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木地師の豆腐

「この前うちにきた時に食べてもらった豆腐、できが悪かったんですよ。あれが私の豆腐だと思われたら困るから、もう一度送ります。地豆でつくった豆腐ですよ」
 舘岩相川衣(かわぎぬ)の橘正則さんから電話がかかってきた。当然私は固辞したのだが、橘さんの気特がそれではすまないらしい。だからこそわざわざ電話をかけてきたのであろう。
 やがて、宅配便で発泡スチロールの箱が届けられた。中にはもちろん豆腐がはいっていた。橘さん独特の材料をふんだんに使った固い豆腐である。さっそく私は包丁で少し切り取り、食べてみた。大豆の香ばしさが口中にひろがるうまい豆腐だった。
 私は豆腐が大好きである。この世の中にある食べ物をひとっ選びなさいといわれたら、私は迷わず豆腐にするだろう。豆腐はどんな味にも染まりながら、結局は自分を失わない。鍋に入れても、野菜と炒めても、そのまま生で食べても、味噌汁にしても、いつも一本筋を通して自己主張をしている。豆腐は偉い。豆腐の生き方を見倣うべきなのである。
 橘豆腐店の豆腐は知る人ぞ知る有名な豆腐で、栃木県あたりからわざわざ山を越えて買いにくる人もあるらしい。橘豆腐店は大きな看板をだしているわけでもないのだが、道路の向かい側に橘さん手製の小さな水車小屋があるので、わかりやすい。
 冷蔵庫にいれて毎日水を換えれば、豆腐は三日間はもつ。三日間豆腐三昧をしながら、私は橘さんと話したことなどを思い出した。橘さんと会ったのは二度だが、二度とも豆腐の話をした。二度目の時には店から茶の間にあがり、木地師の話を聞いた。
 橘さんは木地師だったのである。現在の家の前に木地の工場があったのだが、プラスチックの器がでまわるとともに製品が売れなくなり、工場は閉鎖になってしまった。そこで仕方なく橘さんは豆腐屋になったのである。だからこそ橘さんの豆腐は木目のように緻密で固いのかもしれない。
「道路のすぐ向こう側に工場があったから、よく遊びにいったよ。木地は木のいいところをちょっとしか使わないんだから。節があるともう駄目なんだよ。薪には困んなかったな。今から思うと、あんなにもったいなかったことはないな」
 奥さんがお茶をつぎながら話してくれた。木地には良質の木が大量に必要なのである。製品がプラスチックに押されたということもあるかもしれないが、原料の供給ができなくなったか、できても採算があわなくなってしまったのだろう。木地も近代の波と無縁には存在することはできないのだ。

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 かつて木地師は木地の原木を求めて日本の隅々に分け入った。東は駒の蹄(ひづめ)の通うほど、西は櫓権(ろかい)の立つほど、漂泊の旅をつづけてきた。彼らはよい木のあるところにくると小屋をかけ、軌櫨(ろかい)を築いて、木地の生産にはげんだ。できた木地は馬の背に積まれて塗り師のところまで運ばれた。原木よりも木地のほうが運びやすいのは道理で、木地師たちは交易のほかは山に籠りきっになったのであろう。彼らの生命線は木であった。
 木地師の起源は定かではない。木で器をつくったということなら縄文時代に起源を求められるだろうが、職能集団としての成立の起源を特定することは難しい。
 日本は山国である。しかし、中世になれば、所有者もしくは所有する集団がいたであろう。漂泊者が山にはいって勝手に木を伐れば、当然地元の民との軋轢が生じてくる。
 そこで木地師たちは山の七合目以上の木ならば全国どこでも伐ってよろしいという免状を所有していた。発行者は京都御所だという。問題が起きたら、京都御所に訴えでなさいというのである。
「そんな文書は見たことがあるな。親父に見せてもらったよ。墨で書いてあって、おっきな判こが押してあった。そんなものはもうどこかにいってしまったけどな」
 橘正則さんは遠くを見るふうにしていった。漂泊の民にとって、朝廷の後楯があるのだという文書が、たとえそれが偽物であっても必要だったのだろう。土着の人にとっては、突然どこからともなく木地師集団が山にはいって良質の木を伐りはじめるわけで、文句があるのなら京都御所に訴えでろといわれても、会津の山にいてはどうしようもなかったろう。
 木地師の始祖は、第五十五代文徳(もんとく)天皇(在位八五〇〜八五八年)第一皇子の小野宮惟喬(おののみやこれたか)親王だということになっている。第一皇子の惟喬親王は古代豪族の流れの紀(き)氏の娘の子で、当然皇太子になるべき人物であったが、藤原良房は自分の娘の生んだ第四皇子惟仁(これひと)親王を皇太子にする。惟仁親王はやがて清和天皇になるのである。
 惟喬親王は貴種流離として近江国小椋(おぐら)郷に籠り、京から供奉してきた臣下の藤原実秀に小椋を名乗らせて木地師の棟梁としたという。木地師にとっては、ちょうどこの時代に全国で山林の帰属が決まっていき、仕事がやりにくくなったために権威が必要となったということだろう。
 藤原氏の専制が進み、紀氏とともに古代豪族は都から追われていった。橘氏や伴(とも)氏などであるが、橘正則さんの姓がこのあたりに由来しているかどうかは聞きそびれてしまった。