれいな赤い色をしているんだよ」と言う。育年団活動が縁で結婚した妻の早苗さん(45)も「ポットを持ち込んでカップラーメンをすすったり、冷蔵庫を置いて飲み物を入れたり、楽しかったね」と振い返る。
 夢の中のハウスには、少しやんちゃな若者が、生き続けている。

(文・堀江優美子)

読売新聞2003年1月31日